なお、この星の上に(24)

 稜線が広くなっていた。右と左に分かれた片方が、東の尾根に向かってせり上がっている。しばらく縦走して東側の尾根に取り付く。その前に弁当を食べることにした。昼にはまだ少し早かったが、夕方には新吾の次兄のところへ戻り、もう一泊させてもらうことになっている。
 健太郎はリュックから、父親に借りてきた双眼鏡を取り出した。明るい円のなかに、深い森が広がっている。この尾根のどこかに爺さんの家があると武雄は言うのだが、いくら目を凝らしても一筋の煙も上がっているわけではなく、人が住んでいる形跡はなかった。
「なんか見えるか」その武雄がたずねた。
「見える。木と草と、空」
「他には」
 健太郎は黙って双眼鏡を渡した。武雄はそれを扱いにくそうに目にあてた。やはり何も見えなかったらしい。彼は双眼鏡を新吾に渡し、最後に豊が覗いた。
「なんも見えん」と豊は言った。
 握り飯を食べ終えると早々に出発した。帰りのことを考えれば、探索にあてることのできるのは、せいぜいあと二時間といったところだ。いくら日が長い季節とはいえ、午後一時には山を下りはじめなければならない。
 足元は白っぽい石がごろごろして歩きにくかった。一つ一つの石が、大きいものも小さなものも明るい日差しに照らされている。光が跳ねる。白い石の上で、乾いた土の上で、木々の葉の上で、遠い山の稜線の上で。曖昧なものは何もない。すべてがはっきりしている。山は山で、石は石、自分は自分だ。
 しばらく歩くうちに、何かに見られている感じが強くなった。山が、空が自分を見ている。健太郎は眼差しの主を探すように空を見上げた。雲一つない空には底があるような気がする。空の底から光が降り注いでいる。あそこに何かいるのか? それとも山のどこかに……木々がまばらに生えた遠い稜線が鋭く切り立って、見つめていると目が痛くなってくる。光が山全体をきらめかせているのだ。
「おーい、おーい」
 声が聞こえた。空耳だ。そうに違いない。武雄があんな話をしたせいだ。吉右衛門爺さんが呪文を使っているとは、なんとも馬鹿ばかしい。つぎに声が聞こえたら怒鳴り返してやろう。それとも大声で笑い飛ばしてやるか。
「おーい、おーい」
 再び聞こえた。こんなところは早く通り抜けてしまおう、と健太郎は思った。こんな歩きにくいところは。石、石、石……どうして石ころだらけなのだ。祖父の言っていたことを思い出した。ちょっと変わった子どもが神隠しにあうことが多いという。いつも一人で山のなかで遊んでいたり、動物と仲が良かったり。霊感の強い子どもよく神隠しにあったという。ひょっとして自分はそういうタイプなのかもしれない、といくらか理不尽な気持ちで思った。
「おーい、おーい」
 彼は空を見上げた。遠い山の稜線に目を凝らした。山が呼んでいる。光と風が呼んでいる。空の底から誰かが呼んでいる。吉右衛門爺さんが呼んでいる。気をつけろ、と彼は自分に言い聞かせた。何かにとらわれようとしているのかもしれない。
 声は執拗につづいている。答えてはならない。だが自分を呼ぶ声に、健太郎は不思議と親密なものを感じはじめていた。何か大きなものに抱かれている気がする。身体のなかに風が入ってくる。自分が光を孕んだ風になった気がした。風は光をまいて望むところへ吹いていく。
 ふと夢から覚めるようにして、あたりを見まわした。いつのまにか一人になっていた。他の三人はどこへ行ったのだろう。いまでは影も形もない。なだらかな稜線が前にも後ろにもつづいているばかりだった。どこではぐれてしまったのだろう。あの稜線が左右に分かれたところだろうか。東の尾根に取り付くためには、左側の落ち込みを見ながら進まなければならない。自分はたしかにそうしたはずだ。では三人が間違えたのか、最後尾を歩いていたのは誰だろう?
 声を発しようとして思いとどまった。返事をすることになる。呼び声に答えることになるのはうまくない。すでに罠に落ちた気分で健太郎は思った。引き寄せられてしまったのかもしれない。吉右衛門爺さんの呪文にかかったのかもしれない。だが気持ちは不思議と落ち着いている。心配はいらない。きっと抜け出してみせる。簡単なことだ。とりあえず稜線が分かれたところまで引き返す。それで間に合わなければ、新吾の次兄の家まで戻ればいい。
 明るい場所にいるかぎり大丈夫だ、と健太郎は思った。曖昧なものは何もない。すべてはくっきりとしている。目に見えるものはみんな名前をもっている。空、山、石、草、木……眩しい日差しのなかに、一人の男が立っていた。大人にしては背丈は低い。ずんぐりとした体つきに見えた。太陽を背にしているのでシルエットしか見えない。だが見知らぬ人であることは間違いない。村の住人なら、シルエットでも誰かはわかる。帽子をかぶっている。猟師がよくかぶっているような鳥打帽だった。開襟シャツにぶかぶかのズボン、靴にはいているのは地下足袋だろうか。小ぶりのリュックを背負い、猟銃を持っている。
「友だちを見ませんでしたか。わしと同じくらいの中学生が三人……」
 男は答えずにじっと健太郎のほうを見ている。何か言ってほしいような、言葉をかけられるのが恐ろしいような不思議な気分だった。その言葉は呪文かもしれない。彼がそうなのだろうか。シルエットだけでは年格好まではわからない。背中は曲がっていないから、それほど高齢ではないだろう。村の年寄りはみんな背中が曲がっている。長く田畑で働いてきた者はみんな背中が曲がる。だが猟師はどうだろう? いずれにしても伝説のように九十歳や百歳を超えているということはないだろう。
「吉右衛門爺さんですか」
 たずねてから、「爺さん」は余計だったと思った。「吉右衛門さん」でよかった。些細なことを悔やんでいるうちに、相手はくるりと背中を向けて歩きはじめた。
「待ってください」
 追いかけようとしたけれど、足が動かなかった。意識と身体が分離して別のところにあるみたいだった。行かなければならない。追いかけなければならない。しかし身体が動かない。呪文だ。爺さんが呪文をかけたのだ。それならジタバタしてもしょうがない。なんの音もしなかった。音自体が周囲から失われていた。ただキーンという金属質の耳障りな音だけが、空の高いところで鳴っているみたいだった。
 どのくらい時間が経ったのだろう。いつのまにか金縛りは解けて、身体は自由を取り戻している。だが動きだすための力は、なお漲ってこなかった。しばらくその場にぼんやりしていた。魂が抜けてしまったみたいだった。身体は重さをなくしたように立っていた。健太郎は自分が蜃気楼になったような気がした。
「おーい、おーい」
 また声がする。誰かが呼んでいる。
「おーい、おーい」
 今度は誰だろう。先ほどと同じようでもあり、違う気もする。不意に止んだ。空に音が吸い取られたかのように何も聞こえなくなった。日差しがひときわ強くなった。目に入ってくるのは光と影だけだ。光のなかを影が動いている。こっちへやって来る。一つの影は二つになり、最後に三つになった。
「何をしよる」
 聞き覚えのある声がした。
「四人で歩いとったら、いつのまにか三人やが」
 豊の声だった。
「慌てて引き返してきたぞ」
「大丈夫か」新吾が心配そうに言った。「どうかしたんか」
「吉右衛門爺さんに会うた」
「本当か」武雄が言った。
「わからん」
「なんじゃ、それは」
「どこで会うたか」新吾がたずねた。
「ここじゃ」
 三人は怪訝そうにあたりを見まわした。
「誰もおらんが」再び武雄が言った。
「もう行ってしもうた」
 そう言った途端、健太郎は疲れを感じた。毛穴からどっと吹き出してくるような疲労感だった。身体が鉛になったように重く、思わずその場に坐り込んだ。
「大丈夫か」豊が気遣った。「気分は悪ないか」
「おまえ、爺さんの呪文にかかったな」武雄が確信ありげに言った。「そうに違いない」
 少年たちは明るい日差しのなかで沈黙した。誰もが吉右衛門爺さんの存在を身近に感じていた。空から注ぐ光に、稜線を吹き渡っていく風に……。
「引き返そう」新吾が意を決したように言った。「ここは無理をせんほうがええ」
「健太郎の具合もようないしな」豊が即座に同意した。
 武雄も反対はしなかった。ただ一言だけ、
「やっぱり吉右衛門爺さんはおるの」と呟いた。
(イラスト RIN)