なお、この星の上に(11)

11
 異変が起こったのは、月が天頂に昇りつめ、動物たちの多くが眠りに就いたころだった。森のなかに殺気が漲った。黒い森のなかを稲妻のように伝令が走った。
「気をつけろ! 何かがやって来る」
 小鳥たちは藪のなかで目を覚まし、鳴き声も立てずに身を固くした。蜘蛛はヤブツバキの葉蔭で眠ったふりをした。あのフクロウでさえ、いまは止まり木から動かなかった。ただ警戒するように、頭をぐるりと三百六十度まわしただけだった。
 現れたのは野犬の群れだった。かなり大きな群れだ。何匹くらいいるのかわからない。森を隈なく覆っている強い殺気は、一つの個体によるものではなく、団結した群れの力によって生み出されたものだった。犬たちは闇雲に走りつづけている。怯えているわけではない。恐怖に駆られているわけではない。発情しているわけでもない。ただ何かに煽動されるように、どの犬も同じ方角へ向かって疾走していた。
 犬たちはどこへ向かっているのか? それは彼らにもわからない。リーダーはいないのか? そんなものはいない。ただ走りつづける。森の空気を切り裂き、木々を迂回して。安らぎにも似た気持ちの昂りをおぼえながら、黒い森を一陣の風のように駆け抜ける。もっと遠くへ行こう。われわれはまだ自分たちの生命を見つけていない。すべてが混じり合い、滑り込み、交差する生命を見つけ出していない。恐怖と死にとらわれた、この肉体から逃れていない。有機的な身体を解体して、エネルギーそのものになる。あるいは欲望そのものに。
「感じるか、何か感じるか」
「感じるぞ」
「いいのだな、この方向でいいのだな」
「こっちだ。この方向だ」
 犬たちは腹を空かせていた。しかし空腹はなお、個々の身体の欲望だ。かたちある欲望に固着してはならない。欲望そのものを欲望するのだ。
「おぼえているか、おれたちがまだ何ものでもなかったときのことを」
「おぼえているぞ」
「あのころ、おれたちは卵だった。自分をつくり出すことのできる万能の卵だった」
「盗まれていなかった。折りたたまれていなかった」
「いまだってそうだ。盗まれることも、折りたたまれることもなく、こうして一瞬、一瞬、自分をつくり出している」
「何ものなのだ、おれたちは」
「知りたければ、走りつづけることだ」
 さらに群れは加速した。もはや何も彼らを止めることはできない。集団が発している妖気めいたものがあまりにも強力なので、普段は図々しいキツネでさえ衝突を避けておとなしくしている。それは千匹の力をもつ一匹の野犬だった。いや、それを「犬」と呼ぶことはできない。犬たちは犬の姿をしていたが、犬ではなかった。犬であることを忘れ、新しい思い出のなかに流れ込み、未来へ向かって追想される記憶と一つになろうとしていた。森を突っ切り、過去を置き去りにしていく、強大なエネルギーの流れ。すべてが充満していた。付け加えるものは何もない。彼らはゼロになった。生命そのものを欲望する生命に。
「天国に足を踏み入れたみたいだ」
「天国でも犬は疾走するのか」
「するとも。犬ならぬ犬として、走りつづけるのだ」
 そこには天国的な調和があり、天国的な秩序があった。混沌としたエネルギーと、錯綜した欲望がつくり上げる天国だった。この空間の外に出ることはできない。なぜなら個々の有機的身体は、天国的な体系のなかで解体し、天国的な空間のなかに組み込まれていたからだ。この場から自らを締め出すことも、離れ去ることもできない。誰の運命も、誰かの運命ではなかった。誰かであることは隠されている。犬たちの疾走のなかに。形なきエネルギーのなかに。生命そのものの流れのなかに。
 近くを流れている小川が甘い誘惑の言葉を囁いた。
「あたしを飲んで」
 馬鹿を言え。そんなことをすれば、この高揚感が消えてしまう。仲間たちとの結束が、森との一体感が。生きていることの大切な瞬間を、喉の渇きなどと引き換えにはできない。立ち止まった途端に、世界は彼など必要としていないことが明らかになる。世界は彼を欲しない。生きようが死のうが、何一つ足りぬものなく完全でありつづける。存在するとは恐ろしいことだ。いま、この場所だけであり、ほんの数メートルも離れれば、生まれてもいなければ、はじまってもいない。そのことが疑うべくもない真実と感じられることは。
 誰だ。いま思考していたのは何ものか? 主体化が起こりはじめているのではないか。血管が詰まるようにして、流れのなかに結節点が生まれているのではないか。自我が目を覚まそうとしているのではないか。ひんやりとした空気が肺のなかに流れ込んでくる。風で涙が滲み、鼻腔が乾きはじめている。心臓が口から飛び出しそうだ。立ち止まって水を飲みたい。だめだ! 走りつづけろ。この一体感とともにありつづけるのだ。
「おれたちは間違ったほうへ進んでいるのではないか」
「何を言う」
「見たことがあるぞ。発狂したイノシシがこんなふうに走っていくのを。そして滝に身を投げるのを。おれたちも気がふれて、群れごと自殺しようとしているのではないか」
「悪いものを喰ったのだ。卑しいイノシシめ」
「悪いものとはなんだ? われわれに洞察をもたらすものか」
「冗談を言っているのか。人間が置いていった餌のことだ。あれを喰って死んでいった、おれたちの仲間も大勢いるではないか」
「いや、そうではない。あいつは挟まれたのだ。餌を喰おうとして、猛々しく牙を剥く鉄の歯に鼻を挟まれた」
「増長したイノシシには謙虚さを教えてやれなければならない」
「そのうちおまえもイノシシと同じ目に遭うぞ」
「イノシシはどうなった」
「あまりの痛さに我を忘れて滝壺に飛び込んでしまった」
「無様な格好で腐っていくよりはましだ」
「おれたちもそうなろうとしているのではないか。イノシシみたいに我を忘れて、間違ったほうへ向かっているのではないか」
「たしかめてみることだ。おまえの鼻が齧られていないかどうか」
 覆い尽くされたもののなかから、「彼」が現れようとしていた。彼は死んではいなかった。だが通常の意味で生きてもいなかった。彼が聴いているリズムは、彼のものではなかった。彼が従っている法則も、彼のものではなかった。ただし匂いは別だ。彼が嗅いでいる匂いは、彼のものだった。
 心を高揚させる匂い。その匂いを、群れとともに追いかけていた。振り払うことなどできない。命と引き換えにしても、追いつづけなければならない。本能が命じるのだ。どんな危険を冒しても、この匂いを追いつづけよ。それをやめてしまえば、おれはおれでなくなってしまう。素晴らしいことだ。仲間と結束して、一つの匂いを追いかけることは。魅惑的な匂いのなかで、おれたちは一つに溶け合う。おれはおれでありながら解放されている。力強く波打つ生命のなかへ。分子のなかへ。戦慄や波動や振動のなかへ。荒々しい息遣いのなかへ。
 いい気分だ。おれと、おれの仲間たち。兄弟たちとともに、黄昏の光のなかを走りつづけるのは。太陽の光は森の木々のあいだを抜けて射し込み、落ち葉の降りしいた床を金色に照らし出している。行く手に見える通路は息を呑むほど美しい。おれたちは沈んでいく太陽に向かって走りつづける。その先に何があるのか、何が待っているのかわからない。
 いつのまにか山を下りたらしい。黒い森を抜けると人間たちの住む村が近い。仲間たちが吠え、叫んでいる。それとも吠えているのはおれなのか。おれ自身が叫んでいるのか。乾いた田んぼを突っ切ると、不意に血の匂いがしてきた。ここはどこだ? いったいどこにやって来たのだ。天国はどこへ行った? あの調和と秩序は。安らぎととものあった高揚感は……。
 目の前に一匹の動物が横たわっていた。彼よりもずっと大きな動物だった。その動物は温かい血を流している。喰いちぎられた毛皮の下から、真っ赤な肉が飛び出している。野犬たちは夢中になって喰っている。血を流して横たわる一頭の牛を。まだ息のある牛を、犬たちはむさぼり喰っている。皮を喰い破り、内臓を引き出していく。血まみれの腸は動いている。そんなおぞましいものにも、犬たちは先を争って喰らいついていく。やつらの鼻も歯も、牛の内臓と同じように血で真っ赤だ。なんということだ。これほどまで我を忘れ、闇雲に突っ走ってきたとは。こんな連中と一緒に、気が違ったように、死んだ動物の匂いを追いかけてきたとは。いったいどうしてしまったのだ。
 突然、吐き気がした。ひどい臭いだった。犬たちの歯が、牛の膀胱を喰い破ったらしい。その臭いで、彼は完全に自分を取り戻した。いまや牛のまわりは殺戮現場のようになっていた。鼓動をつづける心臓は、なおも泡立った血を全身に送ろうとしていた。すでに生気の薄れた目は、虚ろに開かれたまま輝きを失い、急速に曇りはじめている。牛のなかから生命が抜け出そうとしているのだ。彼の知らない牛だった。きっとどこかの家で、農耕用に飼われているものだろう。牛は何も映っていない瞳で彼を見ていた。白い呼気が鼻と口のまわりに漂っている。そのとき牛が口を開いて、低い声でこう言った。
「こんな死に方は、考えたこともなかった」
 恐ろしくなった。つぎに牛が口を開けば、本当に気が狂ってしまいそうだった。一刻も早く、この場を離れたかった。やがて騒ぎを聞きつけて、男たちがやって来るだろう。鉄砲を持っているかもしれない。飛ぶ鳥さえも撃ち落とす散弾銃だ。だが貪欲な犬たちは、銃口から吐き出された鉛の弾が自分たちの身体を貫いても、血の饗宴を諦める気はなさそうだった。(イラスト RIN)