なお、この星の上に(35)

 草の上に踏み跡がついていた。ほとんど人が通らない道が森のほうへ延びている。どこへ向かっているのかわからなかった。この細い道は、少年だけが知っているのかもしれない、と健太郎は思った。目にする光景は一つひとつが見知ったものなのに、それらを地理的な認識に結びつけることができなくなっていた。
「遠いんか」先を行く背中に言葉を投げた。
「たいして遠ない」
 少年は散歩でもするように寛いだ足取りで歩いていく。疲れも知らない足取りで歩いていく。一緒に歩いているというよりも、後をつけている気分が強かった。こちらが足を早めても、距離が縮まらないのが不思議だった。「分身」という言葉が頭をかすめた。あいつはどこからかやって来た、わしの分身かもしれない。自分の影を踏むことができないように、いくら追いかけても追いつくことはできない。一方で、いま素早くまわり込んで面を見れば、鏡に映るのと変わらない顔が「おまえは誰だ」と言いたげに見返しそうな気がした。
「どこまで行くんか」引き止めるようにたずねた。
「もう少しじゃ」
 やがて森が開けてきた。木立がまばらになり明るい場所に出た。見覚えのない場所だった。避病院からそれほど来ていないはずなのに、周囲の山の形容に見知った感じが湧いてこない。このあたりの山は「丸山」とか「鋸山」とか、たいてい目立った特徴から名前がつけられている。いま目にしている山はどれも同じに見えた。
「このへんはなんというんか」
「雲の平」
 聞いたことのない地名だった。
「ここに住んでおるのか」
 それには答えずに、
「こっちへ来い」少年は先導するように言った。
 荒れた田畑のなかに打ち捨てられたような集落が見えた。新吾の次兄が暮らしている高台の村に似ていたが、場所は方角からして違っている。集落全体が静まり返っていた。どの家にも人は住んでいないらしく、もともと粗末な造りの建物は荒れ果てたまま戸口を閉ざしている。
「入れ」一軒の家の前まで来ると、少年は引き戸を開けて命ずるように言った。
「おまえの家か」
「わしの家ではないが、わしが住んどる」面倒くさいことを言って、さっさとなかへ入った。
 靴を脱いで上がると、廊下の先が六畳ほどの部屋になっている。部屋は湿っぽくてかび臭かった。綿埃か濡れ雑巾のような臭いも混じっている。
「一人で住んどるのか」健太郎は足を踏み入れた場所に突っ立ったまま家のなかを見まわした。
「そうよ」少年は擦り切れた畳の上に腰を下ろしながら答えた。
「家族は」
「おらん」
「どうしたんか」
「死んだ」
 ぶっきらぼうな物言いに、現実味をうまく肉付けできずにいた。とりあえず卓袱台を挟んで腰を下ろすと、
「みんなか」おそるおそるの口調でたずねた。
「みんなじゃ」
「戦争か」
「とうちゃんはな。どっか南の島で死んだらしい」
「かあちゃんは」根掘り葉掘りの訊き方になっている。
「病気じゃ」面倒くさそうに言って、少年は部屋を出ていった。
 あらためて見ると殺風景な部屋だった。卓袱台の他には家具らしいものもない。その卓袱台は脚がぐらぐらする上に表面が撓んでいる。鴨居の上には家族の写真一枚掛かっていない。目につくものといえば、雨染みのついた壁に貼られた置き薬屋のポスターくらいだった。これでは暮らしぶりを想像しようもない。やがて少年が戻ってきた。両手に蒸したさつまいもを持っている。一つを健太郎に差し出した。
「飯はどうしとる」とたずねてみる。「毎日芋を喰うとるのか」
「イノシシやあるまいし」
 少年はすでに皮も剥かず芋に齧りついている。
「米はあるんか」
「ある」それ以上の詮索を拒むように言って、再び落ち着きなく部屋を出ていった。
 健太郎は芋を半分に割り、端のほうを少しだけ齧ってみる。蒸されてから時間が経っているらしく、芋は冷たくなっていた。しばらくすると、今度は大きな薬缶をぶら下げて戻って来た。畳に腰を下ろし、薬缶の口から直に飲んで、ようやく人心地がついたような長い息を吐いた。
「まあ、かあちゃんには悪いが、わしは死んでもろうてよかったと思うとる」自然な流れで話に戻った。
「なせかの」健太郎は芋を食べる手を止めてたずねた。
「かあちゃんが死なんかったら、わしのほうが死んどったかもしれん」不穏なことを言った。
「どういうことか」
「わしを殺そうとしたことがあるのよ」
「かあちゃんがか」
 健太郎は時間を稼ぐように芋を喰った。
「ときどき頭がおかしゅうなりよった」少年は淡白な声で振り返った。「苦労し過ぎたのやと思う。とうちゃんが死んで、なんでも一人でせなならんかったけんの」
 健太郎は釈然としない顔で頷いた。
「小さいころ、わしはたずねたことがある。とうちゃんはどこにおるのか」そこで顔を上げて、「死んだいうことが、まだようわからんかったのよ」と言葉を補った。「そしたらかあちゃんは、わしをこっぴどく叩いて部屋の隅へ突き飛ばした。怖い顔をして、今度そんなことを訊いたら承知せんと言う。こっちはわけがわからずに、なんと恐ろしい親かと思うた。かあちゃんにしてみれば、ただでさえ大変なのに、おかしなことを訊いて困らせるないうことやったのやろう。以来、わしはできるだけかあちゃんには近づかんことにした。凶暴な動物と一緒に暮らしておるようなものやけんの。ほとんど話もせんかった。そのうちかあちゃんは病気になって、一日寝てばかりおるようになった。あとは弱る一方で、おかげで恐ろしい目にあうことはなかったが、最後は飯も喰わずに痩せて、骨と皮ばっかりになって死んでしもうた」
「気の毒なことやな」健太郎が言葉を向けると、
「気の毒なのかどうかわからん」少年はさばさばした声で返した。「死んだほうが幸せやったのかもしれん」
「それで、どうした」
「火を付けて、家もろとも燃やしてしもうた」
 健太郎は相手の顔をまじまじと見た。
「乱暴なことをするの」
「どうせ壊すしかないボロ家じゃ」少年はこともなげに言った。「人が住んどらん家は他になんぼもあるしの」
 健太郎は卓袱台の上の薬缶を取り上げ、少年と同じように口から直に飲んだ。なかはただの水だった。手持ち無沙汰に部屋のなかを見まわしてみる。目にとまるものといえば置き薬屋のポスターくらいだ。若い女性が描かれたポスターは日に焼けて黄色くなっている。四隅をとめる画鋲の一つがなくなって、右下の端がめくれ返っている。よほど長く貼られているのだろう、ポスターの下だけ壁の色が少し濃かった。
 ふと自分に注がれる眼差しを感じて振り向くと、
「おまえ、森から来たのやろう」少年は待ち構えていたように言った。
「おかしなことを言う」つくり笑いを浮かべようとしたがうまくいかなかった。
「匂いがするのよ」相手は真っ直ぐに言葉を繰り出してきた。「木と土の匂い、それに獣たちの匂いじゃ……わしにはわかる」
 見透かされている気がして、思わず目を伏せた。だが少年はじっと見ている。いつまでも無遠慮に、執拗に見ている。
「なんがわかるんか」こらえきれずに顔を上げてたずねた。
 相手は答えなかった。かわりに何か悪いたくらみのようなもの少年の顔にが浮かぶのを健太郎は見て取った。
「おまえにはわしがどんな人間に見える」口調を変えてたずねた。
「普通の中学生に見える」うわべだけの言葉を返した。
「悪い者に見えるか」
「そうは見えん」目も合わせずに答えてから、さらに取り繕うように、「芋を喰わしてくれたしな」と言葉をほぐした。
「油断させとって、おまえの首っ玉を掻き切るかもしれんぞ」
「脅かさんでくれ」
 健太郎は少年のほうへ向き直った。にやにや笑っている顔を想像したが、そこで出くわしたのは、荒涼とした暗闇から向けられたような眼差しだった。はじめて庭先に現れた夜のことを思い出した。あのときも同じ目で見られていた気がする。
「人間というのはしょうがないものよ」少年は大人びた口調で言った。「わしは人間が嫌いじゃ。人間を憎んどる。おまえもそうやろう」
 いわれのない嫌疑をかけられた気がした。
「別に嫌いやない」と払ってから、「憎んでなどおらん」と念を押した。
「そうかの」
 少年は疑り深そうに健太郎の顔を見た。その目はどこか容赦のないものを含んでいて、見られている者の気持ちをざわめかせた。
「それなら、なせ森に惹かれる」
 その一言で、自分が追い詰められたのを感じた。何もかも知られている。心の奥底まで覗かれている。抜け出すことが困難な深みに入り込んでいくような厭な感じをおぼえた。助けを求めるように置き薬屋のポスターに目をやった。文字は読めたけれど書かれていることは意味をなさなかった。
「おまえのなかにも森があるやろう」相手は狙った獲物を追い詰めるように言った。
「なんのことか」とりあえず間合いを切った。
「わかっておるはずだ」突然、少年の声が変わった気がした。「わしらが追われゆくもの、消えゆくものであることが。森はもう、わしらのなかにしか残っとらん。人間に追われ、森のなかで息をひそめて暮らしておる」
 ぞっとするほど冷たい声だった。いったい何を言っているのだろう。なんの話をしているのだ。それ以前に、いま話しているのは誰だろう。何ものが喋っているのだろう。外見は自分と同じ年格好の者だが、本当の声の主は、もっと別のところにいる気がした。正体を見極めようとして視線を向けると、その顔は厚い無関心に覆われている。本来の顔の上にもう一つ、そっくり同じ仮面をつけたような感じだった。それは何も語らず、何も訴えかけてこなかった。仮面には感情がない。喜怒哀楽がない。だが仮面の下にある顔も、やはり感情をもたず、喜怒哀楽を知らないのかもしれない。そこまで考えたところで混乱が極まった。
「おまえの話はようわからん」切り上げるように言うと、
「そのうちわかるようになる」無表情な声が答えた。「わしらは人間の姿はしておるが、魂は人間ではない。深い森に棲むものたちの魂を持っとる。わしもおまえも……わしらは仲間だけん」
 難しいことを簡単な言葉で言われている気がした。その言葉に誘われて、何かを必死になって考え出そうとする心持ちになっていたが、頭のなかでは何も思っていなかった。
「そろそろ帰らんと」
 立ち上がった健太郎を、少年は上目遣いに見た。
「また来るか」声に感情が戻った。
「どうかの」優柔不断な答え方になった。
「もう来んのか」
「道がわからん。途中で迷うかもしれん」
「避病院に来い。迎えに行ってやる」お仕着せがましい物言いのなかに哀願の調子が混じった。
「曜日と時間を決めておくか」健太郎が歩み寄ると、
「そんな面倒はせんでええ」相手は突き放した。
「いつ来るかわからん者を、迎えに行かれんやろう」
「わしにはわかる」少年は不可解なことを言った。
「なんがわかるのか」
「おまえのことがよ。いつも近くで見よる」
「やめんか」冗談めかすつもりが、言葉が真剣になっている。「気味が悪い」
「それなら曜日と時間を決めろ」相手は妥協するように言った。
「土曜はどうか」早く立ち去りたいばかりに答えた。「昼飯を済まして出てくる」
「わかった。今日と同じだの」
 足を踏み出した途端、長く歩き疲れたような疲労をおぼえた。外へ出たところで、家までの道のりを果てしないものに感じた。ぐずぐずしていると足が萎えてしまいそうだった。
「土曜日にな」戸口から少年が言った。
 その声で弾みがついた。一つ頷くと、健太郎は振り切るように足を早めた。
(イラスト RIN)