なお、この星の上に(28)

 煌々と照る月の光で、庭は隅々まで明るかった。地面を這っている小さな虫の姿まで見えそうだ。風のない静かな夜だった。木の葉も草も眠り込んだように動かない。顔を上げると、暗い天空に輝く星たちだけが小さく震えている。
 夜中に起きて便所へ行くとき、月が出ていてくれるのはありがたい。足元に不安がないし、得体の知れないものたちの気配も遠ざかっている。それでも綾子は母親か祖母に付き添ってもらうだろう。電気や水道のことよりも、先に便所をどうにかすればいいのに、と健太郎は思う。霜が降りる季節に、温かい布団から抜け出して便所へ行くのは苦行に近い。なぜ家の者たちは、この不条理を何十年も耐え忍んでいるのだろう。誰もなんともしようと思わないのが不思議だった。祖父母も両親も、夜中に便所へ行くことは、そんなものだと思っているらしい。
 小屋のほうから牛の鳴き声がした。春に生まれた仔牛らしい。腹が減って母牛に乳をねだっているのだろうか。母牛が舌で仔牛を舐めてやっている姿が目に浮かんだ。仔牛は長くて柔らかい舌を、母親の乳首に巻きつけるようにして乳を飲む。半年のあいだにすっかり大きくなって、いまでは角の生えてくるところが固くなっている。残念ながら、今年生まれたのは牡だった。やがて肉にされてしまう運命からは逃れられない。苦労して産んだ仔牛が肉にされると知ったら、母牛はどんな感情を抱くだろう。夜の空気の冷たさに思わず身震いをした。自分がいかにも不健康なことを考えている気がした。頭に残るモヤモヤしたものを洗い流すように、健太郎は汲み置きの水で乱暴に手を洗った。
 母屋に戻ろうとしたとき、庭の隅の生垣のところに誰がいるのに気づいた。こんな時間にうろついているのは灰拾いくらいのものだ。灰拾いのねぐらは山間の火葬場だった。そこは彼のねぐらでもあり、仕事場でもあった。骨揚げが済んだあとに残った骨と灰を、火葬場の裏の集積所に運んで始末するのが仕事だった。その際に灰のなかを掻きまわして、歯の詰め物に使ったわずかの金や銀を拾い集める。稀に指輪などの貴金属、宝石類が見るかることもあるらしい。それらは彼の副収入になった。隠微な副業をさして、大人たちは「灰せせり」と呼ぶこともあった。古い呼び名である。「せせる」という言葉の意味がわからなくなっている子どもたちは、わかりやすい「灰拾い」という名前のほうを採用した。
 健太郎たちの仲間内では男のことを「ガーグー」と呼んでいた。生まれつき言葉が不自由で、「ガー」とか「グー」としか言わないからだ。本人は何か言葉を喋っているつもりなのだろうが、健常者の耳には「ガー」や「グー」といった擬音にしか聞こえない。ガーグーは夜になると村に出てきて、家々を徘徊する。そして畑の作物や、庭先の木に成っている無花果や柿を持っていったりする。たいした量ではないので、どの家も大目に見てやっている。健太郎の祖母のように、残りの飯で握りなどをつくって置いてやる者もいる。子どもたちのなかには、ガーグーは腹が減ると焼け残った骨を齧るのだと言う者もいたが、これはいかにも嘘臭かった。
 しかし今夜の訪問者はそのガーグーではなかった。ガーグーは大柄な男である。いま生垣のところにいる者は、健太郎と同じ背格好で体つきも少年っぽい。
「そこにおるのは誰かの」
 危険のない相手と見てとり警戒もせずにたずねた。庭に植わった大木が月の光を遮って、その姿は暗がりに紛れている。
「そんなところで何をしよる」
 言葉をかけておいてから、生垣のほうへゆっくり足を進めた。相手は動かずにこっちを見ている。あいかわらず一言も言葉を発しない。ひょっとして口が利けないのかもしれない。彼のいるあたりだけが、ひときわ暗い闇に包まれているように感じられた。あと四、五メートルという距離まで来たとき、影は不意に生垣を離れた。逃げ出すような足の運びではない。その姿が月の光の下に出た。やはり中学生くらいの少年だった。
「おい、待て」
 声をかけると、相手は立ち止まった。首だけ振り向いてたずねた。
「おまえ、わしらの仲間か」
「なんのことじゃ」
 見たことのない少年だった。
「仲間なら一緒に来い」
「どこへ」
 それだけを伝えれば充分というように、少年は健太郎に背を向けて歩きはじめた。
「どこに住んどる」
 答えなかった。立ち止まりさえしない。腹を立てるよりも、不可解な思いのほうが勝っていた。それに庭は寒かった。薄着の身体は冷え切っている。
「おかしなやつじゃ」吐き捨てるようにつぶやくと、健太郎は母屋のほうへ急いだ。
 どこから来たのだろう。布団に戻ってから、あらためて先ほどの少年のことを考えた。こんな夜中に何をしていたのだろう。近隣に住んでいるなら知らないはずはない。ほとんどの者は顔見知りと言っていい。他所から来たのだろうか。この村に親戚でもいて、そこに寝泊りしているのだろうか。一方で、健太郎は少年のことを前から知っていた気がした。やって来ることを予感し、待ち望んでさえいたような気がする。
「馬鹿くさい」
 布団をかぶって寝てしまおうと思った。しかし不穏な思いは彼をとらえて離さなかった。何かがここへたどり着いた。得体の知れない疫病のようなものが、夜陰に紛れて庭先までやって来た。それとも自分のほうが、どこかへたどり着いたのだろうか。奇怪なことを思っていた。自分の心が自分のものではないみたいだった。暗い森の瘴気が、頭といわず身体のなかに立ち込めている。すでに夜は、これまでと同じではなかった。
(イラスト RIN)