なお、この星の上に(22)

 勾配のきつい山道を登りきると地形が開けた。あたりはなだらかな高台になっている。畑で里芋が葉を茂らせていた。茎の長さは四人の背丈よりもずっと高く、折り重なるようにして繁る葉は、一枚一枚が豊が持ち歩いている蝙蝠傘ほどもあった。畑の土は乾いている。ここも長く雨が降っていたいのだ、と健太郎は思った。村では雨の降らないことが話題になりはじめていた。
 里芋畑を抜けたところに、見るからに貧相な家が建っていた。瓦のなくなった屋根は大きく波打つように歪み、折れた雨樋の先が地面に垂れている。土壁はところどころ剥がれ落ちて、下の竹組みまで見えているところもある。玄関の柱が傾いているためか、表戸は完全に閉まりきらず、端のほうは数十センチほど開いたままになっている。少し離れたところにも、同じような農家が何軒か点在している。どの家も傷みが激しく、なかには柱が屋根の重みを支えきれずに、軒が地面のあたりまで下がっているものもある。こんなところに泊まるのは気が進まない、と健太郎は思った。そばにいる豊も浮かない顔をしている。
「猪がおるぞ」と武雄が言った。
 裏手の竹の囲いのなかに子どもの猪がいた。囲いの広さは三メートル四方ほどで、隅には手造りの木の小屋が置いてある。
「新吾の兄ちゃんが飼いよるんか」武雄はいかにも興味ありげだった。「罠を仕掛けて捕まえるんかの」
「あとで訊いてみたらええ」と新吾は言った。
「いまは留守か」豊がたずねた。
「そうみたいだの」
 新吾が家のなかに入っていたので、三人もあとにつづいて入った。さすがに人が住んでいるだけあって、外見よりも家のなかは整っていた。玄関から上がると、まず三畳ほどの板の間があり、その奥が八畳の座敷になっている。他にも幾つか部屋がありそうだった。手近なところに誰からともなく腰を下ろした。健太郎は奥の座敷の襖の陰に身体を横たえた。一日歩き通しで疲れていた。
 隣の部屋から三人の話し声が聞こえている。どうやら好きな食べ物を言い合っているらしい。コロッケ、カレーライス、チャンポン、チキンライス……。いまは話に加わるのも億劫だった。豊がデパートの食堂で食べるざるそばの話をしている。薬味にうずらの卵が付いているのが美味いのだ、などと言っている。そんな声を遠くに聞きながら、自分は無意識に三人と距離を置きたがっているのかもしれない、と健太郎は思った。その理由を考えることさえ、いまは煩わしかった。目をつぶると、すぐに眠気がやって来た。
 目が覚めたときも話し声はつづいていた。なかに聞き慣れない声が混じっている。板の間で新吾と次兄が立ち話をしていた。相手はちょっと迷惑そうな口ぶりだった。新吾の後ろに武雄と豊が立って、三人が次兄と対峙するかたちになっている。あとから顔を出した健太郎の姿を見ると、次兄は小さくため息をついた。
「とにかく飯を炊かんといかんな」切り上げるように言って、奥の台所のほうへ歩いていった。
「来ることを言うてなかったんか」武雄が小声で新吾にたずねた。
「言うてない」
「ええのか」
「大丈夫じゃ」新吾は気にもしない様子で答えた。「米はたくさんある」
「布団はどうかの」豊かが心配そうに言葉を向けると、
「夏だけん、布団はいらん」新吾は突き放すように言った。
 夕飯は白米に味噌汁の他には漬物だけという粗末なものだったが、四人とも腹が減っていたのでガツガツと食べた。人嫌いと聞いていたわりには、新吾の次兄はよく喋った。饒舌と言ってもいいほどだった。酒が入っていたせいもあるのかもしれない。朝は五時に起きて飯をつくり、七時ごろに家を出て田畑の仕事をする。昼には戻って朝の残りで飯を喰い、再び夕方まで働く。簡単に夕飯をつくって焼酎を飲むと、九時ごろには寝てしまう。何も考えない。何も残らない。雑念の入り込む余地がない。
「差し引きゼロいうのが、いちばんええのだ」次兄はちょっと酒がまわった口調で言った。「マイナスはようないが、プラスも煩わしい。何かが残ったり増えたりするのは、わしには向いとらん。ゼロがいちばんええよ」
「家には帰ってこんのか」新吾がいくらか気がかりな声でたずねた。
「帰らん」言下に答えた。
「衛兄が帰らんのなら、わしが田んぼをやろうかの」
「好きにしたらええ」次兄は素っ気なく言った。「しかし勇兄と嫁さんがおるけん、あんまり面白いことにはならんぞ。子どもも生まれるやろうし」
 新吾はしばらく考え込んだ。
「ここで衛兄と農業をしようかの」気をもたすように言葉をつなぐと、
「やめとけ」再び即座に言った。
「なせか」
「農業はつまらん」
「なせつまらんのか」新吾は喰い下がった。
「なせでも、つまらんもんはつまらん」と次兄は言った。
 新吾は不服そうに黙り込んだ。飯を食べてしまった三人は、空になった茶碗を眺めたりして居心地が悪そうにしている。
「わしとていつまでもここにはおらんぞ」次兄が少し口調をやわらげて言った。
「どこかへ行くんか」
「ブラジルじゃ」と次兄は言った。「政府が移住する者を募集しよる。わしも応募してみるつもりでおる。その前にブルドーザーの運転を習う。アマゾンの密林を切り拓いて農地をつくるんじゃ。重機くらい扱えんと話にならん。いろいろと調べとるところよ。金も少しは蓄えとる。ブルドーザーの運転を身につけたらブラジルへ行く」
「ブラジルへ行ったら、もう帰ってこんのか」新吾は目を合わさずにたずねた。
「帰るとしても、五年に一回ほどかの」次兄は妙に明るい声で言った。「ブラジルは遠いけん。遊びに来たらええ」
「遠いやろ、ブラジルは」新吾は兄の言葉をそのまま返した。
「飛行機に乗ったらすぐじゃ」兄は上機嫌に、「みんな遊びに来いよ」と言った。
「行きたいの」そう答えたのは豊だった。
「豊はブラジルへ行きたいんか」武雄が意外そうにたずねた。
「ここ以外ならどこでもええ」と豊は言った。
「高専へも行きとうない言うとったのに」健太郎が言葉を向けると、
「高専へ行くぐらいなら、わしはブラジルへ行く」豊は頑なだった。
「ヘンな理屈だの」と武雄が切り上げた。
 それからも次兄は焼酎を飲みつづけ、酒の勢いで身の上話みたいなことを話しはじめた。次兄が言うには、もともと口数が少ないのは長兄のほうであるらしかった。この兄は、結核で入院している父親に似ている。芸術家肌で、水彩画などが上手かった。小学生のころから絵を描いては、何度も展覧会に入選していた。中学に行ってからも美術の時間に風景画などを描くと、たいてい賞をもらった。本当は東京の美術学校へ行きたかったらしい。しかし農家を継がなくてはならないので諦めた。この兄が次兄に向かって、「おまえは自由にできるのに、なんで何もしないのか」と口癖のように言う。次兄のほうは、何もしたくなかった。
「誰も好きで生まれてきたわけやない」と彼は言った。「生まれてきたから生きとるだけで、好きで生きとるのやない。そんなことを言うわしを、勇兄は変わり者のように見る。もったいないの、と顔を合わせるたびに言うようになって、わしは勇兄のことがだんだん苦手になっていった。勇兄は中学しか出ておらんが、わしは高校まで行かしてもろうた。それを途中で止めて戻ってきたものやけん、余計に気に入らんのよ。そんなに行きたいんなら、自分が行けばええ」
 四人は雑魚寝のようにして広い八畳間に休んだ。さすがに疲れていたとみえて、ほどなく寝息が立った。健太郎は頭が冴えて、なかなか寝つけなかった。新吾の家のことを考えた。彼の父親は結核で、もう何年も町の病院に入っている。田畑のことは主に長兄が世話をしている。二人の兄は折り合いがよくないらしい。次兄はブラジルへ移住すると言っている。三男の新吾も自分が落ち着く場所を探している。
 わしもやはり居場所を探している、と健太郎は思った。できることなら、その居場所を清美と二人でつくりたかった。見知らぬ家の暗がりで、彼ははっきりとかたちにしてそう思った。草の上に横たわる清美の顔を思い浮かべた。目を閉じた顔に当たっている光は、彼女の内部より現れ、表面に解き放たれているように見えた。その光は自分のなかにもある。同じ光を、自分たちは分かち持っている。分かち持った光で、それぞれの生命を照らして生きている。
「いかん。こんなことを考えとったら、余計に眠れんなってしまう」
 清美のことを頭から締め出すと、新吾の次兄の話が甦ってきた。話の断片がぐるぐると頭のなかをまわった。充分な金を稼ぎ、人から遠ざかりたい、と次兄は言った。自分は人を好きになったことがない。いつも人の最悪な部分が見える。新吾の兄貴と自分は違う、と健太郎は思った。人を好きになろうとしている。一人の人のなかに善いもの、美しいものを見ようとしている。その人のなかには、まだ見たことのない風景が包み隠されている。その風景のなかに、彼は入っていきたいと思った。
(イラスト RIN)