なお、この星の上に(23)

23
 眠りと目覚めの境界がはっきりしなかった。何度も目覚めては、すぐにまた眠りに落ちた。目覚めは眠りのようであり、眠りのなかにも覚醒があった。そんなことを繰り返しているうちに、自分がどこにいるのかわからなくなった。病院のベッドの上、暗い森のなか、幻の草原……いずれにもいて、どこにもいなかった。夜は長くもあり、あっという間に明けるみたいでもあった。
 声が聞こえた。見知った声もあり、見知らぬ声もあった。家族や見舞いの者、病院の医者や看護婦、入院している患者たち。何度か「健太郎」という声を聞いた。誰かが自分を呼んでいる。実際は、病室に入ってくる人たちが呼びかけていくのだろう。しかし健太郎には、どの声も清美の声に聞こえた。その声によって自分は赦されている。どんな罪を、なぜ赦されたのかわからなかった。ただ漠然とした解放感のなかに、拘束を解かれた自由の感触があった。
 微熱がつづいていたけれど痛みはなかった。痛みを感じる身体は失くしてしまった。傷は腹と胸に二箇所あり、いずれも急所を外れていた。あと数センチ逸れていれば危なかった、と危ない時期が過ぎてから医者に言われた。その傷も日を追って癒えていった。ベッドから下りて部屋のなかを歩きまわることができるようになった。あるとき部屋のなかが薄暗いのを訝しんで窓に近寄ってみると、病院の中庭に雨が落ちていた。
 その日は夜の消灯時間を過ぎてからも雨の音を聞いていた。雨音に意識が紛れるようにして、いつかの遠い草原を想っていた。青白い芒の草原だった。夾雑物もなく、孤独なまでに広々とした草原を、二頭の美しい馬が駆けていく。二つで一つのものだけが通れる道がある。何ものかが吹き込んだそんな観念をたどって道は遥かなところにあった。彼のなかにもあった。その道をどこまでも行きたかった。自分が一人であることの寄る辺なさを感じた。

 身体は軽快になっていった。日毎に足もなめらかに運べるようになっている。傷が癒えてというよりは、少しずつ筋肉がついてきているみたいだった。治療といっても傷口の消毒をするくらいだったが、化膿止めの注射は毎日打たれた。小さなガラスのアンプルにヤスリで傷を付け、指の爪で軽く叩くと、先の細くくびれた部分から小気味のいい音を立てて折れる。看護婦は注射針を突っ込み透明な薬剤を吸い上げる。一連の儀式めいた作業を眺めるのが健太郎は好きだったが、注射はとても痛かった。
 塞き止められていた時間が再び流れはじめていた。生と死のあわいの不思議な無拘束の状態が去ると、生きることの煩わしさが戻ってきた。数日間は生死の境目をさまようようであったらしい。本人は少しも知らなかったが、両親は一時、息子の死を覚悟しかけたという。もっとも綾子の言うことだから、いくらか誇張も入っているだろう。
 医者に言われたことを思い返した。数センチ逸れていたら危なかった。当たり所が悪ければ死んでいたかもしれない。そのことに冷静でいられる自分が不可解だった。遭遇しかけた死は、平凡で日常的なものに思えた。肉体が消滅することへの恐怖はほとんどなかった。事実としての死は恐ろしいものではなく、甘美な幻想のようにも思えた。
 母親は細々とした世話をするために長く病室にいた。父も毎日のように顔を出した。綾子は祖父母と一緒にときどきやって来た。見舞いにやって来る者が増えて病室は賑やかになった。日曜の午後には馴染みの顔が現れた。
「おまえは馬鹿だの」武雄は開口一番に言った。「山狩りをやっとるなかに入っていくとは、撃たれにいくようなものやが」
 どうやら自分の怪我はそういうことになっているらしい。健太郎は他人事みたいな気持ちで思った。それならそれでいいという気もした。
「傷はもうええのか」新吾がたずねた。
「だいぶええ」健太郎は答えた。
「顔色もええみたいやな」豊が大人びたことを言った。
 三人の顔が三様に、以前の印象とは違って見えた。どこがどうというわけではないが、自分と彼らとのあいだに小さな違和感のようなものが入り込んでいる。しばらく会わなかったせいなのか、病院のベッドに寝ていることによる変化なのかわからなかった。
「退院はいつごろになるんか」再び新吾がたずねた。
「あと一週間くらいと先生は言いよる」
「学校の勉強が遅れたな」豊が気がかりそうに言った。
 予定通り退院できたとしても、入院は一ヵ月近くに及ぶ。来春には高校入試が控えていることもあり、母親に家から勉強道具を一式持ってきてもらっていたが、あまり活用してはいなかった。教科書を読んでみたけれど、どの教科も頭に入らない。英語や古文・漢文の音読くらいなら、頭を使わずにできる。日課のようにしていると、看護婦に勉強熱心だと褒められた。
「進路はきまったんか」健太郎は豊にたずねた。
「高専に行くことにした」意外にさばさばした口調で答えた。「四月からは会えんな」
「休みの日に帰ってきたらええ」そう言いながら、健太郎は少し寂しい気持ちになった。
「寮に入るけんね。一年生のあいだは、めったに帰ることができんらしい」
 どうやらすっかり覚悟をきめているようだった。はじめて親元を離れ、集団生活をするのだから心細くないはずはない。新しい環境に一人で飛び込んでいこうとしている豊が、健太郎にはたくましく見えた。
「おまえ、背が伸びたんやないか」
「一週間や二週間で伸びるわけがないやろ」豊は曖昧に笑いながら答えた。
「もう三週間になる」
「伸びとらんよ」
「ときどき会いに行っちゃる」武雄が気遣うと、
「会わしてくれるかの」豊はどうでもよさそうに言った。「厳しい規則があるらしい」
「刑務所か軍隊みたいじゃの」と新吾が言った。
「高専の英語は難しいそうなで」まだ合格したわけでもないのに、豊の頭のなかでは卒業後の高校生活に向けた準備がはじまっているらしかった。「英語の授業に力を入れとるのよ。新しい技術を身につけるのに必要やけん」
 健太郎は昭の父親のことを考えていた。新しい技術を身につけるためにアメリカやイギリスに留学した。そして鉱物から電気を取り出すという技術を持ち帰った。もちろん善かれ思って自分の仕事をしているのだろう。この国の人たちが二度と戦争に巻き込まれることがないよう、自国の資源で電気をつくる研究をしている。昭の父親のように善良で頭のいい人たちが、国や人々の将来のことを考えて働いている。だが、そのことが自然や暮らしの秩序を損なってもいる。山は荒れ、野犬が牛や人を襲うようになった。村では火付けが相次ぎ、ついでに自分は怪我をして入院することになった。
「どうかしたんか」黙り込んだ健太郎に新吾がたずねた。
 健太郎は「なんでもない」というように首を振った。
「おまえはどうするんか」その新吾にたずねると、
「高校へ行くことにした」あっさり答えた。「受かるかどうかわからんが」
 入学試験の前に調整が行われるので、受験した者のほとんどは合格する。とりあえず新吾とは、同じ高校に通うことになりそうだった。
「武雄はやっぱり猟師になるんか」三人の進路を一通りたずねることになった。
「猟は趣味でやる」武雄はきっぱりと答えた。「中学を卒業したら大工の見習いになる」
「衛兄が知り合いの棟梁を紹介してやるらしい」新吾が説明した。
「大工仕事はもともと好きやけん」武雄は得意げに言った。
「実際に作ったことがあるのはゴム管ぐらいやろう」豊が口を挟むと、
「似たようなもんよ」軽くあしらった。
 武雄が見習いで働くという大工の親方は、村からは少し遠方になる町で組を持っているらしい。
「住み込みで働くんか」健太郎がたずねると、
「朝は早うから現場に行くけんな」武雄はすでに一端の大工のように答えた。
「みんなそれぞれになっていくな」健太郎はひとりごとのように言った。
 話が途切れると雨音が聞こえてきた。健太郎はベッドの上から顔を窓のほうへ向けた。他の三人は誰からともなく薄暗い窓辺に集まった。入院しているあいだに季節は秋から冬に移ろっている。あと何日かしたら、この雨も雪に変わるだろう。
「日照りつづきで雨乞いまで出しよったのが嘘みたいだの」新吾がひとりごとみたいに言った。

 あのとき自分は何を撃ったのだろう、と何度も自問してみた。そのたびに父の恐怖が生々しく甦ってくる。父自身が感じている恐怖というよりも、野犬に襲われている父を目の当たりにしていることの慄きと言ったほうがよかった。咄嗟のことだった。地面に転がった銃を拾い上げ、無我夢中で引き金を絞った。銃は野犬に向けて放った。その弾が撃った当人を貫いた。いかにも不条理なことだが、そのようにしか思えなかった。
 常識的に考えれば、野犬に向かって誰かが放った弾が誤って当たったことになるだろう。誰が撃ったのかは詮議されなかった。事を荒立てないためにも、流れ弾ということで処理されていた。武雄も言うように、山狩りの場に足を踏み入れた者が悪いのだ。弁解するつもりはなかった。父は息子の越度を認めた上で、健太郎の行動をそれとなく擁護してくれていた。野犬に不意を襲われた父親を助けようとしてのことだった。なぜあの場にいたのかについて殊更にはたずねなかった。事は曖昧に、穏便に済まされようとしていた。
 ほとんど毎日見舞いにやって来る父は、自分と話をしたがっているように健太郎には思えた。しかし病室にはたいてい母親がいたし、看護婦も頻繁に出入りするので、なかなか二人きりになる機会がない。その日は消灯時間が近くになってやって来た。寄り合いの帰りだという。すでに母親は家に戻っている。
 父は手持ち無沙汰な様子で、見舞いの者のために用意されている椅子に腰を下ろし、世間話のようなことを間遠に話していた。前にもこんなことがあった気がした。というより父と自分のあいだは、いつもこういう感じではなかったか。
「若いころに村でも評判の鼻つまみ者がおってな」出がらしの茶を何杯か飲み干してから父は前置きもなしに言った。「悪いやつで、女の人に悪さをしたり、人の金を盗んだり、手がつけられなんだ。好き勝手に生きとる男に、法律もなんもあったものやない。戦争にも行かなんだ。徴兵されそうになると、山に隠れて逃げてしまう。結局、戦争が終わるまで逃げまわっておった。ろくでもない男やったが、おかげで人を殺さずに済んだ」
 健太郎は相槌も打たずに、ベッドに寝たままぼんやり天井を見上げていた。父は横顔しか見えないはずの息子を見た。
「戦争いうのは、だいたいが殺すか殺されるかだ」それまでと変わらぬ調子で遠慮のない話をはじめた。「どっちもいやとは言えん。どっちかしかない。そういうことが戦争ではしばしば起こる。殺すか殺されるか。最初から戦争へ行かんのがいちばんええのやが、これがなかなか難しい。ええとか悪いとかいう前に思いつきもせん。戦争へは行くもんと誰もが思うとる。小さいときから戦争へ行って死ぬことだけを考えて来とる。それが当たり前で、大人も子どもも同じ一つの考え方しかできんようになっとる。おかげで若い者はみんな戦争へ行った。行かんかったのは、悪さばかりしよった鼻つまみ者だけだ」
 どうやら話は本題に入っているらしかった。
「今度みたいに野犬が農家の牛を襲う」父はつづけた。「すると野犬を撃つしかないということになる。みんながそう思う。撃たれる犬がかわいそうじゃと言うて反対する者はおらん。犬を撃ち殺せば解決するとは誰も思うとらん。この前の戦争のときもそうやった。戦争でなんもかも片付くとは誰も思わん。それでも戦争しかないとみんなが考えた。戦争以外にないと国中が思うとるときに、一人だけ違う考えをもつのは難しい。本当は一人ひとり違うように考えるのがええのやが」
 父はまた戦争のことを思い出しているみたいだった。やがて話のつづきに戻るようにして言った。
「敵の爆撃を受けて仲間の兵隊が重傷を負ったことがある。腹が引き裂かれて腸が地面に垂れとる。一目見て助からんことはわかった。軍医がおるところまで運ぶうちに死んでしまうやろう。そうなれば無用な苦しみを与えることになる。このままにしておけば兵隊は自分が死んでいくのも知らずに死ぬことができる。身方の陣地へ運ぶべきか、静かに死なせてやるべきか。難しいことが戦争にはたくさんあったよ」
 父は言葉をおいて押し黙った。自分で見たわけでもないことが見える気がする。聞いたこともない声が聞こえる気がする。健太郎は父が自分に届きはじめているのを感じた。
「こうしたことは、まだ話せるだけええのかもしれんな」しばらくして言った。「本当に恐ろしいことは、なかなか口にできん。戦争では人に話せんようなことがたくさんある。家族にも話せんことを、戦争へ行った者らはみんな抱えとる。戦争のことを話しよる人らは、話せることだけを話しよるのやろう。自分のことを考えると、そんなふうに思える。どうしても話せんこと、言葉にできんことがたくさんあるのでな」
 そのことなら自分も知っている、と健太郎は思った。言葉にならないことを、誰にも話せないことを、自分も父も持ち歩いている。胸の奥にひっそりと抱えている。
「町で暮らそう思うたことはないのかと、前にたずねたことがあったな」古い文言を持ち出すように父は言った。「どうして辺鄙な山のなかの村でなど暮らしておるのか。そう思うのはもっともなことやろう。これからの若い者はどんどん都会に出て行くようにもなる。時代の流れからすると、どうしてもそうなる」
 父は遠くに目を細める仕草をした。それから昔話でもするような口ぶりで、
「古い村でな」と話を継いだ。「江戸時代よりもっと昔に遡るということは、戦国時代いうことになるかの。そのころから、ご先祖さんは村に住み着きなさった。以来、村の暮らしは途絶えることなくつづいてきた。それはなぜかといえば、やっぱり暮らしやすかったからやないかの。不便なことはたくさんあった。田畑を拓くのは大変やったに違いない。怪我人や病人が出ても医者はおらん。子どもらを通わせる学校もない。だが住んどる者からすると、山に入れば薪でも山菜でもなんでもある。鉄砲が撃てれば獣も捕れる。鉄砲がなければ、源さんみたいに川に入って魚を捕まえることもできる」
 聞いているほうは夢遊の心地に引き込まれかけている。すると父はいくらか唐突な感じで、
「わしらのご先祖さんは、さっき話した鼻つまみ者みたいな人らやったのかもしれんの」と意外な推測を口にした。「戦争がいやで逃げまわっとったような人らが、山の奥に身を潜めるようにして村を築いた。殺すのも殺されるのもいや、殺すほうにも殺されるほうにも身を置きたくないと思うた人たちやったのかもしれん。あの村で長く暮らしておると、そんな気がしてくる」
 さりげなく顔を向けると、父は淡い光を湛えた目で、カーテンの引かれていない暗い窓の外を見ている。誰にも話していないことがあった。これからも話すことはないだろう。気安く口にできることではない。伝えることの徒労感と、話を受け取る人たちの反応を思うと、口を開く前から気持ちが萎えてくる。際どい話には違いなかった。正気を疑われるかもしれない。いずれにしてもまともにはされないだろう。
 あのとき目の前に現れた野犬をアツシだと思った。アツシが撃たれると思った。父が撃とうとしているのはアツシだ。自分よりも近しいものだ。自分と一つのものが撃たれる。そう思ったとき、すでに野犬は父に喰らいついていた。その野犬もやはりアツシだった。あの状況では、父に喰らいついた野犬を撃たずにいることはできなかった。銃口を向け、引き金を絞った。
 そこまで記憶をたどり直したとき、心のなかが波立っていた。心臓の鼓動が速くなり、息苦しい感じに襲われそうになる。あのとき自分はアツシで、アツシは自分だった。なぜそうなのかは、うまく説明できない。互いが相手に属していると感じられる世界がある。二つで一つのものだけが通れる道がある。その道を通って、野犬に向かって放ったはずの弾は、撃った本人の身体を貫いた。
 余人には通じるはずのない理屈だった。だが当人は行き惑う感じにはならなかった。父もやはりそうなのだろう。誰にも話せないことがある。言葉にできないことがある。そのことで自分たちはつながっている。父と自分はつながっている、と健太郎は思った。
「これからは若い者の時代になる」やがて切り上げるように父は言った。「どんなふうに生きればええのか、正直なところわしにはようわからん。このままの暮しをつづけることができれば、それがいちばんええのやろうが、この国の変わりようを見ておると無理な気がする。若い世代の者らが順々に村を出ていくようになれば、いずれ村は年寄りばかりになって衰えていく。何百年もつづいてきた村の暮らしは途切れることになるかもしれん。それは仕方のないことなのやろう」

 その日、清美は花を持ってやって来た。クラスメートが少しずつ金を出し合って買ったものだという。何人かで来るつもりだったが、病院の様子がわからないので、とりあえず一人で来た、というようなことをたどたどしく説明した。
「元気そうなんで安心した」最後に言った。
「病気をしたわけやないけん」健太郎はつっけんどんに答えた。
 これまで何人もからたずねられたことを、清美もやはりたずねた。なぜあの場にいたのか。いてはならないときに、いてはならない場所に。父親のことが心配だった。事の成り行きを見届けたかった。なんとでも説明はできたが、どのように説明しても空々しい気がした。まわりの大人たちの受け取り方は様々だった。多くは好意的に解釈してくれた。無難なところへ収めてくれた。健太郎のほうは相手が思いなすままになっている。何を言われても反論はしなかった。不服も唱えなかった。
「なんがおかしいん?」
 いつのまにか笑っていたらしい。
「夢を見とった」正直に打ち明けた。「意識が戻らんあいだ、ずっと夢を見とった」
「どんな夢か」清美の興味が動いようだった。
「シカの好物はなんか知っとるか」たずねると、
「なんの話やの」ちょっと警戒する口ぶりになった。
「夢の話じゃよ」
「シカと関係があるんか」
 健太郎は黙って頷いた。
「なんでも食べるんやないのか」清美は不承不承の口ぶりで答えた。「シカはいやしんぼやけん。小さいときに親からよう言われたよ、シカみたいに好き嫌いをせずに食べなさい」
「わしも言われた」健太郎は相手の言葉に寄り添った。「シカは草でも木の葉でもなんでも食べる。とくに好物は若い芽や花で、柔らかいもんが好きなのよ。栄養もある。そういうものをたくさん食べて、シカは幸せになる」
「なんの話かね」清美の声がいくらか険しくなった。
「夢のなかで、わしはシカやった」
 清美は訝しげに健太郎を見た。話の素性を確かめようとしているみたいだった。その明るく澄んだ目はシカに似ていると思った。
「わしは自慢の角を打ち振りながら、どんどん歩いて行った」話をつづけた。「ときどき柔らかい木の葉や、香りのええ草を食べながら歩いて行った。角の枝のあいだを風が吹き抜けるときにヒューヒューと音がして、それを見たドングリの子どもらは喜んだ。シカのわしはきれいな声で鳴くことができた。声は遠くまで届いた。声に引き寄せられて、たくさんの雌が寄ってきた。わしは女に好かれる男のシカやった」
「おかしな夢を見るもんやね」清美は呆れたように言った。「鉄砲で撃たれて寝とるもんが」
「別嬪のシカがおってな」健太郎はかまわずにつづけた。「シカはわしのことをやさしい目でじっと見とった。真っ黒い目に、頭に堅い角の生えた立派な牡のシカが映っとる。それが自分だと思うと、なんやら角のあいだがこそばゆい気がしてきて、わしはそいつのことが好きになった。シカの目を見たことがあるか」
 清美はあるともないとも答えなかった。
「きれいな丸い茶色の目じゃよ。その目にわしが映っとる。立派な角をもつ男のシカで、森の王様みたいに堂々としとる。わしは誇らしい気持ちになった。シカの目に映った自分を、いつまでもじっと見つめとった」
 健太郎は言葉をおいて清美を見た。彼女も眼差しを逸らさなかった。二人はしばらく言葉もなく見つめ合った。
「馬鹿な夢やね」清美はうつむいてひとりごとみたいに呟いた。
「世界の果てまで行ってきたのよ。世界の果てには、二つのものが一つになる場所があってな。あのとき鉄砲を向けられた一匹の犬が自分に思えた。自分と一つのものが撃たれると思うた。なせそんなことを思うたのか、うまいこと説明はできん。とにかくそういうことで、撃った者が撃たれとった。それが世界の果てで起こったことで、帰ってきたらおまえがおった。清美とわしがおった。二つで一つのものが、わしとおまえになっとった。鉄砲の弾が当たったときは一人やったのに、いまここにおる自分を一人とは感じん。なせやろうな」
 問いかけられたほうは途方にくれた顔で問いかけた相手を見た。しばらく難しい顔をして考え込んでいたが、
「健太郎の言うことはちいともわからん」投げ出すように言った。
 伝わっている、と彼は思った。何かが通い合っている。言葉にできないものが。この世界でいちばん善いものが。
「雪になりそうやね」
 いつのまにか清美は窓辺に立っている。健太郎もベッドから降りて並んで立った。外では冷たい雨が降りつづいていた。暗い窓カラスに清美の顔が映っていた。その顔が振り向いた。
「春になったら海を見にいかん。うち、まだ海を見たことがない」
 軽やかで休むことのない生き生きとしたものを感じた。それは部屋を満たし、溢れ出し、空を移ろう雲と、暖かい日差しと、草の上を吹き渡っていく風と一つになって世界の果てまで広がっていく。
「連れて行ってくれるか」
 再び眼差しが重なった。清美の瞳に自分が映っている。すべてがここにある。楽しいことも悲しいことも、何もかもが息の通い合う距離と、重ね合わせた眼差しのなかにある。すべてがあり、何も欠けていない。いまここで生まれているのだ。春が待ち遠しい、と健太郎は思った。(イラスト RIN)