なお、この星の上に(20)

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 木立を吹いてくる風に運ばれて水の匂いがした。川が近いのだろう。太陽の光を遮る頭上の木々の葉が、高くなった夏の日差しを受けて輝いている。
「おまえがいつまでも寝とるけん、もう日がこんなに高うなってしもうたが」大きなリュックを背負った武雄が、少し遅れてあとを歩いている豊に向かって言った。
「寝とったのではない」豊は不服そうに言い返した。「勉強しとったんじゃ」
「なんで大事な日に勉強などするか」
「勉強を済ませな、遊びに行っちゃならんことになっとる」
「誰がきめた」
「家のものじゃ」
「おまえも中学三年生だろが」武雄は苛立たしげに言った。「来年は就職する者もおるのに、まだ自分のことを自分できめられんのか」
「仕方ないが、家のきまりは」豊はいまにも泣き出しそうな顔になっている。
「破ればええ」
「簡単にはいかん」悲壮な声で言って口を閉ざした。
 武雄が豊を詰ったのは、出発の時間が遅れたことで、吉右衛門爺さん探索の計画がしょっぱなから狂ってしまったせいだ。武雄にとっては夏休みの日課などよりも、吉右衛門爺さんの正体を突き止めることのほうがはるかに重要だった。探索の手順をきめたのも武雄だ。今回は、まだ入ったことのないところまで行くことになっている。とても一日ではまわりきれないが、新吾の二番目の兄が山奥の田畑を譲り受けて住んでいる家があるということで、夜はそこに泊めてもらうことになっている。健太郎は家の者の許しを得るのに苦労した。まして豊のところは大変だっただろう。それでも仲間はずれになるのは嫌だとみえて、彼は日課を済ませてから出てきたのだった。
 四人が歩いていく道は、山肌を切り崩して最近造られたものだった。舗装はされておらず、乾いた赤レンガ色の土が剥き出しになっている。途中で何箇所か、削られた崖が崩落して土砂が道を覆っていた。ほとんど車も通らないせいか、修復もされずに放置されている。四人は崩れ落ちた赤土の上を歩いて先へ進んだ。
「川に出たら水を補給していこう」健太郎が言うと、
「ついでに水を浴びていこう」新吾が付け加えた。
「そんなことしよったら、ますます遅うなるが」武雄が嘆かわしく言葉をつないだ。
 ほどなく四人は川原に立った。川が光っている。流れの速い岩場では、水は踊るように白しぶきを上げる。一刻も早く、あのなかへ入っていきたい、と健太郎は思った。他の三人も同じ思いなのだろう。川遊びに異を唱えていた武雄も、冷たい水の魅力には勝てないらしく、我先にズボンの裾を折り返して川へ入っていった。
 七月の下旬になっても、渓流の水は鮮烈なまでに冷たかった。冷気は血管に流れ込み、足から下腹を駆け上り内臓へと達した。肺と心臓を青く染め上げ、肩から両手の指先へ、さらに首から頭の隅々を巡り、気持ちを凛とさせた。身体の輪郭を細かいところまで際立たせた。自分がいま一つの肉体とともにあることを、健太郎はありありと感じた。
 水のなかで小さな魚たちが光っていた。夏の光は川底の藻を生育させる。それを食べて魚たちも成長する。向こう岸から川にせり出した木が落とす影のなかには、鮒やナマズのような大きな魚がいるに違いない。源さんのことを考えた。この季節は、源さんにとって鮎漁の時期だ。彼が使っているヤスは、棒の先に鉄でできた三本槍のついたもので、すべて本人の手作りだった。この特製のヤスを持って川に入り、素潜りで鮎を突き刺して仕留める。山の子どもたちにとっても、夏のヤス漁は川遊びの定番だったが、敏捷な鮎を捕まえるのは至難の業だった。
 武雄も吉右衛門爺さんなどという、生存も確認されていない幻の人物を追いかけまわすよりは、源さんの弟子になればいいのに、と健太郎は思った。そして素潜りの鮎漁でもなんでも教えてもらえばいい。源さんにとって仕事は遊びのようなものだった。少なくとも健太郎にはそう見える。もちろん川で魚を獲るだけでは暮らしが成り立たない。先祖代々の田畑の仕事もあり、父親が寝たきりになったあとは、村の人たちの助けを借りながら一人で切り盛りしている。源さんには源さんの苦労がある。しかし本人はあいかわらず飄々として、「わしは腹いっぱい喰うて、気持ちよう糞をするために働くのよ」などと言うのだった。
 蝉が鳴いている。蝉の声が耳についたとき、なぜか「静かだ」と感じた。つぎの瞬間、何百匹という蝉の鳴き声が重なり合い、うねるようにして押し寄せてきた。鳴き声に呑み込まれそうになる。不意に、足元から水の音が立ち上ってきた。健太郎は額の汗を拭った。手首が汗で光っている。身体が焼け焦げている気がした。蝉の鳴き声と川の水音に混じって、三人の声が聞こえた。いま自分は彼らと切り離されている。一人だけ別の世界にいる。同じ景色のなかで、透明な皮膜によって隔てられている。
 川の水音が耳にこもった。水は白いしぶきを立てながら流れていた。足元に転がっている石を手で掴んだ。石は焼けていた。彼は挑むように石を握り締めた。そのまま流れに手を入れた。手の甲に水の力を感じた。引き上げると、一瞬、石は魚に姿を変えた。光の塊のようなものが手のなかで跳ねた。日が溢れ出した。水が光った。湿った石と水の匂いがした。彼は日を浴びて川原に立ち、川に入っている三人を見ていた。
 ふと、多賀清美のことを考えた。いまこの場に清美といたいと思った。他の三人とは透明な皮膜によって切り離されたこの世界に、二人だけでいたかった。彼女のことを思うと、心に痛みを感じた。なぜだろう? この痛みはどこからやって来るのだろう。最近はこんなことがよくある。山や森の緑に、空の青に、水の輝きに身体が染まるとき、なんの脈絡もなしに清美のことを思い出す。そして心のなかに痛みを感じる。
 あのときからかもしれない、と健太郎は思った。春の野で清美に見つめられ、彼は正体の知れない生き物になった。傍らに横たわる清美を見たとき、自分のなかに原始の森があることに気がついた。暗い森のなかに棲んでいる生き物。人間なのか動物なのかわからない。自分が一個の欲望する生命であることを生々しく感じた。我に返るようにして肌に触れる風を受け止めた。向こう岸の山の潅木が裏葉を見せて揺れていた。
(イラスト RIN)