なお、この星の上に(31)

 家に帰ると、妹の綾子が「ガーグー」が捕まったと言った。夕食の時間だった。家族の全員が揃った食卓で、妹は健太郎に向けてその話を持ち出した。昭の家に火をつけた疑いだという。町の警察署から刑事が来て、ガーグーを引っ張っていったらしい。
「ガーグーは犯人やない」否定する口調が不必要に強くなった。
「なせ、そんなことがわかる」綾子は尖った声で応じた。
「なせでも、わかるもんはわかる」
 この妹が相手だと、いつも感情的になる。こちらの神経を逆撫でするものがあるらしい。厭わしいことだ。健太郎は妹が苦手だった。冷静になるために、しばらく口を噤んでいようと思った。すると綾子は、
「兄ちゃんは本当の犯人を知っとるのか」とあたかも灰拾いが犯人のような言い方をする。
「知っとるわけないやろう」
「そんならなせ、ガーグーを庇うんか」
「庇うとるわけやない。ガーグーが犯人いう証拠はあるんか」
「そんなこと知らんわ」
「証拠もないのに犯人扱いするのは民主主義やない」
 綾子は憎々しそうに兄を見たものの言葉は返さなかった。自身の頭から出たものとも思えない言葉だったが、妹の好きな「民主主義」で一本取れて健太郎は気分が良かった。
「おばあちゃんも灰せせりは犯人やないと思うな」祖母がどちらの肩を持つわけでもなく穏やかに言葉を挟んだ。「あれは言葉が不自由なかわいそうな男やよ。口は利かれんが、悪い人間やない。人の家に火をつけるような悪い者やない」
「やっとることは、あまり褒められることやないですけどな」父親が言葉を添えた。
 副業のことを言っているらしい。
「骨を食べとるんよ」と綾子は言った。
 そんなことを信じるほどに妹は愚かなのだ、と健太郎はいくらかの憐憫をまじえて思った。
「やっぱり火付けかの」祖父が言った。
「警察はそう見ておるようですな」父親は感情をあらわさずに答えた。「最初に駆けつけた消防団の人らが言うには、火は家の外側からまわっとるそうなんで」
「どっちにしても犯人を見つけんことには安心できんの」そう言って、祖父は窺うように健太郎のほうを見た。
「厭なことがつづくの」父親が難しい顔をして呟いた。
「本当ですな」膳の世話をしている母親が受けた。
 その夜、寝床のなかで健太郎は半鐘の音を聞いた気がした。もちろん錯覚だ。そう思ってみても、音の余韻はいつまでも耳の奥に残りつづけた。「幻聴」という言葉を思い浮かべた。脳のどこかで生まれるらしい音は、予言めいた色合いを帯びていた。平穏無事であることも恐ろしい。この静けさが破られる瞬間こそ恐ろしい。そんな感じ方のなかにいた。
 あらためて周囲の物音に耳を澄ましてみる。鳥は鳴かない。虫の音も聞こえない。かわりに半鐘の音が蜃気楼のように立っている。いまも鳴りつづけている。人の叫びも上がっている。昭の母親だろうか。遠い声は性別すら判然としないのに、すぐにも駆けつけたい気持ちになっている。いったいどこへ駆けつけるつもりなのか。昭の家は焼けている。いま焼けているのは別の家だ。どこの家だろう。つぎに焼けるのは?
「馬鹿くさい」
 呟いた途端、暗い天井に一つの顔が浮かんだ。
「あれが火を付けたのやろうか」
 夕食のときの祖母が言ったことを思い出した。灰拾いの潔白を請け合う言葉は健太郎を安心させたが、一方で別の疑念を芽吹かせた。その疑念に眠りを遠ざけられて、いま布団のなかで半鐘の音を聞いている。聞こえるはずのない音を聞いている。
 出火は夜中というから、時間的には辻褄が合う。なぜ昭の家に火を付けたのだろう。なんのためにそんなことをする。どこの家でもよかったのか。それとも昭の家でなければならなかったのか。火付けは犯罪だ。捕まれば刑務所に入れられる。子どもだからといって容赦はない。そこまで考えたところで、さすがに先走った憶測に眉をひそめた。
 夜半を過ぎて雨が落ちてきた。雨だ、と気がついても、そこから先へ考えは進まなかった。雨のなかを人か何か、物の影が通り過ぎていく。深い静まりのなかで健太郎は身を固くした。遠い空間の広がりに、おそるおそる耳をやった。半鐘の音も、人の叫びもいまは聞こえない。聞こえるのは屋根を打つ雨音だけだった。放心したまま時間が過ぎた。村の人々にとっては待望の雨だ、とようやく思考が動きはじめた。雨乞いの儀式が、いまごろになって効力をあらわしたのだろうか。
 村の人たちの気持ちになって、健太郎もまた人心地ついた気がしたが、それは日照りのことからは離れていた。雨なら火付けはないだろう、と理屈にもなっていないようなことを思った。近くの雑木林に降りかかる雨を頭に思い描くうち、眠りに落ちると朝まで夢も見なかった。
(イラスト RIN)