なお、この星の上に(19)

19
 昭が母親とともに引っ越すことになった。伝え聞いたときには唐突な感じがしたが、どうやら自宅の火事と、その後の一連の放火事件を憂慮した父親の意向らしかった。自分の携わっている仕事が近隣の者たちの反感を買っているとすれば、この先どんな恨みを向けられるか知れない。予期できぬ危険を避けるためにも妻と息子を都会に返すことにした、ということらしい。
 引っ越しの前に、健太郎は昭に会っておきたいと思った。学校で毎日顔を合わせているようなものだが、級友たちの目もあってゆっくり話せない。それで放課後、一人で昭たちの住まいを訪れることにした。家事で焼け出されたあとは適当な借家が見つからないらしく、家族三人は父親の事務所に身を寄せていた。
 事務所のまわりには新しい建物が増えていた。町で不穏なことが起こっても、エランの研究と開発は予定通りに進んでいるらしい。外から声をかけると、戸口に出てきた昭は健太郎を見てちょっと驚いた顔をした。どうやら帰宅したばかりだったようだ。
「忙しいときにすまんな」と健太郎は言った。「引っ越しの準備やら大変やろう」
 昭はいくらか表情を和らげて、
「たいした荷物もないから」と言った。
「ちょっと話ができるか」
 昭はしばらく考える素振りを見せ、
「外でいいかな」と言った。「家のなかは散らかっているから」
 二人は出て川のほうへ歩きはじめた。この道は鉱山開発のために新しく造られたもので、ときどき大型のダンプや資材を積んだトラックが通る。だらだら下る道を行くと川に出た。健太郎たちが魚釣りをする渓流からはかなり下流になり、このあたりでは川幅は広く流れも緩やかだった。いまはコンクリートの頑丈な橋が架かっているが、かつては何もない天然の川原で、夏には子どもたちが川遊びを楽しむ場所だった。
 橋のたもとを折れて、二人は川の土手を歩いていった。
「引っ越しはいつかの」歩きながら健太郎はたずねた。
「今度の土曜日」昭は事務的に答えた。「その日は学校を休んで、午前中には出発の予定だ」
「東京へ戻るのか」
 黙って頷いた。
「寂しくなるな」
 いかにもかたちだけの言葉を交わしている気がした。昭とは前からこんな感じだっただろうか。これまでどんな話をしてきたのか、ほとんど思い出せない。
「いまのところは狭くてね」昭が言った。「もともと宿直の人が寝泊りするだけの部屋だから」
 事務室からドア一枚隔てた六畳ほどの部屋で、家族三人が寝起きしているという。
「そら不便だの」
「長く居るつもりはなかったから」
「東京には自分の家があるのか」
 当たり障りのないことを話してしまうと話がつづかない。黙って歩きつづけていることが、健太郎には苦痛に感じられた。その沈黙によって、自分が責められている気がした。今日、昭に会っておこうと思ったのは、いくらか贖罪の気持ちもあったのかもしれない。
「それにしても迷惑な話やな」寄り添うように言葉を向けると、
「家に火を付けるなんて、どうかしているよ」相手はもう済んだことだという口ぶりで返した。「日照りがつづき空気だって乾いている。燃え移ることは考えなかったのかな。強い風でも吹いていれば大火事になりかねない」
 被害の当事者でありながら、妙に合理的なことを言っているのがおかしかった。さすがは技術者の息子だと思った。
「村の大人らは、みんなおかしゅうなっとるのよ」健太郎はとりなすように言った。「エランのせいで村中がおかしゅうなっとる。なんであんなものがお山に埋まっとるのかと思うことがある。どっか別のところに埋まっとったらよかったのに」
「エランに責任はないよ」昭は大人びた口調で言った。
「そうだの」健太郎は曖昧な相槌を打った。
「小さな原子なかには途方もないエネルギーが蓄えられている」昭は歩きながら難しい話をはじめた。「うまく取り出すことができれば、いろんなことに利用できる。電気を作って、みんなの暮らしを豊かにすることができる。でも間違った使い方をすれば、この前の戦争みたいなことになる。価値のあるものほど危険も大きい。だから慎重に扱わなければならない。そのための研究や開発をしているってことが、ここの人たちにはわからないらしい」
 腹を立てているというよりは、どこか諦めたような口ぶりだった。
「わからんわけではないのやろうが」健太郎のほうは村の人たちを庇いたい気持ちになっている。「ここらの暮らしはもともとがゆっくりしとる。急に変わることには慣れとらんのよ。少しずつ変わっていくなら、村の人らも受け入れることができる。ところがここ数年は新しい道ができたり、新しい橋が架かったり、知らん人が大勢やって来たり、山が形を変えるほど切り開かれたり、何もかもが急速やった。そういうことには慣れとらんのよ。あんまり急に変わると、自らの暮らしが壊されていくと感じるのやないかの」
「わかってないんだ。大人も子どもも」昭は思いがけず強い言葉で断じた。
「なんがわかってないんかの」素朴な口調でたずね返すと、
「何もかも」投げやりに答えた。「変わっていくのが嫌なら、いつまでも炭を燃やして家のなかを温めたり、薪でご飯を炊いたりしていればいい。自分の手で畑を耕し、稲刈りをすればいい。馬に荷物を運ばせたり、牛に犂を曳かせたり、そういう暮らしをずっとしていればいい」
 ひとしきり言い募って足を止めた。誰かに呼ばれたか、何かを思い出したか、そんな立ち止まり方だった。
「そう思わないか」振り向いてたずねた。
 健太郎は答えなかった。昭はすぐに顔を背けるようにして、ほとんど歩調も乱さなかった。二人は黙って歩きつづけた。前を行く級友が、急に見知らぬ者になった気がした。自分がなぜいまここにいるのかわからなくなった。どうして昭と一緒に歩いているのだろう。自分たちは同じ場所にいるように見えるけれど、本当は別の世界を生きているのかもしれないと思った。
「カネを持ってこいと言われたよ」
 再び昭が口を開いたとき、健太郎はなんのことかすぐにはわからなかった。話しているほうも、いかにも蔑んだ口ぶり以外は、心の在処を悟らせないような切り出し方だった。
「もちろん持っていかなかった。そしたら殴られた。顔じゃなくて腹をね」
 むしろ殴られたことよりも、目立たないところを狙ったことを不正と言いたげだった。
「馬鹿なやつらだと思った」負け惜しみではない口調だった。「大人も子どもも。どうしようもない馬鹿だ」そう言って、最後に大きなため息をついた。
 もっともな言い分だと思う一方で、健太郎は昭にたいして軽い憎しみをおぼえていた。数年前に家に石油ストーブが入ったときのことを思い出した。あのときストーブの暖かさに、家族の誰もが感動に近い驚きをおぼえたものだった。おかげで冬の家のなかはずいぶん過ごしやすくなった。静かな夜寒に妹の綾子と二人、ストーブの小窓のなかで燃えている火を、いつまでも飽きずに眺めた。芯に染み込んだ石油が燃える炎を美しいと感じた。昭が「どうしようもない馬鹿だ」と言う人たちも、そうやって少しずつ新しいものを受け入れていこうとしている。
「そろそろ帰るよ」昭は明るくも暗くもない声で言った。「訪ねて来てくれてありがとう」
 健太郎はただ黙って頷いた。心残りになることはわかっていたが、返す言葉を思いつかなかった。こうして会いに来たことが徒労のように感じられた。

 つぎの土曜日、アツシは避病院に現れなかった。一時間ほど待ってみたけれど、やって来る様子はない。彼が住んでいる山の集落へは、行こうと思えば一人でも行けそうな気がする。道はわかっている。ただ暗い針葉樹の森に入るのは気が進まなかった。おかしなものに取り憑かれても困る。何か急な事情ができたのだとすれば訪ねていっても留守かもしれない。もっともらしい口実をつけて避病院をあとにした。村のほうへ歩きはじめると、やって来ないことを予期していたような気がした。
 帰り道をたどるうちに眠気が差してきた。村に入ったところで、向こうからやって来る豊に会った。昭の家に行った帰りだという。
「見送りに行ったが、もう出たあとやった」
 出発は土曜の午前中と本人が話していた。今日がその日だったことを、健太郎はすっかり忘れていた。
「会えんかったのか」
 豊は残念そうに頷いた。
「ひとこと見送りを言いたかったのやが」
 二人は田んぼ沿いの道を折れて歩いていった。しばらく行ったところで、
「武雄はあいかわらず学校へは出てきてないのか」と豊がたずねた。
「そういえば最近は学校を休んどるな」問われたままに答えると、
「おまえ、知らんのか」
 豊は心底呆れたという顔で健太郎を見て、武雄がいま新吾の次兄のところで暮らしていることを告げた。農作業の手伝いなどをしながら、猟師になる準備を進めているらしい。
「ちいとも知らんかった」
「呑気やな。同じ組やのに」
 二人はどちらからともなく土手の草の上に腰を下ろした。刈り入れの終わった田んぼには、二番穂の緑が戻ってきつつあった。遠くのほうで草を焼く煙が立っている。大きく息を吸い込むと、枯れ草の匂いとともに、少し湿っぽい煙の匂いが胸のなかに入ってきた。
「昭もこんな中途半端な時期に転校しては大変やろうな」健太郎は去っていった同級生のことに言葉を向けた。
 豊は表情を変えずに近くに生えている草をちぎっていたが、
「わしは昭がどっかへ行けばええと思うとった」やがて打ち明けるように言った。「都会から来て、頭も性格もええ。欠点らしい欠点は見当たらん。一緒におると自分が見劣りするように思えて、昭にあんまりええ気持ちをもてんかった。嫌いというわけやないが、なんとのう苦手やった。引っ越すと聞いたときも、ほっとしたいうのが正直なところやった。そういう気持ちになっとる自分が、なんやらつまらん人間に思えてな」
 話を聞きながら健太郎は、この気のいい友人が自分の心の内を代弁してくれている気がした。同時に、気づきたくなかったことを、無造作に目の前に広げられたようでもあった。たしかに妬ましさを含めて、昭にたいする複雑な気持ちは健太郎のなかにもあった。それは水中へ投じられた丸太のように、ときどき浮かび上がってきた。水面にあらわれそうになるたびに、手でそっと押し戻す。丸太は静かに再び水のなかへ沈んでいった。
「カネを持ってこいと言われていたらしい」健太郎は本人から聞いたことを話した。
 するとクラスの違う豊は、
「ああ、知っとる」と答えた。
「知っとったんか」意外そうに返すと、
「知らんかったんか」またしても呆れられた。「たいていの者は知っとったと思うぞ。みんな見て見んふりをしとったのやないかの。わしもそうやけど、かかわり合いになりとうないけん」
「先生は知らんかったのやろうか」
「たぶんな。それとも知っとって、知らんふりをしとったかもしれん」
 眼差しを上げると、まだ午後の早い時間なのに少し日が翳ったように感じられた。日が短くなるこの時期が、健太郎は苦手だった。気持ちまで縮こまっていく気がする。
「なんもかもがおかしなほうへ変わっていく気がする」愚痴をこぼすように言って、「この世に変わらんものはあるやろうか」と問いを向けた。
「なんの話か」豊は怪訝そうな顔をした。
「わしらが知っとるもので、絶対に変わらんものが何かあるやろうか」
 豊はしばらく考える素振りを見せた。
「自然は変わらんやろう」と彼は言った。「山とか川とか森とか」
「自然こそ変わるやろう」健太郎は不必要に強い声で反論した。「山は削られ森は切り開かれる。川では魚が少なくなっとる」
「わしが言うのはもっと大きな自然のことよ」豊は心外そうに、「空とか海とか宇宙とか」と並べ上げた。
「まあ、宇宙は変わらんかもしれんな」健太郎は声を和らげて言った。「しかし宇宙のことは、あんまり知らんけんな。直接は関係ないし」
「山の神とか、そういうもんはどうか」
「見たことも会うたこともないぞ」
「そうじゃ、吉右衛門爺さんがおった」豊は自分の思い付きを嬉しそうに口にした。「爺さんは変わらんぞ。山の奥に棲んどって、武雄の説では百歳を超えとるらしい。この先何歳まで生きるかわからん。永遠に生きとるのかもしれん。おまえは会うたのやろう」
「まあな」健太郎は曖昧に答えた。あの夏の日、たしかに吉右衛門爺さんに会った。だが、あれは本当に吉右衛門爺さんだったのだろうか。
「死んだ人の魂とか御霊さまとか、そういうもんも変わらんのやないか」豊は妙に抹香臭いことを言った。「見たり会うたりすることはできんが」
 そういうものを持ち出されると、ちょっとはぐらかされたような気分になる。
「わしらのなかにあるものではどうか」健太郎は対象を限定した。「何か変わらんものがあるかの」
 豊は思案顔になった。
「顔や性格は、あんまり変わらんのと違うか」どこか気乗りのしない声で答えた。「何十年か経ってから会うても、たぶん変わっとらん気がする」
 それはどうだろう、と健太郎は思った。顔や性格はともかく、自分というものは変わっていくのではないだろうか。どのようなものになってくのか、どんな大人になっていくのか。行き先がわからないのは心もとないことだ。そんなことを豊は考えないのだろうか、と思って相手の顔を見ると、
「人間の欲深さもあんまり変わらん気がするな」同い年の友だちは意外に老成したようなことを言った。「誰かを妬む気持ちとかな。それで結局は昭も村におられんことなってしもうた」最後は悔やむような口ぶりになっていた。
 その口ぶりに染まって、晩秋へ向かう村の景色がひときわわびしく眺められた。こんな景色を眺めている自分たちをみじめだと感じた。(イラスト RIN)