なお、この星の上に(10)

10
 ゆるやかに傾斜した地面を、シダや熊笹などの下草が覆っていた。山仕事をする人たちが使っていたものだろうか。古い道らしく踏み跡はほとんど消えかかっている。まわりはブナやクヌギなどの原生林だった。このあたりの森は昔から、山の神さまの領分とされており人の手が入っていない。根の浅い杉や檜の植林地では、大雨が降れば地滑りなどが起こりやすい。山をよく知る土地の人たちは、神を祀り、神域を設けることで山を守ってきた。
 健太郎は吉右衛門爺さんのことを考えていた。この山のどこかにいるのだろうか。そもそも実在の人物なのだろうか。すでに死んでいる爺さんの遺体は、いまも腐らずに囲炉裏端にじっと坐っている、といった話はさすがに信じがたい。百歳を超えているとも言われる吉右衛門爺さんは、生きているにしても死んでいるにしても、神に近い存在になっているのではないだろうか。人とも神ともつかないものとして、山深い聖なる場所に棲んでいる。そして二つの領域を自在に行き来する。人の暮らしと神の領域を。ときに人間として、ときに神として……。
「茸採りに来とった婆さんがクマに喰われたのは、このへんやなかったかの」豊が呑気な口調でいかにも場違いな話を持ち出した。「あのとき婆さんは、クマにあらかた食べられてしもうた」
「いつの話か」武雄が忌々しげに言った。「いまはもうクマはおらん」
「おらんのか」
「おっても、ここらには出てこん」
「なせかの」
「なせでもじゃ」
 豊は釈然としない顔で黙り込んだ。四人は黙って歩きつづけた。森が息をしている。山が息をしている。人でも神でもないものが息づいている。そのなかを自分たちは歩きつづけている。神の領域に足を踏み入れようとしているのかもしれない、と健太郎は思った。吉右衛門爺さんの領分を侵そうとしている。頭上を覆う厚い木々の葉によって、日光はほとんど遮られていた。暗い森のなかを歩くのは苦手だった。何かに見られている気がする。心のなかまで覗き込もとしている。森が、山が、人とも神ともつかない存在が……。
「クマは襲った婆さんを安全な場所に運んでから食べたそうだの」豊は深刻味のない声で先ほどの話を蒸し返した。「一度人間の味をおぼえると、クマは繰り返し人間を襲うようになる。そうして人喰いクマになる」
「やめんか」武雄が制した。「四人も一緒におる人間を、クマが襲うわけがないやろ」
「そうかの」
「クマは見かけよりも臆病な動物らしいぞ」新吾が武雄の肩を持つように言った。
「わしらが小学校のとき、測量のために山に入った技師さんらがクマに襲われたことがあったやろ」豊は案外しつこいところがある。「たしか五、六人はおったのやなかったかの。いちばん若い県の職員がやられたんだわ。あのとき学校の先生から、クマは逃げる者を襲うけん、絶対に逃げちゃならんと言われたのをおぼえとる」
「おまえの場合は腰が抜けて、逃げよう思うたて逃げられんけん安心だわ」武雄がそんな憎まれ口を叩くと、
「喰われるよりはええが」豊は平然と答えた。
 足取りに合わせて小刻みに息を吐く。新しい空気を吸い込む。そんなことを繰り返しているうちに、森が呼吸をしているのか、自分が呼吸をしているのかわからなくなる。彼自身が森の一部になる。森が彼のなかに入ってくる。暗い原始の森だ。その森は自分のなかにある、と健太郎は思った。深い森にはいろいろなものが棲み付いている。人も動物も、魔物も神も棲んでいる。森は危険な場所だ。同時に魅惑的な場所でもある。だから危険だとわかっていながら、ときどき自分から森に入って行きそうになる。意思に反して惹きつけられる。抗うことのできない力によって引き寄せられる。
 この暗い情熱はなんだろう、と彼は思った。操ろうとして操られ、制御しようとすると裏をかかれる。なすすべもなく引き寄せられていく。そこには最善のものがある。人を幸福にするものがある。だが人を破滅させるものもある。誰から教えられたわけでもないのに、自分は知っている気がした。
 いつのまにか空が明るくなっていた。森が開けようとしている。そのことに健太郎は安堵した。明るい場所は好ましい。すべてのものの形がはっきりして曖昧なものがない。光に照らし出された世界では、一つひとつのものに名前が付いている。名前の付いたものは安心だ。
「いま何時かの」武雄がたずねた。
 新吾はズボンのポケットから鎖の付いた懐中時計を取り出した。
「九時二十五分」
「まだそんな時間か」武雄は意外そうに言った。「もう昼近くかと思うたが」
「だいぶ歩いたけんの」新吾も合わせた。
「腹が減ったの」豊が言った。
 昼飯は新吾の兄が握り飯を持たせてくれている。固く握った大きなものが一人二個ずつなので、量としては充分だった。だが今日は、まだ行ったことのない北の尾根筋を探索することになっている。
「飯の時間には早いの」と新吾は言った。
 それには豊も異を唱えなかった。歩き通して疲れてもいたので、誰からともなく手近な石の上などに腰を下ろした。
「吉右衛門爺さんに家族はおるんかの」豊がふと思いついたように言った。
「おらん」武雄は言下に答えた。「爺さんは独身じゃ」
「独身か」豊はちょっと複雑な表情になった。しばらくして、「深い山のなかに家族もおらずに暮らすのは、どんな気持ちかの」と思案げにつないだ。
「爺さんに会って訊いてみるんだの」新吾が言った。
 四人はそれぞれ自分の思いのなかに入り込んで、何十年も山のなかで暮らす孤独な人物に気持ちを向けるようだった。
「九十歳や百歳の爺さんなら、昔は嫁さんがおったかもしれん」豊が一応もっともらしく聞こえることを言った。「子どももおったかもしれん」
「吉右衛門爺さんの子どもか」新吾も釣られて想像をたくましくするみたいだった。
「爺さんはずっと一人で山におる」武雄はそれ以上の詮索を阻むように言った。
「どうして知っとるのか」豊が踏み込んだ。
「どうしてもじゃ」
 それきり武雄は不機嫌そうに黙り込んだ。豊は憮然とした顔でそっぽを向いている。新吾もどこか気まずそうだった。健太郎には山の空気が少し薄くなったように感じられた。
「父ちゃんは若いころに猟をしよった」やがて武雄は何事もなかったかのように、亡くなった父親のことに言葉を向けた。「わしらが生まれるずっと前の話じゃ。そのころから吉右衛門爺さんは伝説の人やったらしい。ときどき都会から何人もの猟師が来て山を荒らすことがあった。そういう連中を、爺さんは誰も足を踏み入れん山の奥のほうへ連れていった。獲物がたくさんおるとこへ案内してやる言うてな」
「騙したんか」豊が言葉を挟んだ。
「都会の連中が帰ってこられんようなところに置いて、爺さん一人が帰ってきたのだわ」
「死んだんかの、その人たちは」新吾が真顔でたずねた。
「わからん」武雄は素っ気なく答えた。「死んだかもしれんし、生きて山を出られたかもしれん。どっちにしても二度と姿を見せることはなかったそうな」
「怖い爺さんだの」と新吾は言った。
「若い者が何人もやって来て、山奥の川で毒漁をはじめたこともあった」武雄はまた別の話をはじめた。「たくさん獲って売るつもりだったのやろ。毒漁をやると、その川では長いこと漁ができんようになる。生まれたばかりの稚魚や、餌になる川虫まで死んでしまうけんの。そういう連中も爺さんが懲らしめた」
「どうやってか」豊がたずねた。
「おーい、おーいと呼ぶのよ」
「爺さんがか?」
「たぶん爺さんやろう。呪文を使うたのかもしれん。そのへんはようわからん。声がするほうを見ると、とても人が登れんような崖の上やったりする。若い者らが漁をつづけようとすると、またおーい、おーいと声がする。今度は違うほうからじゃ。何度も呼ばれて、あんまり呼ばれるものやけん、さすがに気味が悪うなって、連中は逃げるようにして山を出て行った」
「不思議な話だの」そう言いながら、豊はなお半信半疑の様子だった。
「爺さんは山を守っておったのよ」武雄はどこか得意げだった。「爺さんがおるおかげで、悪い猟師らが入らず、山は荒らされずにすんだ」
「なるほどの」豊は軽く折り合いをつけるように頷いた。
 武雄は亡くなった自分の父親を、吉右衛門爺さんに重ねているのかもしれない、と健太郎は思った。彼の死んだ父親は、吉右衛門爺さんのような神とも人ともつかないものとして、いまも山の奥で生きている。そのことを、自分の目で確かめたいと思っているのかもしれない。
「そろそろ行くか」新吾が懐中時計を見て言った。

 稜線が広くなっていた。右と左に分かれた片方が、北の尾根に向かってせり上がっている。しばらく縦走して尾根を下る。その前に弁当を食べることにした。昼にはまだ少し早かったが、夕方には新吾の次兄のところへ戻り、もう一泊させてもらうことになっている。
 健太郎はリュックから、父親に借りてきた双眼鏡を取り出した。明るい円のなかに、深い森が広がっている。いくら目を凝らしても一筋の煙も上がっているわけではなく、人が住んでいる形跡はなかった。
「なんか見えるか」武雄がたずねた。
「森が見える」
「他には」
 健太郎は黙って双眼鏡を渡した。武雄はそれを扱いにくそうに目にあてた。やはり何も見えなかったらしい。彼は双眼鏡を新吾に渡し、最後に豊が覗いた。
「なんも見えんな」と豊は言った。
 握り飯を食べ終えると早々に出発した。帰りのことを考えれば、探索にあてることのできるのは、せいぜいあと三、四時間といったところだ。いくら日が長い季節とはいえ、午後三時には山を下りはじめなければならない。
 足元は白っぽい石がごろごろして歩きにくかった。一つ一つの石が、大きいものも小さなものも明るい日差しに照らされている。光が跳ねる。白い石の上で、乾いた土の上で、木々の葉の上で、遠い山の稜線の上で。曖昧なものは何もない。すべてがはっきりしている。物の形は明確で、奇妙なところはどこにもない。山は山で、石は石、自分は自分だ。
 しばらく歩くうちに、何かに見られている感じが強くなった。山が、空が自分を見ている。健太郎は眼差しの主を探すように空を見上げた。雲一つない空には底があるような気がする。空の底から光が降り注いでいる。あそこに何かいるのか? それとも山のどこかに……木々がまばらに生えた遠い稜線が鋭く切り立って、見つめていると目が痛くなってくる。光が山全体をきらめかせているのだ。
「おーい、おーい」
 声が聞こえた。もちろん空耳だ。武雄があんな話をしたせいだ。吉右衛門爺さんが使う呪文とは、なんとも馬鹿ばかしい。つぎに声が聞こえたら怒鳴り返してやろう。それとも大声で笑い飛ばしてやるか。
「おーい、おーい」
 再び聞こえた。こんなところは早く通り抜けてしまおう、と健太郎は思った。こんな歩きにくいところは。石、石、石……どうして石ころだらけなのだ。
「おーい、おーい」
 彼は空を見上げた。遠い山の稜線に目を凝らした。山が呼んでいる。光と風が呼んでいる。空の底から誰かが呼んでいる。吉右衛門爺さんが呼んでいる。何かにとらわれようとしているのかもしれない。
 声は執拗につづいている。答えてはならない。だが自分を呼ぶ声に、健太郎は不思議と親密なものを感じた。何か大きなものに抱かれている気がする。身体のなかに風が入ってくる。光を孕んだ風になった気分だった。風は光をまいて望むところへ吹いていく。
 立ち止まり、あたりを見まわした。いつのまにか一人になっていた。他の三人はどこへ行ったのだろう。いまでは影も形もない。なだらかな稜線が前にも後ろにもつづいているばかりだった。どこではぐれてしまったのだろう。あの稜線が左右に分かれたところだろうか。
 声を発しようとして思いとどまった。返事をすることになる。呼び声に答えることになる。すでに罠に落ちた気分で健太郎は思った。引き寄せられてしまったのかもしれない。吉右衛門爺さんの呪文にかかったのかもしれない。だが気持ちは不思議と落ち着いていた。心配はいらない。きっと抜け出してみせる。簡単なことだ。とりあえず稜線が分かれたところまで引き返す。それで間に合わなければ、新吾の次兄の家まで戻ればいい。
 明るい場所にいるかぎり大丈夫だ、と健太郎は思った。曖昧なものは何もない。すべてはくっきりとしている。目に見えるものはみんな名前をもっている。空、山、石、草、木……それらはあそこにあり、自分はここにいる。
 眩しい日差しのなかに、一人の男が立っていた。大人にしては背丈が低い。ずんぐりとした体つきに見えた。太陽を背にしているのでシルエットしか見えない。もし知っている人間なら、シルエットでもわかるはずだ。帽子をかぶっている。猟師がよくかぶっているような鳥打帽だ。開襟シャツにぶかぶかのズボン、靴にはいているのは地下足袋だろうか。小ぶりのリュックを背負い、猟銃を持っている。
「友だちを見ませんでしたか。わしと同じくらいの中学生が三人です」
 男は答えずにじっと健太郎のほうを見ている。彼がそうなのだろうか。何か言ってほしくもあり、言葉をかけられるのが恐ろしい気もした。シルエットだけでは年格好まではわからない。背中は曲がっていないから、それほど高齢ではないだろう。村の年寄りはみんな背中が曲がっている。長く田畑で働いてきた者は背中が曲がる。猟師はどうだろう?
「吉右衛門爺さんですか」
 たずねてから、「爺さん」は余計だったと思った。「吉右衛門さん」でよかった。些細なことを悔やんでいるうちに、相手はくるりと背中を向けて歩きはじめた。
「待ってください」
 追いかけようとしたけれど、足が動かなかった。意識と身体が分離して別のところにあるみたいだった。付いて行かなければならない。追いかけなければならない。しかし身体が動かない。呪文だ。爺さんが呪文をかけたのだ。それならジタバタしてもしょうがない。落ち着いて呪文が解けるのを待つしかない。なんの音もしなかった。音自体が周囲から失われていた。ただキーンという金属質の耳障りな音だけが、空の高いところで鳴っているみたいだった。
 どのくらい時間が経ったのだろう。いつのまにか金縛りは解けて、身体は自由を取り戻している。だが動きだすための力は、なお戻ってこなかった。しばらくその場にぼんやりしていた。魂が抜けてしまったみたいだった。身体は重さをなくしたように立っている。自分が蜃気楼になったような気がした。
「おーい、おーい」
 また声がする。誰かが呼んでいる。
「おーい、おーい」
 今度は誰だろう。先ほどと同じようでもあり、違う気もする。不意に声が止んだ。空に音が吸い取られたかのように何も聞こえなくなった。日差しがひときわ強くなった。目に入ってくるのは光と影だけだった。光のなかを影が動いている。こっちへやって来る。一つの影は二つになり、最後に三つになった。
「そんなとこで何をしよる」
 聞き覚えのある声がした。
「四人で歩いとったら、いつのまにか三人やが」
 豊の声だった。
「慌てて引き返してきたんぞ」
「大丈夫か」新吾が心配そうに言った。「どうかしたんか」
「吉右衛門爺さんに会うた」
「本当か」武雄が勢い込んで言った。
「わからん」
「なんか、それは」
「どこで会うた」新吾がたずねた。
「ここじゃ」
 三人は怪訝そうにあたりを見まわした。
「誰もおらんが」再び武雄が言った。
「もう行ってしもうた」
 そう言った途端、健太郎は疲れを感じた。毛穴からどっと吹き出してくるような疲労感だった。身体が鉛のように重く、思わずその場に坐り込んだ。
「大丈夫か」豊が気遣った。「気分は悪うないか」
「おまえ、爺さんの呪文にかかったな」武雄が確信ありげに言った。
 少年たちは明るい日差しのなかで沈黙した。誰もが吉右衛門爺さんの存在を身近に感じていた。空から注ぐ光に、稜線を吹き渡っていく風に……。
「引き返そう」新吾が意を決したように言った。「無理をせんほうがええ」
「健太郎の具合もようないしな」豊が即座に同意した。
 武雄も反対はしなかった。ただ一言だけ、
「やっぱり吉右衛門爺さんはおるな」と呟いた。(イラスト RIN)