なお、この星の上に(13)

13
 太陽の光が触れるのを感じた。空は端から端まで青い。山の輪郭は鮮明で、近くに生い茂る草木は、葉の一枚一枚が数えられるほどくっきりと見えている。祖父の話を思い出した。何もかもが驚くほどはっきり見える日がある。普段は見えないものまでが見える。そんな日が、年に一日か二日はある。今日が、その日かもしれない、と健太郎は思った。
 森が騒いでいる。暗い原始の森がうごめいている。森は彼のなかにある。身体の奥まったところにあって、いつもは眠ったように静かにしている。だが目を覚ますと厄介なことになる。森が広がりはじめる。なかにあったものは外に溢れ出し、いつのまにか健太郎を包み、取り込んでしまう。気がつくと自分のほうが森のなかにいる。
 川に来ていた。水が涸れはじめている。普段は流れの下にある岩が白く剥き出しになっている。流れが緩やかなところでは川原が広がっている。自分の影が、足元に濃く短くうずくまるように落ちていた。一人だった。たんに一人という以上に、一人だった。森が騒ぐ日には、できるだけ一人でいたかった。誰とも話したくない。本当は誰かに打ち明けたかったが、言葉を向ける相手を思いつかない。祖父か、父か? 相手が誰でも、うまく説明できるとは思えない。
 水音が聞こえた。川下から水のなかを歩いてくる者がいる。一瞬、吉右衛門爺さんだろうかと思った。顔を上げて待ち構えた。その正体が明らかになったとき、彼の心は落胆していいのか安堵していいのかわからなくなった。やがて日差しの下に出たような心地がして、健太郎の頭のなかは明るくなった。
「源さん」と声をかけた。
「おう」
 相手は気安く手を挙げて応えた。いつものように手造りのヤスを持っている。
「魚を獲っておるのか」
「そのつもりで来たが、どこにも魚がおらん」
「雨が降らんけんかの」
「たぶんそうやろ」
 源さんは川から上がると、健太郎のほうへ歩いてきた。
「こんなところで何をしとる」近くの石に腰を下ろしながらたずねた。
「なんも」ありのままを答えると、
「そうか、なんもせんことをしとるか」
 源さんはおかしそうに笑った。額の汗が光っている。それからふと静まって、
「今日は何もかもが黙っとる」と謎めいたことを言った。「お山も森も魚も喋らん。鳥も風も水もうたいよらん。川はただ流れとるだけじゃ。こういう日はわしは寂しい」
 その寂しさに、健太郎の心もまた染まっていくようだった。だが源さんが感じている寂しさは、どこか穏やかで温かみのある寂しさだった。動物や森や水や魚たちの沈黙とともにある寂しさ、何かが再び戻ってくることを予感させる寂しさだった。川原の石が太陽の熱に熱くなっている。その匂いがする。草木が風に揺れる。水が流れる。いろんな匂いが一つになって懐かしい匂いがする。
 顔を上げると、源さんはじっと川の流れを見ていた。名前を呼ぶと振り向いた。この人になら話せそうな気がする。自分の秘密を打ち明けることができそうな気がする。
「おやじさんの加減はどうね」
「ああ」源さんはちょっと疲れた顔をして、「良くも悪くもねえ」と言った。「あいかわらず口をあけて寝ておる。あのまま口をあけておっ死ぬんじゃねえかと思う。覚悟はできとるよ」
 たずねたいことを逸らして、具合の悪い父親のことに言葉を向けたのはかえって悪かった気がした。後ろめたさを紛らわすように空を見上げた。雲一つない空だった。
「雨、降らんなあ」と呟いてみる。
 源さんは釣られるように顔を上げた。明るい日差しのなかで時間が透明になっていく。時間が透き通ると、時間を超えてありつづけるものが姿を現す。
 小学生に上がる前から、この川で仲間たちと泳いだ。年上の少年たちが取り仕切る習わしだった。そのころは健太郎たちがいちばん年少だった。誰かが放った石を取ってくる競争をさせられたことがある。流れに揉まれながら、川底に沈んだ特徴のある石を懸命に探す。それは遊びというよりも、延々とつづく無慈悲な修練に近かった。ようやく解放されたときには、誰もが身体の芯から冷えたように身震いしていた。
 学年が上がるに連れて、年下の子どもたちが増えていった。年少の子どもたちに、今度は健太郎たちが同じことをさせた。唇が真っ青になるまで、川底の石を取ってくることを繰り返させた。どうしてあんなことをしたのだろう。誰に命ぜられたわけでもなく、後ろ暗いような気持ちを秘して、心の襞に陰湿な喜びを感じながら。それは罪のようなものとして、健太郎の記憶に残っていた。降り積もった罪の記憶が、森を育てたのだろうか。
 源さんはじっと川の流れを見ている。彼も子どものころには、この川で泳いだはずだ。やはり年長の者たちに競争をさせられただろうか。そして年少の者たちに同じことをさせただろうか。源さんのなかにも森はあるのだろうか。
「やっぱり雨は降らんかな」誘い出すようなたずね方になっていた。
 源さんはちょっと警戒するように健太郎のほうを見た。ここで下手な駆け引きはしたくなかった。
「雨乞いを出しても雨は降らんて、なせそう思うたのか」と率直にたずねてみる。
「さあ、なせかの」源さんはとぼけるでもなく、「あのときはなんとなくそんな気がしたのやったが、いまはよう思い出せん」と言った。
 深入りする気はなかった。ぼんやりしたまま時間は流れた。水の匂いが強くなった。光が川面を跳ねまわっている。
「おやじが言うには、本当の知恵は頭のなかに入っとるんやのおて、ここに入っとるらしい」源さんは自分の胸のあたりを指差した。「あのときもここに入っとる知恵が、わしにそっと教えてくれたのやと思う。源さん、当分雨は降らんで、とな」
「他にはどんな知恵が入っとるんか」健太郎が間合いを詰めると、
「どんな知恵も入っとらんよ」相手は煙に巻くようなことを言った。「知恵は自分のなかにあるのやのおて、空や山や川や、森の獣や鳥や魚や虫のなかにある。そういうものたちと仲良うせなならん。家族みたいに付き合おうて、いろんなことを教えてもらわなならん。おやじはいつもそう言いよった」
「偉いおやじさんやね」思ったままを口にすると、
「なんぼ偉い人でも、田んぼで溺れてはどうもならん」源さんはあっさり突き放した。「いまはわしのほうが偉い」
 健太郎は思わず声を上げて笑った。源さんも一緒に笑った。いつか裏山の林でカブトムシを採ってくれたことがある。健太郎は三つか四つだった。遠い夏の日のことだ。二人のあいだを風が吹き抜けていく。やがて源さんは父親の話に戻った。
「おやじはわしにいろんなことを教えてくれたが、こっちは頭が弱いけん、みなはようおぼえきらんかった」思い出を手繰るようにしてつづけた。「おやじの話は、いつでも川の流れみたいに行ってしまう。わしは聞いとるだけで、聞いたことはどこかへ流れていってしまう。結局は、なんも教わらんのと同じことになってしもうた。わしに話してくれたようなことを、おやじはどこで探し出してくるのか、不思議でならんかった」
「動物たちに聞いたのやないかな」
「わしもそう思う」源さんは我が意を得たりというように言った。「おやじはそういう心をもった人やった。おやじの心のなかには、鳥や魚が教えてくれる知恵がいっぱい入っとったのやろうな」
 健太郎は黙って頷いた。
「酒さえ飲まねばな、ええおやじやったよ」源さんは懐かしそうに言った。「しょうもないおやじやったが、それでもわしにはええおやじやった。酒を飲んでもええおやじやったよ」
 しばらく言葉が途切れた。病気で寝ている父親が元気だったころのことを思い出しているのだろうか。静かで心地のいい時間が流れた。
「これからどうするの」とたずねてみる。
「もう少し上のほうで釣ってみるかの」源さんはゆっくり腰を上げながら言った。
「イワナか」健太郎も立ち上がった。
「せっかくミミズを掘ったけんの」そう言って、腰に下げた餌箱を軽く手で叩いて見せた。「魚止めの滝あたりまでは行ってみるつもりだわ」
 源さんは明るい空を見上げた。
「一匹でもかかってくれるとええが、こう天気がつづいては大物は出てこんやろう」翳りのない口調で言った。「これで雨でも降って川の水が濁れば、嘘みたいに釣れるのやがな」
 源さんが立ち去ったあとも、しばらく一人で川原に残っていた。日が翳ったような気がして目を上げると、日差しはあいかわらず明るかった。自分が急に年老いたように感じられた。五十年も六十年も経ってから、十五歳のころの自分を懐かしく思い返している気分になっていた。いつかそんな日が来る。そんな日が早く来ればいい、と健太郎は思った。

 煌々と照る月の光で、庭は隅々まで明るかった。地面を這っている小さな虫の姿まで見えそうだ。風のない静かな夜だった。木の葉も草も眠り込んだように動かない。暗い天空に輝く星たちだけが小さく震えている。
 夜中に起きて便所へ行くとき、月が出ていてくれるのはありがたい。足元に不安がないし、得体の知れないものたちの気配も遠ざかっている。それでも綾子は母親か祖母に付き添ってもらうだろう。電気や水道のことよりも、先に便所をどうにかすればいいのに、と健太郎は思う。霜が降りる季節に、温かい布団から抜け出して便所へ行くのは苦行に近い。なぜ家の者たちは、この不条理を何十年も耐え忍んでいるのだろう。誰もなんともしようと思わないのが不思議だった。祖父母も両親も、夜中に便所へ行くことは、そんなものだと思っているらしい。
 小屋のほうから牛の鳴き声がした。春に生まれた仔牛のようだ。腹が減って母牛に乳をねだっているのだろうか。母牛が舌で仔牛を舐めてやっている姿が目に浮かんだ。仔牛は長くて柔らかい舌を、母親の乳首に巻きつけるようにして乳を飲む。半年のあいだにすっかり大きくなって、いまでは角の生えてくるところが固くなっている。残念ながら、今年生まれたのは牡だった。やがて肉にされる運命からは逃れられない。苦労して産んだ仔牛が肉にされると知ったら、母牛はどんな感情を抱くだろう。夜の空気の冷たさに思わず身震いをした。いかにも不健康なことを考えている気がした。頭に残るモヤモヤしたものを洗い流すように、健太郎は汲み置きの水で乱暴に手を洗った。
 母屋に戻ろうとしたとき、庭の隅の生垣のところに誰かいるのに気づいた。こんな時間にうろついているのは灰拾いくらいのものだろう。灰拾いのねぐらは山間の火葬場だ。そこは彼のねぐらでもあり、仕事場でもあった。骨揚げが済んだあとに残った骨と灰を、火葬場の裏の集積所に運んで始末するのが仕事だった。その際に灰のなかを掻きまわして、歯の詰め物に使ったわずかの金や銀を拾い集める。稀に指輪などの貴金属、宝石類が見るかることもあるらしい。それらは彼の副収入になった。隠微な副業をさして、大人たちは「灰せせり」と呼ぶこともあった。古い呼び名である。「せせる」という言葉がわからなくなっている子どもたちは、わかりやすい「灰拾い」という名前のほうを採用した。
 健太郎たちの仲間内では男のことを「ガーグー」と呼んでいた。生まれつき言葉が不自由で、「ガー」とか「グー」としか言わないからだ。本人は何か言葉を喋っているつもりなのだろうが、健常者の耳には「ガー」や「グー」といった擬音にしか聞こえない。ガーグーは夜になると村に出てきて、家々を徘徊する。そして畑の作物や、庭先の木に成っている無花果や柿を持っていったりする。たいした量ではないので、どの家も大目に見てやっている。健太郎の祖母のように、残りの飯で握りなどをつくって置いてやる者もいる。子どもたちのなかには、ガーグーは腹が減ると焼け残った骨を齧るのだと言う者もいたが、これはいかにも嘘臭かった。
 しかし今夜の訪問者はガーグーではなかった。ガーグーは大柄な男である。いま生垣のところにいる者は、健太郎と同じ背格好で体つきも少年っぽい。
「そこにおるのは誰かの」
 危険のない相手と見て警戒もせずにたずねた。庭に植わった大木が月の光を遮って、その姿は暗がりに紛れている。
「そんなところで何をしよる」
 言葉をかけておいてから、生垣のほうへゆっくり足を進めた。相手は動かずにこっちを見ている。あいかわらず一言も言葉を発しない。ひょっとして口が利けないのかもしれない、と健太郎は思った。彼のいるあたりだけが、ひときわ暗い闇に包まれているように感じられた。あと四、五メートルという距離まで来たところで、影は不意に生垣を離れた。逃げ出すような足の運びではない。その姿が月の光の下に出た。やはり中学生くらいの少年だった。
「おい、待て」
 声をかけると、相手は立ち止まった。首だけ振り向いてたずねた。
「おまえ、わしらの仲間か」はじめて口を利いた。
「なんのことじゃ」
 見たことのない少年だった。
「仲間なら一緒に来い」
「どこへか」
 それだけを伝えれば充分というように、少年は健太郎に背を向けて歩きはじめた。
「どこに住んどる」
 答えなかった。立ち止まりさえしない。腹を立てるよりも、不可解な思いのほうが勝っていた。それに庭は寒かった。薄着の身体は冷え切っている。
「おかしなやつじゃ」吐き捨てるようにつぶやくと、健太郎は母屋のほうへ急いだ。
 どこから来たのだろう。布団に戻ってから、あらためて先ほどの少年のことを考えた。こんな夜中に何をしていたのだろう。近隣に住んでいるなら知らないはずはない。ほとんどの者は顔見知りと言っていい。他所から来たのだろうか。この村に親戚でもいて、そこに寝泊りしているのだろうか。一方で、健太郎は少年のことを前から知っていた気がした。やって来ることを予感し、待ち望んでさえいた気がする。
「馬鹿くさい」
 布団をかぶって寝てしまおうと思った。しかしぼんやりとした不安は彼をとらえて離さなかった。何かがここへたどり着いた。得体の知れない疫病のようなものが、夜陰に紛れて庭先までやって来た。それとも自分のほうが、どこかへたどり着いたのだろうか。自分の心が自分のものではないみたいだった。すでに夜は、これまでと同じではなかった。(イラスト RIN)