なお、この星の上に(20)

20
 鉱山で働いていた男が酒を飲んで、ふらふらと宿舎を出たまま帰らなかった。どこか近くで酔いつぶれているのだろう。この季節、一晩放置すれば夜の冷気が体温を奪い生命にもかかわる。仲間たちは手分けしてあたりを探したけれど見つからない。翌朝になって男は、飯場のすぐ近くの山のなかで死体となって見つかった。
 近年稀に見る凶事とはこのことだ。発見された死骸は凄惨を極め、剛気な山の男たちを戦慄させるほどだった。被害者はまさに惨殺されていた。強い恨みや憎しみを抱いた者の犯行、と一目見た捜査員たちは思った。しかし死骸を詳細に調べてみると、唇の周囲の肉が無残にえぐり取られたり、舌や咽喉、内臓までもが喰いちぎられたりしている。傷に残る咬まれた痕は、鋭い歯を持った動物のものであることがわかった。
 野犬が男を襲ったのだ。間違いない。しかも一匹ではない。かなり大きな群れが、寄ってたかって男を喰いちぎった。泥酔していたのなら苦痛は感じなかったかもしれない。だが途中で意識を取り戻し、犬に顔や内臓を喰いちぎられるまま、もがき苦しみながら死んだのだとしたら。そのことに飯場で働く者たちは慄き、恐怖心は野犬にたいする憎しみと復讐心に変わっていった。猟師を集めているという話は村にも入ってきた。報酬が出るらしい。鉱山の開発を進める燃料公社がカネを工面するという。寄り合いで一度は立ち消えになっていた山狩りの話が、より大がかりなものとして実行されようとしていた。
 この山狩りに、村の男たちのほとんどが参加することになった。異を唱える者はいなかった。現に野犬に牛を襲われた農家もある。いずれ村にも人的な被害が出るかもしれない。野犬にたいする憎しみと復讐心は、村の男たちのあいだにも共有されていた。男たちは再び心を一つにしようとしていた。バラバラだった善と悪が、野犬という顕著な悪が立ち現れることによって一つに集約されようとしていた。いま男たちの心をとらえている義は、悪を具現した犬たちを狩ることだった。
「浮かれ騒いどるなあ」庭に井戸に蝋燭と水を供えている祖母が、どこか咎めるような口調で漏らした。「前もこんなふうやった。戦争がはじまる前はなあ、若いのも年取ったのも我を忘れて、妙に浮ついたようになっとったが、またあれがはじまるのかの」
 その夜、父が居間で猟銃の手入れをしていた。油を含ませた布を細い鉄の棒の先に巻き、銃身のなかを掃除している。ときどき銃口を覗き、汚れなどが残っていないか確かめている。父が所有している銃は二丁あった。一つは上下二連式の散弾銃で、もう一つは銃身の長いライフル銃だ。散弾銃は最近手に入れたものだが、ライフル銃のほうはもっと古そうに見えた。その銃を構えてじっと照準具の先を見つめる目つきは、いつもの父とは違っている。やがて息子の視線に気づいたのか、父は銃を下ろし、
「鉄砲いうもんは、手入れを怠るとすぐに錆びるでな」と言った。
「その鉄砲は戦争でも使いよったのか」
「いや、戦争のときのものはみんな返してきた」父はいつもの様子に戻って答えた。「戦後しばらくは狩猟も禁止されとったでな。村の者が持っとる銃は、狩猟が解禁されてから新しく手に入れたものだ」
 父は銃の手入れをつづけた。いまは引き金のところを布で拭いている。どこか艶かしいような手つきだった。思わず魅入られそうになって、
「うまくいくかの」と健太郎は山狩りのことに言葉を向けた。
「わからんな」手を休めずに答えた。「犬など狩ったことがないけんの。普通は犬でシカやイノシシのような動物を追い出して撃つもんだ。猟に犬はなくてはならん。犬なしでは猟が成り立たんと言うてもええほど、猟と犬は切っても切れん関係にある。その犬を狩るというのは聞いたことがない。わしらの犬が、山に潜む野犬を追い出してくれるかどうかもわからん」
「犬が追わんなら、人が追い出すのか」
「どこかに野犬の巣があるはずだと、山に詳しい者は言いいよる。巻き猟に近いやり方になるのやないかな」
 その口ぶりから、父が今回の山狩りにあまり乗り気ではないことが伝わってくる。
「鉄砲は二丁とも持っていくんか」
「わからんの、どっちを使うことになるのか。両方持っていくかもしれん。どっちか一方でええことになるかもしれん。いずれ指示があるやろう」
 父は黙って銃の手入れをつづけた。そばに息子がいることも忘れ、自分だけの思いに入り込んでいるように見えた。父のまわりだけ空気が重たく澱んでいる。硝煙の匂いでも漂ってきそうだ、とぼんやり思いかけたところで、健太郎はふと我に返った。もちろん実際にはそんな匂いはしない。首をかしげる間もなく、問いはほとんど無意識に口をついて出た。
「人を撃ったことがあるか」
 言葉にしてみると、前からそのことをたずねたくて機会を窺っていた気がした。
「戦争やけんの」父は表情を変えずに返した。
「殺したか」
「いつもただ夢中で撃った」あいかわらず静かな声だった。「当たったかどうかはわからん」
 言葉とは裏腹に、先ほどよりも目つきが鋭くなっている。その眼差しが語ろうとして語りえないものを、健太郎は読み取ろうとした。父は長く口を開かなかった。部屋の空気が薄くなった気がした。足りない空気を吸い込むように大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。この父と自分はつながっているという、息苦しいような思いが健太郎の心を占めていた。父が生きた時間は自分のなかにも流れている。その時間をありありと感じた。
「綾子は民主主義が好きみたいだの」
 脈絡のないようなことを言うと、父は手入れを終えた銃を広げた新聞紙の上に置いた。それまでと変わらぬ穏やかな声であることに健太郎は安堵した。父は腕組みをして二丁並べて置いた銃を静かに眺めている。しばらく時間が過ぎた。やがて食卓のほうへいざるようにして坐り直し、煙草と灰皿を引き寄せて火をつけた。
「生きて帰れるとは思うてなかった」淡白な声で言った。「そんなことを思うてはならんかった」
 健太郎はもの問いたげに父を見た。父は食卓に肘をついて、美味そうに煙草を吸っている。そこにいるのは、いつもの寡黙な父だった。一つの言葉から、つぎの言葉が出てくるまでの時間が長い。間延びして、聞いているほうは「早くしてくれ」と言いたくなる。
「いまは学校でも命は何よりも大事なものと教えられとるやろう」長く煙を吐いてから、たずねるともなく父は言った。「人の命も自分の命も大事にせなならん。民主主義ではそうなっとる。間違ってはおらん。そっちのほうが本当やろう。わしらのころは命は軽いものやった。いつでも捨てられるように準備しておかねばならんものと教えられた。自分の命を大事にする者は臆病者と言われかねんかった。民主主義やなかったけんの」
「軍国主義か」健太郎は耳障りな言葉を挟んだ。
「人間の考え方はころころ変わるものでな」
「民主主義が嫌いなんか」子どもみたいな問いを投げると、
「別に嫌いやない」含みをもたさない口ぶりで答えた。「軍国主義よりはずっとええものやと思う。ただ、ええことと悪いことが、あんまりころころ変わるのは困りものやな。そのうちに何がええことで、何が悪いことかわからんようになる。一人ひとりが勝手に、ええことも悪いことも判断するようになる。そうなると世の中は乱れるやろう」
 父はあいかわらず食卓に肘をついて、どこか遠いところを見るような目で煙草を吸っている。そんな父が、健太郎には見知らぬ人のように眺められた。
「民主主義か」煙草をくわえた顔を、手入れを終えた銃器のほうへ向けてひとりごとみたいに言った。「悪いものではないが、わしらにはなかなか馴染まん言葉だの。うかうか馴染んではならん気もする」
 他人事めいた物言いを健太郎は怪しんだ。黙ってつづきを待ったけれど、つづきを話す気は父にはないらしかった。夜は静かに更けていた。この静けさのなかに、二丁の冷たい銃が身じろぎもせずに横たわっている。その静まり具合が、がかえって本来の残忍さを潜めているようにも見えた。
「大事なエネルギー資源を供給するという前提があって、あの人たちは山を開発しよるのやろう」やがて父は、のろのろと動き出す機関車のように言葉を繰り出してきた。「だが肝心の前提が間違っているのかもしれん。まやかしかもしれん。わしらの戦争がそうやった。この戦争は正しい戦争で、多くの人を救うために必要だと言われ、それに納得して戦争に行ったわけやが、いまでは間違っていたという者はたくさんおる。死刑にもなりかねんことやった。戦争が間違っているなどとは、口が裂けても言えんかった。思うたことを言えるのはええことだ。綾子みたいな子どもでも自分の考えをはっきり言えるのは、民主主義のええところかもしれんな」
 一息つくように言葉を置いた。その間がまた長くなるのだろうと覚悟しかけたころに、
「正せる間違いならええ」と父は言葉をつないだ。「間違った戦争のために、わしらの仲間は大勢死んだ。わしらも大勢の人を殺した。間違いと言って済ませられん間違いもあるでな」
 吸いかけた煙草は指のあいだで短くなっていった。立ち昇る白い煙が、非業に死んだ多くの者たちへ手向けられたもののようにも見える。
「町で暮らそうと思うことはないのかと、前に訊いたことがあったな」古い因縁話でも持ち出すように父は言った。
 健太郎は話が届いていることを示すために頷いた。
「田んぼで米を作ることも、畑で野菜を作ることも、牛や鶏を飼うことも山仕事も、みんな単純なことの繰り返しよな」自分に言い聞かせるような口ぶりで父はつづけた。「毎年きまったことの繰り返しで、健太郎はつまらん思うかもしれんが、それをつまらんと言うては、どんな仕事もつまらんことになる。単純なことの繰り返しに、なんかええもがあると思わんとな。わしらぐらいの歳になると、毎日、毎年同じ繰り返しのなかに月日を積み重ねていくことを、幸せと感じることがある。みんながどうかはわからんが、とうちゃんはそう感じる。なんか降り積もっていくものがある。自分のなかが少しずつ掘り下げられて、深うなっていく気がする。同じことを繰り返しておっても、同じやないことがわかってくる」
 得心がいったわけではないが、どういうことかとたずねても納得の得られる答えは返ってきそうにない。ひとまず呑み込んで頷いた。すると父はいくらか困惑した口ぶりで、
「戦争が恐ろしいのは、なんも感じずに人を殺せることかもしれんな」と言った。「戦争では人を殺すことが自然になる。ええも悪いもない。悪いことにはためらいが生まれる。悪いことを悪いと思いながらすることはなかなかできん。戦争では人を殺すことが悪いとは思わんようになる。ええこととや立派なこととは思わんまでも普通のことになる。人はなんにでも慣れるもんでな。慣れてはならんことにも慣れる。特別なこととも異常なこととも思わずに、なんも感じんようになる。そこが戦争の恐ろしいところだの」
 淡々とした口ぶりのなかに張り詰めた気配が伝わってくる。その口ぶりを崩せば、恐怖や混乱が一気に吹き出してくる。凄惨な現場が立ち現れる。この人にとって戦争の恐ろしさは、自分の一部になっているのかもしれない、と健太郎は思った。
「戦争では誰もが無神経になる」言葉を選ぶようにして父はつづけた。「鉛のように無神経にならねば、戦場では生きていけんもんだ。もう二度と、ああいうところには行きとうない。ああいうふうにはなりとうないと思う。だが、あっけなく人はそうなってしまうもんだ。その点は民主主義もあてにならん。ええことと悪いことが、短いあいだにころころ変わってしまう世の中では、あてになることは何もないと思うとったほうがええ。辛うじて頼りになるのは、自分の手で地面の土に触れて感じることくらいではないかの。山の仕事をしたり動物の世話をしたりして感じ取ることに、それほど大きな間違いはない。健太郎には退屈に見えるかもしれんが、ここの暮らしはとうちゃんにとっては悪いものではないのよ」

 誰かが悪意をもって引き裂いたわけではない。親密であるはずの者同士が、いつのまにか身も心も離れ離れになっている。山を流れる水が深い谷を穿っていくように、渡ることのできない深い隔たりが生じている。時代が引き裂いたのだろうか。科学の進歩だろうか。何もかもが引き裂かれている。親と子が、自分と他人が、自分と自分が。その空隙に森が広がる。深くて暗い森が広がっていく。
 方角があやしくなっていた。遠近もおかしい。避病院からそれほど歩いた記憶はない。遠くはないはずだと頭でわかっていても、やはり遠い気がする。いま歩いている場所がどこなのかわからない。この先は漠として、ますますわからなくなっていく気がする。とてもたどり着けない。たどり着けそうにない。距離の問題ではない。もともと行けるところではないのかもしれない。二人でなければ、二つのものが一つでなければ行けないところなのかもしれない。
 アツシに山狩りのことを伝えなくてはならないと思った。何をどう伝えればいいのかわならない。とりあえず自分が野犬を撃ち殺す側の人間でないことを伝えなければならない。いや、そうではない。本当はどちらの側にも身を置きたくなかった。殺す側にも、殺される側にも。だが現実の世界では、どちらかに身を置かなければならない。どちらかを選ばなければならない。二つをともに生きることはできない。どうしてこんな生き方しかできないのだろう。選ぶことも否むことも捨てることもなしに、すべてを包み込む円かな世界を生きることはできないのだろうか。
 アツシ、おまえが生きている世界はどうなのか。すべてが備わっていて足りないところのない、何もかもが満ち足りて安らかに生きることのできる、そんな世界がどこかにあるのだろうか。暗い森の奥に、いまも密かに息づいているのだろうか。自分が自分でありながら他のものでもあるような、人や動物や草木がただ一つのものであるような。そういう世界から、おまえはやって来るのだろうか。そこには時間も空間もない。時間がないから自分というものはなく、空間がないから遠い近いもない。すぐ近くにあるものは無限に遠く、遠く隔たったものも至って近い。すべてのものが重なり合う。
 いつのまにか尾根に出ていた。何ものかにつまみ上げられ、無造作に置かれた感じだった。眼下に谷川が流れている。川の水は秋の日差しを浴びてきらきら光っている。前に来たときにも、こんな風景を見ただろうか。前方の幾通りにも重なりあった丘の向こうに、ぼんやりと青い草原が広がっている。どうやら芒の野原らしい。風が吹いて山が鳴ると、芒は青白く揺れて波立つようになる。
 ここはどこだろう。どこへ来てしまったのだろう。アツシの所在を訪ねているつもりで、自分のほうこそ尋ねられる者になった気がした。二人でたどった道を歩いてきたはずなのに、たどり着いたところはまったく別の場所だった。村があったはずだ。人の住んでいない打ち捨てられた村が。そんなものはどこにも見えない。点在していた廃屋は、いまでは影も形もなく消えて、ただ芒の野原が青白く光っているばかりだった。
 そこに一本の木が生えていた。近づいてみると樹齢を重ねた大きな楠だった。幹は根元のところが真っ黒に焦げて大きな洞のようになり、力士の腕を想わせる隆々とした枝に、古い縄や鼻緒の切れたわらじなどが吊るしてある。いつか父が「天狗の腰掛け」と言っていた木に似ている気がした。だが時代が違う。あれは明治か大正の話だった。きっと別の木だろう。それとも時空を超えてあちこちに現れるのだろうか。
 不意に風が止んだ。世界から音が消えた。太陽が急に明るさを増した気がした。自分が誰だったのか、にわかに思い出せなくなりそうだった。どこからやって来て、どこへ行くつもりだったのか。祖父から聞いた神隠しの話をまた思い出した。消えた子どもたちは、いずれ見つかることが多かったという。遠方の町や村を歩いていたり、目も眩むような高い木の枝に坐っていたり。何年も消息を絶っていた子が、成長してひょっこり戻ってくることもあった。
 誰もが捨て子みたいなものではないだろうか、と健太郎は思った。捨てられたようにして、たまたまここにいるだけではないのか。そんなことを寄る辺のない気分で思っていた。どこからともなく風が起こり、冷たい空気が草原を走った。それが何かの合図ででもあったように、楠の後ろからアツシが現れた。まるで木の陰に隠れていたような現れ方だった。あまりの呆気なさに、「なんだ、いたのか」と声を掛けそうになる。
「アツシ」前置きもなしに言った。「おまえはもうここを出たほうがええ」
 少年は答えず、所在なさそうに立っている。ひとりきりの様子で、何かに耳を澄ませているでもあり、ただぼんやりと突っ立っているだけのようにも見える。顔を上げて空を見た。釣られて見上げると、雷の音だろうか、遥かに高いところで空が鳴っている気がした。音はゆっくりと地上に降りてきて、草原の向こうを多くの者が歩いていくようなざわめきにかたちを変えた。いつの間にか風は止まっている。青白く光る無風の草原に、アツシはじっと目をやっていた。その眼差しにわずかな好奇が動く気がして、
「なんかおるのか」と健太郎はたずねた。
 少年は同じところへ一心に目を向けている。健太郎には何も見えない。アツシには見えているらしい。ひょっとすると蓬髪にみすぼらしい着物を身にまとった孤児の姿ではないだろうか。いつのまにかはぐれてしまった自分の姿を、じっと見ているのではないだろうか。その姿が一瞬、健太郎にも見える気がした。
 突然、アツシが駆け出した。健太郎のほうは不意を衝かれる恰好になった。
「おい、待て」
 慌ててあとを追うと、すでに十メートルほど先に行っている相手は、振り返って「早く来い」という仕草をした。太陽を背にした顔は、暗い影をつくりながら笑っているように見える。はじめて見せる屈託のない笑顔だ、と健太郎は思った。何かを懸命に追いかけるような走り方だった。その少年を、健太郎もまた追いかける。ものが考えられなくなりそうになりながら、ただ足だけを動かしている。いくら追いかけても追いつけつけない。すでに息は上がりかけている。
「どこまで行く」喘ぐようにして呼びかけた。
 相手は答えない。今度は振り向きもしない。魅入られたかのように、夢中になって追いかけている。全力疾走で前方の丘を登っていく。その後ろ姿は意外なほど幼かった。走るほどに時間を遡って幼くなっていく気がする。
「おい、アツシ」
 足が痺れてきた。息も苦しい。どこをどう走っているかわからなくなり、全身の力が地面に吸い取られていく気がして、健太郎は草のなかに倒れ込んだ。空がぐるぐるまわっている。目を閉じると、今度は自分がまわりはじめた。深く息を吸って吐くことを繰り返した。わびしいような草の匂いとともに、悔やむような気分に引き込まれかけている。あいつは何を見ていたのだろう。何が見えていたのだろう。アツシに見えていたものが、なぜ自分には見えなかったのだろう。とりとめのない問いとともに、心の奥が寂しさとも悲しみともつかない色に染まっていく。
 一人取り残された気分で時間だけが過ぎていった。何かがやって来る気配がした。物音よりも静かに、息遣いのようなものとして近づいてくる。人だろうか、動物だろうか。危害を及ぼすものなのか。 アツシが戻ってきたのかもしれない。本気では思っていないことを言葉にして、目をあけると、顔の先で一頭の馬がプルプルと鼻を震わせた。
「なんだ、おまえは」
 馬は健太郎に興味を失ったみたいに離れていった。しばらく行ったところで立ち止まり、静かに草を食べはじめた。そんな様子を、狐につままれたような気分で眺めていた。美しい馬だった。艶やかな茶色の毛は太陽の光を受けて輝いている。ふさふさした尾が、見事にまるい尻を覆っている。
「どこから来たんかの」
 アツシはこいつを追いかけていたのかもしれない、と健太郎は思った。きっと彼には見えていたのだろう。青白く光る芒の草原を悠然と走っていく馬の姿が。だからあんなに夢中になって追いかけていたのだ。馬を捕まえるつもりだったのかもしれない。だが捕まえきれずに、馬は走りつづけてここへやって来た。アツシもここへ戻って来るだろうか。
 そうではないことはわかっていた。もう二度と自分の前には現れない。かわりに馬が現れた。不在になったアツシにかわって現れた。不在になった場所から、彼のかわりにやって来た。自分たちは一緒に馬を見ることはできない。馬が現れるためには、どちらかがいなくならなければならない。そんあ理屈の通らないことをしかつめらしく思っていた。「アツシ」という名前だった。面立ちを、すぐには思い出せない気がした。
 気温が下がり、空気が冷たくなったようだった。馬は草を食べることをやめ、警戒するように耳を立てている。今度はなんだろう。何がやって来るのだろう。叫び声のようなものが聞こえた。人間の声だろうか。空耳かもしれない。またしても吉右衛門爺さんの呪術にかかろうとしているのだろうか。
 見上げる空は白っぽく光り、薄い灰色の雲が何かに追われるように速く走っている。近くにいる馬は一度激しく頭を振った。それからなだらかに下っている尾根のほうへ歩き出した。しだいに小走りになり、最後には早足になっていた。風が出て、野原の草が一面に波を立てた。空が暗くなってきた。まわりの景色がぼんやり霞んでいる。
 馬が駆けていったのと反対側の草原を、大勢の人が歩いていた。隊列をなした兵士のようだった。肩に鉄砲を担いでいる。鉄帽をかぶり、足にはゲートルを巻き、雑嚢を背負った完全装備だ。誰もが無言だった。ただ真っ直ぐに前を見据えて歩いていく。どの兵士も、肩のあたりが仄かに光っている。冷たい風が草を渡りはじめ、雲や霧が切れ切れに流れていく。そのなかを兵士たちは黙々と進軍をつづける。静かに草原を渡り、丘の向こうへ歩いていく。丘の向こうは下りになっていて、ここからだと一人ずつ草のなかに消えていくように見える。消える間際、彼らは何かに姿を変えるようだった。目を擦り、あらためて眼差しを向けたときには、すでに兵士たちの姿はなかった。

 明るい場所を歩いていた。ものも思えず、心が身に添わない状態で、ただ歩いていた。誰かによってどこかへ運ばれている心地がした。自分の意志で歩いているという感覚が戻ってこない。どこかに魂を置き忘れてきた気分だった。あの青白く光る草原で自分は消えてしまったのかもしれない、と健太郎は思った。どこにあるとも知れない高原の草のなかに、隊列をなして進軍する兵士たちとともに。
 いつのまにか村の墓地に来ていた。すでに冬枯れの兆しを見せはじめた草のなかに幾つもの墓が建っている。古いものもあれば新しいものもある。健太郎の家の墓もあるが、これまで身内の死には立ち会ったことがないので、葬られた死者たちのことはよく知らない。墓と墓のあいだには区画もなくて、芒やチガヤのような雑草が生えている。日当たりのいい場所を選んで腰を下ろした。無意識に墓の数をかぞえていた。指差すようにかぞえている自分に気づき、何か縁起の悪いことにも思われて目を逸らせた。
 墓地の前の斜面を下ったところに農具小屋が見えた。藁葺き屋根の古いものだった。主に農機具や藁などを収納しておくためのもので、野良仕事に合間に腹ごしらえをしたり休んだりするのにも使われる。乾いた秋の景色が広がっていた。午後の日差しのなかにいるのに暖かさを感じなかった。一人きりで放り出されている気がした。この身と心をもって生きることは寒々しい、といった剥き出しの感覚のなかにいた。
 ぼんやりしているうちに時間が過ぎた。見上げると、澄んだ空があった。一羽の鳥が空の青みの深いところを舞っている。あいつは一羽でいても、自分を弱いとも頼りないとも思わないだろう。人間だけが一人を弱いもの、自分を頼りないものと感じる。一人でいることに孤独や空虚をおぼえる。もともと人間は一人で生きるようにできていないのかもしれない、と健太郎は思った。動物たちに比べると人間は不完全な生き物だ。
 風が草の葉を小さく揺らして吹いていった。誰かが歌をうたっている。人の声かどうかわからない。木々のざわめきのようでもあり、山の谺のようでもあった。何かがやって来る。異形のものではない。静かに明るいものが、小屋の前の道を通ってこっちへやって来る。心の闇と沈黙を抜けて近づいてくる。世界が彼の心に触れようとしている。
 清美は彼に気づいて足を止め、
「なんやの」と咎めるように言った。「健太郎、なんでここにおるん」
「おったらいけんのか」鷹揚に返した。
 何かを見つけたと思った。落し物を見つけたような、ずっと昔に失くしたものが遺失物係から届けられたような不思議な気分だった。
「ここはうちの秘密の場所じゃよ」
 まるで自分だけの場所だと言いたげだ。
「墓場がおまえの秘密の場所か」
 それには答えずに、
「こんなところでなにしよるん」と再びたずねた。
「秘密じゃ」健太郎は相手の言葉をそのまま返した。
 草原に風が起こり、一人の少年が駆けていく。美しい馬を追いかけて。その少年は世界を一周りして、別の姿でここにたどり着いた。
「墓参りに来たんか」
「違う」からかわれたと思ったのか、清美は怒ったように答えた。
 ちょっとためらってから健太郎の横に並んで腰を下ろした。地面に生えた草は秋の日差しを浴びて暖かかった。近くの雑木林が色づきはじめている。緑が薄くなり、赤や黄や茶色の葉が重なり合って秋の日差しを浴びている。ここは居心地のいい場所だ、と健太郎は思った。
「考えごとをするとき、うちはここへ来ることにしとる」しばらくして彼女は言った。
「おまえは変わっとるな」
「なせか」
 健太郎は相手の横顔をちらりと見て、「墓場でどんな考えごとをするんかの」とたずねた。
「いろいろ」
「そのいろいろが聞きたいやけどな」
「教えん」
 起伏の緩やかな広い谷になっていて、前方に冬支度を終えた田んぼが広がっている。見晴らしのいい場所だった。田んぼのなかに林が在し、木々のあいだから農家の建物が屋根だけが見えていた。谷のなかほどを川が流れ、谷全体が山に抱かれる恰好になっている。
清美が名前を呼んだ。彼は振り向いた。
「最近、なんやらぼおっとしとるね」大人びた口調で言った。
「いらん世話じゃ」
「将来のことはきまったか」彼女は聞き流してたずねた。「迷うとったやろ、進学するか就職するか」
「武雄みたいに猟師にでもなろうかの」少し思案するように間を置いて健太郎は言った。
 清美は本気にしない様子で、
「いま新吾の兄ちゃんのとこにおるんやろ」と言葉を向けた。
「もう学校には出てこんかもしれんな」
「そういうわけにはいかんよ。中学は義務教育やけん」
 四角四面の答え方がおかしかった。
「武雄には通じん理屈だの」
 右手の涸れ谷の影が深くなっている。日が傾くと、急速に寒気がやって来る。だが二人がいる場所に落ちる日差しは暖かい琥珀色だった。遅い午後の光には、なお不思議な力が満ちていた。
「最近、いろんなことがつまらんな」しばらくして清美は言った。「健太郎はそんな気がせんか」
「なせかね」答えるかわりにたずねた。
「なせかな」彼女はわずかに下顎を持ち上げるようにして、「学校も家も、自分が住んどるとこも、なんやらつまらん」と少し拗ねたように言った。
 乾いた草の匂いのなかに、彼女の声がぽつんぽつんの小さな花を咲かせている気がした。
「小学校のときにうち、鉱山で働く人らの前で作文を読んだことがあったやろう」清美は昔のことに言葉を向けた。
「そんなことがあったな」上の空に答えた。
「あのときは、こんなふうになるとは思わんかった」
「こんなふうとは、どんなふうか」
「もうちっと面白かった気がする。毎日いろんなことが起こって面白かった」
「いまもいろんなことが起こりよるよ」
「たいていつまらんことやね」見切りをつけるような口ぶりで言った。「つまらんことばっかり起こりよる」
 健太郎は小学生のころの清美をおぼえていた。ときどき現在の彼女が透明になって、小学生のころの彼女があらわれる。だが、いま彼が見ているのは現在の清美だった。すっかり大人びて、どうかすると戸惑いをおぼえるほど綺麗になった清美だった。戸惑いは悲しみに調べを転じ、悲しみは切ないような気持ちと溶け合っていた。
「清美」と名前を呼んだ。
「なんよ、あらたまって」
 彼女は不思議そうに健太郎を見た。彼は自分が何を言おうとしていたのかわからなくなった。
「おまえは田んぼの稲みたいに成長が早いな」
 彼女は透明な目で健太郎を見た。彼が言ったことを恥ずかしがっているようでもあり、当惑しているようでも、持て余しているようでもあった。やがて眉のあいだに軽く皺を寄せ、
「またおかしなことを言うて。いつもそうやってうちをからかうんやね」とそっぽを向いた。
 健太郎は何気なく近くの雑木林に目をやった。そこには先ほどまで見えなかったものが見えた。真っ赤に色づいているのはハゼやウルシの仲間だろうか。茶色っぽいのはクヌギだ。クヌギは短いあいだだけ美しい黄色になる。それからすぐに茶色になる。ツタが赤く色づいている。カラスウリの実が赤く輝いている。ガガイモの実が裂けて、なかからタンポポのような白い綿毛をもつ種子が飛び出している。いま目にしているものが、すでに懐かしく感じられた。
「健太郎」
 振り向くと彼女の眼差しがあった。大きくて暖かい感情がこもっていた。
「またぼおっとしとる」
 瞳の奥で何かが輝いている。その輝きに触れたいと思った。輝きと一つになりたいと思った。彼女の瞳に映っているのは草原だった。自分のなかにも同じ草原が広がってるいのを健太郎は感じた。吸い寄せられるようにして顔を近づけると、清美は一瞬拒む素振りを見せ、それから思い直したように彼の手を取った。何も言わず、まっすぐに健太郎を見ていた。彼は息苦しくなった。怖くなった。責められているようにも感じた。あまりに近くて、痛いような感覚だった。
 突然、清美は立ち上がった。引き止めずにいると、そのまま背を向け、何かを振り切るようにして歩いていった。腹を立てている様子にも見えた。健太郎はむしろほっとした。彼女がいなくなったあと、あたりの風景は急に物悲しくなった。一瞬にして秋が深まった気がした。やがて草の上に白い霜の降りる季節がやって来るだろう。そのときまた二人でここに来たいと思った。何度も繰り返し帰ってきたいと思った。(イラスト RIN)