なお、この星の上に(23)

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 ゆるやかに傾斜した地面を、シダや熊笹などの下草が覆っていた。山仕事をする人たちが使っていたものだろうか。古い道らしく踏み跡はほとんど消えかかっている。まわりはブナやクヌギなどの原生林だった。このあたりの森は昔から、山の神さまの領分とされており人の手が入っていない。根の浅い杉や檜の植林地では、大雨が降れば地滑りなどが起こりやすい。山をよく知る土地の人たちは、神を祀り、神域を設けることで山を守ってきたのだった。
 健太郎は吉右衛門爺さんのことを考えていた。この山のどこかにいるのだろうか。そもそも実在の人物なのだろうか。すでに亡くなった爺さんの遺体は、いまも腐らずに囲炉裏端にじっと坐っている、といった話はさすがに信じがたい。祖父によると、人が死ぬと霊魂は身体を抜け出し、長い年月をかけて少しずつ神になっていくという。そして山の頂きから人々の暮らしを見守りつづける。百歳を超えているとも言われる吉右衛門爺さんは、生きているにしても死んでいるにしても、すでに神になっているのではないだろうか。神とは言わないまでも、神に近い仙人のような存在。人とも神ともつかないものとして、山深い聖なる場所に棲んでいる。そして二つの領域を自在に行き来する。人の暮らしと神の領域を。ときに人間として、ときに神として……。
「茸採りに来とった婆さんがクマに喰われたのは、このへんやなかったかの」豊がいかにも場違いな話を唐突に持ち出した。「あのとき婆さんは、クマにあらかた食べられてしもうた」
「いつの話じゃ」武雄が煩わしそうに言った。「いまはもうクマはおらん」
「おらんのけ」
「おっても、ここらには出てこん」
「なせかの」
「なせでもじゃ」
 豊は釈然としない顔で黙り込んだ。四人は黙って歩きつづけた。森が息をしている。山が息をしている。人でも神でもないものが息づいている。そのなかを自分たちは歩きつづけている。神の領域に足を踏み入れようとしているのかもしれない、と健太郎は思った。吉右衛門爺さんの領分を侵そうとしている。頭上を覆う厚い木々の葉によって、日光はほとんど遮られていた。暗い森のなかを歩くのは苦手だった。何かに見られている気がする。心のなかまで覗き込もとしている。森が、山が、人とも神ともつかない存在が……。
「クマは襲った婆さんを安全な場所に運んでから食べたそうじゃよ」豊は深刻味のない声で先ほどの話を蒸し返した。「一度人間の味をおぼえると、クマは繰り返し人間を襲うようになる。そうして人喰いクマになるわけよ」
「やめんか」武雄が制した。「四人も一緒におる人間を、クマが襲うわけがないやろ」
「そうけ」
「クマは見かけよりも臆病な動物と聞いとる」新吾が武雄に同調するように言った。
「わしらが小学校のとき、測量のために山に入った技師さんらがクマに襲われたことがあったやろ」豊はしつこかった。「あのときはたしか五、六人やった。いちばん若い県の職員がやられたんやなかったかの。学校の先生から、クマは逃げる者を襲うけん、絶対に逃げちゃならんと言われたのをおぼえとる」
「おまえの場合は腰が抜けて、逃げよう思うたて逃げられんけん安心じゃ」新吾がそんな憎まれ口を叩くと、
「喰われるよりはええが」豊は平然と答えた。
 足取りに合わせて小刻みに息を吐く。新しい空気を吸い込む。そんなことを繰り返しているうちに、森が呼吸をしているのか、自分が呼吸をしているのかわからなくなる。彼自身が森の一部になる。森が彼のなかに入ってくる。暗い原始の森だ。その森は自分のなかにある、と健太郎は思った。深い森にはいろいろなものが棲み付いている。人も動物も、魔物も神も棲んでいる。森は危険な場所だ。だから普段は、できるだけ近づかないようにしている。しかしときどき、自分から森に入って行きそうになる。意思に反して惹きつけられる。抗うことのできない力によって引き寄せられる。
 この暗い情熱はなんだろう、と彼は思った。操ろうとして操られ、制御しようとすると裏をかかれる。なすすべもなく引き寄せられていく。人間がはじまる以前の原始の森に、原始の眠りと原始の忘却のなかへ。そこで暗い火が燃えている。赤々としているのに熱くはない。奇妙な火が心の闇を照らし出す。ずんぐりとした影が見える。何かが闇のなかにうずくまっている。人間だろうか、動物だろうか。もっと得体の知れないものだろうか。その影がゆっくりと身を起こす。立ち上がり、森のへりへ向かって歩きはじめる。しばらく立ち止まる。聞き耳を立てるようにじっとしている。仲間が呼んでいるのかもしれない。彼は懸命に呼びかける。行くな、行ってはならない。だがわかっている。制する力よりも、振り切る力のほうが強いことが。結界は破られる。やがて人間と動物の境界で一匹の野犬が姿を現す。
 いつのまにか空が明るくなっていた。森が開けようとしているのだ。そのことに健太郎は安堵した。明るい場所は好ましい。すべてのものの形がはっきりして、曖昧なもののない場所は。光に照らし出された世界では、一つひとつのものに名前が付いている。名前に囲まれていれば安心だ。
「いま何時かの」武雄がたずねた。
 新吾はズボンのポケットから鎖の付いた懐中時計を取り出した。
「九時二十五分」
「まだそんな時間か」武雄は意外そうに言った。「もう昼近くかと思うたが」
「だいぶ歩いたけんの」新吾も合わせた。
「腹が減ったの」豊が言った。
 昼飯は新吾の兄が握り飯を持たせてくれている。固く握った大きなものが一人二個ずつなので、量としては充分だった。だが今日は、これから稜線を何キロも歩いて、まだ行ったことのない東の尾根を探索することになっている。
「飯の時間には早いの」と新吾は言った。
 それには豊も異を唱えなかった。歩き通して疲れてもいたので、誰からともなく手近な石の上などに腰を下ろした。健太郎はシャツの袖をまくって二の腕を見た。傷があった。木の枝か何かで引っ掻いたような傷だった。昨日、起きて顔を洗っているときに気づいた。水に触れると、傷はかすかに痛んだ。
 なぜ森に惹かれ、森を恐れるのだろう。何かが姿をあらわそうとしている予感に怯えるのだろう。吉右衛門爺さんに惹かれ、猟師に憧れている武雄はどうだろう。新吾や豊は? 彼らのなかにも森はあるのだろうか。普段は気がつかない心の奥底に、原始の森は広がっているのだろうか。
「吉右衛門爺さんに家族はおるんかの」豊がふと思いついたように言った。
「おらん」武雄は言下に答えた。「爺さんは独身じゃ」
「独身か」豊はちょっと複雑な表情になった。しばらくして、「深い山のなかに家族もおらずに暮らすのは、どんな気持ちかの」とひとりごとめいた口調でつないだ。
「爺さんに訊いてみるんだの」新吾が突き放した。
 四人はそれぞれ自分の思いのなかに入り込んで、何十年も山のなかで暮らす孤独な人物に気持ちを向けるようだった。
「九十歳や百歳の爺さんなら、昔は嫁さんがおったかもしれんな」豊が一応もっともらしく聞こえることを言った。「子どももおったかもしれん」
「吉右衛門爺さんの子どもか」新吾も釣られて想像をたくましくするようだった。
「爺さんはずっと一人で山におる」武雄はそれ以上の詮索はするなという口ぶりで言った。
「どうして知っとるのけ」豊が踏み込んだ。
「どうしてもじゃ」いつものように突っぱねた。
 それきり武雄は不機嫌そうに黙り込んだ。豊は憮然とした顔でそっぽを向いている。新吾もどこか気まずそうだった。健太郎には山の空気が少し薄くなったように感じられた。
「父ちゃんは若いころに猟をしよったのよ」やがて武雄は何事もなかったかのように言葉を繰り出した。「わしらが生まれるずっと前の話じゃ。そのころから吉右衛門爺さんは伝説の人やった。ときどき都会から何人もの猟師が来て、山を荒らすことがあったそうな。そういう連中を、爺さんは誰も足を踏み入れん山の奥のほうへ連れていった。獲物がたくさんおるとこへ案内してやると言うてな。都会の連中が帰ってこられんようなところに置いて、爺さん一人が帰ってきたそうな」
「死んだのけ、その人たちは」新吾が真顔でたずねた。
「わからん」武雄は素っ気なく答えた。「死んだかもしれんし、生きて山を出られたかもしれん。どっちにしても二度と姿を見せることはなかった」
「怖い爺さんだの」と新吾は言った。
「若い者が何人もやって来て、山奥の川で毒漁をはじめたこともあったらしい」武雄はまた別の話をはじめた。「たくさん獲って売るつもりやったのじゃろ。毒漁をやると、その川では長いこと漁ができんようになる。生まれたばかりの稚魚や、餌になる川虫まで死んでしまうけんの。そういう連中も爺さんが懲らしめた」
「どうやって懲らしめるんか」新吾がたずねた。
「おーい、おーいと呼ぶのよ」
「爺さんがか?」
「たぶん爺さんやろ。呪文を使うたのかもしれん。そのへんはようわからん。声がするほうを見ると、とても人が登れんような崖の上やったりする。若い者らが漁をつづけようとすると、またおーい、おーいと声がする。今度は違うほうからじゃ。何度も呼ばれて、あんまり呼ばれるものじゃけん、さすがに気味が悪うなって、連中は逃げるようにして山を出て行った」
「不思議な話だの」そう言いながら、新吾はなお半信半疑の様子だった。
「爺さんは山を守っておったのよ」武雄はどこか得意げに言った。「爺さんがおるおかげで、悪い猟師らが入らず、山は荒らされずにすむ」
「なるほどの」新吾は折り合うように頷いた。
 武雄は亡くなった自分の父親を、吉右衛門爺さんに重ねているのかもしれない、と健太郎は思った。彼の死んだ父親は、神とも人ともつかないものとして、いまも山の奥で生きている。そのことを、自分の目で確かめたいと思っているのかもしれない。
「そろそろ行くか」と武雄が言った。
 新吾はもう一度自分の懐中時計を見た。健太郎はまくっていたシャツの袖を手首まで下ろした。念入りに袖口をボタンで留めた。傷はやがて癒える。傷が消えれば、暗い森も、得体の知れないものたちも消える。彼は立ち上がった。明るい場所を歩いていこうと思った。日差しの下では、何もかもがくっきりと見える。物の形がはっきりして、奇妙なものが姿を現すことはない。木は木だし、草は草で、石は石だ。光のなかを歩いていれば大丈夫だ。
(イラスト RIN)