なお、この星の上に(24)

24
 その日も、朝の最初の光が巣のなかに差し込んできた。切り立った崖の岩棚に、木の枝を集めて作った巣のなかで、イヌワシはゆっくり立ち上がると、黒い褐色の身体を朝の光に晒した。首から背にかけての羽毛が赤みを帯びた黄色に輝いている。ワシは小さく首を動かした。鋭い嘴が右に左に向きを変える。不意に動きを止め、何事か思案するように首を傾けた。
 南風の匂いだ、とワシは思った。心を落ち着かなくさせる匂い。毎年、風が暖かい潮の香りを運んでくるたびに、ワシはそわそわした気分になる。この風に乗れば南へ行くことができる。どこか、ここではない場所へ飛んでいくことができる。長い歳月、彼は自分の縄張りのなかだけで生きてきた。けっして狭い土地ではない。他の動物たちと比べれば広大と言っていいほどだが、未知のものはなかった。地形も植生も棲息する動物たちも、よく知っているものばかりだ。縄張りとはそういうものだった。それは彼という個体の延長であり、彼自身だった。
 若いころには、自分の縄張りを持っていることが自慢だった。二メートルに及ぶ羽を広げて上空を旋回すると、その影を目にしただけで地上の動物たちは震え上がった。目標を見つけると、空から猛然と急降下し、頑丈な足で獲物を押さえ込んでしまう。捕まえた動物を軽々と運び去る姿は、人間たちにさえ畏怖の念を抱かせた。「天狗」などという怪物に仕立て上げられたのは心外だが、脚色され伝説化されるのは悪い気分ではなかった。
 ふと彼は、数日前に目にしたシカの死骸のことを思い出した。新しい道ができてから、こんな山のなかにも車が入ってくるようになった。スピードを出しているので、ときどき動物たちが犠牲になる。そのシカも車に轢かれたらしかった。まだ若い牡のシカだった。彼は上空から、道端に横たわる死骸を目視しただけで素通りした。空腹ではあったが、死んだシカの肉を喰うほど落ちぶれてはいない。
 自分はハンターなのだ、と彼は思った。しかも一流のハンターだ。一流でなければ生き延びることはできない。いくら強靭な羽や頑丈な足、鋭い爪や嘴を持っていても、狩りに長けていなければ餓死してしまう。餌になる動物たちは年々減っている。おまけに人間たちは山の木々を規則的に伐らなくなったので、狩りをするための開けた場所が少なくなった。限られたチャンスを確実に物にすることができなければ、空の王者と謳われたイヌワシでも餓死するしかない。頂点に君臨することには、それなりのリスクが伴う。
 だが、いま考えているのは、そういうことではない。死んだシカのことだ。道端に横たわる一頭の若い牡のシカ。おそらく餌を探しに里のほうへ出てきたのだろう。牡のシカは繁殖期に備えて身体を大きくする必要がある。気に入った相手がいたのかもしれない。意中の雌を得るためには、他のものたちよりも強くなければならない。森が提供してくれるものだけでは充分ではなかったのだろう。危険を冒して食べ物を探しに来た。そして運悪く車に撥ねられた。
 シカはただ横たわっていたわけではなかった。自分がやって来たほうへ、顔と身体を向け、前足を伸ばして横たわっていた。シカは思い出の方角にいたのだ。少しでも近づこうとしていた。愛らしい雌のシカが待つ森へ。まるで勢いよく疾走しているみたいだった。鼻を森のほうへ向けて、自分がやって来たところ、帰っていきたいと思っているところへ向かって……。シカは横になったまま力尽きていた。その姿を、彼は美しいと思った。

 これまで自分が殺した動物たちのことを考えることがあった。もちろん一匹一匹をおぼえているわけではない。キツネ、タヌキ、ヤマドリ、キジなど、いろいろな動物を食べてきた。雨が多い時期には大型のヘビ類が主な餌になった。その時々に殺した動物は、彼にとってはたんなる獲物であり、餌に過ぎなかった。だが月のない暗い夜など、岩棚の巣で休んでいるときに、ふとウサギの丸い目が浮かぶことがある。懸命に逃げるウサギの目だ。彼は上空から風を巻いて襲いかかる。もはや時間の問題だ。とても逃げきれるものではない。そのことはウサギにもわかっている。何も見ていない丸い目は、すでに虚ろだった。瞳には慄きだけが映っている。
 生きるために多くの命を奪ってきた。そうやって命をつないできた。だが森の王にして一流のハンターである彼にして、子孫を残すことはできなかった。彼が最後の一羽だった。ここで朽ち果てるのだ。死んで、死骸となって、他の動物たちの餌になる。それが自然の掟である。王であろうとなんであろうと関係はない。すべての生き物は一つの環のなかで生まれ、死んでいく。何ものも抜け出ることはできない。環のなかでは、強いものも弱いものも等しく小さな命だった。
 彼自身が掟によって生き残ったとも言える。卵から孵るのが、ほんの少し早いか遅いかだけの違いだった。先に殻を破って出てきた彼は、あとから出てきた雛をつつき殺し、その肉を食べて生き延びた。なぜ自分だったのだろう。理由はない。たんなる偶然だ。少ない獲物で一羽の雛しか育たないという環境が、二つの個体を生と死に分けた。善でも悪でもない自然の掟、何ものも逃れることのできない環のなかで起こる、ありきたりの出来事だった。
 一つのものであった自分たちは、そのようにして引き裂かれた。同じ母鳥の腹から生まれでたものが、この世界の掟に触れた瞬間に、食べるものと食べられるものに分かたれた。不運な雛の身体は文字通り引き裂かれ、小さな肉片となって彼の腹のなかに収まった。そうして生き残った彼が、あのとき殺した兄弟のことを思い出している。珍しいことだった。普段はほとんど思い出すことがない。いや、これまで一度でも思い出したことがあっただろうか。兄弟の肉を食べたあと、彼は尾羽を少し上げるぎこちない仕種で、彼は生まれてはじめての糞をした。白い糞はペンキのように岩肌を汚した。それきり自分が食べた弟のことは忘れてしまった。
 だがいま、自分のなかにその存在を感じる。たしかに感じるのだった。そうとも、あいつはいまもおれの腹のなかで、おれとともに生きている、と彼は思った。これが最後のチャンスかもしれない。この機会を逃せば、永遠にここを離れることはできないだろう。眼差しの焦点を彼方へ合わせた。自分を奮い立たせるようにして、彼はともにいるものに語りかけた。おれとおまえで旅立つのだ。上昇気流を捉えれば、羽ばたかなくとも長い時間飛びつづけることができる。あとは風まかせだ。二つのものが一つになれば、怖いものなどありはしない。たとえ力尽きても、おれたちは一つのものでありつづける。
 広げた羽の下に力が満ちてくるのを感じた。身体がふわりと浮かびかける。風の匂い、光の温もり。生命が香る。あのときと同じだ。最初の巣立ちのときから、おれたちはずっと一緒だった。ともに空を駆けてきた。ともに餌を捕ってきた。一つの命を二つにつないできた。そしておれたちはいま、また駆け出そうとしている。あのときと同じように。おれとおまえ、二つで一つの生命を漲らせて。上空から見れば、地上の生と死は些細な違いでしかない。破壊された森は百年ほどで蘇る。そんな悠久の時間を、今日も明日もおれたちは渡っていこう。
 イヌワシは飛び立った。すぐに風をつかまえた。ほとんど羽をはばたかせる必要はなかった。無際限の力が流れ込んできた。大きな輪を描きながら、ワシは高く、さらに高く昇っていく。これまで行ったことのない高みをめざそう、と彼は思った。いかなる鳥も達したことのない高みを。終わってしまうものは何もない。すべてがはじまりだ。一羽のワシは、見えないもう一羽のワシと寄り添うようにして、さらに深い空の青に染まっていった。(イラスト RIN)