なお、この星の上に(27)

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 太陽の光が触れるのを感じた。空は端から端まで青い。山の輪郭は鮮明で、近くに生い茂る草木は、葉の一枚一枚が数えられるほどくっきりと見えている。祖父の話を思い出した。何もかもが驚くほどはっきり見える日がある。普段は見えないものまで見える。そんな日が、年に一日か二日はある。今日が、その日かもしれない、と健太郎は思った。
 森が騒いでいる。暗い原始の森がうごめいている。森は彼のなかにある。身体の奥まったところにあって、いつもは眠ったように静かにしている。だが目を覚ますと厄介なことになる。森が広がりはじめる。なかにあったものは外に溢れ出し、いつのまにか健太郎を包み、取り込んでしまう。気がつくと自分のほうが森のなかにいる。
 川に来ていた。水が涸れはじめている。普段は流れの下にある岩が白く剥き出しになっている。流れが緩やかなところでは川原が広がっている。自分の影が、足元に濃く短くうずくまるように落ちていた。一人だった。たんに一人という以上に、一人だった。森が騒ぐ日には、できるだけ一人でいたかった。誰とも話したくない。本当は誰かに打ち明けたかったが、言葉を向ける相手を思いつかない。祖父か、父か? 相手が誰でも、うまく説明できるとは思えない。
 水音が聞こえた。川下から水のなかを歩いてくる者がいる。一瞬、吉右衛門爺さんだろうかと思った。顔を上げて待ち構えた。その正体が明らかになったとき、彼の心は落胆していいのか安堵していいのかわからなくなった。やがて日差しの下に出たような心地がして、健太郎の頭のなかは明るくなった。
「源さん」と声をかけた。
「おう」
 相手は気安く手を挙げて応えた。いつものように手造りのヤスを持っている。
「魚を獲っておるのか」
「そのつもりで来たが、どこにも魚がおらん」
「雨が降らんけんかの」
「たぶんそうやろ」
 源さんは川から上がると、健太郎のほうへ歩いてきた。
「こんなところで何をしとる」近くの石に腰を下ろしながらたずねた。
「なんも」ありのままを答えると、
「そうか、なんもせんことをしとるか」
 源さんはおかしそうに笑った。額の汗が光っている。それからふと静まって、
「今日は何もかもが黙っとる」と謎めいたことを言った。「お山も森も魚も喋らん。鳥も風も水もうたいよらん。川はただ流れとるだけじゃ。わしは寂しい」
 その寂しさに、健太郎の心もまた染まっていくようだった。だが源さんが感じている寂しさは、どこか穏やかで温かみのある寂しさだった。動物や森や水や魚たちの沈黙とともにある寂しさ、何かが再び戻ってくることを予感させる寂しさだった。川原の石が太陽の熱に熱くなっている。その匂いがする。草木が風に揺れる。水が流れる。いろんな匂いが一つになって懐かしい匂いがする、と健太郎は思った。
 顔を上げると、源さんはじっと川の流れを見ていた。名前を呼ぶと振り向いた。この人になら話せそうな気がする。自分の秘密を打ち明けることができそうな気がする。
「おやじさんの加減はどうね」
「ああ」源さんはちょっと疲れたような顔をして、「良くも悪くもねえ」と言った。「あいかわらず口をあけて寝ておる。あのまま口をあけておっ死ぬんじゃねえかと思う。覚悟はできとるよ」
 たずねたいことを逸らして、具合の悪い父親のことに言葉を向けたのはかえって悪かった気がした。後ろめたさを紛らわすように、健太郎は雲一つない空を見上げた。
「雨、降らんなあ」と呟いてみる。
 源さんは釣られるように顔を上げた。明るい日差しのなかで時間が透明になっていく。時間が透き通ると、時間を超えてありつづけるものが姿を現す。
 小学生に上がる前から、この川で仲間たちと泳いだ。年上の少年たちが取り仕切る習わしだった。そのころは健太郎たちがいちばん年少だった。誰かが放った石を取ってくる競争をさせられたことがあった。流れに揉まれながら、川底に沈んだ特徴のある石を懸命に探す。それは遊びというよりも、延々とつづく無慈悲な修練に近かった。ようやく解放されたときには、誰もが身体の芯から冷えたように身震いしていた。
 学年が上がるに連れて、年下の子どもたちが増えていった。年少の子どもたちに、今度は健太郎たちが同じことをさせた。唇が真っ青になるまで、川底の石を取ってくることを繰り返させた。どうしてあんなことをしたのだろう。誰に命ぜられたわけでもなく、後ろ暗いような気持ちを秘して、心の襞に陰湿な喜びを感じながら。それは罪のようなものとして、健太郎の記憶に残っていた。降り積もった罪の記憶が、森を育てていったのだろうか。
 源さんはじっと川の流れを見ている。彼も子どものころには、この川で泳いだはずだ。やはり年長の者たちに競争をさせられただろうか。そして年少の者たちに同じことをさせただろうか。源さんのなかにも森はあるのだろうか。
「やっぱり雨は降らんかな」誘い出すようなたずね方になっていた。
 源さんはちょっと警戒するようにたずねた相手を見た。ここで下手な駆け引きはしたくなかった。
「雨乞いを出しても雨は降らんて、なせそう思うたの」健太郎は率直にたずねた。
「さあ、なせかの」源さんはとぼけるでもなく、「あのときはなんとなくそんな気がしたのやったが、いまはよう思い出せん」
 深入りする気はなかった。ぼんやりしたまま時間は流れた。水の匂いが強くなった。光が川面を跳ねまわっている。
「おやじが言うには、本当の知恵は頭のなかに入っとるんやのおて、ここに入っとるらしい」そう言って、源さんは自分の胸を軽く叩いた。「あのときもここに入っとる知恵が、わしに教えてくれたのやと思う」
「他にはどんな知恵が入っとるんか」健太郎は合わせた。
「どんな知恵も入っとらんよ」源さんは煙に巻くようなことを言った。「知恵は自分のなかにあるのやのおて、自分のまわりにある。空や山や川や、森の獣や鳥や魚や虫のなかにある。そういうものたちと仲良うせなならん。家族みたいに付き合おうて、いろんなことを教えてもらわなならん。おやじはいつもそう言いよったよ」
「偉いおやじさんやね」思ったままを口にすると、
「なんぼ偉い人でも、田んぼで溺れてはどうもならん」源さんはあっさり突き放した。「いまはわしのほうが偉い」
 健太郎は思わず声を上げて笑った。源さんも一緒に笑った。いつか裏山の林でカブトムシを採ってくれたことがある。健太郎は三つか四つだった。遠い夏の日。二人のあいだを風が吹き抜けていく。やがて源さんは父親の話に戻ってきた。
「おやじはわしにいろんなことを教えてくれたが、こっちは頭が弱いけん、みなはようおぼえきらんかったな」思い出を手繰るようにつづけた。「おやじの話は、いつでも川の流れみたいに行ってしまう。わしは聞いとるだけで、聞いたことはどこかへ流れていってしまう。結局は、なんも教わらんのと同じことになってしもうた。わしに話してくれたようなことを、おやじはどこで探し出してくるのか、不思議でならんかったよ」
「動物たちに聞いたのやないかな」
「わしもそう思う」源さんは我が意を得たりというように言った。「おやじはそういう心をもった人やった。おやじの心のなかには、鳥や魚が教えてくれる知恵がいっぱい入っとったのやろうな」
 健太郎は黙って頷いた。
「酒さえ飲まねばな、ええおやじやったよ。田んぼに行っても飲みよった。木の根元やらに酒を隠しておってね。しょうもないおやじやったが、それでもわしにはええおやじやった。酒を飲んでもええおやじやったよ」
 心地のいい時間が流れた。
「これからどうするの」とたずねてみる。
「もう少し上のほうで釣ってみるかの」源さんはゆっくり腰を上げながら言った。
「イワナか」健太郎も立ち上がった。
「せっかくミミズを掘ったけんの」そう言って、腰に下げた餌箱を軽く手で叩いて見せた。「魚止めの滝あたりまでは行ってみるつもりだわ」
 源さんは明るい空を見上げた。
「一匹でもかかってくれるとええが、こう天気がつづいては大物は出てこんやろう」翳りのない口調で言った。「これで雨でも降って川の水が濁れば、嘘みたいに釣れるのやがな」
 源さんが立ち去ったあとも、しばらく一人で川原に残っていた。日が翳ったような気がして目を上げると、日差しはあいかわらず明るかった。自分が急に年老いたように感じられた。五十年も六十年も経ってから、十五歳のころの自分を懐かしく思い返している気分になっていた。
(イラスト RIN)