なお、この星の上に(29)

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 朝、学校へ行く途中で、誰かが火事の話をしていた。内藤の家が燃えたという。昭のところだ。健太郎は軽い胸騒ぎを覚えた。詳しい情報を得たかったが、通学路ではそれ以上のことはわからない。朝のひんやりした空気のなかに煙の匂いが残っている気がした。
 中学でも火事のことは話題になっていた。昭は学校を休んでいる。怪我などはしていないらしい。事情を知っていそうな者に話を聞いてまわった。誰の言うことも断片的だったが、つなぎ合わせるとおおよそのことがわかった。出火したのは夜中で、発見が早かったので全焼は免れた。隣町から消防車が駆けつけたときには、村の消防団の者たちが、大八車に乗せて曳いてきた手押し式のポンプであらかた火は消し止めていたという。
 休み時間に豊と話をした。彼は夜中に半鐘の音を聞いたらしい。村のほぼ中心に火の見櫓がある。天頂に近いところに見張り台のような狭いスペースが設けられており、非常時にはそこに取り付けられた半鐘を打ち鳴らすことになっている。火事のほかに、川が増水して氾濫の危険性があるようなときにも鳴らされた。健太郎も何度か聞いたことがある。しかし昨夜は気がつかなかった。家が櫓から離れているせいかもしれない。距離的にはたいして変わらないところ住む豊は、半鐘の音で目が覚めたという。
「居間のほうへ行ったら親も起きてきとった」彼は夢の話でもするような口ぶりで言った。「火事はどこやろう言うて、みんなで表に出てみたものの火は見えん。近くではないらしいいうことで、また寝てしもうた」
「昭はどこにおるんかの」健太郎が問いを向けると、
「町の病院やろう」と豊は言った。「母ちゃんが火傷をして運び込まれたらしい」
 初耳だった。
「ひどいんか」
「そこまでは知らん」
 担任に聞けばもう少し詳しいことがわかるかもしれない。だが状況がわかったところで、起こったことに変わりはない。とりあえず学校の帰りに、少しまわり道をして昭の家に寄ってみることにした。武雄と新吾にも声をかけた。一緒に昼飯を呼ばれてから、まだ半月ほどしか経っていない。あの親切な母親が、火傷で入院しているのは気の毒なことだった。三人は容態のことなどを話し合ったが、乏しい情報では埒があかない。いずれ折りを見て見舞いに行こうと話はまとまった。
 家は半分ほどが黒く焼け焦げていた。庭木も何本か幹が黒くなっている。地面にはところどころに消火の際にかけられた水が溜まっていた。
「だいぶ焼けとるの」と武雄が言った。
「これでは人は住めんな」新吾が言葉を継いだ。
 自分の家が燃えるのを目の当たりにするのは、どんな気持ちだろう、と健太郎は思った。住みはじめてから間のない借家とはいえ、動揺しなかったはずはない。予期せぬ光景を眺める昭の目に、恐怖はなかっただろうか。
「これから昭はどうするんやろう」武雄が言った。
 言葉を返すかわりに健太郎は空を見上げた。空にはすでに夕暮れの気配があった。そこに赤く焼けた昨夜の夜空が残っている気がした。切迫した空気は過去のものになっている。体験したわけでもない恐怖を、遠いざわめきのように感じた。急が報らされる。庭へ飛び出したときには、部屋のなかにいくつもの炎が揺れている。軒下の隙間から白煙が吹き出している。目にしたわけでもない光景に怯えていた。
「そろそろ行くか」
 武雄の声で我に返った。無残に焼け爛れた家は、もう何十年も前からここにありつづけているように見えた。何も変わっていない。変わっていない、という自身の感覚を健太郎は訝った。
 焼け跡を離れようとしたとき、一人の少年の姿が目に入った。近くの家の塀に、いかにも投げやりな姿勢でもたれている。誰かを待っているわけではなさそうだ。眼差しはどこを見るともなく、中空をさまよっている。その様子はふてぶてしいというより、放心しているように見えた。
「誰かの」新吾が小声で言った。
「見たことないやつだの」武雄にはそれ以上の興味は動かないようだった。
 三人は少年が立っている塀の前を通り過ぎた。新吾と武雄はそれぞれに短い視線を送りながらも、無視することにしたらしい。正体の知れない相手との面倒を避けたかったのかもしれない。健太郎のなかにも厄介事を遠ざけたいという気持ちがあった。一目見たときから、似ていると思った。昨夜、庭先で出会った少年であることを、ほとんど瞬時に確信していながら声はかけなかった。新吾と武雄が一緒だったせいもある。二人に昨夜のことを知られたくなかった。なぜなのかわからない。健太郎は少年のことを秘匿しておきたかった。自分のなかにある暗い森に、そっと匿っておきたかった。
(イラスト RIN)