なお、この星の上に(12)

 いつのまにか平坦な尾根に出ていた。かなり標高が高くなっている。日当たりのいい場所でひと休みしていくことになった。各自が思い思いの場所に腰を下ろし、持ってきた水筒の水を飲んだ。日はすでに高く昇り、足元には暖かな木漏れ日が落ちている。植林が進んだ山々が連なり、眼下に小さく村が見えた。こんな山の奥に自分たちの村はあるのだ、と健太郎は思った。普段はとくに感じないが、こうして高いところから眺望すると、いかにも辺鄙なところで人々の暮らしは営まれている。辺鄙なだけではなく、村は哀れなほど小さく、みすぼらしかった。両手で小さな輪をつくれば、そのなかにすっぽり収まってしまう。
 この小さな輪のなかで、人々は生まれ、死んでいくのだ。そう考えると、なんだか恐ろしい気がした。小さな輪から一度も外に出ることなく、一生を終わった人もいるだろう。昔はそういう人のほうが多かったのかもしれない。人々は地上のごくわずかな場所しか知らず、そのわずかな土地を耕し、暮らしを営み、子を産み、育て、やがて自らは年老いて死んでいく。そんな暮らしを先祖たちは、何百年ものあいだ連綿と繰り返してきた。出ていきたいとは思わなかったのだろうか。どこか別の場所で暮らしたいとか、違う世界を見てみたいとは思わなかったのだろうか。自分にはと耐えられそうにない。小さな輪のなかで一生を終えることは、せっかく与えられたものを活かしきれないことのようにも思えた。
 父はそんなことを考えなかっただろうか。ここから出ていきたいという、強い思いに駆られることはなかったのだろうか。たずねてみたかったけれど、それを口にすることは父を傷つけ、悲しませるような気がした。こんな疑問を抱くだけでも、すでに不実をはたらいているという後ろめたさをおぼえている。一方で、この父を裏切り、否定したいという気持ちが、心の奥底でうごめいていることにも、健太郎は気がついていた。いつか自分は、この父から目を逸らしたいと思うかもしれない。目を向けるときも、父の背後に遠く存在するものだけしか見ない日が来るかもしれない。それもまた恐ろしいことのように思えた。
「あんなに木を伐っては地滑りが心配だの」近くの石に腰を下ろして煙草を吸っている仁多さんが心配そうに言った。
 健太郎たちのいる南側の尾根と、北側からつづく尾根が出会ってせり上がったところが、お山の頂にあたる。方角的には東のお山を水源として、南北の尾根のあいだを一本の川が深い谷を刻んで村のほうへ流れている。その川を隔てた山の斜面で、エラン鉱の採掘は進められていた。ここからだと、ちょうど正面に俯瞰する位置になる。幾つも掘られているはずの坑道は、さすがに遠くて見えないが、急斜面に生えていた木々は広範に伐採され、広い範囲が禿山になっている。土を削って平にされた場所には、学校の校舎にも似た木造の建物が何棟も建ち並んでいた。
「あのあたりの森には手を入れちゃならんのだが」仁多さんは気がかりな口調でつづけた。「大雨でも降りゃあ、根の浅い杉や檜の植林地はいっぺんに流れてしまうけんな」
「町の山持ちは馬鹿じゃが」岩男さんが吐き捨てるように言った。「自分らが山仕事をせんもんやけん、ああして簡単に売ってしまいよる。おまけにエランを掘っとるような連中は、山のこたあなんも知らんけん、恐ろしいとも思わんのだろ」
「なんであがいな仕事をしよるかね」源さんが不思議そうに言った。「一日中暗い穴んなかで土を掘り返して、モグラじゃあるまいし、わしなら気が変になってしまうで」
「そりゃあ、源さんじゃのうても変になろう」仁多さんが笑いながら言った。
「あの人らは大丈夫みたいじゃな」源さんは真顔で返した。
「いまは大丈夫でも、そのうち大丈夫じゃあのうなるで」仁多さんは答えた。「わしらは身体を自然に合わせて生きとるが、あそこで働いとる連中は、自分の身体を何に合わせりゃええかわからんようなっとる。そしたら人間は病気になる。人間の身体も自然の一部じゃけんの」
「金に合わせて生きとるんじゃろ」岩男さんが蔑むように言った。「ああした連中は、金のためならなんでもするもんじゃ」
「そうかもしれんな」仁多さんは答えた。「そんなもんに合わせて生きとるけん、自分がモグラになっとることにも気がつかんのだろ」
「いくら金んためでも、モグラみたいな真似をするのは嫌じゃがの」
「川のなか入ってガタロウの真似しよる源さんでも、モグラは嫌か」
「嫌じゃの」
 この人のいい源さんが、いくらか知恵遅れであることには、健太郎も子どものころから気がついている。それは彼が知的障害者であるということとは少し違っている。うまく言えないけれど、知恵遅れは源さんの匂いであり、体温みたいなものだった。大人たちもそうした作法で、彼と付き合っているように見えた。
「ところでおやじさんの具合はどがいな」それまで三人のやり取りを聞いていた健太郎の父が口を開いた。
「ようないな」源さんは他人事みたいに言った。
「あいかわらず寝たままか」仁多さんがたずねた。
「医者はもう助からん言いよる」
「そがいに悪いんか」仁多さんはちょっと驚いた顔をした。
「若いころからよう酒を飲みよったけんな」源さんはあっさりした口調で答えた。「死んだおふくろは、家には絶対に酒を置かんようにしとった。あるとあるだけ飲むけんな。親父は木の洞やら岩の下やら、いろんなとこに焼酎を隠しとって、山仕事に行くたんびに飲みよったらしい。おふくろは親父が酒に酔うて帰ってくると、おまえみたいなやつは中風になって死んでしまえ言うて怒りよったが、そういうおふくろのほうが先に死んでしまうんじゃけん、わからんもんだの。まあ今度ばかりは、親父もだめじゃろう。若いころから飲んできた酒が、いまごろんなって効いてきたんだわ。医者も好きなようにさせとけ言いよる。わしは酒を飲ましちゃろ思うて買うてくるんじゃが、もうようけはよう飲まん」
「そりゃあ、ちっとも知らんことじゃったの」健太郎の父は難しい顔で言った。
 源さんの父親が倒れたのは、棚田に水を引きに行っているときだった。畦道にレンゲやタンポポが咲くころになると、村の人たちは田起こしの作業で忙しくなる。まず土をほぐして畝をつくる。そこに水が入ると、水田はまわりの木々や空を映して鏡のように美しく輝く。男たちは水に入り、代掻きをはじめる。田植えがしやすいように、T字型の木のヘラを使って土の表面を平らにならしていく。同じ時期に畦づくりもはじまる。田んぼの泥を掻き上げ、鍬で盛り上げていく。これをしっかりやっておかないと、せっかく入れた水が漏れてしまう。
 どうやら源さんの父親は、この作業をおろそかにしていたらしい。結果的に、それが幸いした。父親が倒れたのは田んぼのなかだった。仰向けになって大の字に寝ているところを源さんが見つけた。すでに水門は開かれ、水は田んぼのなかに入ってきている。ところが当人の不手際から、水位は一定以上に上がらなかった。源さんの父親は、頭を耳のあたりまで水没させた状態で鼾をかきつづけていたという。もし正常に水が入っていたら、おそらく溺れ死んでいただろう。
「人間、何が幸いするかわからんもんじゃの」父親がもってきた話を聞いて、健太郎の祖父は感心したように言った。「命を落としかけたのも、その命を救ってくれたのも、両方とも酒じゃったいうのは、よほど酒に縁が深いんだの」
 命こそ助かったものの、予後は良くないらしい。男たちは腕組みなどをして、神妙な顔つきで黙り込み、源さんの家を襲った不幸について思いをめぐらせているようだった。独り身の源さんは、母親が亡くなったあとは父親と二人暮らしだった。その父親が田んぼで倒れて寝たきりになった。兄弟姉妹がいるという話は聞かない。これから源さんはどうするのだろう。健太郎は詳しくは知らない人の家の行く末について思いをめぐらせてみる。しかし男たちの話は、それきり源さんのところへは戻ってこなかった。
「そりゃあそうと、飯場にゃあいろんな者が流れてきておるという話だで」仁多さんが気がかりな口ぶりで言った。「なかには前科者もおるらしい」
エラン鉱の採掘現場のことらしい。
「四郡みたいになったら困るの」と岩男さんが言った。
 四郡というのは、隣の県にある産炭地域のことだった。かつて「焚石」や「燃え石」と呼ばれていた石炭は、江戸時代には藩の統制経済下に置かれていた。ところが維新政府になり、鉱山解放令によって誰でも石炭が掘れるようになると、全国から山師のような連中が流れ込んできて採掘をはじめた。無統制に乱掘されることを防ぐために、県は炭坑が分布する四つの郡に行政指導をおこない同業組合をつくらせた。そのため産炭地域のことを、このあたりの者は四郡と呼びならわしている。
「鉱山で働いとる連中は、勘定日に給料を受け取ると、そのまま町へ繰り出して、酒や女に夜を徹するいうことじゃ」事情に通じているらしい仁多さんは言った。「独り身の者も多いのやろう。町には怪しげな商売女もぎょうさん来ておる。栄町のへんは、まるで特飲街じゃが。源さんもひょこひょこ出かけたらひどいめにあうで」
「あんた、行ってきたんけ」その源さんがもっともな問いを向けた。
「特飲街がでけると、かならずヤクザが入ってくる」仁多さんは聞こえなかったふりをしてつづけた。「そして町を仕切るようになる」
「わしが言うとるのも、そのことじゃよ」岩男さんが我が意を得たりという顔で頷いた。「博打もはやるじゃろう」
「毎晩、サイコロをやりよるよ」健太郎は思わず口を挟んだ。
「なしてそがいなこと知っとるんけ」父が不審そうにたずねた。
「学校で聞いたんじゃ」
「そうじゃろう」岩男さんが話を引き取ってくれた。「昔から男はサイコロ、女は花札と相場がきまっとる」
「いずれんしても、なんとかせなならんの」と仁多さんが言った。
「山の神様に頼んでみちゃあどうかの」源さんが言った。
「なんと頼むね」
「はようエランが掘り尽くされて、あの人らが出ていってくれますようにいうのはどうじゃろ」
「だがエランは国の大事なエネルギー資源じゃけんな」仁多さんが言った。
「いくら大事なエネルギー資源でも、わしらの村を壊されちゃあかなわん」岩男さんは険しい口調で言った。
「せめて村には、ああいう連中は入れんようにすることじゃな」そう言って、仁多さんは健太郎の父のほうを見た。
「茂さんとこの牛を襲った野犬のこともあるし、今年はいろいろと頭の痛いことが重なるの」父親は切り上げるように言った。
イラスト RIN