なお、この星の上に(15)

15
 朝、学校へ行く途中で、誰かが火事の話をしていた。内藤の家が燃えたという。昭のところだ。健太郎は軽い胸騒ぎを覚えた。詳しい情報を得たかったが、通学路ではそれ以上のことはわからない。朝のひんやりした空気のなかには煙の匂いが残っている気がした。
 中学でも火事のことは話題になっていた。昭は学校を休んでいる。怪我などはしていないらしい。事情を知っていそうな者に話を聞いてまわった。誰の言うことも断片的だったが、つなぎ合わせるとおおよそのことがわかった。出火したのは夜中で、発見が早かったので全焼は免れた。隣町から消防車が駆けつけたときには、村の消防団の者たちが、大八車に乗せて曳いてきた手押し式のポンプであらかた火は消し止めていたという。
 休み時間に豊と話をした。彼は夜中に半鐘の音を聞いたらしい。村のほぼ中心に火の見櫓がある。天頂に近いところに見張り台のような狭いスペースが設けられており、非常時にはそこに取り付けられた半鐘を打ち鳴らすことになっている。火事のほかに、川が増水して氾濫の危険性があるようなときにも鳴らされた。健太郎も何度か聞いたことがある。しかし昨夜は気がつかなかった。家が櫓から離れているせいかもしれない。距離的にはたいして変わらないところ住む豊は、半鐘の音で目が覚めたという。
「居間のほうへ行ったら親も起きてきとった」彼は夢の話でもするような口ぶりで言った。「火事はどこやろう言うて、みんなで表に出てみたものの火は見えん。近くではないらしいいうことで、また寝てしもうた」
「昭はどこにおるんかの」健太郎が問いを向けると、
「町の病院やろう」と豊は言った。「母ちゃんが火傷をして運び込まれたらしい」
 初耳だった。
「ひどいんか」
「そこまでは知らん」
 担任に聞けばもう少し詳しいことがわかるかもしれないが、状況がわかったところで起こったことに変わりはない。とりあえず学校の帰りに、少しまわり道をして昭の家に寄ってみることにした。武雄と新吾にも声をかけた。一緒に昼飯を呼ばれてから、まだ半月ほどしか経っていない。あの親切な母親が、火傷で入院しているのは気の毒なことだった。三人は容態のことなどを話し合ったものの、乏しい情報では埒があかない。いずれ折りを見て見舞いに行こうと話はまとまった。
 家は半分ほどが黒く焼け焦げていた。庭木も何本か幹が黒くなっている。地面にはところどころに消火の際にかけられた水が溜まっていた。
「だいぶ焼けとるの」と武雄が言った。
「これでは人は住めんな」新吾が言葉を継いだ。
 自分の家が燃えるのを目の当たりにするのは、どんな気持ちだろう、と健太郎は思った。住みはじめてから間のない借家とはいえ、動揺しなかったはずはない。予期せぬ光景を眺める昭の目に、恐怖はなかっただろうか。
「これから昭はどうするんやろう」再び武雄が言った。
 言葉を返すかわりに健太郎は空を見上げた。空にはすでに夕暮れの気配があった。そこに赤く焼けた昨夜の夜空が残っている気がした。切迫した空気は過去のものになっている。体験したわけでもない恐怖を、遠いざわめきのように感じた。急が報らされる。庭へ飛び出したときには、部屋のなかにいくつもの炎が揺れている。軒下の隙間から白煙が吹き出している。目にしたわけでもない光景に、かすかな怯えがまとわり付いてくる。
「そろそろ行くか」
 武雄の声で我に返った。無残に焼け爛れた家は、もう何十年も前からここにありつづけているように見えた。
焼け跡を離れようとしたとき、一人の少年の姿が目に入った。近くの家の塀に、いかにも投げやりな姿勢でもたれている。誰かを待っているわけではなさそうだ。眼差しはどこを見るともなく、中空をさまよっている。その様子はふてぶてしいというよりは、放心しているように見えた。
「誰かの」新吾が小声で言った。
「見たことないやつだの」武雄にはそれ以上の興味は動かないようだった。
 三人は少年が立っている塀の前を通り過ぎた。新吾と武雄はそれぞれに短い視線を送りながらも、無視することにしたらしい。正体の知れない相手との面倒を避けたかったのだろう。最初に目にしたときから似ていると思った。昨夜、庭先で出会った少年であることを、ほとんど確信していながら声はかけなかった。新吾と武雄が一緒だったせいもある。二人に昨夜のことを知られたくなかった。なぜなのかわからない。健太郎は少年のことを秘匿しておきたかった。自分のなかにある暗い森に、そっと匿っておきたかった。

 翌日、学校が終わったあと、健太郎は昭の母親が入院している病院へ行ってみることにした。新吾や武雄は誘わなかった。なんとなく自分一人で行ったほうがいいような気がした。怪我の程度もわからない相手を見舞うことへの遠慮もあった。二人にはあとで様子を知らせればいい。
 病院は町役場と郵便局の近くにある。受付で「内藤」という名前を告げると、すぐに病室を教えてくれた。身内の者とでも思われたのか、素性をたずねられることもない。母親が深刻な容態ではないらしいことに健太郎は安堵した。
 教えられた病室には迷わずに行き着いた。開け放たれたドアから室内が見えた。昭の母親はベッドの上で雑誌を広げていた。足を踏み入れる前に声をかけると、彼女は手元から顔を上げ、健太郎の姿を認めて一瞬驚いた表情になった。
「最上くん、だったわね」
 母親は自信なさそうに姓を口にした。健太郎が頷くと、
「お見舞いに来てくれたの」たずねる声に意外さをにじませた。
 顔に何箇所か火傷の痕らしいものがあったが、いずれもひどいものではなかった。間遠に話をつなぎながら、母親は火事の様子に言葉を向けた。最初は何が起こったのかわからなかった。煙で目があけていられないほど痛んだ。息もできない。庭に出ると頭から火の粉が降りかかってきた。そのとき顔に火傷をしたらしい。幸い火傷は軽かった。ただ煙を吸って肺を傷めている可能性があるので、しばらく入院して様子を見たほうがいいということになった。
「退院したところで、ゆっくり身体を休めることのできる家もないしね」と母親は言った。
「昭は大丈夫ですか」
「あの子はしっかりしたものでね。安全なところまで避難したあと、わたしのほうが動揺して泣き出してしまって。お母さん大丈夫だからといたわってくれましたよ」
 いかにも昭らしい、と健太郎は思った。そんな級友のことを誇らしく思った。いまは町はずれの父親の事務所にいるという。仮設の小さな建物だが、寝泊りできる部屋が付いており、二人はそこで自炊生活をしているらしい。少し落ち着いたら、新しい家を借りることになるだろう、と母親は言った。
「東京には戻らんのですね」健太郎がたずねると、
「それも考えたんだけど」母親は思案顔になった。「こっちに来て半年ほどでしょう。引越しをするのも面倒だしね」
 それきり静まって、長いあいだ窓の外を見ていた。部屋のなかが急に薄暗くなったように感じられた。暇を告げるつもりで腰を上げた。
「とにかく無事でよかったです」
「ありがとう」母親はあどけないように笑った。
 外に出ると、山並みがオレンジ色に染まりはじめていた。足取りを早めた途端、止まっていた時間が流れだした。帰路につきながら、昭のことなら大丈夫だ、と健太郎は思った。自分たちが心配するほどのことはない。新吾や武雄にはそう告げよう。

 家に帰ると、妹の綾子が「ガーグー」が捕まったと言った。夕食の時間だった。家族の全員が揃った食卓で、妹は健太郎に向けてその話を持ち出した。昭の家に火をつけた疑いだという。町の警察署から刑事が来て、ガーグーを引っ張っていったらしい。
「ガーグーは犯人やない」否定する口調が不必要に強くなった。
「なせ、そんなことがわかる」綾子は尖った声で応じた。
「なせでも、わかるもんはわかる」
 この妹が相手だと、いつも感情的になる。こちらの神経を逆撫でするものがあるらしい。厭わしいことだ。健太郎は妹が苦手だった。冷静になるために、しばらく口を噤んでいようと思った。すると綾子は、
「兄ちゃんは本当の犯人を知っとるのか」と詰め寄ってきた。
「知っとるわけないやろう」
「そんならなせ、ガーグーを庇うんか」あたかも灰拾いが犯人のような言い方をする。
「庇うとるわけやない。おまえのほうこそガーグーが犯人いう証拠でもあるんか」
「そんなこと知らんわ」
「証拠もないのに犯人扱いするのは民主主義やないぞ」
 綾子は憎々しそうに兄を見たものの言葉は返さなかった。自身の頭から出たものとも思えない言葉だったが、妹の好きな「民主主義」で一本取れて健太郎は気分が良かった。
「おばあちゃんも灰せせりの仕業やないと思うな」祖母がどちらの肩を持つわけでもなく穏やかに言った。「あれは言葉が不自由なかわいそうな男やよ。口は利かれんが、悪い人間やない。人の家に火をつけるようなことはせんよ」
「普段やっとることは、あんまり褒められることやないですけどな」父親が言葉を添えた。
 副業のことを言っているらしい。
「骨を食べとるんよ」と綾子は言った。
 そんなことを信じるほどに妹は愚かなのだ、と健太郎はいくらかの憐憫をまじえて思った。
「やっぱり火付けかの」祖父が言った。
「警察はそう見ておるようですな」父親は感情をあらわさずに答えた。「最初に駆けつけた消防団の人らが言うには、火は家の外側からまわっとるそうなんで」
「どっちにしても犯人を見つけんことには安心できんの」そう言って、祖父はちらりと健太郎のほうを見た。
 その夜、寝床のなかで健太郎は半鐘の音を聞いた気がした。もちろん錯覚だ。そう思ってみても、音の余韻はいつまでも耳の奥に残りつづけた。「幻聴」という言葉を思い浮かべた。脳のどこかで生まれるらしい音は、予言めいた色合いを帯びていた。平穏無事であることも恐ろしい。この静けさが破られる瞬間こそ恐ろしい。そんな奇妙な感じ方のなかにいた。
 あらためて周囲の物音に耳を澄ましてみる。鳥は鳴かない。虫の音も聞こえない。かわりに半鐘の音が蜃気楼のように立っている。いまも鳴りつづけている。人の叫びも上がっている。昭の母親だろうか。遠い声は性別すら判然としなかったが、すぐにも駆けつけたい気持ちになっている。いったいどこへ駆けつけるつもりなのか。昭の家は焼けている。いま焼けているのは別の家だ。どこの家だろう。つぎに焼けるのは?
「馬鹿くさい」
 暗い天井に一つの顔が浮かんだ。
「あれが火を付けたのやろうか」
 夕食のときに祖母が言ったことを思い出した。灰拾いの潔白を請け合う言葉は健太郎を安心させたが、一方で別の疑念を芽吹かせた。その疑念に眠りを遠ざけられて、いま布団のなかで半鐘の音を聞いている。聞こえるはずのない音を聞いている。
 出火は夜中というから、時間的には辻褄が合う。なぜ昭の家に火を付けたのだろう。なんのためにそんなことをする。どこの家でもよかったのか。それとも昭の家でなければならなかったのか。火付けは犯罪だ。捕まれば刑務所に入れられる。子どもだからといって容赦はない。そこまで考えたところで、さすがに先走った憶測に眉をひそめた。
 夜半を過ぎて雨が落ちてきた。雨だ、と気がついても、そこから先へ考えは進まなかった。雨のなかを人か何か、影が通り過ぎていく。深い静まりのなかで健太郎は身を固くした。遠い空間の広がりに、おそるおそる耳をやった。半鐘の音も、人の叫びもいまは聞こえない。聞こえるのは屋根を打つ雨音だけだった。放心したまま時間が過ぎた。村の人々にとっては待望の雨だ、とようやく思考が動きはじめた。
 村の人たちの気持ちになって、健太郎もまた人心地ついた気がしたが、それは日照りのことからは離れていた。雨なら火付けはないだろう、と理屈にもなっていないようなことを思った。近くの雑木林に降りかかる雨を頭に思い描くうち、眠りに落ちると朝まで夢も見なかった。

 夜が明けるころには雨は上がっていた。日課の乳搾りのために表に出ると、地面の土は濡れてさえいない。不審に思って朝食のときにたずねてみた。
「雨か?」母親は怪訝な顔をした。
「降らんかったか」
「降ってくれるとええのやがな」そう言ったきり、母親は忙しそうに朝の支度に戻った。
 狐につままれた気分でいると、
「寝ぼけとったのやないか」会話を聞きつけた綾子が憎らしいことを言った。
 朝っぱらから相手をするのも鬱陶しいので、雨の話はそれで切り上げることにした。不可解な思いが後を引くこともなく、家を出るころには忘れていた。どことなく虚ろな気分で授業を受け、最後の掃除を済ますとようやく学校が引けた。
 校門を出たところに少年がいた。中学のグランドの横は広い原っぱになっており、そこにラジオの電波塔が建っている。少年は電波塔のコンクリートの建物に寄りかかっていた。とくに何をしているわけでもなく、ただぼんやりと立っている。こちらには気づいていないようだ。
 しばらく門の陰から様子を窺っているうちに、その場を離れて歩きだした。健太郎はあとをつけることにした。何か目論見があったわけではない。ただ、そうせずにはいられなかった。石積みの垣根をめぐらせた農家が並んでいた。一軒一軒が広い地所を占めているため、人の気配はほとんどしない。ときおり牛や鶏の鳴き声が聞こえた。土塀の古い建物が多かった。道は石垣のあいだを縫うように曲がりくねっている。おかげで気づかれることもない。真っ直ぐな道がつづくところでは、相手の姿が見えなくなるまで間を置いた。
 急いでいる様子はないのに、少年の足は速かった。どこへ向かっているのだろう。歩き慣れているはずの道が、はじめてのように感じられた。都会ならまだしも、細い路地まで頭に入っている村で迷うはずがない。そう考える端から、道は行くほどに見知らぬ雰囲気になる。足を止めて、あたりを見まわしてみる。怪しいところは何もない。近くの家の表札を読んでみると、知っている名前だった。いまは高校に行っている先輩と、下に中学生の妹がいるはずだ。そこまで確かめながら、どこかへ迷い込んでいくような気分を払えなかった。
 歩いていく自分が目新しいものに思えた。旧知の自分は先を歩いている。すたすたと脇目もふらずに歩いていく。その自分を追いかけきれない。追いつこうとして追いつけない。奇妙な焦りにとりつかれて、知らぬうちに足を速めている。すると急ぐ足に不安がまとわりついてくる。ここで追いつけなければ自分がわからなくなる、正体の知れないものになってしまう。何かのはずみに、自分が自分ではなくなる……。
「わしを探しとるのか」
 目の前に少年が立っていた。
「別に、探しとりはせん」健太郎は咄嗟に答えた。
「そんなら、なせあとをつけてきた」
「誰もあとをつけてなどおらん」
「気のせいかの」そんなことは露ほども思っていないという口ぶりだったが、鷹揚に構えているので口論の流れにはならなかった。
「おまえ転校生か」相手の態度に誘われて率直な問いが口をついて出た。
「学校には行きよらん」と少年は言った。
「なせ学校に行かん」
「関係ないことじゃ」ちょっと横柄な態度で言った。「おまえは健太郎だろ」
 名指されたほうは落ち着かない気分になった。
「なせ、わしの名前を知っとる」
「なせでも知っとる」
 ますます気味が悪い。
「そういうおまえは誰か」警戒する口ぶりになっていた。
「わしの名前か」相手は逸らすでもなく、「アツシじゃ」とあっさり明かした。
「どこに住んどる」
 それには答えずに、
「明日の昼、避病院へ来い」と命ずるように言った。
「なせか」
「家に連れて行ってやる」
「避病院の近くなんか」
「怖いか」
 少年は見透かすようにたずねた。むきになって打ち消すかわりに、
「時間は」と先へ進めた。
「昼飯を喰うたら出てこい。わしはずっとそこにおる」
 明日は土曜日か、とようやく思い至った。少年は顔を上げた。しばらくは何も言わず、ただ目を細めるようにして遠くを見ていた。道は集落を出て田んぼにかかろうとしている。稲が黄色く色づきはじめていた。川から水を引いているおかげで、夏の日照りを乗り切って稲は育っている。田んぼのあいだを抜けると道はゆるやかな登りにかかり、傾斜地につくられた畑のなかを雑木林のほうへつづいている。
「もう行くけん」と健太郎は言った。
「明日な」相手は素っ気なく答えた。
 来た道を引き返しながら、「アツシ」と名乗った少年のことを考えていた。どう見ても自分と同じくらいの歳だ。いったい何者だろう。どうして学校へ行ってないのだろう。釈然としない気持ちで振り返ったときには、すでに少年の姿はなかった。(イラスト RIN)