なお、この星の上に(17)

17
 町では火事が相次いだ。どれも不審火とみなされていた。おそらく同じ犯人だろう、と村の者たちは言い合った。古い記憶が掘り起こされた。祖母が子どもだったころの話だ。無籍無宿のまま漂泊生活をしている者たちを、村の人たちは「山乞食」と呼んで蔑んでいた。そんな境遇の若者の一人が、あるとき盗みの嫌疑をかけられ、村の者たちに袋叩きにされた。しばらくして彼らは集団で襲ってきて、多くの家が火を付けられた。
 だが山乞食を見なくなって長い年月が経つ。戦争がはじまる前から、すでに彼らは姿を見せなくなっていた。子どもの悪戯ではないかと言う者がいた。悪戯にしては度を越している。怪我人も出ている。火事による怪我ではない。家鳶口で窓を破ってなかに入ろうとした消防団の青年が、落ちてきたガラスで首を切った。いずれにせよ悪戯では済まない。れっきとした犯罪、いや重罪にも値する。子どもにそんなことができるのか。中学生くらいならやれるだろう。このあたりの中学生にそんなことをする者はいない。他所から来た者か。どこから来た。飯場で暮らしている人夫の子ではないのか。人夫はみな単身で来ているはずだ。子連れはいないと聞いている。
 健太郎たちのあいだでも、火事のことは話題になっていた。授業の引けたあとの教室で、十人ほどの男子生徒が、まわりの耳を憚るようにして話をしていた。おおっぴらに語ってはならないことだった。自分たちは「容疑者」なのだ。不審火がつづくかぎり容疑は晴れない。身の潔白を証明するためには、真犯人を探し出さなければならない。そんな暗黙の了解のようなものがあった。
 被害者めいた気分のなかから、「戦争の落し子」という言葉が出てきた。あの戦争では、たくさんの孤児が生まれた。とくに父親を知らない子どもは多くいる。彼らは父親を探して放浪する。自分の身内を探してさまよい歩く。兄弟や姉妹はいないのか、と誰かがたずねた。そんなものはいない、と話し手は答えた。落し子は一人ぼっちだ。なぜ一人なのか。戦争の落し子とはそういうものだ。そういうものとは、どういうものか。おまえの父は戦争に行ったか。行った。それならおまえには、まだ会ったことのない兄や弟がいるかもしれない。わしには妹しかおらん。妹が一人、それだけだ。おまえの知らない兄弟のことだ。
 男ばかりで生活するわけだからな、と訳知り顔の者はつづけた。街から街へ、田や畑を荒らしながら行軍する。ろくに食べ物も持たずに歩きつづける。飢えた動物みたいに。無敵の肉食獣みたいに。たしかに百姓や年寄りや女子どものなかでは無敵に違いない。それをいいことに狼藉をはたらく。無法の限りを尽くす。食べ物を手に入れ、ついでに女も手に入れる。子どもが生まれる。そいつはおまえの兄弟かもしれん。
 やめんか、と誰かが制した。そんな話は面白うない。聞きたくなければ無理に聞くことはない。数人が席を立った。再び静かになった教室で、一人の者が話しつづけた。この町にも落し子はやって来る。いつなんどき現れるかわからない。しばらく姿が見えなくなっても、またやって来る。繰り返し戻ってくる。この教室にもな、と声を低めたとき、居残った者たちは示し合わせたように半開きの戸口のほうに目をやった。言葉が途切れると、内も外も静かだった。いつのまにか夜中に怖い話を語り合うような空気になっている。たしかに、これは大人たちに聞かれてはならない類の話だった。
 そういう者たちが何をするか知っているか、と扇動者めいた役回りを演じる者は問いを投げた。まわりの者たちは無言でつづきを待った。家に火を付けるのよ。なぜ、そんなことをする。戦争の落し子とはそういうものだ。人の家のものを盗む。あちこちに火を付けてつけてまわる。彼らは自分がどうやって生まれてきたかを知っている。父が行ったこと、母がされたことを、今度は自らが実行する。悪いこととも思っていない。
 再び言葉が途切れた。放心したような時間が流れた。やがて誰からともなく勉強の道具をまとめはじめた。一人、また一人と教室を出ていく。口をきく者はいなかった。先ほどまで話していた生徒も、いまは痛々しいような顔で他の者たちに従った。
 校門を出たところで、健太郎は武雄と一緒になった。彼がいたことは、ほとんど頭になかった。あの場では、誰もがのっぺらぼうみたいに顔と個性を失っていた。自分も武雄も、のっぺたぼうの一人だった。きわどい話にうつつを抜かしたという感じだけが残っていた。
「あいつのことやないかの」武雄は藪から棒に言った。
「なんのことか」うつろな気持ちのまま言葉を返すと、
「戦争の落し子よ」武雄はくぐもった声で答えた。「昭の家が火事になったとき焼け跡で見かけたやつ。あれは戦争の落し子やないかの」
 なぜか健太郎は自分の正体を見破られた気がした。
「歳が合わん」思いつきの異論を口にした。
「歳が合わんとはどういうことか」武雄は不審そうにたずねた。
「あいつはわしらと同じぐらいの歳やった。体格からすると下かもしれん。戦争の落し子なら、もっと歳がいっとる」庇うような言い方になっている。
「せいぜい三つか四つやろう」いかにも取るに足りないことだという口ぶりで武雄は言った。「ひょっとして二つぐらいかもしれん。そのへんはようわからん。ろくに乳も与えられずに育てば、体格なんぞはあてにならん。わしはどうも、あいつが戦争の落し子のような気がする」
「そんなら火付けも、あれの仕業か」健太郎は胸の鼓動が速まるのを感じた。
「そこまではわからん」武雄は何かを猶予するように答えた。

 家に帰ると綾子が開口一番、灰拾いが釈放されたと言った。
「やっぱりガーグーは犯人やなかったな」
 どうやら前に自分が主張していたことは忘れているらしい。
「おまえの民主主義は怪しいもんだの」と健太郎は皮肉を言った。
「なせか」
 それには答えずに自分の部屋に引っ込んだ。不審火がつづいたおかげで、昭の家に火を付けたのが灰拾いではないことが証明されるかたちになった。すると誰の仕業なのか。放課後の話が心を離れなかった。父親を探してさまよい歩く戦争の落し子の話だ。町から町へ渡り歩きながら物を盗み、恨みもない家に火を付ける。おまえなのか。おまえが犯人なのか。なぜそんなことをする。何が目的だ。ただ火を付け、人を慄かせることか。
 夕食の席では、夜まわりのことが話題になっていた。村の男たちが二人ひと組で家々のあいだを歩いてまわる。自警団に近い性格のものらしい。戦争のころに戻ったようだ、と母親は言った。あのころは毎夜の空襲に怯えたものだった。県内のめぼしい市や町は、ほとんどが被害に遭っていた。さすがに山奥の小さな村までは飛行機も来なかったが、頭上を飛んでいく戦闘機や爆撃機の姿は何度か目にしたことがある。空一面が覆い尽くされることもあった。
「波状攻撃いいよったかな、あとからあとから、ひっきりなしに飛んでくるみたいやった」
「なんぼぐらいおった」綾子が無邪気にたずねた。
「百か二百はおったんやないかな」
「大編隊やな」
「おかあちゃんは女学校でね、昼間は隣町の工場で勤労作業いうのをやらされよった」母親は昔語りに話しはじめた。「学校の授業もありよったけど、まとまった勉強どころやなかったな。食べ物も乏しかったし、大人も子どももみんな疲れ果てとった」
 いつのまにか遠くを見るような目になっている。
「大きな町はみんな爆撃を受けて、なんもかも焼かれるし、亡くなった人もたくさんおるいうことやった」長閑にも聞こえる声でつづけた。「幸い、うちらが働きよったところは軍需工場もない小さな町で爆撃はまぬがれとった。爆弾さえ落とさなんだらきれいなものやったよ」
「飛行機か」
「天気のええ日は機体が銀色に輝いてね」
「うち飛行機、見たことないわ」
「その日も空襲警報はすぐに解除になった」と母親は話をつないだ。「いつものことやった。ところが、その日はいつもとは違うとってね、一機だけが急に引き返してきた。あっという間もなかったな。地震みたいに地面が揺れて、ぐらぐらっときた思うた瞬間に、ものすごい音がした。おかあちゃんたちは両手で目と耳を覆い地面に伏せた。爆弾が落ちたときには、そうするように訓練で習うとったけんね。目をあけたときには、黒い煙が立ち上って、そのなかを粉々になった建物やなんかの破片が舞いよった。昼間やのに夜みたいに真っ暗でね、夢でも見とるみたいやった」
「竜巻みたいな感じか」
「そんなふうやね」息切れしたような声だった。「映画や写真で見たのと同じ光景やった。これは大変なことになったと思うたのは、しばらく経ってからやった。あとでわかったことやけど、このときの爆弾で一つの町内がおおかた消し飛んでしもうとったのよ。怪我をした人らを運ぶトラックが町のなかを走りまわって、道路には死体の山が築かれとった。たった一つの爆弾で、百人以上の人が亡くなったいうことやった」
 健太郎は話に加わらずに、黙って飯を喰った。味はおろか、何を食べているという意識もなかった。母親の空襲の話に、新吾の次兄の話を重ねていた。空襲直後の空気に残っている人々の恐怖、その恐怖を想像することは彼の能力を超えている。音が聞こえた。映画の一場面のような光景が目に浮かんだ。聞こえているのは警報のサイレンの音だ。浮かんでいるのは煙のなかを逃げ惑う人々の姿だ。誰もが息を詰めて走っている。背後からは炎が迫ってくる。行く手にも火の手は上がっている。どの道をどう走っても逃れ切れるものではない。立ち尽くし、膝を折り、うずくまる人もいただろう。地面に平たく伏せるた人もいただろう。彼らの頭上から、凶悪なものがやって来る。空気を切り裂く音とともに、人も街も焼き尽くす円筒形の物体が襲いかかってくる。
 地中の音が吸い込まれるようにして世界が無音になる。つぎの瞬間、耳をつんざくような爆発音とともに恐怖が巻き散らかされる。人々の叫び、悲鳴、喚き声が街を覆い尽くす。あちこちに焼け爛れた死体が転がっている。白い煙を上げて燻っているものもある。手足や首が取れているものもある。瓦礫のなかに埋まりかけたものもある。
 そのなかを戦争の落し子が歩いてくる。健太郎と同じくらいの年格好の少年だ。一言も口をきかず、周囲から切り離されて、ふわふわと宙に浮かぶような足取りで歩いてくる。漠とした恐怖を自分の内に閉じ込めて、ここへもやって来る。ひょっとして、もう来ているのかもしれない。

 拍子木を打ち鳴らし、男たちが暗い夜道を歩いていく。神妙な顔をして歩く者たちの姿が浮かんだ。耳に聞こえるよりも目に見える。少し遅れて「火の用心」という声が聞こえてくる。警戒を呼びかけるにしては締りがない声だった。誰に用心を促しているのだろう、と健太郎は寝床のなかで訝った。かえって火を呼んでいるようなものではないか。
 このあたりの家の多くは古い木造で、火が付いたらたちまちだ。おまけに薪だの藁だの、燃えやすいものが家の周りに無造作に置かれている。火付けを繰り返している者が、夜まわりくらいで悪行を思いとどまるとは思えない。向こうがその気でいるかぎり、いくら用心していても火の手は上がる。夜まわりが立ち去るのを見計らって、その者は姿を現す。声に応答して、火の気のないところに小さな炎が立つ。
 風の音が聞こえた。近くの雑木林を風が吹き抜ける音だ。その風に煙の臭いが混じっている。気持ちが追い詰められているのを感じた。戦争の落し子がやって来る。気配がする。すでに影は見えてくる。暗がりのなかにうずくまっている。やがて立ち上がり、ひたひたと夜道を歩きだす。何かが喫水線を超えた心持ちで、健太郎は布団を抜け出した。手早く普段着に着替え、防寒のためにジャンパーを羽織った。
 冷たい空気のなかに臭いが嗅ぎ分けられた。煙の臭いだ。まだ立っていない火の臭いだ。どこへ向かっているという意識もなしに、ただ殺伐として自分がここではなく、どこか遠方にあると感じられた。それを探しに行かなければならない。追いついて、取り戻さなければならない。先を歩いていく影を追いかけているようだった。影に先導されて歩きつづける自身を徒労と感じた。後ろ姿を見送る気分になりかけて立ち止まると、暗い夜空を悲しみの声が流れている。
 アツシ、おまえなのか? おまえが泣いているのか。こんな夜更けに一人、声を上げて泣いているのか。半分は眠ったままで、泣くだけ泣いて、朝には心が空っぽになっているのか。母親に殺されかけたと言っていたな。本当は一緒に死のうとしたのではないだろうか。思い詰めて心中を図ったのではないだろうか。夫を亡くし、女手ひとつで子どもを育てることに困窮し、先の望みがないことに見切りをつけて。いや、それでも母親は生きようとしたのかもしれない。だが小さな子どもに顔を覗き込まれ、父親はどこのいるのかとたずねられたとき何かが途切れた。彼女を生につなぎとめていたものが見失われた。面相の変わった母親は、子どもを殺して自分も死のうとした……。
 いつのまにか村の外れまで来ていた。この先に人家はなく、ゆるやかな勾配の道は杉や檜の林のほうへつづいている。さすがに足を踏み入れることはためらわれた。幸い月は出ていた。だがその月の光も、林のなかへは入っていない。入口あたりの木々はほんのり明るんでいるが、そこから先は真っ暗だった。
 自分の意思とは無関係に足が出た。頭と身体に分離した感じがあって、放り出されるように足が勝手に動いていく。怖さは感じなかった。林のなかは静かだった。鳥や動物たちの声は聞こえない。ときおり風が吹くと、月の光に照らされている頭上の梢がざわめいた。それが収まると、あたりは一層深い静寂に包まれた。やがて目が慣れてくると、梢を透して落ちてくるかすかな光でも、おぼろげに物の姿が見分けられるようになった。地面は一面が羊歯のような植物で覆われている。そのなかに植林された木々が整然と立ち並んでいる。
 人の手で植えられた林は、いつのまにか天然の森に変わっていた。歩いていくにつれて、闇に吸い込まれていく気がした。闇のなかで見られている感じが強くなってくる。森が見ている。暗闇が見ている。見られているほうは暗闇に溶けていく。自分が消えていく。魂がさらわれていく。「魂」などという、見たことも触れたこともない言葉を、こんなときに無造作に使えるのが不思議だった。自分は昔ここにいたのかもしれない。懐かしさとは違う奇妙な帰属感があった。
 嗅覚が鋭敏になっている。遠くのかすかな匂いも嗅ぎ分けられそうだった。森の空気のなかを、いろいろな匂いが漂ってくる。いい匂い、悪い匂い、扇動的な匂い、危険な匂い。足取りも敏捷になっている。もう疲れは感じない。「魂」という言葉もどこかへ行ってしまった。暗闇のなかに何かが潜んでいるらしい。森の奥のほうで犬に似た動物の鳴き声がした。互いに呼び交しながら近づいていくる。仲間を呼び寄せているのかもしれない。獣たちの気配が集まってくる。
 逃げるべきかとどまるべきか、判断する間もなく囲まれていた。野犬の群れだった。たくさんいるようだ。隊列をなすようにして取り囲んでいる。いまのところ襲ってくる様子はない。じっとこっちを見ている。首領らしい一匹が口をきいた。
「おまえ、人間臭いな」
 人ではないものが人間の言葉を喋っている。人間の言葉で「おまえは人間臭い」と言う。そう言うおまえたちは何ものなのか。
「アツシ」
 たずねるとも名指すともつかない言い方になっていた。
「ほら見ろ。こいつはアツシという名前だ」声の主が勝ち誇ったように言った。
「そこにいるのはアツシだろう」口をきいたものに向かって言葉を放った。
「おれたちに名前はない」別の一匹が答えた。「名前など必要ない。なぜならおれたちは一つのものだからだ。一つの生命体として、馬鹿げた名前を呑み込んで粉砕する。名前を欲しがるのは、欲深く孤独なサルくらいだ」
「何を言っているのだ」
「おまえこそ何を喋っている」嘲りを含んだ声が返ってきた。「おまえは野犬の誇りと結束を忘れてサルになろうとしている。姿かたちこそ野犬だが、心はサルになっている」
「違う」身の証を立てるように言った。「わしは人間だ」
 笑い声が起こった。
「おまえが人間だと」声の主は小馬鹿にしたような抑揚をつけた。「よかろう、それならこの場で喰い殺してやる」
「そうだ。人間はおれたちの敵だ」
 さらに多くの声がつづいた。
「敵は殺せ」
「鶏みたいに喰ってしまえ」
 言葉通りの強い敵意は、いまのところ伝わってこなかった。ただ自分が無数の目によって凝視されているのを感じた。
「人間はおまえたちの敵ではない」弁明するように言った。
「それならどうしておれたちを狩る」
「わしはそんなことはせん」
「いかにも、おまえはそんなことはしない。なぜなら、おまえは人間ではないからだ。おれたちと同じ野犬だ。だが心はサルになっている。あの欲深く孤独な動物に成り下がろうとしている。欲深いサルは名前を呼ばれると振り向く。孤独だから名前を欲しがり名前をともに生きる。そうして人間に近づいていく。おまえはサルを経て人間になろうとしているのだ」
「人間か」別の一匹が吐き捨てるように言った。「交尾のことしか頭にない低俗な生き物。生殖器の匂いに惑わされた馬鹿な動物……人間!」
「言いがかりだ」
 暗がりにいるものたちが鼻で笑った。
「何が言いがかりだ」
「間違っている」
「どこがどう間違っているのだ」一つの声が詰問した。
「何もかもが……」
「それこそおまえがサルである証拠なのだ」相手は断罪するように言った。「おまえは誇り高い犬ではなく、かといって低俗な人間でもなく、中途半端なサルだから、おれたちの言うことが承服できないのだ。どうして醜いサルになどなろうとする」
「わしはサルではない」
「忘れたのか」声の主は無視してつづけた。「一緒に野山を駆けたころを。おれたちは団結していた。おれたちは一つだった。一つのものだった。おまえはおれたちだった。怖いものなどなかった。他のことを考える必要はなかった。みんな純潔だった。清らかだった。ところがおまえは、もうおれたちと一つにはなれない」
「わしはおまえたちの仲間だ」
 いったい誰が喋っているのだ。いま喋っているのは何ものなのか。人間だろうか、それとも犬なのか。思考も言葉も「ここ」にはなかった。
「本当だな」相手は詰め寄った。
「本当だ」言い逃れを考える暇もなく、自分ではないものが答える。「嘘ではない」
「それなら一緒に来い」命ずるように言った。
「どこへ」
「村だ。牛を襲いに行くのだ」
「なんのために、そんなことをする」
「忘れたか、仲間の掟を。牛を喰うことで、おれたちは結束を強める。一匹の牛の肉を分かち合い、おれたちは兄弟になる。一つに溶け合った、最強の生命体になる」
「味を覚えたな」思いつきが口をついて出た。
「妙なことを言う」
 嘲りと威嚇の言葉がつづいた。
「サルになりかけているからだ」
「愚かなやつめ」
「この場で喰い殺すべきだ」
「待て。わしの言うことを聞け」切羽詰って言った。「おまえたちは前にも牛を襲ったことがあるはずだ。牛の肉を食べだろう。一度食べると病みつきになる。おまえたちにとって危険な食べ物だ」
「ふん、サルになりかけているやつが大層なことを言う」
「とにかく村へは行くな」
「人間の味方をするのか」
「おれたちに牛を喰わせたくないのか」
 威嚇するような唸り声が一斉に上がった。
「違う。人間は鉄砲を持っているぞ」
「知っているとも」
「当たるものか」
「人間には思い知らせてやれなければならない」
「散弾銃だ」苦し紛れに言った。
「なんだ、それは」
「飛ぶ鳥さえも撃ち落とす恐ろしい武器だ」
「恐ろしくなどない。おれたちは一つだ。一つのものだ。個々の生命は問題ではない。命を落としても失われるものはない。おれたちに死はない。一つのものであるかぎり、おれたちが死ぬことはない。一つの生命体として不滅だ。思い煩うことは何もない。正しい行動を起こすのだ。なすべきことをなせ。欲深く孤独では正しいことはできぬ。一人で考えるのは間違ったことだ。さあ、一緒に来い。正しい道を教えてやろう」
 一匹が飛び出した。他の犬たちもつづいた。
「来ないのか」
 近くの犬たちが強い憎悪を剥き出しにした。じりじりと寄ってくる。襲ってくるつもりだろうか。身の危険を感じた。自分はいま敵に取り囲まれている。逃げなければならない。思考はまどろっこしく、すでに現実に遅れをとっている。自分の意思とは関係なく弾かれたように駆け出した。どっちへ向かって走ればいいかわからない。鼻が利かない。もはやどんな匂いも嗅ぎ分けられない。もがくように木々のあいだを進んだ。ここから抜け出すことだけを考えていた。
 犬たちは追ってくる。無数の歯が迫ってくる。逃げきれるだろうか。恐怖が襲ってくる。心臓が激しく打っている。胸がむかむかして、身体の奥が激しく掻きまわされているようだった。口から内臓が飛び出してきそうだ。足が絡みそうになる。先ほどまでの俊敏な足取りはどこへ行ってしまったのか。連中に比べれば、いまの自分はいかにも鈍重な動物だ。
 一匹が飛びかかってきた。鋭い歯が足の肉を裂いた。痛みは感じなかった。ただ厭な感触だけがあった。馬鹿げている。何もかもが馬鹿げていた。

 いつもより遅くまで寝ていたらしい。部屋には朝の光が満ちている。身体全体が激しい運動をしたあとのように熱を帯びていた。長い道のりを駆けてきたような疲労感が残っている。寝巻きの袖をまくると腕に引っかき傷があった。血は赤黒く乾いている。立ち上がり裾のほうもはだけてみる。足の傷はもう少し深かった。何箇所か固まった血が、皮膚に粘土のようにこびりついている。
 いずれもたいした傷ではない。手当をするほどのこともない。だが表面的な傷以上に、健太郎は自分がどこか深いところで裂けてしまっている気がした。何かが壊れかけ、崩壊していこうとしている。自分というものが、半分は自分だが、もう半分は自分ではないものに感じられた。自分のなかに未知の領域があり、そこから湧き出してくる謎が絶えず彼を引き込もうとする。未知を探索したいとは思わなかった。一刻も早く、こんなことから自由になりたかった。
 口数も少なく朝食を済ますと、いつもと同じように家を出た。今日も一日、この自分を生きなければならないことを耐え難く感じた。自分であることは恐ろしい。自分が自分であることこそ恐ろしい。なぜなら自分は、いつでも容易に自分ではなくなってしまうからだ。何かが飛び込んできたのだ。その正体不明のものと、無理やり共生を強いられている気がした。
 午後の授業が退けても、朝の気分はつづいていた。田んぼでは刈り入れが終わり、乾いた土は短く裁断された茶褐色の藁に覆われている。その風景はどこか寒々としていた。夜のあいだに起こったことを思い返してみる。目を閉じると森の匂いが強くなった。落ち葉や樹皮や腐葉土の匂いが迫ってくる。森のひときわ暗い場所から、何かが現れ出ようとしている。だが、そのあとのことは判然としなかった。目が覚めたときには、記憶はほとんどかたちをとどめていなかった。異変は熱病のように通り過ぎていた。ただ全身に獣の臭いが染み付いている。顔や手足に傷がある。
 森がやって来たのだ、と健太郎は思った。森は危険な場所だ。このあたりの子どもたちは物心つくと、親たちから野生の茸は絶対に食べてはいけないと教えられる。森には人に危害を与える虫や獣もいる。同時に、森は生きるための糧を与えてくれるものでもある。森なくして人の暮らしは立ち行かない。太古から人は森とともに生きてきたのだろう。危険な森を少しずつ安全な森につくり変えながら。森は複雑な場所だ。善も悪も渾然一体となって渦巻いている。その森が、どこか自分の深いところに広がっているのを感じた。森がやって来る前の自分を、彼はもう思い出せない気がした。
 家路をたどっているつもりで、いつのまにか村の氏神を祀る神社に来ていた。ふらふらと足を踏み入れた。鳥居を抜けて境内に入り、お詣りもせず小さな拝殿の縁側に腰を下ろした。祖父の言っていたことを思い出した。ちょっと変わった子どもが神隠しにあうことが多かったという。いつも一人で山のなかで遊んでいたり、動物と仲が良かったりする子ども。霊感の強い子どもよく神隠しにあったらしい。
「気が変になりよるのかもしれん」
 冗談めかした独り言のなかに、怯えの予感があった。どうして自分はこんな目に遭うのだろう。いったい何が起こっているのか。それは本当に起こっているのだろうか。もちろん起こっている。何かが起こっていることは間違いない。頭がおぼえていなくても身体の傷が有無を言わせぬ証拠を突き付けてくる。健太郎はシャツをまくって腕を見た。
 これは何かの報いなのか。誰かの呪いなのか。自身には覚えのないことだった。神さまの遊びがを汚したこともなければ、由緒ある木を伐ったこともない。墓石に小便をひっかけたことも、無闇に動物を傷つけたこともない。むしろ子どものころから動物にはやさしく接してきた。家で飼っている牛はもちろんのこと、鶏さえも不承不承にしか食べられない健太郎である。先祖に悪をなした者でもいるのだろうか。
「馬鹿くさい」
 いい加減に切り上げないと、詮索は果てしなくなりそうだった。考え過ぎるのがよくないのだ。気持ちが繊細に内へ向かうから、ろくでもないものと出会ってしまう。感じなくていいことまで感じてしまう。普通の者が知覚しないようなことを知覚してしまう。そんなふうに生まれついているのかもしれない。古い言い伝えや俗信の類を、頭では否定しながら、どこか心惹かれている。幼いころからそうだった。高い棚から物が落ちたり、不意に柱が鳴ったりすると、何かの予兆ではないかと心が騒いだ。世にも不思議な、人知を超えたことが起こるのではないかと皮膚が慄いた。恐ろしさと魅惑が入り混じった予感に全身がとらわれていた。
 ふと人の気配を感じて顔を上げると、銀杏の木のところに清美が立っている。いつのまにか心が虚ろになっていたらしい。彼女は縁側の端に腰を下ろした健太郎を訝しげに見ていたが、やがて近づいてきて正面にたたずんだ。
「なんか」いつもの調子で言った。
「なんかって、健太郎が思いつめた顔をしてふらふら歩いとったけん、心配になってあとをついて来たんやない」そこでまじまじと彼の顔を見て、「どうかしたんか」とあらためてたずねた。
「どうもせん」
 健太郎はまくっていたシャツの袖を手首まで下ろすと、念入りに袖口をボタンで留めた。
「猫にでも引っ掻かれたんか」清美は目ざとくたずねた。
「いらん世話じゃ」健太郎は煩わしそうに言った。「用があるんか」
 清美は拝殿の縁側に少し離れて腰をかけた。
「用がないと話したらいけんのか」
 こぢんまりとした境内には、御神木とされている銀杏の木があった。落葉した黄色の葉が根元を覆っている。それがあたりの雰囲気を明るくしていた。
「清美は進学やろう」気分を変えて当たり障りのないことに言葉を向けた。
「そうじゃよ」唐突な問いを自然に受けて、「健太郎も進学組やったな」と返した。
「なんか行きとうのうなった」
「高校か」ちょっと驚いた顔をして、「就職するんか」とたずねた。
「わからん」
「進学も就職もせんと、ぷらぷら遊んで暮らつもりやな。怠け者やね、健太郎は」
 その口ぶりは綾子に似ている気がした。
「何をニヤニヤしとるん」清美はちょっと腹を立てたように言った。
 ここは気持ちのいい場所だ、と健太郎は思った。それは隣にいる清美が、穏やかでいい匂いをさせているからだ。彼女から名前を呼ばれるのは心地がいい。昨夜のことを思い返した。欲深く、孤独なものが名前を欲しがる。野犬の言い草だ。だが彼女から名前を呼ばれて心地がいいと感じるのは、欲深さとも孤独とも関係ない気がした。
「なあ、清美」
「なんやの、あらたまって」彼女ははじめて不審そうな顔をした。
「わしから目を離さんでくれ」
「はあ」間の抜けた声を出した。当惑したその顔が真剣になった。「どういうことなん」
 健太郎もまた真剣だった。
「いつもわしを見とってくれ」
 森のことを話したかった。野犬たちのことを話したかった。いまのところ口に出して伝えることはできそうになかった。ただ胸のなかで懸命に訴えていた。おまえが見てくれていないと、わしはおかしなものになってしまう。暗い森のなかで、おまえが名前を呼んでくれれば、いつでも自分を見つけることができる。その声が細い光のように差し込んで、わしを包んでくれる気がする。
「からかっとるんか」
 そうでないことは二人ともわかっていた。ここにととどまりたい、と健太郎は思った。二人でこの場所にとどまりたい。思ったままを口にするかわりに、
「大人になりとうないな」と言った。
「高校には行きとうない、大人にもなりとうない。今日の健太郎はヘンやね」わがままな子どもに手を焼く母親みたいな口ぶりだった。
 彼は切ないような気持ちで清美を見た。大人になりたくないというのは本心だった。とりわけ大人の男には。おまえから「健太郎」と呼ばれる者で、いつまでもありつづけたい。清美は痛ましそうに彼を見ていたが、
「やっぱりヘンじゃわ」と一言呟いて静まった。(イラスト RIN)