なお、この星の上に(38)

 拍子木を打ち鳴らし、男たちが暗い夜道を歩いていく。神妙な顔をして歩く者たちの姿が浮かんだ。耳に聞こえるよりも目に見える。少し遅れて「火の用心」という声が聞こえてくる。警戒を呼びかけるにしては長閑な声だった。誰に用心を促しているのだろう、と健太郎は寝床のなかで訝った。かえって火を呼んでいるようなものではないか。
 このあたりの家の多くは古い木造で、火が付いたらたちまちだ。おまけに薪だの藁だの、燃えやすいものが家の周りに無造作に置かれている。火付けを繰り返している者が、夜まわりくらいで悪行を思いとどまるとは思えない。向こうがその気でいるかぎり、いくら用心していても火の手は上がる。夜まわりが立ち去るのを見計らって、その者は姿を現す。声に応答して、火の気のないところに小さな炎が立つ。
 風の音が聞こえた。近くの雑木林を風が吹き抜ける音だ。その風に煙の臭いが混じっている。気持ちが追い詰められているのを感じた。戦争の落し子がやって来る。気配がする。すでに影は見えてくる。暗がりのなかにうずくまっている。やがて立ち上がり、ひたひたと夜道を歩きだす。何かが喫水線を超えた心持ちで、健太郎は布団を抜け出した。手早く普段着に着替え、防寒のためにジャンパーを羽織った。
 冷たい空気のなかに臭いが嗅ぎ分けられた。煙の臭いだ。まだ立っていない火の匂いだ。どこへ向かっているという意識もなしに、ただ殺伐として自分がここではなく、どこか遠方にあると感じられた。それを探しに行かなければならない。追いついて、取り戻さなければならない。先を歩いていく影を追いかけているようだった。影に先導されて歩きつづける自身を徒労と感じた。後ろ姿を見送る気分になりかけて立ち止まると、暗い夜空を悲しみの声が流れていた。
 アツシ、おまえなのか? おまえが泣いているのか。こんな夜更けに一人、声を上げて泣いているのか。半分は眠ったままで、泣くだけ泣いて、朝には心が空っぽになっているのか。母親に殺されかけたと言っていた。本当は一緒に死のうとしたのではないだろうか。思い詰めて心中を図ったのではないだろうか。夫を亡くし、女手ひとつで子どもを育てることに困窮し、先の望みがないことに見切りをつけて。いや、それでも母親は生きようとしたのかもしれない。だが小さな子どもに顔を覗き込まれ、父親はどこのいるのかとたずねられたとき何かが途切れた。彼女を生につなぎとめていたものが切れた。面相の変わった母親は、子どもを殺して自分も死のうとした……。
 いつのまにか村の外れまで来ていた。この先に人家はなく、ゆるやかな勾配の道は杉や檜の林のほうへつづいている。さすがに足を踏み入れることはためらわれた。幸い月は出ていた。だがその月の光も、林のなかへは入っていない。入口あたりの木々はほんのり明るんでいるが、そこから先は真っ暗だった。
 自分の意思とは無関係に足が出た。頭と身体に分離した感じがあって、放り出されるように足が勝手に動いていく。怖さは感じなかった。林のなかは静かだった。鳥や動物たちの声は聞こえない。ときおり風が吹くと、月の光に照らされている頭上の梢がざわめいた。それが収まると、あたりは一層深い静寂に包まれた。やがて目が慣れてくると、梢を透して落ちてくるかすかな光でも、おぼろげに物の姿が見分けられるようになった。地面は一面が羊歯のような植物で覆われている。そのなかに植林された木々が整然と立ち並んでいる。
 人の手で植えられた林は、いつのまにか天然の森に変わっていた。歩いていくにつれて、闇に吸い込まれていく気がした。闇のなかで見られている感じが強くなってくる。森が見ている。暗闇が見ている。見られているほうは暗闇に溶けていく。自分が消えていく。魂がさらわれていく。「魂」などという、見たことも触れたこともない言葉を、こんなときに無造作に使えるのが不思議だった。自分は昔ここにいたのかもしれない。懐かしさとは違う奇妙な帰属感があった。
 嗅覚が鋭敏になっている。遠くのかすかな匂いも嗅ぎ分けられそうだった。森の空気のなかを、いろいろな匂いが漂ってくる。いい匂い、悪い匂い、扇動的な匂い、危険な匂い。足取りも敏捷になっている。もう疲れは感じない。「魂」という言葉もどこかへ行ってしまった。暗闇のなかに何かが潜んでいるらしい。森の奥のほうで犬に似た動物の鳴き声がした。互いに呼び交しながら近づいていくる。仲間を呼び寄せているのかもしれない。獣たちの気配が集まってくる。
 逃げるべきかとどまるべきか、判断する間もなく囲まれていた。野犬の群れだった。たくさんいるようだ。隊列をなすようにして取り囲んでいる。いまのところ襲ってくる様子はない。じっとこっちを見ている。首領らしい一匹が口をきいた。
「おまえ、人間臭いな」
 人ではないものが人間の言葉を喋っている。人間の言葉で「おまえは人間臭い」と言う。そう言うおまえたちは何ものなのか。
「アツシ」
 たずねるとも名指すともつかない言い方になっていた。
「ほら見ろ。こいつはアツシという名前だ」声の主が勝ち誇ったように言った。
「そこにいるのはアツシだろう」口をきいたものに向かって言葉を放った。
「おれたちに名前はない」別の一匹が答えた。「名前など必要ない。なぜならおれたちは一つのものだからだ。一つの生命体として、おれたちは馬鹿げた名前を呑み込んで粉砕する。名前を欲しがるのは、欲深く孤独なサルくらいだ」
「何を言っているのだ」
「おまえこそ何を喋っている」嘲りを含んだ声が返ってきた。「おまえは野犬の誇りと結束を忘れてサルになろうとしている。姿かたちこそ野犬だが、心はサルになっている」
「違う」身の証を立てるように言った。「わしは人間だ」
 笑い声が起こった。
「おまえが人間だと」声の主は小馬鹿にしたような抑揚をつけた。「よかろう、それならこの場で喰い殺してやる」
「そうだ。人間はおれたちの敵だ」
 さらに多くの声がつづいた。
「敵は殺せ」
「鶏みたいに解体してしまえ」
 その言葉通りの強い敵意は、いまのところ伝わってこなかった。ただ自分が無数の目によって凝視されているのを感じた。
「人間はおまえたちの敵ではない」弁明するように言った。
「それならどうしておれたちを狩る」
「わしはそんなことはせん」
「いかにも、おまえはそんなことはしない。なぜなら、おまえは人間ではないからだ。おれたちと同じ野犬だ。だが心はサルになっている。あの欲深く孤独な動物に成り下がろうとしている。欲深いサルは名前を呼ばれると振り向く。孤独だから名前を欲しがり名前をともに生きる。そうして人間に近づいていく。おまえはサルを経由して人間になろうとしているのだ」
「人間か」別の一匹が吐き捨てるように言った。「交尾のことしか頭にない低俗な生き物。生殖器の匂いに惑わされた馬鹿な動物……人間!」
「不当な言いがかりだ」
 暗がりにいるものたちが鼻で笑った。
「何にたいして不当なのだ」一つの声が詰問した。「おまえか、それとも人間か」
「どっちもだ」
「それこそおまえがサルである証拠だ」相手は断罪するように言った。「おまえは誇り高い犬ではなく、かといって低俗な人間でもなく、中途半端なサルだから、おれたちの言うことが承服できないのだ。どうして醜いサルになどなろうとする」
「わしはサルではない」
「忘れたのか」声の主は無視してつづけた。「一緒に野山を駆けたころを。おれたちは団結していた。おれたちは一つだった。一つの領土だった。おまえはおれたちだった。怖いものなどなかった。他のことを考える必要はなかった。みんな純潔だった。清らかだった。ところがおまえは、もうおれたちと一つにはなれない」
「いまもおまえたちの仲間だ」
 いったい誰が喋っているのだ。いま喋っているのは何ものなのか。人間だろうか、それとも犬なのか。思考も言葉も「ここ」にはなかった。
「本当だな」相手は詰め寄った。
「本当だ」言い逃れを考える暇もなく、自分ではないものが答える。「嘘ではない」
「それなら一緒に来い」命ずるように言った。「見失った自分を取り戻すのだ」
「どこへ行く」
「村だ。牛を襲いに行くのだ」
「なんのために、そんなことをする」
「忘れたか、仲間の掟を。牛を喰うことで、おれたちは結束を強める。一匹の牛の肉を分かち合い、おれたちは兄弟になる。一つに溶け合った、最強の生命体になる」
「味を覚えたな」思いつきが口をついて出た。
「妙なことを言う」
 嘲りと威嚇の言葉がつづいた。
「サルになりかけているからだ」
「愚かなやつめ」
「この場で喰い殺すべきだ」
「待て。わしの言うことを聞け」隘路を伝って言葉を届けるように言った。「おまえたちは前にも牛を襲ったことがあるはずだ。牛の肉を食べだろう。あれは一度食べると病みつきになる。おまえたちにとって牛は危険な食べ物だ」
「ふん、サルになりかけているおまえにしては大層なことを言う」
「とにかく村へは行くな」
「人間の味方をするのか」
「おれたちに牛を喰わせたくないのか」
 威嚇するような唸り声が一斉に上がった。
「違う。やつらは鉄砲を持っているぞ」
「知っているとも」
「当たるものか」
「人間には思い知らせてやれなければならない」
「散弾銃だ」苦し紛れに言った。
「なんだ、それは」
「飛ぶ鳥さえも撃ち落とす恐ろしい武器だ」
「恐ろしくなどない。おれたちは一つだ。一つの領土だ。個々の生命は問題ではない。命を落としても失われるものはない。おれたちに死はない。一つのものであるかぎり、おれたちが死ぬことはない。一つの領土として、一つの生命体として不滅だ。思い煩うことは何もない。正しい行動を起こすのだ。なすべきことをなせ。欲深く孤独では正しいことはできぬ。一人で考えるのは間違ったことだ。さあ、一緒に来い。おまえに正しい道を教えてやろう」
 一匹が飛び出した。他の犬たちもつづいた。
「来ないのか」
 近くの犬たちが強い憎悪を剥き出しにした。じりじりと寄ってくる。襲ってくるつもりだろうか。身の危険を感じた。自分はいま敵に取り囲まれている。逃げなければならない。思考はまどろっこしく、すでに現実に遅れをとっている。突然、自分の意思とは関係なく弾かれたように駆け出した。どこへ向かって走ればいいかわからない。鼻が利かない。もはやどんな匂いも嗅ぎ分けられない。ただもがくように木々のあいだを進んだ。ここから抜け出すことだけを考えていた。
 犬たちは追ってくる。無数の歯が襲いかかってくる。逃げきれるだろうか。恐怖を感じた。心臓が激しく打っている。胸がむかむかして、身体の奥が激しく掻きまわされているようだった。口から内臓が飛び出してきそうだ。足が絡みそうになる。先ほどまでの俊敏な足取りはどこへ行ってしまったのか。連中に比べれば、いまの自分はいかにも鈍重な動物だ。
 一匹が飛びかかってきた。鋭い歯が足の肉を裂いた。痛みは感じなかった。ただ厭な感触だけがあった。馬鹿げている。何もかもが馬鹿げていた。
(イラスト RIN)