なお、この星の上に(37)

 家に帰ると綾子が開口一番、灰拾いが釈放されたと言った。
「やっぱりガーグーは犯人やなかったな」
 どうやら前に自分が主張していたことは忘れているらしい。
「おまえの民主主義は怪しいもんだの」と健太郎は皮肉を言った。
「どういうことか」
 それには答えずに自分の部屋に引っ込んだ。不審火がつづいたおかげで、昭の家に火を付けたのが灰拾いではないことが証明されるかたちになった。すると誰の仕業なのか。放課後の話が心を離れなかった。父親を探してさまよい歩く戦争の落し子の話だ。町から町へ渡り歩きながら物を盗み、恨みもない家に火を付ける。おまえなのか。おまえが犯人なのか。なぜそんなことをする。何が目的だ。ただ火を付け、人を慄かせることか。
 夕食の席では、夜まわりのことが話題になっていた。村の男たちが二人ひと組で家々のあいだを歩いてまわる。自警団に近い性格のものらしい。戦争のころに戻ったようだ、と母親は言った。あのころは毎夜の空襲に怯えたものだった。県内のめぼしい市や町は、ほとんどが被害に遭っていた。さすがに山奥の小さな村までは飛行機も来なかったが、頭上を飛んでいく戦闘機や爆撃機の姿は何度か目にしたことがある。空一面が覆い尽くされることもあった。
「波状攻撃いいよったかな、あとからあとから、ひっきりなしに飛んでくるみたいやった」
「なんぼぐらいおった」綾子が無邪気にたずねた。
「数百はおったんやないかな」
「大編隊やな」
「おかあちゃんは女学校でね、昼間は隣町の工場で勤労作業いうのをやらされよった」母親は昔語りに話しはじめた。「学校の授業もありよったけど、まとまった勉強どころやなかったな。食べ物も乏しかったし、大人も子どももみんな疲れ果てとった」
 いつのまにか遠くを見るような目になっている。
「大きな町はみんな爆撃を受けて、なんもかも焼かれるし、亡くなった人もたくさんおるいうことやった」長閑にも聞こえる声でつづけた。「幸い、うちらが働きよったところは軍需工場もない小さな町で爆撃はまぬがれとった。それでいつも安心して編隊を見送りよった。あれは爆弾さえ落とさなんだらきれいなものやったよ」
「飛行機か」
「天気のええ日は機体が銀色に輝いてね」
「うち飛行機、見たことないわ」
「その日も空襲警報はすぐに解除になった」と話をつないだ。「いつものことやった。ところが、その日はいつもとは違うとってね、急に一機が引き返してきた。あっという間もなかったな。地震みたいに地面が揺れて、ぐらぐらっときた思うた瞬間に、ものすごい音がした。おかあちゃんたちは両手で目と耳を覆い地面に伏せた。爆弾が落ちたときには、そうするように訓練で習うとったけんね。目をあけたときには、黒い煙が立ち上って、そのなかを粉々になった建物やなんかの破片が舞いよった。昼間やのに夜みたいに真っ暗でね、夢でも見とるみたいやったよ」
「竜巻みたいな感じか」
「そんなふうやね」息切れしたような声だった。「映画や写真で見たのと同じ光景やった。これは大変なことになったと思うたのは、しばらく経ってからやったな。あとでわかったことやけど、このときの爆弾で一つの町内がおおかた消し飛んでしもうとったのよ。怪我をした人らを運ぶトラックが町のなかを走りまわって、道路には死体の山が築かれとった。たった一つの爆弾で、百人以上の人が亡くなったいうことやったよ」
 健太郎は話に加わらずに、黙って飯を喰った。味はおろか、何を食べているという意識もなかった。母親の空襲の話に、新吾の次兄の話を重ねていた。空襲直後の空気に残っている人々の恐怖、その恐怖を想像することは彼の能力を超えている。音が聞こえた。映画の一場面のような光景が目に浮かんだ。聞こえているのは警報のサイレンの音だ。浮かんでいるのは煙のなかを逃げ惑う人々の姿だ。誰もが息を詰めて走っている。背後からは炎が迫ってきている。行く手にも火の手は上がっている。どの道をどう走っても逃れ切れるものではない。立ち尽くし、膝を折り、うずくまる人もいただろう。地面に平たく伏せるた人もいただろう。彼らの頭上から、凶悪なものがやって来る。空気を切り裂く音とともに、人も街も焼き尽くす円筒形の物体が襲いかかってくる。
 地中の音が吸い込まれるようにして世界が無音になる。つぎの瞬間、耳をつんざくような爆発音とともに恐怖が巻き散らかされる。人々の叫び、悲鳴、喚き声が街を覆い尽くす。あちこちに焼け爛れた死体が転がっている。白い煙を上げて燻っているものもある。手足や首が取れているものもある。瓦礫のなかに埋まりかけたものもある。
 そのなかを戦争の落し子が歩いてくる。健太郎と同じくらいの年格好の少年だ。一言も口をきかず、周囲から切り離されて、ふわふわと宙に浮かぶような足取りで歩いてくる。漠とした恐怖を自分一人の世界に閉じ込めて、ここへもやって来る。ひょっとして、もう来ているのかもしれない。
(イラスト RIN)