なお、この星の上に(11)


 山参りの日がやって来た。真っ暗な庭先で、男たちは焚き火を囲んで煙草を吸っている。代表を務める父親の他に、岩男さんと仁多さん、それに源さんという顔ぶれだった。三人とも健太郎が小さいころから知っている人たちだった。とくに魚掴みの名人である源さんとは、何度か一緒に魚を捕りに行ったことがある。だから大人たちと一緒に山へ登ることに、それほど気後れを感じずに済んだ。四月とはいえ、空気は冷たく張り詰めていた。空全体が凍ってしまったかのようだった。大声を上げれば凍った空に亀裂が走り、粉々に砕けて落ちて来そうだ。
 母親が父に風呂敷に包まれた重箱を渡した。なかには炊き上がったばかりの赤飯が詰められている。この赤飯を山頂の奥宮に奉納するのが、山参りのいちばんの重要な役目とされていた。他にも山の神様に供える炊きたての白飯が、小さな包にして幾つか用意してあった。これらはお神酒や塩とともに付き添いの男たちが持っていく。
「気をつけて行っておいでな」祖母が健太郎に言った。
「天狗にたぶらかされるんじゃないぞ」祖父がからかうように言った。
「あんまり張り切って登ったら、途中からえろうなるけんね」母親は弁当を手渡しながら言った。
「わかっとるよ」健太郎はうるさそうに答えた。
 丸い月が冷たい闇を深々と照らしている。月の光は道端の木を照らし、その影が大根の植わった畑に落ちている。
「それじゃあ行ってきます」父親が見送りの者たちに向かって律儀に頭を下げた。
「ごくろうさんです」見送りの三人も神妙に頭を下げるのが、健太郎にはおかしかった。
 総勢五人の一行は、夜明け前の村を出発した。この山参りが、どのくらい前からはじまったのか定かではない。祖父でさえ知らないくらいだから、きっと何百年もつづいているのだろう。戦争のあいだも途切れることはなかったという。「お天道さまは語ってくれぬでな」と祖父は口癖のように言った。大自然の営みは日々に移り変わり、ときに予測不能な事態をもたらす。目に見えず、意思疎通の図れない天候や風土にたいして、村の人々は四季折々に真剣な祈りを捧げてきたのだろう。
 村はずれから柿畑を抜けて、棚田の脇から細い山道に入る。このあたりはまだ勾配が緩やかなので楽に登っていくことができる。お山には男たちだけで登ることになっている。森の奥に祀られた祠の先は、一種の結界になっており、子どもたちだけでなく、大人の女たちも立ち入ることを固く禁じられていた。女人禁制の理由については、周期的に出血をするため不浄であるからとか、山の神様は女の人でやきもちを焼くからとか、幾つか説があるが、本当のところはよくわからない。とにかく女たちの役目は、早朝から起きて男たちを見送る準備をすること、そして男たちが山に登っているあいだ、村のあちこちの祠にお供えを上げてまわることだった。村の男の子たちにとって、お山に登ることは、一人前の大人として認められることでもあった。昔は山参りの道中に、経験の豊かな大人たちから、天候の占い方や種を蒔く時期など、農事にかんする知恵を授けられたものらしい。
 山の神の祠に着くころには、空はだいぶ明るくなっていた。男たちはさっそくお参りの準備をはじめた。山に入るときは、かならず山の神にお参りすることになっている。いつもは掌を合わせて拝むくらいだが、山参りのときには少し念入りに、家々から持参してきたものをお供えして祈りを捧げる。男たちはまず近くに生える檜の枝を何本か切ってきた。それを地面に敷いて、上に白飯を箸で丁寧に盛りつけていく。盛り塩をして、コップ酒とオコゼの干物を供える。オコゼを供えるのは、この魚の器量の悪さを見て、山の神が喜ぶからだと言われている。すると山の神さまは、やはり女なのだろうか。最後に男たちは神妙に掌を合わせて頭を垂れた。彼らに倣って掌を合わせながら、何を祈っているのだろう、と健太郎は思った。
 山の神の祠から先は鬱蒼とした原生林になる。別世界に足を踏み入れていくような心地がして、自ずと気持ちは引き締まった。大人たちも口を閉ざしたまま歩きつづけている。山に入ったら無闇に口をきいてはならない。ことさら注意されたわけではないが、そんなしきたりのことが健太郎の頭にはあった。父親の惣一郎によれば、山のなかで無駄口を慎むのは、注意が散漫になることを防ぐ目的があるという。とくに暗い森のなかでは方向感覚が失われる。また予期せぬ危険も潜んでいる。だから感覚を研ぎ澄まし、まわりの状況に気を配りながら進んでいかなければならない。
 自然の森は数百年の周期で崩壊と再生を繰り返すと言われている。このあたりの森は、ほぼ完全に原始の姿をとどめている。ほとんど光が差し込まない森のなかは昼間でも暗く、足元には地面の土も見えないほどにシダが群生している。ツタが絡みついた木々のあいだを吹いていく風のなかに、目に見えない妖気のようなものが感じられた。健太郎は以前に祖父から聞いた神隠しの話を思い出した。
 祖父がまだ若いころのことだという。村の娘が忽然と姿を消した。以後、一人として娘を見た者はいなかった。村の者たち総出で川を浚い、山狩りをして捜索したけれど手がかりはつかめない。神隠しにあったのだろう、と人々は噂しあった。天狗に連れて行かれたのだと言う者もあった。子どもがいなくなると、昔はたいて神隠しのせいにされた。当時はそれほど珍しい事例でもなかったらしい。消えた子どもたちは、なんらかのかたちで発見されることが多かった。数日後に遠方の町や村を歩いていたり、目も眩むような高い木の枝に坐っていたり。何年も消息を絶っていた子が、成長してひょっこり戻ってくることもあった。
「健太郎も神隠しにあわんよう、気をつけにゃあならんぞ」と祖父は言った。
ちょっと変わった子どもが神隠しにあうことが多かった。いつも一人で山のなかで遊んでいたり、大人たちが奇異に思うほど動物と仲が良かったり。先に起こることを言い当てるような、霊感の強い子どもよく神隠しにあったという。
「天狗さまは、そういう子どもが好きじゃけんの」
「わしはそんな変わった子じゃないで」健太郎は身におぼえのない思いで言い返したものだった。
 ときどき嘘とも本当もつかないような話をして、幼い孫たちを怖がらせるのは祖父の悪い癖だった。そんな祖父にくらべると、父親の惣一郎にはいくらか辛気臭いところがあった。まず寡黙と言ってもいいくらい口数が少ない。何かたずねられても、軽々しくは答えない。かならず間をおいて考えている。こういう父が口を開くと、多くの者は納得することが多かった。一家の長である祖父も、息子には一目置いているところがあった。
 その点、祖父にはなんでも気安くたずねることができた。子どもの無邪気に問いにも、同じ目線で実直に答えてくれるので、幼いころから健太郎がふと抱いた疑問などを向けるのは主に祖父だった。たとえば何気なく目にしてきたことが、急に気にかかりだすことがある。自然の風物のように受け入れてきたものが、ふと不思議に思えたり、奇異に感じられたり、ときには馬鹿げたものになったりする。
「なんで木にお金を供えるんかの」あるとき彼はたずねた。「木がお金をもろうても、使い道がなかろうに」
「そうじゃのう」祖父はしばし考え込む。「たしかに杉の木が金を使うこたあないが、人間が大事なものを差し出しとるこたあわかるんじゃねえかの」
「木にわかるんけ」
「じいちゃんはわかる思うがの。木でも動物でも、人間の気持ちを汲み取ることができる。お山もそうじゃ。大事なものを与えるこたあ、わしらの感謝の気持ちを伝えることになる」
 健太郎が釈然としない顔で黙っていると、
「昔は村の若いおなごを差し出すこともあったそうな」祖父は言いにくそうにつづけた。「じいちゃんが生まれるずっと前の話だがな。そがいなこたあようないちゅうんで、酒や握り飯をあげることにしたんじゃないかの。なんぼお山の神様いうても、人間を差し出すわけにはいかん。酒や握り飯なら、毎日でも供えることができる。まあ分割払いみたいなもんかの」
 健太郎は得心のいったような、いかないような顔で頷いた。さらにたずねた。
「妙心寺の神様と、山の神様は違うんやろか」
「こりゃまたえらい話になってきたの」
「じいちゃんは、お山の向こうに神様がおんさる言うじゃろ。ばあちゃんは遠方から訪ねてくる知らん人が神様じゃ言うし、どれが本当の神様なんかの」
 それには直接答えずに、「健太郎はお山を見ると、掌を合わせとうなるこたあねえか」と別の角度から言葉を向けた。「じいちゃんは自然と、そういう気持ちになる。村の多くの者が、そう感じておったんじゃねえかの。それで山参りがはじまったんじゃと、じいちゃんは思う。あそこに神様がおられるような気がする。そうやってお山を拝むことがはじまったんじゃねえかの」
「妙心寺の仏さんも拝むじゃろう」健太郎は仏像にこだわった。「お山と仏さんじゃあ、だいぶ違うが」
「まあ、目印みたいなもんじゃろ」祖父は折り合いをつけるように言った。「神様いうのは人間の目に見えんけんな、いろんなものを目印にしとる。お山も杉も如来さんも、みんな目印みたいなものじゃと思うておけば間違いない。ばあちゃんにとっては、よそからやって来た知らん人が目印いうことだの。目印はなんでもええ。いろんなもんに神様を感じることが大事なことじゃと、じいちゃんは思うがな」
(イラスト RIN)