なお、この星の上に(16)

 遠足の残りの時間、四人は何をするでもなく雑木林のなかを気ままに歩きまわりながら、吉右衛門爺さんを探し出す計画のことなどを話し合った。なにしろ相手は吉右衛門爺さんだ。エラン爺さんのときのようなわけにはいかない。エリアをきめて、山のなかを隈なく捜索する必要がある。場合によっては、野宿もしなければならない。どこまで本気なのかわからない話をしながら、武雄は持ってきたパチンコで、ときどき鳥などを撃ったりしていた。そのうちに彼の姿が見えなくなり、やがて新吾や豊とも離れて、健太郎は一人になっていた。木立の向こうには草原が見えているから、迷ってしまうことはない。ときおり同級生たちの声も聞こえてくる。思いがけず一人になれたことを、むしろ彼は幸いに思った。
 暖かい草の上に腰を下ろした。風が吹いて梢の葉を揺らしている。光がはしゃぎまわるように、木の間で輝いている。あちこちで鳥が鳴いている。おそらく鳥たちも、光と一緒になってはしゃぎまわっているのだろう。草の葉をてんとう虫が這っていた。背中は朱色で黒い斑点がある。ゆっくり動いているように見えるが、本当は急いでいるのかもしれない。よく見ると同じ草の上に、もう一匹いた。その虫に近寄ろうとしているらしい。オスとメスかもしれない。風が木々のあいだを吹き抜け、近くの草が波打った。
 眠り足りないようなものが降りてきて、彼は草の上に仰向けに横になった。若葉のあいだから空が見えた。白い雲がゆっくりと流れている。長いあいだじっとしていた。何かが起こることを期待しているわけではない。ただ太陽の下に転がって、光と風を感じていたいだけだ。それ以上のものになりたいとは思わなかった。静かに息を吸い込み、少しずつ吐いた。鼻孔から入り込んだ光が、肺の奥まで届くように感じられた。さらに血液に溶け込み、全身に行き渡る。心臓を輝かせ、筋肉や、骨の一つ一つを輝かせる。いつか自分が死んで、太陽や空気、名のない透明で完全なものの一部になったとき、このように感じるのかもしれない、と健太郎は思った。それは眠りのように自然に訪れるだろう。
 森のなかに入って心の落ち着く場所があれば、死んだ人の魂が集まっている場所だ。そんな知識を彼に吹き込んだのは、もちろん祖父にきまっている。ここは豊も言うように、合戦などによって、昔からたくさんの人間が死んでいる場所だ。成仏した魂もあれば、死にきれなかった者の魂もあるだろう。それらが集まって、この静謐な空間をつくり上げているのかもしれない。
 信心深い祖母によると、亡くなった人はみんな「みたまさま」になるという。それは「ご先祖さま」とほとんど同じ意味らしい。生前に善いことをしても、また悪事をはたらいても、五十年や百年といった長い年月が経つうちに、生きているあいだのことは、読み取れない文字のように霞んでしまい、善人の魂も悪人の魂も同じように浄化されて、「ご先祖さま」や「みたまさま」と呼ばれる、一つの尊い霊体に融け込んでしまう。それは多くの先祖たちが一体となった神であり、この先祖を主体とする神さまが、子孫後裔を長く守護してくれるのだった。
 だから年忌ごとの法要や、盆や彼岸の供養を欠かしてはならない、と祖母は日ごろから孫たちに諭していた。生きている者たちの追善廻向を受けることによって、死者の霊魂は清められていき、生前の個別性を失いながら、最終的に先祖の霊に集約されていく。これを怠ると、成仏できない魂は障りをもたらす。祖母によれば山の神さまも、亡くなった祖先たちの霊魂が寄り集まったものらしかった。春には里に降って田の神となり、秋の終わりには田から上がり、山に還って山の神になる。いずれも本体は「みたまさま」と呼ばれる先祖たちの霊魂なのだった。
「おばあちゃんは死んだらどこへ行くんけ」遠い記憶のなかで幼い子がたずねていた。
「ずうっと見守っておるよ」やはり遠い声が答える。「なんの心配もいらんよ」
 いま自分のいる場所が定かではなくなっている。あたりには人の気配がなく、先ほどまで聞こえていた同級生たちの声も遠くなっている。ここはどこだろう。現実の世界のなかに忍び込んだ、もう一つ空間にとらわれている気がした。やけにうるさく鳥が鳴いている。人間の知らない言葉で、何事か言い交わしているらしい。
「ツァラン、ツァリルリン」
「ツァリル、ツァリル」
「チチツン、ツーン、チ、チ」
 何を言っているのだろう。
「ギギンザリン、ギギンザリン」
「ギュツク、ギュツク」
「ギシギシ」
 いい加減にしないか!
「チラロ、ケラロ?」
「リウリウ」
 時間の観念が薄らいでいく。嗅覚が鋭くなっているのがわかる。雨になるのかもしれない。雨が降り出す前には、こんなふうに嗅覚が鋭敏になることがある。だが、いま起こっているのはそれとは別のことだった。ひょっとして、あれが起ころうとしているのだろうか。風に乗って漂ってくる動物たちの匂い、かすかな腐肉の臭いを嗅ぎ取ることができた。言葉にできない匂いも混じっている。いい匂いも悪い匂いも、この空気のなかを流れている。遠くから流れてくる匂いを誘惑のように感じた。彼を別の場所へ連れていく匂い……そこは深い森のなかだ。
 森の奥深くに「山の神さまの遊び場」と呼ばれる場所がある。この話を健太郎にしたのは、祖父ではなくて父だった。鬱蒼とした原始の森が開け、箒で掃き清められでもしたような清浄な空間が忽然と現れる。旺盛に繁殖したシダや蔓植物が地面を覆っているなかにあって、そこだけは下草も生えず、枯れ枝一本落ちていない。風は吹いていないはずなのに、落ち葉がゆっくりと渦を巻くように宙に舞っている。木々の梢や周囲の雑草はそよとも揺れていない。
「そういう場所では、誰でも畏れ多いような気持ちになるもんだ」と父は言った。「足を踏み入れるのも憚られる。もちろん踏み荒らしたり、小便や糞をしたり、血で不浄に汚すなどはもってのほかだ。怒りに触れたら、どんな祟りを受けるやしれん。山の神さんはきれいなところを好いとんなさるでな」
 ひょっとしてここが、その山の神さまの遊び場ではないだろうか、と健太郎は思った。いつのまにか来ていたのだ。身体ごと連れてこられていた。時間は永劫のなかをゆっくりと流れている。その時間の澱みのなかで、自分が一つの欲望になったような気がした。あるいは何かを切望する一つの生命に。人間としての感情はどこかへ消え去っていた。欲望だけが走っていく。空腹を感じた。まるで自分のなかに別の何ものかがいるみたいだった。激しい空腹のために下腹が痛くなった。いますぐに何かを口いっぱいに詰め込みたいという衝動をおぼえた。生きて動いているものを無性に食べたい。そんな不気味な欲求だった。いったいどうしたというのだ。山の神が悪戯しているのだろうか。吉右衛門爺さんが忌まわしい呪文をかけたのだろうか。何かが深々と自分のなかを歩いていくのを感じた。これまでに感じたことのないような強い力だった。使い方を誤れば人をも殺しかねないほどの凶暴な力だった。その力には何か崇高なものがあった。泥や肉汁にまみれていながらも輝いている。その輝きは、誰にも消すことができない。
 ふと何者かの気配がした。いまにも姿を見せようとしていたものは引っ込み、かわって身体の内側に沸き立つ新しい力を感じた。
「どうしたん」
 目をあけると、傍らから多賀清美が不思議そうに健太郎の顔を覗き込んでいた。
「どうもせん」いくらか邪険な口調で払うように言うと、彼は乱暴に起き上がった。「清美こそ、こんなところで何をしとるんじゃ」
「別に何もしちゃおらんよ」彼女は素っ気なく答えた。「林のなかを歩いておったら、健太郎が倒れとったんで、どうしたんじゃろう思うて様子を見に来たんよ」
「ちょっと昼寝をしとっただけじゃ」
「こんなところでか」
「静かじゃし、暖こうて気持ちがええ」
「そうけ」清美は自分も草の上に腰を下ろすと、その場で仰向けに横たわった。
「やめんか」健太郎は慌てていった。
「なしてか」すでに目を閉じている。
「人が見たらおかしい思うが」
「なんもおかしいことないよ」
 平然とそんなことを言う少女の顔を、健太郎は盗むように見た。唇をゆるやかに合わせて、うっとりした表情を空に開いている。このやけに白い肌をした不思議な生き物はなんだろう。健太郎はその存在を持て余した。見つめていると吸い込まれそうになる。かといって目を逸らすことはできない。落ち着かない気分を紛らわすようにしてたずねた。
「清美は内藤のことをどう思うとる」
「なんじゃの、そんなことを訊いて」清美は目を閉じたまま、興味のない様子で答えた。
「あれは勉強ができるし、頭も悪うない」健太郎は低調な言葉を繰り出した。
「それがどうかしたん」
「だけん、どう思う」
「どうもこうも、なんとも思わん」
「そうかのう」
「今日の健太郎はおかしいのう」
 たしかに今日の自分はおかしい、と彼は思った。いつからおかしくなったのか、その境目がはっきりしなかった。ここに来て草の上に横たわったときからか、小鳥たちの奇妙な言葉が耳について離れなくなったときからか、それとも匂いに感覚が研ぎ澄まされていったときからか……。無力感をおぼえるようにして、健太郎は傍らに横たわる清美を見た。顔に当たっている光は、彼女の内部より現れ、宇宙へ解き放たれているように見えた。これはいったいなんだろう。このキラキラと輝くものは。清美の顔や身体全体から放たれ出ているもの。それは彼のなかにもあった。清美から放たれ出たものが身体を通過し、自分のなかにある同じものとぶつかり、混ざり合い、共振し、落ち着かない気分にするのだった。これまで気がつかなかった。こんな輝かしいものが自分のなかにあることに。それは彼のなかにありながら、彼のものではなかった。
 健太郎は喘ぐようにして考えつづけた。先ほど口いっぱいに詰め込みたいと思ったものが、いまは彼の身体のなかにあった。胃袋の粘膜にこびりつき、悶々として光彩を放っていた。暗い臓腑の奥深くで、鈍く光っている。胃の腑にあり、五臓すべてにある。この卑俗な欲望は、卑俗であるがままに清浄だった。暗く窮屈なところに押し込められていながら、縹渺として自在だった。これは本当に自分だろうか。この身に起こっていることなのだろうか。極彩色に輝きながら、彼のなかに潮のように満ちてきたもの。それは生物であること、一個の欲望する生命であること、そのものだった。彼は自分がここに在ることに、目の眩むような慄きをおぼえた。
(イラスト RIN)