なお、この星の上に(21)

21
 山狩りの計画は綿密に立てられた。どの区域を狩るか。そこに本当に野犬が潜伏しているのか。何人かの猟師たちが山に入り、野犬たちの残した痕跡を調べることになった。足跡や糞、野犬たちが襲ったと思われる動物の死骸、さらには近隣の村々の被害状況などから、おおよその行動範囲が割り出された。燃料公社の人間や鉱山で働く人夫たちも交えて、何度か打ち合わせのための会合がもたれた。会合には野犬の習性に詳しい専門家たちも参加しているということだった。
 大掛かりなものになりそうだった。これほどの山狩りが行われたことはかつてなかった。大勢の男たちが集められた。ほとんどは近隣の男たちだが、都会からやって来たハンターたちも混じっている。方法はイノシシ猟のときと同じだった。数名の猟師が犬を連れて山に入る。彼らは勢子として野犬たちを追い立てる。現れた犬を下で待ち構えた猟師たちが仕留めるという寸法だ。
 通常のイノシシ猟は獲物が潜んでいそうな山を一つに絞り込み、それを取り囲むようにして行われる。参加するのは十数名の男たちと七、八頭の犬である。今回は幾つかの山を同時に攻めるため、集められた猟師たちは百人近くにのぼり、猟犬の数もそれに応じたものになっていた。山ごとに狩り組が編成され、リーダーが置かれた。それぞれの集合場所に猟師たちが集まったところで、狩りは一斉にはじめられることになっている。互いに連絡が取り合えるよう、リーダーたちは無線機を持たされていた。
 日曜日だったので、健太郎も父と一緒に様子を見に行くことにした。焚き火がたかれている集合場所には、すでに十人ほどの男たちが集まっていた。それぞれが単発や二連式の銃を持っている。大半は仕事着に地下足袋、脚絆に軍手という出で立ちだ。リュックのなかには弁当や鉈などが入っている。
 父が編入された狩り組には、仁多さんや岩男さんのほか、何人かの見知った顔があった。
「あんな派手な格好をしとっては、獲物はみんな逃げてしまう」都会からやって来たらしいハンターの服装を見て、岩男さんが苦々しく言った。
 参加した者には日当が出ることになっている。さらに一頭仕留めるごとに報奨金が出るらしい。源さんは参加していなかった。源さんに鉄砲は似合わない、と健太郎は思った。意外だったのは新吾の次兄が加わっていることだった。簡単に挨拶をすると、
「武雄が一緒に行くと言うて大変やった」次兄はいかにも困惑した声で打ち明けた。
「ずっとおるんですか」
「居着いてしもうてな。こっちも追い出すわけにはいかんし、いまでは自分の家みたいにして暮らしとる。まあ、いろんなことを手伝うてくれるけん、助かってもおるのやが」
 男たちの話していることが、健太郎の耳にも入ってきた。道すがら仕入れた情報を交換し合っているらしい。今日は山が静かだ、と誰かが言っていた。まるで山が死んでしまったようだ。耳を澄ましてみても、動いているものの気配がない。
「これは不吉やぞ。前にもこんなことがあった。中津川の五郎が流れ弾に当たったのも、やっぱりこんな日やった。みんな山が静かじゃと言い合いよった」
「あんときは熊と間違えられて撃たれたんやなかったかの」
「そんなことやったろう」
「なんが不吉なもんか」別の者が滅相もないという口ぶりで打ち消した。「風が通り過ぎて、お山の向こうへ走り去ったのよ。そういうときには山は静まるもんだ」
「そうかの」
「他になんかあるんか」
「口ではうまいこと言えん」
 健太郎の父は仁多さんや岩男さんと少し離れた場所で煙草を吸っていた。
「山の事故で誰かが怪我をしたり死んだりすれば、お山は静かなと感じられるもんよ」仁多さんが男たちの話していることにからめて言った。「それはお山が静かなんやのうて、わしらの気持ちのほうが静かになっとる」
 思い当たるところがあるのか、三人はしばらく黙って煙草を吸っていた。
「わしらの犬がうまい具合に野犬を追うてくれるかの」岩男さんが気がかりを口にした。「なんぼ野犬いうても犬には違いない。犬同士で言ってみりゃ身内みたいなもんじゃろう」
「両方が一緒に出てきたとき間違わんように野犬のほうを撃てるか、あんまり自信がないの」健太郎の父が引き取った。
「散弾ではどっちに当たるかわからんしな」岩男さんは自分が持っている銃に目をやった。
「かといってライフルですばしこい犬を撃つのも難しい」父がつなぐと、
「まあ、そのときはそのときよな」仁多さんが鷹揚に収めた。
 猟師たちが揃い、出発の時間が近づいていた。リーダーの男が無線で連絡をとっている。集まった男たちも、いまは口数が少なく、いくらか緊張している様子だった。その緊張が健太郎にも伝わってくる。にわかに軍隊が招集されたみたいだった。彼らは隊列を整えて出撃を待っている。戦がはじまるのだ。誰もが残忍なような、それでいて少し怯えた目をしている。出発の時間になった。流れ弾に当たったりして危険なので、ここから先は狩りの関係者以外は立ち入れないことになっている。
「じゃあ行ってくる」
 父は言葉を残して歩きはじめた。その後ろ姿を見送るかたちになった。十数人の男たちが鉄砲を担いで歩いていく。数日前に目にした光景が甦ってきた。隊列をなした兵士たちが草原を歩いていく。肩に鉄砲を担ぎ、鉄帽をかぶりゲートルを巻き、誰もが無言のまま歩いていく。「雲が平」とアツシは言った。あるともないとも知れない幻の草原が、いま男たちが向かっている先に広がっている気がした。平和で静かな死者たちの領地に、銃を担いだ男たちが足を踏み入れようとしている。

 家に帰る道すがら、健太郎は猟銃の手入れをする父の姿を思い起こしていた。そばに息子がいることも忘れたかのように、自分だけの思いに入り込んでいた。何気なく銃を構える仕種があまりにも自然で、そのことにかえって違和感をおぼえた。額の下には照準具を見つめる暗い目があった。どこか冷酷にも見える眼差しは、そのまま戦地に赴いた過去につながっていきそうだった。実際、あのとき父は自分のまわりに戦場をつくり出していたのかもしれない。
 いまさらながら健太郎は父を問い詰めたくなった。あなたは戦争で何をしてきたのか。川を渡ろうとして氷に閉じ込められた馬の話などしていたが、本当はどうだったのか。血も凍るような体験をしたのではないか。黒くてドロドロした過去が眠っているのではないか。父の過去は自分の過去でもある。父の過去が自分のなかに同居している。一つの身体のなかに共存できないもの、共存してはならないものが居座っている。それが野犬に姿を変えて暗い森から出てくる。いかにもおかしな理屈だったが、どんな不合理なことも、いまは呑み込めそうな気がした。
 ほとんどためらいもなしに、途中まで下った道を引き返しはじめていた。見咎められないよう、本道を外れた枝道を行くことにした。山の空気は乾いている。道に降り積もった落ち葉は軽く、靴の先で蹴ると蝶のように舞い上がる。小鳥の啼き声が聞こえた。思いがけず安堵をおぼえたのは、男たちが話していたことが気にかかっていたからせいかもしれない。山が静かな日には不吉なことが起こる。いまのところ山は静まり返ってはいないようだ。
 熊と間違えられて撃たれた男のことは、健太郎も聞いたことがあった。村の子どもたちは小さいころから、一つの教訓としてそういった話を聞かされて育つ。猟期に山に入ってはならない、黒や茶色の服を着てうろついてはならない、静かに足音を潜めて歩くのも禁物だ。また別の話もあった。測量技師が山に入ったまま奇病に取り憑かれて動けなくなった。仲間とともに元気よく出かけたのが、午後には脂汗をかいて「痛い、痛い」と泣き喚くばかりだった。下山して病院に運ばれ、そのまま息を引き取った。当初はマムシに噛まれたのではないかと思われたが、それらしい傷は見当たらない。きっと強い毒をもつ植物か茸でも食べたのだろう。これも子どもたちへの教訓として伝えられた。知らない植物を無闇に口に入れてはならない。とくに茸類は絶対に食べてはならない。測量技師が死んだ日も山は静かだったのだろうか、と健太郎は思った。
 舶来品の石鹸みたいな匂いが漂ってきてきた。いつのまにか雑木林は植林された針葉樹の森に変わっている。空気は爽やかさを通り越して冷たかった。どこかに雪の気配がする。山の上のほうでは、すでに冬がはじまっているのかもしれない。自分が山の一部になった気がした。気流のようなものが血管のなかを流れている。大きな生命の実感が満ちてきて、自分という存在が山全体に広がっていく気がする。
 風のない静かな朝だった。木立のあいだから差す秋の陽が、降り積もった落ち葉の上に暖かそうな光を集めている。時間が止まったように感じられた。いつか祖父に連れられて、キジ撃ちに行ったときのことがある。やはりこのくらいの適度に秋が深まった時期で、健太郎はまだ小学校の低学年だった。浅い谷間を隔てた山の斜面から、「ケーン」という独特の鳴き声が聞こえてきた。伐採されたまま植林が済んでいない山肌は一面が芒に覆われ、ところどころに低い灌木の茂みが見えていた。
 いかにもキジが潜んでいそうな場所だ、と祖父は言った。キジはたいてい枯れ草や灌木のなかに隠れている。向こうが物音でも立ててくれないかぎり、人間の目で見つけることは難しい。そこで犬の出番となる。昔は笛を使っておびき出したというが、戦後はもっぱら犬が頼りだった。祖父が飼っていたのは中型の紀州犬で、この犬にキジの匂いを追わせるのだった。獲物を見つけた犬は、しっぽを立ててポイントを睨んでいる。そのあいだに人間のほうは銃に弾をこめて狙いを定める。準備ができたところで合図をすると、犬は獲物に向かってタックルをかける。キジが飛び立ったところを散弾で撃つ、という段取りだった。
 実際に獲物が取れたのかどうかはおぼえていない。おそらく祖父は何度か銃を撃ったはずだが、弾が放たれるところも獲物がどうなったのかも、健太郎のなかでは記憶をとどめていなかった。キジが撃たれる光景は大きな銃声とともに子どもに恐怖心を与え、幼い記憶は無意識のうちにそれらを消してしまったのかもしれない。戦争で孤児になった子どもたちのなかには、すっかり記憶をなくしている者がいるという。あまりにも大きな恐怖や悲しみは記憶として残らないのかもしれない。そうやって本能的に身を守っているのだろう。
 不意に足元の枯れ枝を踏み折る音が異様に大きく響いた。その音に驚いて足を止めると、森は不思議な静けさに包まれていた。耳を澄ましても何も聞こえない。鳥の羽音も、枝の擦れ合う音もしない。近くに沢でもあるのか、サラサラと水の流れる音だけが聞こえてくる。たしかに今日は山が静かだ、と彼は思った。死んだように静かだった。不吉なことが起こりかけているのかもしれない。怖れとともに、半分は待ち構えるような気持ちがあった。
 木立の先に腰をかがめている男の姿が目に入った。父だった。このあたりでは伐採した材木や薪を運ぶのに、いまでも木橇が使われることがある。橇の滑りを良くするため、地面に丸太などを埋め込んだ道が山のあちこちに敷かれている。父が待機しているのは、そうした道の傍らだった。行く手を阻まれる格好で、健太郎は足を止めた。これ以上進んでは気づかれてしまう。ここで野犬が現れるのを待つつもりなのだろう。近くにも別の射手が待機しているはずだが、いまのところ確認できるのは父一人だった。
 とりあえず向こうからは見えない木の陰に腰を下ろした。何時ごろだろう。すでに太陽は高くなっている。山では時間の経過がわからなくなる。里とは時間の流れ方が異なっているのかもしれない。同じ速度で均質に流れるのではなく、止まっていた時間が、何かの拍子に一塊に経過する。山は人の感覚を欺く。
 静かだった山が騒がしくなった。犬が放たれたらしい。遠くから何匹もの犬が吠える声が聞こえてくる。まだ距離は遠かった。目の前にいる男も動かない。山のなかで起こっていることにじっと耳を澄ましている。多くの男たちが同じようにして待機していることだろう。健太郎もまた息を殺して待ちつづけた。耳を澄ましていると全身の感覚が研ぎ澄まされていく。鋭敏になった聴覚には、木の葉の散る音さえも聞こえる気がする。
 静けさに釣り出されるようにして、彼のなかに眠っていた記憶が首をもたげた。実際には見たこともない光景だった。明け方なのか夕暮れ時なのかわからない。薄明のなかに黒いものがうずくまっている。舗装されていない土の道で、うずくまっているものは動物らしい。よく見ると犬だ。一匹の犬が傷つき、疲れ果てて動けなくなっている。かすかに息はしているらしい。傍らを兵士たちが歩いていく。みんな銃を肩に担いでいる。犬に目を止める者はいない。きっと路上に盛り上がった土塊くらいに思っているのだろう。トラックが通る。大砲を積んだ車も通る。
 やがて犬は息絶える。死んだ犬は車に踏みつけられて本物の土塊に近くなる。アイロンかローラーでのされたように平たくなっていく。いまや薄汚い布切れのようになった犬は、アスファルトにこびりついたタールか何かにも見える。雨が落ちてくる。風も吹いてくる。雨に流されて、薄い一枚状の犬は街を漂う。風に吹き飛ばされて荒涼とした大地の上を飛行する。無数の首のない死体が転がる薄暗い荒野だ。煙が立ち上っているのは死体を焼いているのだろうか。畑には烏さえいない。この異様な世界は烏も寄せ付けない。人の血と脂が湯気となって天に昇っていく。
 得体の知れない記憶が暗い部屋の隅で膨らんで、眠っている健太郎のなかに忍び込んできた。それが毎夜のように起こった。父の記憶だったのではないか、といまにして思う。あそこで銃を懐に抱いて待機している男の記憶が、暗い水のように流れ込んできていたのではないか。自分のなかに広がっている未知と謎は、この男によってつくり出されたものだ。この男が、自分のなかの半分を謎にしている。謎のなかにはいろんなものが棲んでいる。邪悪なものもいる。おぞましいものもいる。この男がいるかぎり、自分という人間は安全ではない。
 一発の銃声が聞こえた。響きは長く尾を引きながら、ゆっくりと山のなかに吸い取られていく。再びあたりは静かになった。目の前の男はまだ動かない。銃声のしたほうへ小さく顔を向けただけで、あいかわらず腰を上げる気配はない。銃声は一発だけだった。息が詰まりそうな時間が過ぎた。何かがやって来ようとしている。心臓が高鳴るのがはっきりとわかった。緊張感で息苦しくなる。無性に喉が渇いた。何度も舌で唇を舐めるが、すぐに乾いてしまう。深呼吸をすると、父が振り返りそうな気がする。
 暗い影のようなものが森を覆っていた。強大な力を持った危険な存在が、すぐ近くに潜んでいる気配が感じ取れる。時間はタールのように山全体を覆っている。流れない時間から引き剥がされるように、それは姿を現した。雑木林の下生えのなかから不意に現れた。一匹の野犬だった。目の前で低い唸り声を上げて牙を剥いている。全身が硬い鉱石のような黒褐色の毛に覆われ、健太郎のほうを冷ややかに凝視している。
 暗く深い視線に射抜かれたまま、その場を動くことができなかった。身体から汗が吹き出してくる。努めて落ち着こうとした。怯えていることを悟られてはならない。一方で、いま起こっていることにたいする現実感が乏しかった。自分の身に危険が迫っているのに、これから起こることを素直に受け入れられそうな気がする。どこか陶酔した夢見心地に引き込まれかけ、何もかもが自分の身を離れた別の場所で起こっているように感じられた。
 長い時間が経過した気がするが、実際には数秒だったのかもしれない。一瞬、野犬の身体が膨らんだように見えた。つぎに収縮して黒い弾丸の形になった。その弾丸は素早く健太郎の横を走り抜けて、父のいる木橇道のほうへ飛び出していこうとした。
「待て」
 自分の名前を呼ばれたかのように立ち止まった。
「アツシ、おまえか」
 犬は健太郎のほうを向いてわずかに牙を剥いた。肯定したようにも、否定したようにも見えた。それから林の外へ身を躍らせた。異変に気づいた父が銃を構えた。流れるような仕草で弾を薬室に起こり込み、膝撃ちの姿勢で狙いをつけた。まさに引き金を絞ろうとする間際だった。
「撃つな」
 犬と一緒に飛び出してきた息子に、父親の指が止まった。照準具から目を離して健太郎を見ると、
「離れろ」と怒鳴った。
 その隙に、犬は父に襲いかかった。鈍い銃声が空気を震わせた。ひと握りの毛が宙を舞った。悲鳴は上がらなかった。弾は犬の身体をかすめただけで、命中はしなかったらしい。二発目の銃声は聞こえなかった。火薬の匂いが漂ってくる。
「撃て、撃て」誰かが叫んでいる。
 犬が父の腕に喰らいついている。銃は持ち主の手を離れて地面に転がっている。
「撃て」叫んでいるのは父だった。
 憤怒と痛みに顔を歪め、犬を拳で殴って引き離そうとしている。
「銃を拾え」必死の形相で父は訴えた。
 健太郎は言われるままに銃を取った。銃の先で触れられるほどの距離に犬はいる。父の銃は左右二連式の散弾銃だ。弾はあと一発残っているはずだった。引き金を絞れば自動的に発射される。これだけの至近距離にあっても、誤って父を撃ってしまいそうな気がした。
「早く撃て」
 父や横向きに身体をねじるようにしている。その喉仏に野犬は喰らいつこうとしている。もはや猶予はない。健太郎は銃を構えると、照準具も見ずに狙いをつけた。犬は父に気を取られて、自分に向けられている銃口に気づかない。
「撃て」父が叫んだ。
 銃声が山の空気をつんざいた。何が起こったのかわからなかった。身体のなかを風が吹き抜けていく気がした。その風が火薬の匂いも、血の匂いも吹き払ってくれる。まるで夢で見た犬のようだった。布状になった彼の身体は、風に運ばれる羽根のように舞い上がった。

 青白く光る草原を駆けていた。美しい茶色の馬を見た芒の草原だった。風に乗って駆けている。大空を飛んでいる気分だった。日差しが弾ける。草花が匂い立つ。空が草原にばらまかれている。ふと横を見ると、先ほど健太郎に撃たれたはずの犬が一緒に走っている。黒褐色の毛に覆われた野犬だ。
「アツシ、おまえだな」
 伴走しているものは答えない。答えるまでもない。
「わしらは一つのものだ」
 そう言う彼もまた一匹の野犬だった。鼻が鋭敏になっている。いま追っているのは光の匂いだ。光に匂いがあるのか? あるとも。虹に色があるように。二匹は一陣の風のように草原を駆けていった。音のように戯れながら走りつづけた。草原は鈍色に輝いている。そのなかを一条の輝き流れる糸が走っていく。どこへ向かっているのかわからない。わかっているのは、ただ駆けつづけなければならないということだ。足は休みなく地面を蹴っていく。途切れることのない音楽のように。爪で音符を刻んでいく。草原に耳には聞こえないメロディを残して。
「どこまでも一緒だ。一緒にいこう」
 長いあいだ待ちつづけ、探し求めていたものと出会えた気がした。彼はいまはじめて自分に触れていると感じた。祖父や父から流れ下ってきた自分ではなく、自分が直に自分に触れている。この感触は、けっして一人では届かなかったものだ。ともに駆けるものがいて、はじめて生まれている感覚だ。前に進まなくてはならない。立ち止まってはならない。立ち止まれば、一つのものは二つに分かたれてしまう。一つのものであるためには駆けつづけなくてはならない。光や風とともに、大地と空と溶け合って進みつづけなくてはならない。
「おまえはわしで、わしはおまえだ。そうだろう、それでいいのだろう?」
 なんの違いも、どんな境界もない。どこまでが自分で、どこからが自分でないのか。どこまでが人間で、どこからが動物なのか。二つの心臓は一つの鼓動を刻んでいる。太古から、この場所は開かれている。おまえが見ているものは、わしが見ているものだ。わしが吸っている空気は、おまえの肺を通ってきたものだ。視線は光で、呼吸は風だ。この瞬間、いまここで世界が生まれている。前にもあとにも何もない。このときだけが永遠につづいていく。すべてが身体のなかに入ってくる。目で見ているものも、鼻で吸っているものも、耳で聞いているものも、足が踏みしめているものも。みんなここからはじまったのだ。離れようとして離れない一つのものから。わしがおまえであり、おまえがわしであるという、この場所から。
 草原は穏やかに静まり返ったまま広がっていた。深々とした静けさのなかを二匹の野犬が駆けていく。二つで一つのものは声を発することもなく、はるばると冷えた山の空気のなかを駆けていく。世界の果てまでも駆けていく。そこにもう一つの世界がある。この世界とは別の世界が、少しだけ脇へ逸れたところにうずくまっている。そのわずかな距離は、鳥や幻が通うのはわけもないが、人や動物が駆けていくとなれば大変だ。だが、もうここがそうかもしれない。この先には空と大地しかない。二つのあいだには何もない空間が広がっている。そんな世界の果てへ、自分たちは来てしまったのかもしれない。
 不意に重さを感じた。痛みのようであり、悲しみのようでもあった。どこから来たのだろう、この悲しみは。一つのものが分かたれ、しだいに引き離されて割れ落ちていくような感覚にとらわれた。
「待て、どこへ行く」
 深く沈んだ感覚のなかを、言葉は切れ切れに漂った。どこからか硝煙の匂いがしてくる。遠く置いてきたはずの死が臭ってくる。追いつかれまいとして足を速めた。だが、この重い足取りでは飛翔することなどできない。不浄なものが入ってこないように息を止めた。誰かが遠い声で呼んでいる。声に応えなければならない。そう思ったとき、胸のなかに世界が押し入ってきた。(イラスト RIN)