なお、この星の上に(14)

14
 霧は霊気のように森を覆っていた。黒々とした森のなかを、風は静かに吹いている。澱んだ静寂とともに霧は掻きまわされ、取り払われた霧のなかから、シダや蔦に絡みつかれた森の木々が姿を見せた。木々の根元には落ち葉が厚く降り積もり、その上に火葬された人骨のような白っぽい枯れ枝が転がっている。風は気まぐれに森の木々をそよがせた。ときおり虚をつくように風が吹くと、腋の下でもくすぐられたかのように、木は全身を震わせて笑いだす。それをイノシシの子どもは珍しそうに見上げていた。木に宿る精霊はくすぐったがり屋なのかもしれない、とイノシシの子どもは思った。
 やがて母親のイノシシが霧のなかから姿を現した。後ろには三匹の子どものイノシシがくっついている。みんな身体にウリのような白い縞模様がある。この春に生まれた四匹の子どものイノシシだった。母親のイノシシは、子どもたちには目もくれず、地面の土に鼻をつけるようにして匂いを追っている。動物や虫の死骸が混じった腐葉土からは、発酵したような饐えた匂いがした。ふと何かを察知したかのように、母親のイノシシは顔を上げ、頭を左右に小刻みに震わせた。違う。この匂いではない。
「いいこと、坊やたち。この世界にはたくさんの匂いがあるの。いい匂いもあれば悪い匂いもある。いい匂いのするものは、わたしたちのお腹を満たしてくれる。でも悪い匂いには絶対に近づいてはだめ。それはわたしたちの命を奪う危険な匂いだから」
「ぼく、お腹が空いちゃったよ」
 一匹の子イノシシが言った。その子に向かって母親は言った。
「よく聞きなさい。いい匂いのなかにも、ときどき危険が潜んでいる。そのことを学ばないと、坊やの可愛いお耳もお鼻も尻尾も切り取られて、熱いお鍋のなかでグツグツと煮られてしまうのよ」
「そんな怖い話、ぼく嫌いだよ」
「さあ、付いてきなさい。おかあさんと一緒なら何も怖いことはないから」
 湿り気を帯びた霧が、飯場のある谷全体に立ち込めている。バラック建ての宿舎のなかで、男たちは煙草を吸い、酒を飲み、サイコロを振っている。ときどき女たちの嬌声が聞こえてきくる。きわどい冗談が交わされているらしい。宿舎から少し離れたところに共同便所があった。軒下に丸い笠の付いた裸電球が一つ点っている。月は出ていない。背後の断崖も空も、暗い夜霧のなかに沈んでいる。見えるのは、陰気なオレンジ色の光が届く軒下だけだった。
 飯場を呑み込んでいるのは、黒とも白とも判然としない霧だ。その霧のなかで赤い目が光った。一匹ではない。現れたのは二匹のタヌキだった。とくに警戒する素振りもなく、尻尾を左右に振りながら飯場のほうへ歩いていく。彼らは知っているのだ。人間たちのいるところには食べ物があることを。それも森のなかではありつけないご馳走だ。米の飯、伸びきった素麺にうどん、魚や肉や野菜の切れ端、卵焼き……種類も多いし、腹も充ちる。おかげでこのところ、タヌキたちは太り気味だった。
「歯が弱くなった年寄りにはありがいことだ」年老いたタヌキが言った。「硬い木の実や虫を食べるのは難儀だからな」
 近くにいた若いタヌキが、「またはじまった」という目で年老いたタヌキを一瞥した。それから共同便所の近くにあるゴミ置き場へ向かった。飯場から出るゴミは、裸電球の光が辛うじて届くあたりに雑然と置かれていた。酒瓶や読み終わった雑誌など、食べられないものに混じって、動物たちのご馳走が捨てられている。若いタヌキはさっそく大きなブリキのバケツの上によじ登った。あいにく手先はそれほど器用ではない。若いタヌキは爪で引っ掻くようにして、バケツを覆っている木の蓋を、頭が入るくらい横にずらした。
「たまんねえなあ」バケツのなかを覗き込んでうっとりした声で言った。
「わしにも早く喰わせろ」年寄りのタヌキが下から急かした。
「まあ待て、じいさん。あとでたっぷり喰わせてやるから」
「そんなことを言わずに、いますぐに喰わせてくれよ。こりゃあ堪えられん匂いだ」
「ちぇっ、喰い意地のはったじいさんだ」
 若いタヌキはバケツのなかから引っ張り出した肉を、年寄りのタヌキのほうへ投げてやった。
「ほっ、ほっ。これは豚だな」
「豚だろうが牛だろうが知ったことか。とにかく黙って喰え」
「ああ、喰うとも。だが、このわしらが豚どもを喰う日が来るとは思わなかったな」
「黙って喰わないと、じいさんが喰われてしまうぞ」
「豚にか」
「人間にだ」
「ああ、たしかに。あいつらはなんでも喰いやがる。喰い意地がはっているのは、わしよりも人間だとは思わんか。そのくせ喰い物を粗末にするのはどうしたわけだ。このように惜しげもなく捨てて、もったいないと思わんのだろうか。もっとも村の家ではこんなことはないな。喰い物を粗末にするのは、新しくやって来た連中だけだ。やつらは米でも肉でも野菜でも、喰いきれないぶんはみんな捨ててしまう。おかげでわしらはご馳走にありつけるというわけだ」
「喋り過ぎだ、じいさん。いい加減にしておかないと、冗談ではなく人間に喰われてしまうぞ」
 そのときイノシシの親子がやって来た。子どもたちを付き従えた母親のイノシシは、後ろ足立ちをして、若いタヌキの横から切株のような鼻をバケツのなかへ突っ込んだ。
「おい、何をする。乱暴なやつだな」
 母親のイノシシはタヌキの言うことなど耳に入らない様子で、バケツのなかの残飯を貪り喰いはじめた。
「わしにもよこせ」年寄りのタヌキがじれったそうに言った。
「意地汚いイノシシめ」
 若いタヌキは鋭い牙でイノシシの鼻に噛みついた。母親のイノシシは耳障りな悲鳴を上げると、あまりの痛さにブリキのバケツをひっくり返した。
「ありがたい」
 年寄りのタヌキがこれ幸いと、バケツからこぼれた残飯に鼻を突っ込んだ。母親のイノシシも、タヌキに噛みつかれた鼻の痛みなど忘れたかのように、米も肉も野菜も、生のものも火を通したものも、すべてが混ざり合ったご馳走を食べはじめた。四匹の子どもたちも母親に倣った。そうやって動物たちが我を忘れて残飯を漁っているとき、近くの宿舎のドアが開いた。
「あれま、見てごらよ」女が蓮っ葉な声を上げた。「動物たちが残飯を食べてるよ」
 あとから男が出てきた。
「こいつら」
 男は足元の石を拾うと、動物たちに向かって投げつけた。二匹のタヌキは素早く森のほうへ逃げた。イノシシたちも逃げたが、一匹だけ子どものイノシシが逃げ遅れた。騒ぎを聞きつけて、宿舎から何人かの男たちが出てきた。
「おお、ウリ坊がおるぞ」一人が言った。
「まあ、可愛い」別の女が言った。
「捕まえてやる」
 男たちは示し合わせたように、あっという間にイノシシを取り囲んだ。子どものイノシシは、懸命に逃れようとしたが、難なく男たちに捕まってしまった。森の入口から母親が引き返してきた。猛烈な勢いで突進し、イノシシを捕まえている男に体当たりした。不意を衝かれた男はあっけなく後ろにひっくり返った。その隙に、子どものイノシシは男の手を逃れると、一目散に森のほうへ駆け出した。倒れた男は地面に尻をついたまま、足で母親のイノシシを蹴ろうとして、反対にふくらはぎのあたりを噛みつかれた。
「この野郎!」
「殺してしまえ」と誰かが叫んだ。
 その声に答えるように、暗闇を引き裂いて銃声が轟いた。宿舎から銃を取ってきた男が、母親のイノシシに向かって発砲したのだった。一発の銃声は、谷間に立ち込めた霧を震わせ、山全体に響き渡った。同時に、別のところで悲鳴が上がった。隣の宿舎から様子を見に出てきた男に、運悪く弾が当たったらしい。
「なんてことをするんだ」撃たれた男は、腕のあたりを押さえてわめいた。
「血が出てるよ」男に駆け寄った女が泣きそうな声で言った。
「クソっ、イノシシのやつ」発砲した男はかなり興奮しているようだった。
「早く手当をしなきゃ」
「こんなところで散弾をぶっぱなすやつがあるか」
「おまえがのこのこ顔を出すからだ」
「なにを!」
「とにかく、なかへ運ぼうよ」
 やがて男も女もみんな宿舎のなかへ入っていった。地面には薬莢が転がり、火薬の匂いはしばらく消えずに残っていた。
「もう二度と、あんなところはいやだよ」森のなかへ逃げ延びた子どものイノシシが、震えながら訴えた。「おかあさんと一緒なら、何も怖いことはないって言ったじゃないか」
「もう大丈夫」母親のイノシシは鼻で荒い息をしながら言った。
「いくらお腹が空いても、もう絶対に行かないよ」
 森が再び静かになったころ、食べ散らかされた残飯を求めて野ネズミたちがやって来た。十匹のほどの群れだった。一匹を見張りに立てて、残りのネズミたちが残飯を漁りはじめた。凶暴なイタチが現れる前に、食べられるだけ腹に詰め込んでおこうという魂胆らしい。やがて見張りのネズミも饗宴に加わった。すると別のネズミが見張りの役を引き受けた。そうやって交代で見張りを立てながら、野ネズミたちは時ならぬご馳走を食べつづけた。(イラスト RIN)