なお、この星の上に(18)

 その日の夕食時、母親は電気洗濯機の話を持ち出した。近所の婦人たちと見にいったらしい。このあたりで最初の電気洗濯機を買った家というのが、多賀清美のところと聞いて、健太郎は自分のことが話題になっているわけでもないのに、心臓の鼓動が早くなるのをおぼえた。
「そりゃあ便利なもんですわ」母親が話している。「水と洗剤を入れてタイマーを合わせたら、あとはもう自分で洗ろうてくれるんですけん」
「和子さんには大助かりやな」祖母は嫁の肩をもつように言葉を補った。
 たしかに健太郎から見ても、一家六人の洗濯は大変だった。母親はいつも井戸の傍らで洗濯をしている。木の盥に井戸の水を汲み入れ、固形石鹸を衣類につけて、洗濯板の上でごしごし揉んで汚れを落とす。夏場などは汗だくの仕事だった。洗い上がった洗濯物を竹竿に通して庭に干すと、絞りきれていない水が垂れる。水滴に太陽の光が反射して輝くのを、幼い日にじっと見ていたことをおぼえている。あれは幾つぐらいのときだったろう。
「水はやっぱり井戸のを汲まにゃならんのだろ」父親がたずねた。
「そうですな。多賀さんのとこは、もう水道が来とるけん余計に楽ですわ」
「うちも水道が来たら考えないけんかの」
「水道が来んうちに考えてもろうてもええよ」母親が冗談めかして言うと、
「どうするかの」父は生煮えの返事をした。
「うちも洗濯機で洗濯してみたいわ」と綾子が言った。
「馬鹿だの。洗濯機は自分で勝手に洗濯するんじゃよ」健太郎が余計なことを言った。
「知っとるよ、そのくらい」妹は反論した。「うちが言いよるのは洗濯物を絞る器械のことよ。こんなハンドルまわしてな、ローラーみたいなんで絞るんよ。兄ちゃんは知らんのけ」
「知っとるわい」
「それから女の人に馬鹿と言うのは、男尊女卑じゃよ」
「こりゃ、ものすごい言葉が飛び出しよったの」祖父が面白そうに言った。
「綾子、男尊女卑いうのは、そういうことじゃあないよ」父親が真顔で訂正した。
「いや、そういうことじゃよ。女の人に馬鹿と言うのは、男尊女卑じゃよ」
「学校の先生が、そう言うたか」祖父がたずねた。
「言うた、言うた。男が威張るのは男尊女卑じゃ」
「そしたら女が威張るのはなんね」健太郎はいくらかむきになって言い返した。
「そんなこと、うち知らんわ」
 この二人は同じ遺伝子を受け継ぎ、同じ環境のなかで育てられたにもかかわらず、あらゆることで意見が合わなかった。兄が右と言えば妹は左と言い、妹が赤と言ったものを兄は白と言ってみたくなる。口は妹のほうが立つので、以前は癇癪を起こした健太郎が、腕力に訴えて綾子を泣かすこともしばしばだった。さすがに中学校に上がったころからは、体力の差を自覚して手を出すことはなくなったが、口論において持て余すところはあいかわらずだった。もっと小さかったころは、橋の下に捨てられていたのを拾ってきた、などという出まかせを真に受けて泣き出す妹を見て溜飲を下げたものだが、長じて知恵がついてくると通用しなくなった。顔の特徴は健太郎が母親似で、綾子が父親に似ているというのが、親戚のあいだでは定説となっている。しかし性格は、どちらかというと自分は父親に似ており、綾子は母親の性格を受け継いでいる、と健太郎は判断していた。そして顔も違えば性格も違う両親が、自分たち兄妹のように対立することも、また言い争うこともないのを、彼は不思議に思った。
「内藤くんとこへ行ってきたんやろう」兄妹のあいだが険悪になりそうなのを察して、母親が別の話題を持ち出してきた。「どうやったね」
「とくにどうもない」健太郎は面倒くさそうに言った。
「電気洗濯機はあったか」母親にかわって綾子がたずねた。
「カナリアがおった」健太郎は妹を無視して言った。
「へえ、カナリアがね」
「知っとるんか」
「歌があるけんね、カナリアの。けど本物は見たことないわ」
「可愛い鳥じゃよ」
「お昼は何をご馳走になったん」と母親らしい質問をした。
「フレンチ・トースト」
「はあ」
「知っとるけ」
「そりゃあ知っとるけど」母親はなぜかおかしそうに、「ハイカラなものを出してくれたんやな」と言った。
 健太郎はまるで自分が笑われたかのように、「日曜の昼はフレンチ・トーストときまっとるそうなよ」と弁解するように言葉を補った。「昭のとうちゃんが留学先で習うてきたらしい」
「留学かね」母親が感心したように言った。
「アメリカとイギリス」
「うちもアメリカ行きたいわ」と綾子が言った。
「綾子も留学するか」祖父が軽い口調でたずねると、
「したいな」小学生の娘は生真面目に受けた。「先生もいまからの日本人は、どんどん外国へ出ていかないかんて言いよんさる」
「そう簡単なことやないんよ」母親が現実的に言った。「いっぱい勉強せな、外国へは行かれんよ」
「うち、勉強好きやけん」
「そらあええことや」と祖母が言った。「おばあちゃんらのころは、女の人は忙しうて勉強する暇もなかった。これからは電気洗濯機も来るし、女も勉強する時間ができるやろう」
「先生もおんなじことを言いよった」
「そうか」
「電気で洗濯したりご飯を炊いたり、いろんなことができるようになっていったら、自由に使える時間が増えていく。そうやって生活が便利になって、自由に使える時間の増えていくことが歴史の進歩なんよ」
「綾子は学校で難しいことをいろいろ習うとるようだの」祖父が面白そうに言った。「この前は民主主義で、今度は歴史の進歩か」
「昔はな、自由は王様やお殿様や、かぎられた人にしかなかったんよ」綾子は担任の受け売りをはじめた。「自分のかわりに洗濯したりご飯炊いたりしてくれる人がおったおかげで、その人らは自由にしておられたけど、ほとんどの人は王様やお殿様の自由のために働かされて不自由やった。これからは機械が人間に代わっていろんなことをしてくれるようになるから、身分の高い人だけやなくて、普通の人も自由になっていく。そうして一人ひとりが自由になっていくことが、歴史の進歩なんよ」
「なかなか偉い先生みたいだの」
「うちもそう思う」
「しかし機械いうてもタダやないやろ」母親が水を差すように言った。「電気洗濯機もだいぶ高いものやし。そのお金を稼ぐためには、やっぱり働かなならんわね」
「人のために働くんやないけん、うちはええ思うな。王様やお殿様のために働くのは嫌やけど、自分のために働くんなら、うちはええわ。うちだけやのうて、みんな一生懸命に働くと思うな」
「うん、たしかにそうかもしれん」と祖父は言った。
「あのな、うちらの農業でも、いまは田植えを一緒にやっとるけど、そのうち機械で田植えができるようになったら、一人で好きなときに田植えができるで。自分とこはお米以外のものを作ろうとか、一人ひとりがいろいろ工夫してできるようになるやろ。そしたら働くことがもっと楽しくなると思うな。人間はみんな性格も違うし考え方も違う。そやから本当は、一人ひとりが自分のしたいことをして、好きなように生きるのがいちばん幸せなんよ」
「それも学校の先生が言いなさったか」祖父はたずねた。
「これはうちの考えじゃよ」
「惣一郎」祖父は息子に言った。「綾子は政治家にしたらええかもしれんな」
 健太郎はなんだか妬ましいような気分になった。自分が妹に遅れをとっている気がした。つい数年前まで、たいていのことは信じ込ませることができた。捨て子の話みたいな、たわいない嘘で容易に泣かせることができた。ところがいまや、一家でいちばん立派なことを言っているのは、年齢的に幼い妹だった。祖父の言うように天賦の才があるのかもしれない。大半は学校の先生からの受け売りと思ってみても、健太郎は妹にたいして目に見えない重圧のようなものを感じた。

 その夜、布団のなかで健太郎が考えたのは、しかし何かと癪にさわる妹のことではなく、多賀清美のことだった。どうしてなのかわからない。ただ自然に、ぼんやりと彼女のことを考えていた。清美とは小学生のころからの幼馴染だった。特別に仲が良かったわけではないが、もともと生徒の数が少ない小学校なので、同性異性の区別もなく親しく交わってきた。中学へ進むころから、どことなく清美の態度がよそよそしくなった。そのことを健太郎は不満とも不愉快とも思わずに来た。そういうものだと思っていた。
 ところが内藤が引っ越してきて、清美は彼に気があるのではないか、将来は夫婦になるかもしれない、などといった取り沙汰が耳に入るようになると様子が変わってきた。新吾などが気安く口にする憶測を、穏やかならぬ気持ちで聞いている。近ごろは清美の名前が出るだけで、心の奥が波立ってざわざわしはじめる。幸い豊が一緒にいて、わかりやすい反応をしてくれるので、彼自身の内面は隠すことができた。他人にたいしてだけでなく、自分自身にたいしても。だが、いまはそういうわけにはいかない。自分だけを、自分の心を相手にしなければならない。そんな夜が、健太郎は苦手だった。
 厄介事から逃げるようにして、健太郎は豊のことを考えはじめた。やはり内藤への対抗意識があるのかもしれない。それが理由で招待を断ったというのは考え過ぎかもしれないが、豊が内藤を苦手にしていることは確かだった。露骨に嫌っているというよりは、なんとなく煙たがっている。内藤と比べられることを避けているのかもしれない。二人のあいだに清美という人間を置いてみれば、その心情はわからないでもない。では、自分と内藤とのあいだに清美を置けばどうだろう?
 呪いにかかったようなものだった。誰がかけた呪いなのかわからない。理由には思い当たらない。自分で自分にかけたというのが本当のところかもしれない。だから余計に厄介でもあるわけだが、健太郎の考えはそちらへは向かわなかった。あくまで呪いをかけた犯人を見つけ出さずには気がすまない。すると自ずと昭のほうを向いてしまう。嫌疑をかけられた者こそいい迷惑で、本人には身に覚えのないことだったろう。だが内藤という一人の少年の影が、清美の存在を覆いつつあることは間違いなかった。それは豊だけではなく新吾も感じていることだった。健太郎も感じている。だからこんなふうに、彼女のことを考えておかしな気分になるのだ。
 これまでは見向きもしなかったものを、誰かが欲しがっていると知った途端に自分も欲しくなる。そういうことはある。つまり内藤は、期せずして清美に新しい光を当てたのだ。この狭い共同体の外から、別の視線を持ち込んだ。異質な光や視線に触発されて、幼いころから清美という少女を見てきた者たちが動揺している。いまの自分はそういう状態なのだ、と健太郎は折り合いをつけるようにして思った。おそらく豊にも似た症状が出ているのだろう。この気持ちは一過性のものだろうか。いずれは過ぎて、消えてしまうのか。そうかもしれない。しかし永久に解けない呪いというのも、あるのかもしれない。
 遠足の日のことを、健太郎は思い出した。草の上に寝転んで目を閉じていたとき、ふと何か気配を感じて目をあけた。自分を見つめている眼差しと出会った。その眼差しは、彼がよく知っているものでありながら、まったく知らない誰かのものだった。いった何が起こったのだろう。何が起ころうとしていたのだろう。外国の珍しい音楽と出会ったようなものだった。これまで耳にしたこともない未知の音楽。出会いは新鮮な驚きであるとともに、懐かしくもあった。長いあいだ忘れていた友だちと、ひさかたぶりに顔を合わせたような、そんな驚きでもあった。
 とても小さな音で、静かに流れていたのかもしれない。ずっと絶えることなく、流れつづけていた。いつも聞こえていたはずなのに、気がつかなかった。それが何かのきっかけで、突然聞こえはじめる。あのときがそうだった。春の野で、不思議な眼差しと出会ったとき。以来、聞こえつづけている。耳について離れない。どうやっても閉め出すことはできない。その美しい音楽は、遥か彼方の宇宙の果てを流れているようであり、また彼自身のなかを流れているようでもあった。
(イラスト RIN)