なお、この星の上に(32)

 夜が明けるころには雨は上がっていた。日課の乳搾りのために表に出ると、地面の土は濡れてさえいない。不審に思って朝食のときにたずねてみた。
「雨か?」母親は怪訝な顔をした。
「降らんかったか」
「降ってくれるとええのやがな」そう言ったきり母親は忙しそうに朝の支度に戻った。
 狐につままれた気分でいると、
「寝ぼけとったのやないか」会話を聞きつけた綾子が憎らしいことを言った。
 朝っぱらから相手をするのも鬱陶しいので、雨の話はそれで切り上げることにした。不可解な思いが後を引くこともなく、家を出るころには忘れていた。どことなく虚ろな気分で授業を受け、最後の掃除を済ますとようやく学校が引けた。
 校門を出たところに少年がいた。中学のグランドの横は広い原っぱになっており、そこにラジオの電波塔が建っている。少年は電波塔のコンクリートの建物に寄りかかっていた。とくに何をしているわけでもなく、ただぼんやりと立っている。
 しばらく門の陰から様子を窺っているうちに、少年はその場を離れて歩きだした。健太郎はあとをつけることにした。何か目論見があったわけではない。ただ、そうせずにはいられなかった。石積みの垣根をめぐらせた農家が並んでいた。一軒一軒が広い地所を占めているため、人の気配はほとんどしない。ときおり牛や鶏の鳴き声が聞こえた。土塀の古い建物が多かった。道は石垣のあいだを縫うように曲がりくねってつづいている。おかげで気づかれることもない。真っ直ぐな道がつづくところでは、相手の姿が見えなくなるまで間を置いた。
 急いでいる様子はないのに、少年の足は速かった。どこへ向かっているのだろう。歩き慣れているはずの道が、はじめてのように感じられた。都会ならまだしも、細い路地まで頭に入っている村で迷うはずがない。そう考える端から、道は行くほどに見知らぬ雰囲気になる。足を止めて、あたりを見まわしてみる。怪しいところは何もない。近くの家の表札を読んでみると、知っている名前だった。幾つか年上の先輩と、年下の後輩のいるはずだ。そこまで確かめながら、どこかへ迷い込んでいくような気分を払えなかった。
 歩いていく自分が目新しいものに思えた。旧知の自分は先を歩いている。すたすたと脇目もふらずに歩いていく。その自分を追いかけきれない。追いつこうとして追いつけない。奇妙な焦りにとりつかれて、知らぬうちに足を速めている。すると急ぐ足に不安がまとわりついてくる。ここで追いつけなければ自分がわからなくなる、正体の知れないものになってしまう。何かのはずみに、自分が自分ではなくなる。
「わしを探しとるのか」
 目の前に少年が立っていた。
「別に、探しとりはせん」健太郎は咄嗟に答えた。
「そんなら、なせあとをつけてきた」
「誰もあとをつけてなどおらん」
「気のせいかの」そんなことは露ほども思っていないという口ぶりだったが、鷹揚に構えているので口論の流れにはならなかった。
「おまえ転校生か」相手の態度に誘われて率直な問いが口をついて出た。
「学校には行きよらん」と少年は言った。
「なせ学校に行かん」
「関係ないことじゃ」少年はちょっと横柄な態度で言った。「おまえは健太郎だろ」
 名指されたほうは気味が悪くなった。
「なせ、わしの名前を知っとる」
「なせでも知っとる」
 ますます気味が悪い。
「そういうおまえは誰か」おそるおそるの口調になっていた。
「わしの名前か」相手は逸らすでもなく、「アツシじゃ」とあっさり明かした。
「どこに住んどる」
 それには答えずに、
「明日の昼、避病院のところへ来い」と命ずるように言った。
「なせか」
「家に連れて行ってやる」
「避病院の近くなんか」
「怖いか」
 少年は見透かすように言った。むきになって打ち消す代わりに、
「時間は」と先へ進めた。
「昼飯を喰うたら出てこい。わしはずっとそこにおる」
 明日は土曜日か、と思い至った。少年は顔を上げた。その表情にはあからさまな無関心が浮かんでいる。しばらくは何も言わず、ただ目を細めるようにして遠くを見ていた。道は集落を出て田んぼにかかろうとしている。稲が黄色く色づきはじめていた。川から水を引いているおかげで、夏の日照りを乗り切って稲は育っている。田んぼのあいだを抜けると道はゆるやかな登りにかかり、傾斜地につくられた畑のなかを雑木林のほうへつづいていた。
「もう行くけん」と健太郎は言った。
「明日な」相手は素っ気なく答えた。
 来た道を引き返しながら、「アツシ」と名乗った少年のことを考えていた。どう見ても自分と同じくらいの歳だ。いったい何者だろう。どうして学校へ行ってないのだろう。釈然としない気持ちで振り返ったときには、すでに少年の姿はなかった。
(イラスト RIN)