なお、この星の上に(9)


 木立を吹いてくる風に運ばれて水の匂いがした。川が近いのだろう。太陽の光を遮る頭上の木々の葉が、高くなった夏の日差しを受けて輝いている。
「おまえがいつまでも寝とるけん、もう日があんなに高うなってしもうたが」大きなリュックを背負った武雄が、少し遅れてあとを歩いている豊に向かって言った。
「寝とったんやない」豊は不服そうに言い返した。「勉強をしとったんじゃ」
「なんで大事な日に勉強やらするか」
「勉強を済ませな、遊びに行っちゃならんことになっとる」
「誰がきめた」
「家のものよ」
「おまえも中学三年生やろが」武雄は苛立たしげに言った。「来年は就職する者もおるのに、まだ自分のことを自分できめられんのか」
「仕方がない、家のきまりやけん」豊はいまにも泣き出しそうな顔になっている。
「破ればええ」
「簡単にはいかん」悲壮な声で言って口を閉ざした。
 武雄が豊を詰ったのは、出発の時間が遅れたことで、吉右衛門爺さん探索の計画が出だしから狂ってしまったせいだ。武雄にとっては夏休みの日課などよりも、吉右衛門爺さんの正体を突き止めることのほうがはるかに重要である。手順をきめたのも武雄だった。今回は、まだ入ったことのないところまで行くことになっている。一日で探索できる範囲は知れているが、幸い新吾の二番目の兄が山間の田畑を譲り受けて住んでいる家があるというので、夜はそこに泊めてもらうことになっている。健太郎は家の者の許しを得るのに苦労した。まして豊のところは大変だっただろう。それでも仲間はずれになるのは嫌だとみえて、日課を済ませてから出てきたのだった。
 四人が歩いていく道は、山肌を切り崩して最近造られたものだった。舗装はされておらず、乾いた赤レンガ色の土が剥き出しになっている。途中で何箇所か、削られた崖が崩落して土砂が道を覆っていた。ほとんど車も通らないためか、そのまま修復もされずに放置されている。四人は崩れ落ちた赤土の上を歩いて先へ進んだ。
「川に出たら水を補給していこう」健太郎が言うと、
「ついでに水を浴びていこう」新吾が付け加えた。
「そんなことしよったら、ますます遅うなるが」武雄が咎めるように言った。
 ほどなく四人は川原に立った。川が光っている。流れの速い岩場では、水は踊るように白しぶきを上げる。一刻も早く、あのなかへ入っていきたい、と健太郎は思った。他の三人も同じ思いなのだろう。川遊びに異を唱えていた武雄も、冷たい水の魅力には勝てないらしく、我先にズボンの裾を折り返して川へ入っていった。
 七月の下旬になっても、渓流の水は鮮烈なまでに冷たかった。冷気は血管に流れ込み、足から下腹を駆け上り内臓へと達した。肺と心臓を青く染め上げ、肩から両手の指先へ、さらに首から頭の隅々を巡り、気持ちを凛とさせた。身体の輪郭を細かいところまで際立たせた。自分がいま一つの肉体とともにあることを、健太郎はありありと感じた。
 水のなかで小さな魚たちが光っていた。夏の光は川底の藻を生育させる。それを食べて魚たちも成長する。向こう岸から川にせり出した木が落とす影のなかには、鮒やナマズのような大きな魚もいるはずだ。源さんのことを考えた。この季節は、源さんにとって鮎漁の時期だ。彼が使っているヤスは、棒の先に鉄でできた三本槍のついたもので、すべて本人の手作りだった。この特製のヤスを持って川に入り、素潜りで鮎を突き刺して仕留める。山の子どもたちにとっても、夏のヤス漁は川遊びの定番だったが、敏捷な鮎を捕まえるのは至難の業だった。
 吉右衛門爺さんなどという生存も確認されていない幻の人物を追いかけまわすよりは、武雄は源さんの弟子になればいいのに、と健太郎は思った。そして素潜りの鮎漁でもなんでも教えてもらえばいい。源さんにとって仕事は遊びのようなものだった。少なくとも健太郎にはそう見える。もちろん川で魚を獲るだけでは暮らしが成り立たない。先祖代々の田畑の仕事もあり、父親が寝たきりになったあとは、村の人たちの助けを借りながら一人で切り盛りしている。源さんには源さんの苦労がある。しかし本人はあいかわらず飄々として、「わしは腹いっぱい喰うて、気持ちよう糞をするために働くのよ」などと言うのだった。
 蝉が鳴いている。蝉の声が耳についたとき、なぜか「静かだ」と感じた。つぎの瞬間、何百匹という蝉の鳴き声が重なり合い、うねるようにして押し寄せてきた。その鳴き声に呑み込まれそうになる。不意に、足元から水音が立ち上ってきた。健太郎は額の汗を拭った。手首が汗で光っている。身体が焼け焦げている気がした。蝉の鳴き声と川の音に混じって、三人の声が聞こえた。いま自分は彼らと切り離されている。一人だけ別の世界にいる。同じ景色のなかで、透明な皮膜によって隔てられている。
 水音が耳にこもった。水は白いしぶきを立てながら流れていた。足元に転がっている石を手で掴んだ。石は焼けていた。彼は挑むように石を握り締めた。そのまま流れに手を入れた。手の甲に水の力を感じた。引き上げると、一瞬、石は魚に姿を変えた。光の塊のようなものが手のなかで跳ねた。日が溢れ出した。水が光った。湿った石と水の匂いがした。健太郎は日を浴びて川原に立ち、川に入っている三人を見ていた。
 多賀清美のことを考えた。いまこの場に清美といたいと思った。他の三人とは透明な皮膜によって切り離された世界に、二人だけでいたかった。彼女のことを思うと、心に痛みを感じた。この痛みはどこからやって来るのだろう。最近はそんなことがときどきある。山や森の緑に、空の青に、水の輝きに身体が染まるとき、なんの脈絡もなしに清美のことを思い出す。そして心のなかに痛みを感じる。
 あのときからかもしれない、と健太郎は思った。春の野で清美に見つめられ、彼は正体の知れない生き物になった。傍らに横たわる清美を見たとき、自分のなかに原始の森があることに気がついた。暗い森のなかに棲んでいる生き物。人間なのか動物なのかわからない。善でも悪でもない、やさしさと凶暴さが同居している。彼は自分が欲望する一個の生命であることを生々しく感じた。
 ふと我に返るようにしてあたりを見まわした。向こう岸の山の潅木が裏葉を見せて揺れていた。肌に触れる風を受け止めた。

 昼は各自が持ってきたものを分け合って食べた。豊は遠足のときのような弁当を作ってもらっていた。健太郎は自分で握り飯を用意した。新吾はアンパンとジャムパンで、武雄だけが手ぶらだった。
「なんも持ってくるものがなかったんか」新吾が痛ましげにたずねた。
「猟師は昼飯は喰わんものだ」武雄は涼しい顔で答えた。
「吉右衛門爺さんが言うたか」
「常識じゃ」
「そんな常識は聞いたことがないの」
「猟師は一日二食、朝と夕にきまっとる」武雄は説明した。「獲物を追いかけて、山のなかを動きまわらねばならんけんの。腹がいっぱいでは疲れてしまうし、勘も鈍る」
「本格的だの」新吾は感心したのか呆れたのかわからない言い方をした。
「しかし腹が減るのは辛いの」豊が言葉を向けると、
「そのときゃあ自分で鳥でも魚でも捕まえる」武雄は持ってきたゴム管を空のまま近くの木立に向かって撃つ真似をした。
 結局、武雄は三人から少しずつ昼飯を分けてもらって食べた。食べ終わると各自が自分の持ち物を点検した。とくに申し合わせてはいなかったので、肥後守、マッチといった必携品の他に、新吾は懐中時計を持ってきていた。健太郎は父親の双眼鏡を借りることができた。豊はなぜか蝙蝠傘を杖がわりに持ち歩いている。いちばん重装備の武雄は大きな鉈を携帯していた。これがあれば野宿をするときに、竹や細い木を切り倒すことができると言った。他にも丈夫そうなビニール袋やロープなどがリュックには入っている。どれも山で必要と本人が判断したものだった。
「猟師も樵も、山の仕事はいろいろときまりがあって煩わしいの」武雄の荷物を眺めながら健太郎は言った。「山の神さまにお供えをせねばならんとか、口笛を吹いてはならんとか、森を抜けるまで口をきいてはならんとか」
「川へ行ったときに、深い淵を覗いてはならんいうのもあるな」豊が付け加えた。
「そりゃあ、おまえが川に落ちんようにじゃろ」と新吾が言った。
「底が見えんような深い淵には、山川の生き物や霊が集まって神さまになるらしい」豊は聞き流してつづけた。「神さまは人間が見るもんではないいうことだの」
 豊かの言葉に、四人は神妙な顔で黙り込んだ。山に神や精霊がいることは、小さいころから折節に言い聞かされている。死んだ者の霊が集まるとも言われていた。山に入ることは、死者の霊や祖先の霊に会いに行くことでもあった。人は死ぬと、霊魂は身体を抜け出す。最初は近くの里山に留まり、それから少しずつ神に近づきながら山を登っていく。頂きまで登ったときには神さまになっている。健太郎の祖父はそんなふうに説明した。
「そろそろ行くか」武雄が立ち上がって言った。
 他の三人も腰を上げた。
「見つかるかの、吉右衛門爺さん」その口ぶりからして、新吾は見つからないと思っているみたいだった。
「何か手がかりでも見つかればええがの」健太郎はどっちつかずの気持ちで言った。

 深い山の高台に、戦争中に開拓団の人たちによって拓かれた村がある。そのころ作られた田畑の大半は、いまでは打ち捨てられている。新吾の次兄は、荒れた土地のいくらかを耕作して、米や野菜を育てながら一人で暮らしているという。
 新吾には二人の兄がおり、長兄は勇で次兄は衛という。上の二人が一文字なのに、自分だけ二文字の名前であることが長いあいだ腑に落ちなかった、という話を健太郎は以前に本人から聞いたことがある。ひょっとして腹違いの子どもではないか、と疑ってみたこともあるらしい。あるとき思い切って母親にたずねてみた。
「戦争が終わって生まれた子どもやけん、新しいいう字を入れることにしたそうな」新吾は母親の言葉をそのまま伝えた。「父ちゃんの考えじゃ。わしの名前は新しい自分いう意味らしい」
「新吾の親父さんは、なかなかものを考える人だの」健太郎が言うと、
「親はみないろんなことを考えとるよ」新吾は大人びた口ぶりで答えた。
 次兄は長兄とも両親とも、あまり仲が良くない。家族だけでなく村の人たちとほとんど交流をもたず、一人だけ離れたところで暮らしている。衛兄は人間嫌いなのだ、と新吾は言った。何事もくだらない、というのが次兄の人生観らしかった。人間のやることは救いがたいほど愚かで、一緒にいるとかならず喧嘩になる。だから自分は人と離れて暮らしているという理屈だった。
「衛兄は小さいときに、親父について都会へ行っておったのよ」新吾はいくらか同情的に言った。「そこで空襲におうた。街が焼かれて死んだ人間を大勢見たそうじゃ。身体が引き裂かれた者、頭から脳みそが流れ出している者もおったらしい。道端で大人の男が泣いとった。座り込んで、声を上げて泣いとる。それを見て、衛兄はつくづく嫌になってしもうたのよ」
「なんが嫌になったのかの」健太郎がたずねると、
「なんもかもよ」新吾はわかりきったことのように言った。「人間はなんとも馬鹿らしい生き物だと、心の底から思うたらしい。中身は空っぽで、うろちょろ動きまわる空洞に過ぎん。まあ、衛兄の哲学いうところかの」
「なんやら暗い哲学だの」
「明るいも暗いも、本人が頑固にそう思いきめとるのじゃから、どうしようもない」新吾は利いたふうなことを言った。
 伐採された草原で、武雄が野ウサギを見つけた。獲物を見つけたらいつでも撃てるように、彼は常に弾になる小石をズボンのポケットに入れて持ち歩いている。その小石をゴム管に挟んで狙いをつけた。気配を感じているのだろう。野ウサギは草のなかで立ち止まり、あたりを警戒するように耳を立てている。武雄のゴム管はぴたりと静止している。二股の木のあいで引き絞られた黒いゴムチューブは、力を呑み込んで凶暴な生き物のようだった。その生き物は、いまこの瞬間にも獲物に襲いかかろうとしている。三人は固唾を飲んで成り行きを見守った。じりじりと時間が流れた。何かが目の前をよぎった。ほとんど同時にゴム管がシュッと音をたてて、目にも止まらぬ勢いで小石が飛び出した。石は草の上をかすめて見えなくなった。つづいて茶色い大きなものが急降下した。
「イヌワシじゃ」新吾が叫ぶように言った。
 ワシは素早くウサギを捕まえると、そのまま空へ舞い上がった。四人は言葉もなくワシのあとを目で追った。鋭い鍵爪に掴み取られたウサギは、すでに生命を抜き取られたかのように動かない。鳥は悠々と大空を飛行し、やがて山の陰に隠れて見えなくなった。誰かが大きなため息をついた。
「ワシのやつにはかなわん」武雄がさばさばした声で言った。

 勾配のきつい山道を登りきると地形が開けた。あたりはなだらかな高台になっている。畑で里芋が葉を茂らせていた。茎の長さは四人の背丈よりも高く、折り重なるようにして繁る葉は、一枚が豊の持ち歩いている蝙蝠傘ほどもあった。畑の土は乾いている。ここも長く雨が降っていたいのだ、と健太郎は思った。
 里芋畑を抜けたところに、見るからに貧相な家が建っていた。瓦のなくなった屋根は大きく波打つように歪み、折れた雨樋の先が地面に垂れている。土壁はところどころ剥がれ落ちて、下の竹組みまで見えているところもある。玄関の柱が傾いているためか、表戸は完全に閉まりきらず、端のほうは数十センチほど開いたままになっている。少し離れたところにも、何軒か同じような農家が点在している。どの家も傷みが激しく、なかには柱が屋根の重みを支えきれずに、軒が地面のあたりまで下がっているものもある。こんなところに泊まるのは気が進まない、と健太郎は思った。そばにいる豊も浮かない顔をしている。
「猪がおるぞ」武雄が言った。
 裏手の竹の囲いのなかに子どもの猪がいた。囲いの広さは三メートル四方ほどで、隅には手造りの木の小屋が置いてある。
「新吾の兄ちゃんが飼いよるんか」武雄はいかにも興味ありげだった。「罠を仕掛けて捕まえるんかの」
「あとで訊いてみたらええ」と新吾は言った。
「いまは留守か」豊がたずねた。
「そうみたいだの」
 新吾が家のなかに入っていたので、三人もあとにつづいて入った。さすがに人が住んでいるだけあって、外見よりも家のなかは整っていた。玄関から上がると、まず三畳ほどの板の間があり、その奥が八畳の座敷になっている。他にも幾つか部屋がありそうだった。手近なところに誰からともなく腰を下ろした。武雄はごろりと横になった。さらに大の字になって伸びをした。健太郎も奥の座敷の襖の陰に身体を横たえた。長いあいだ歩き通しで疲れていた。
 目を閉じると、隣の部屋から三人の話し声が聞こえた。どうやら好きな食べ物を言い合っているらしい。コロッケ、カレーライス、チャンポン、チキンライス……。いまは話に加わるのも億劫だった。豊がデパートの食堂で食べるざるそばの話をしている。薬味にうずらの卵が付いているのが美味いのだ、などと言っている。そんな声を遠くに聞きながら、自分は無意識に三人と距離を置きたがっているのかもしれない、と健太郎は思った。その理由を考えることさえ、いまは煩わしかった。
 しばらくうとうとして、目が覚めたときも話し声はつづいていた。なかに聞き慣れない声が混じっている。身を起こすと、板の間で新吾と次兄が立ち話をしていた。相手はちょっと迷惑そうな口ぶりだった。新吾の後ろに武雄と豊が立って、三人が次兄と対峙するかたちになっている。隣の部屋からおずおずと顔を出した健太郎の姿を見て、次兄は小さくため息をついた。
「とにかく飯を炊かんといけんな」切り上げるように言って、奥の台所のほうへ歩いていった。
「来ることを言うてなかったんか」武雄が小声で新吾にたずねた。
「言うてない」
「ええのか」
「大丈夫じゃ」新吾は気にもしない様子だった。「米はたくさんある」
「布団はどうかの」豊かが心配そうに言葉を向けると、
「夏やけん、布団はいらん」新吾は突き放すように言った。
 夕飯は白米に味噌汁の他には漬物だけという粗末なものだったが、四人とも腹が減っていたのでガツガツと食べた。人嫌いと聞いているわりには、新吾の次兄はよく喋った。饒舌と言ってもいいほどだった。酒が入っていたせいもあるのかもしれない。朝は五時に起きて飯をつくり、七時ごろに家を出て田畑の仕事をする。昼には戻って朝の残りで飯を喰い、再び夕方まで働く。簡単に夕飯をつくって焼酎を飲むと、九時ごろには寝てしまう。毎日決まりきったように暮らしている。何も考えない。何も残らない。雑念の入り込む余地がない。
「差し引きゼロいうのが、いちばんええのだ」次兄はちょっと酒がまわった口調で言った。「マイナスはようないが、プラスも煩わしい。何かが残ったり増えたりするのは、わしには向いとらん。ゼロがいちばんええよ」
「家には帰ってこんのか」新吾がいくらか気がかりな声でたずねた。
「帰らん」たちどころに答えた。
「衛兄が帰らんのなら、わしが田んぼをやろうかの」
「好きにしたらええ」次兄は素っ気なく言った。「しかし勇兄と嫁さんがおるけん、あんまり面白いことにはならんぞ。そのうち子どもも生まれるやろうし」
 新吾はしばらく考え込んだ。
「ここで衛兄と農業をしようかの」気をもたすように言葉をつなぐと、
「やめとけ」取り付く島もなく言った。
「なせか」
「農業はつまらん」
「なせつまらんのか」新吾は喰い下がった。
「なせでも、つまらんもんはつまらん」
 新吾は不服そうに黙り込んだ。飯を食べてしまった三人は、空になった茶碗を眺めたりして居心地が悪そうにしている。
「わしもいつまでもはここにおらんぞ」次兄が少し口調をやわらげて言った。
「どこかへ行くんか」
「ブラジルじゃ」次兄はいくらか得意げに言った。「政府が移住する者を募集しよる。わしも応募してみるつもりよ。その前にブルドーザーの運転を習う。アマゾンの密林を切り拓いて農地をつくるのやけん、重機くらい扱えんとな。いろいろと調べとる。金も少しは蓄えよる。ブルドーザーの運転を身につけたらブラジルへ行く」
「ブラジルへ行ったら、もう帰ってこんのか」新吾は目を合わさずにたずねた。
「帰るとしても、五年に一度ほどかの」次兄は妙に明るい声で言った。「ブラジルは遠いけんな。遊びに来たらええ」
「遠いやろ、ブラジルは」新吾は兄の言葉をそのまま返した。
「飛行機に乗ったらすぐだわ」次兄は上機嫌に、「みんな遊びに来いよ」と言った。
「行きたいの」そう答えたのは豊だった。
「豊はブラジルへ行きたいんか」武雄が意外そうにたずねた。
「ここ以外ならどこでもええ」と豊は言った。
「高専へも行きとうない言うとったのに」
「高専へ行くぐらいなら、わしはブラジルへ行く」豊は頑なだった。
「妙な理屈だの」と武雄は言った。
 それからも次兄は焼酎を飲みつづけ、酒の勢いで身の上話みたいなことを話しはじめた。次兄が言うには、もともと口数が少ないのは長兄のほうらしかった。この兄は、結核で入院している父親に似ている。芸術家肌で、水彩画などが上手かった。小学生のころから絵を描いては、何度も展覧会に入選していた。中学に行ってからも美術の時間に風景画などを描くと、たいてい賞をもらった。本当は東京の美術学校へ行きたかったらしい。しかし農家を継がなくてはならないので諦めた。この兄が次兄に向かって、「おまえは自由にできるのに、なんで何もしないのか」と口癖のように言う。次兄のほうは、何もしたくなかった。
「誰も好きで生まれてきたわけやない」と彼は言った。「生まれてきたから生きとるだけで、好きで生きとるのやない。そんなことを言うわしを、勇兄は変わり者のように見る。もったいないの、と顔を合わせるたびに言うようになって、わしは勇兄のことがだんだん苦手になっていった。勇兄は中学しか出ておらんが、わしは高校まで行かしてもろうた。それを途中で止めて戻ってきたものやけん、余計に気に入らんのよ。そんなに行きたいんなら、自分が行けばええ」
 健太郎がちらりと新吾のほうを見ると、彼は下を向いたまま次兄の話を聞いていた。ほどほどに切り上げて、四人は雑魚寝のようにして広い八畳間に休んだ。さすがに疲れていたとみえて、すぐに寝息が立った。健太郎は頭が冴えて、なかなか寝つけなかった。新吾の家のことを考えた。彼の父親は結核で、もう何年も町の病院に入っている。田畑のことは主に長兄が世話をしている。二人の兄は折り合いがよくないらしい。次兄はブラジルへ移住すると言っている。三男の新吾は自分の居場所を探している。
 自分もやはり居場所を探している、と健太郎は思った。できることなら、その場所を清美と二人でつくりたかった。顔見知りの者たちが眠る部屋の暗がりで、彼ははっきりとした願いや欲望のかたちでそう思った。草の上に横たわる清美の顔を思い浮かべた。あの顔は、自分がはじめて発見したものだ。まるで見知らぬ人間が、突然目の前に現れたみたいだった。それまで透明で見えなかったものが、急に色と形をもって一人の少女の姿になった。なぜ、あんなことが起こったのかわからない。発見というよりも発明と言うべきかもしれない。創作や創造に近いものかもしれない。自分が「清美」という新しい人間を創り出したのだ。あたかも自分だけの作品のように……。
「いかん。こんなことを考えよったら、余計に眠れんなってしまう」
 清美のことを頭から締め出すと、新吾の次兄の話が甦ってきた。話の断片がぐるぐると頭のなかをまわった。充分な金を稼ぎ、人から遠ざかりたい、と次兄は言った。自分は人を好きになったことがない。いつも人の最悪な部分ばかりが見える。なるほど、そういう人間もいるだろう。新吾の兄貴と自分は違う、と健太郎は思った。優劣をつけるつもりはない。人を好きになろうとしているのだ。一人の人のなかに善いもの、美しいものを見ようとしている。その人のなかには、まだ見たことのない風景が包み隠されている。その風景のなかに、彼は入っていきたいと思った。(イラスト RIN)