なお、この星の上に(8)


 遠足が終わると、三年生は個人面談がはじまる。毎日に数人ずつ、担任と今後の進路のことを話し合う。大まかには進学か就職かという選択になる。コースによって二学期からは一部の授業が分かれ、就職コースの者には実務的な授業も用意されていた。健太郎と豊は進学コースを希望している。武雄は猟師になるという本心を伏せて、担任には就職コースと伝えているらしかった。新吾はまだ迷っていた。本人は就職を希望していたが、彼の長兄が進学させたいと思っているらしい。
「わしは勉強は好いとらんけんな」と新吾は言った。
「なせ兄ちゃんはおまえをそんなに進学させたいんかの」武雄が不思議そうに言った。
「これからは何をするにも、高校ぐらいは出とらなだめじゃと」
「高校を出とらんでも、鳥や獣を捕るこたあできる」
「他の仕事をするには役に立つやろ」と豊が言った。
「どんな仕事か」
「学校の先生やら、会社の勤め人やら……」
「そんなもんにはならん」武雄は切り捨てるように言った。
「百姓をするのにも、あんまり役に立ちそうにないの」新吾が言った。「それなら就職して車の運転でも習うたほうがましじゃ。自分で農業するときにも役に立つけんな」
「どんな仕事に就くつもりなんか」健太郎がたずねた。
「食品関係の会社かの」明快な答えが返ってきた。「わしらがつくった米や野菜や肉が、どんなふうに使われとるのかを知っておれば、自分が農業するときにも役に立つ」
 三人は感心したように新吾を見た。彼は彼なりに将来のことを考えているらしい。もともと新吾は村に残り、兄たちと農業をすることを希望していたが、農家の三男が村に残ることは現実的には難しい。分家といっても限度があるから、いずれは村の外に働きに出なくてはならない。そのことを踏まえて、長兄は新吾に進学を勧めているのだろう。だが本人はあくまで、就職を一時的なものと考えているらしかった。いつか機会を見つけて、兄たちとともに農業をしたいと思っているのだ。
「偉いの、新吾は」健太郎は素直な感想を口にした。
「なんが偉いもんか」相手は謙遜するでもなく言った。「勉強が嫌いなだけよ」
「わしも勉強は卒業じゃ」武雄がさばさばした口調で言った。「国語も算数も、これだけ習うたらもう充分やろ」

 内藤昭の家に招待されたのは、担任との面談が一通り終わったころだった。いつもの四人が一緒に招かれたが、豊だけは都合が悪いと言って来なかった。内藤の母親は休みの日などに、こうして息子の同級生を何人かずつ家に招いていた。都会からやって来た息子が、早く新しい環境に溶け込めるための配慮だろうが、健太郎の見るところ、昭にかんしては無用な気遣いのようにも思えた。
 正午少し前に来るように言われている。昼ごはんを食べさせるということだろう。どんな料理が出るのか、三者三様に興味が湧いた。都会の人たちは自分たちとは違ったものを食べているはずだ、と武雄は言った。同じ日本人だから、そんなことはあるまい、と新吾は反論した。結論は出ないまま、いくらか畏まった面持ちで三人は門を入った。玄関先に箱型の郵便受けがあった。普通の家では見られない、色も形も洒落たものだった。
「なんか勝手が違うの」武雄が物珍しそうにあたりを見まわしながら言った。
 こちらから呼ぶ前に昭が家から出てきた。
「いらっしゃい」自然な口ぶりだった。
 三人はぎくしゃくと頭を下げた。通されたところは応接間らしいところで、広さは六畳ほどだろうか。部屋の中ほどにカバーの掛かった円卓が置いてある。それを囲むようにして、三人は昭と一緒に腰を下ろした。光沢を放つ黒っぽい床板にはワックスがかけられている。武雄は落ち着かない素振りで部屋のなかを見まわしている。壁には立派な額に入った油絵が掛かっている。
「とうちゃんはおらんのか」その武雄がたずねた。
「仕事に行ってる」昭は当たり前のように答えた。
「百姓でもないのに日曜も仕事か」
「曜日は関係ないんだ」
「猟師と同じだの」武雄は納得したように頷いた。
「あれはなんという鳥かの」新吾が窓のところに吊るされている鳥かごをさしてたずねた。
「カナリア」
「このへんでは見かけん鳥だの」
 鮮やかなレモン色をした鳥は、ときどき美しい声でさえずった。まるで別の国に来たみたいだ、と健太郎は思った。やがて母親が盆に載せた食事を持ってきた。
「お待たせ」気さくに言った。「こんなものでごめんなさいね。みんなフレンチ・トーストは好きかしら」
 三人は小さく顔を見交わした。好きも嫌いも、こんなものを目にするのははじめてだった。学校の給食で出される固く乾いたコッペパンとは、外見からして大違いだ。部屋に通されたときから、いい匂いがしていたが、正体はこれだったのだ。
「田部くんも来られるとよかったのにね」皿を並べながら母親はそんなことを言った。
「食べようか」昭が促した。
 招かれた者たちは、どこか緊張した面持ちでナイフとフォークを取った。それからぎこちない手つきでトーストを食べはじめた。もちろん味も、給食のコッペパンとは別物だった。
「美味いなあ」武雄がしみじみと言った。
「お代わりもあるから」昭は母親みたいなことを言った。
 三人は甘いバターの匂いに陶然として、言葉も交わさずにフレンチ・トーストを食べた。昭に勧められて、紅茶には牛乳と砂糖を入れた。これも健太郎は美味いと思った。トーストを食べてしまうと、デザートに果物が出た。
「昭のところでは、いつもこんなもんを食べとるんか」武雄がちょっと羨ましそうに言った。
「日曜の昼はフレンチ・トーストときまっている」昭は事務的に答えた。「献立を考えなくていいから楽なんだって」
 さらに昭は驚くべきことを告げた。
「父さんが留学先で作り方を習ってきたんだ」
「留学しとったのか」新吾がたずねた。
「アメリカとイギリス」昭は自慢するでもなく言った。「だから小学校のころは、あまり家にはいなかった」
「外国まで勉強しに行ったんか」武雄が呆れたように言った。
「研究をしにね」
「とうちゃんが研究をしとったおかげで、昭はここへ来ることになったんだの」新吾はちょっと神妙な口ぶりで言った。
「おかげでわしらはフレンチ・トーストが食べられる」と武雄が言った。
 それから話は昭の父親の留学のことに移っていった。イギリスに留学していたとき、昭の父はエランを使って発電された電気というものをはじめて見たらしい。工場を案内されたあと、食堂で夕御飯をご馳走になった。案内してくれた所長みたいな人が、昭の父親たちの前でこう言った。いまこの食堂に点っている電灯は、みんな隣の工場で発電された電気によるものです。
「そのときの感動は忘れられないって」
「それで研究をはじめたんか」新吾がつないだ。
「電灯の光には、どこも変わったところはなかったそうだ。その電灯は、水も石炭も石油も使わずに発電されたものだった。なんでもない明かりが、日本の国の未来を照らしているように見えたと、父さんは言っていた。エランという言葉は躍動という意味らしい。未来の日本を躍動させる。そのための研究をしているんだ」
 昭の話しぶりからは、彼が父親を尊敬していることがよく伝わってきた。翻って自分はどうだろう、と健太郎は考えた。嫌っているわけではない。いい父親だとは思うが、「尊敬」という言葉には結びつかない。
「これから工業がどんどん発達して、みんなの暮らしが豊かになっていけば、すぐに電気は足りなくなる」昭は父親の話を受け売りするようにつづけた。「いくらダムを造っても間に合わない。火力発電に必要な石炭はやがて掘り尽くされてしまう。つぎは石油だし、外国ではもうそうなりつつある。ところが石油は、この国にはほとんどないんだ」
「ないのか」新吾が無邪気に言った。
「どこか外国から買ってこなくちゃならない。そのためにはお金がいる。外貨っていう外国のお金がね。そんなことをやっていては、日本という国はいつまでも豊かになることができない。だからどうしても、別の方法で電気をつくる必要があるんだ」
「なるほどの」新吾は頷いた。
「そればかりじゃない。資源がないから戦争が起こるというのが、父さんの考えだ」昭は話し慣れた口調でつづけた。「たとえば日本のように石油のない国では、たくさんある国から奪ってしまえと考える人が出てくる。この前の戦争は、そうやって起こったんだ。石油や石炭が欲しくて、隣の満州や中国を侵略してしまった。日本を二度と戦争をしない国にするためには、食料もエネルギーも、なんでも自前で調達することが大切だ。狭い国土を有効に利用して、国民が自前で豊かになっていける国をつくらなければいけない。日本には新しい立派な憲法がある。あとは自分たちの力で国を富ますことを考えれば、この国は豊かになり、国民は幸せになっていくことができるはずなんだ」
「たいしたもんだの、昭は」新吾が感心したように言った。
「学校の先生みたいだの」と武雄が言った。
「みんな父さんが言っていることだけどね」昭はちょっと照れくさそうに頭を掻いた。
「それでもたいしたもんよ」新吾がつづけた。「使う言葉からして、わしらとは違う」
「都会の言葉と田舎の言葉が違うのは当たり前だが」武雄が水を差すように言うと、
「誰でも都会の言葉を使やあ、昭のように話せるわけではなかろう」新吾は意外に真っ当な理屈を返した。
「大丈夫かの」武雄が心配そうに言った。
「なんがか」新吾がたずね返した。
「こんなところにおったら勉強がでけんようになるぞ」
「武雄と一緒に遊ばねば、勉強ができんなるこたあねえよ」
 昭は笑って答えなかった。
「とにかくエランが見つかってよかった」と大人びた口ぶりで言った。「おかげでみんなとも友だちになれたわけだし」
 三人は押し切られるようにして頷いた。健太郎は父親たちと山参りに行ったときに目にした光景を思い出して、ちょっと複雑な心情になった。無残に削られた山の姿を見たとき、なぜかいかがわしいものを見ている気がした。山で行われていることがいかがわしいのか、それを受け入れている自分たちがいかがわしいのか、あるいは人間そのものがいかがわしいのかわからない。ただ「いかがわしい」という気持ちの余韻は、いまも彼のなかに残っていた。
 夕暮れが近づき、昭の家を辞してそれぞれの家に帰る道すがら、
「昭はええのう、いつも美味いもんが喰えて」武雄が羨ましげに言った。どうやらフレンチ・トーストのことが頭を離れないらしい。「あれを喰うたら、学校の給食など不味うて喰えん」
「昭の母ちゃんに作り方を習うとけばよかったの」と新吾が言った。
「ああ、そうやった」武雄は一生の不覚といった口ぶりで、「よう思いつかんかった」と天を仰いだ。
「またいつか呼んでくれるやろう」健太郎は宥めた。「昭もそう言いよった」
「フレンチ・トーストを喰わしてくれるかの」武雄は無邪気に答えた。
「日曜の昼に行きゃあな」新吾がからかうように言葉を添えた。
「それよりか武雄よ、猟師になったらますますフレンチ・トーストは喰えんぞ」と健太郎は言った。「喰えるものといやあ、自分で捕った魚か獣か、せいぜい山に生えとる草くらいやろ」
「米は持っていく」武雄は現実的に答えた。
「どっちにしてもフレンチ・トーストは喰えんの」新吾が言うと、
「そんときゃあ、昭の家に遊びに行く」武雄は涼しい顔で返した。
「内藤はいつまでもこの村にはおらんやろ」健太郎は先のことに言葉を向けた。「高校になったら、また引っ越すんやないかの」
 そう言ってから、自分が内心でそのことを望んでいる気がした。たしかに昭は悪いやつではない。ただ、どことなく苦手だった。昭も、あの家も。そんなことを思っている自分が、健太郎には疎ましく感じられた。三人はしばらく黙って歩いた。
「外国へ行くかもしれんの」やがて武雄がぽつりと呟いた。

 その日の夕食時、母親は電気洗濯機の話を持ち出した。近所の婦人たちと見にいったらしい。このあたりで最初の電気洗濯機を買った家というのが、多賀清美のところと聞いて、健太郎は自分のことが話題になっているわけでもないのに、心臓の鼓動が早くなる感じがした。
「そりゃあ便利なもんですわ」母親が話している。「水と洗剤を入れてタイマーを合わせたら、あとはもう自分で洗ろうてくれるんですけん」
「和子さんには大助かりやな」祖母は嫁の肩をもつように言った。
 たしかに健太郎から見ても、一家六人の洗濯は大変だった。母親はいつも井戸の傍らで洗濯をしている。木の盥に井戸の水を汲み入れ、固形石鹸を衣類につけて、洗濯板の上でごしごし揉んで汚れを落とす。夏場などは汗だくの仕事だった。洗い上がった洗濯物を竹竿に通して庭に干すと、絞りきれていない水が垂れる。水滴に太陽の光が反射して輝くのを、幼い日にじっと見ていたことをおぼえている。あれは幾つぐらいのときだったろう。
「水はやっぱり井戸のを汲まねばならんのだろ」父親がたずねた。
「そうですな。多賀さんのとこは、もう水道が来とるけん余計に楽ですわ」
「うちも水道が来たら考えないけんかの」
「水道が来んうちに考えてもろうてもええよ」母親が冗談めかして言うと、
「どうするかの」父は生煮えの返事をした。
「はよう洗濯機で洗濯してみたいわ」と綾子が言った。
「馬鹿だの。洗濯機は自分で勝手に洗濯するんじゃよ」健太郎が余計なことを言った。
「知っとるよ、そのくらい」妹は反論した。「うちが言いよるのは洗濯物を絞る器械のことよ。こんなハンドルまわしてな、ローラーみたいなんで絞るんよ。兄ちゃんは知らんのけ」
「知っとるわ」
「それから女の人に馬鹿と言うのは、男尊女卑じゃよ」
「こりゃ、ものすごい言葉が飛び出しよったの」祖父が面白そうに言った。
「綾子、男尊女卑いうのは、そういうことやないよ」父親が真顔で訂正した。
「いや、そういうことじゃよ。女の人に馬鹿と言うのは、男尊女卑じゃ」
「学校の先生が、そう言うたか」祖父がたずねた。
「言うた、言うた。男が威張るのは男尊女卑」
「そしたら女が威張るのはなんね」健太郎はいくらかむきになって言い返した。
「そんなこと、うち知らんわ」
 この二人は同じ遺伝子を受け継ぎ、同じ環境のなかで育てられたにもかかわらず、あらゆることで意見が合わなかった。兄が右と言えば妹は左と言い、妹が赤と言ったものを兄は白と言ってみたくなる。口は妹のほうが立つので、以前は癇癪を起こした健太郎が、腕力に訴えて綾子を泣かすこともしばしばだった。さすがに中学校に上がったころからは、体力の差を自覚して手を出すことはなくなったが、口論において持て余すところはあいかわらずだった。もっと小さかったころは、橋の下に捨てられていたのを拾ってきた、などという出まかせを真に受けて泣き出す妹を見て溜飲を下げたものだが、長じて知恵がついてくると通用しなくなった。顔の特徴は健太郎が母親似で、綾子が父親に似ているというのが、親戚のあいだでは定説となっている。しかし性格は、どちらかというと自分は父親に似ており、綾子は母親の性格を受け継いでいる、と健太郎は判断していた。そして顔も違えば性格も違う両親が、自分たち兄妹のように対立することも、また言い争うこともないのを、彼は不思議に思った。
「内藤くんとこへ行ってきたんやろう」兄妹のあいだが険悪になりそうなのを察して、母親が別の話題を持ち出してきた。「どうやったね」
「とくにどうもない」健太郎は面倒くさそうに言った。
「電気洗濯機はあったか」母親にかわって綾子がたずねた。
「カナリアがおった」健太郎は妹を無視して言った。
「へえ、カナリアがね」
「知っとるんか」
「歌があるけんね、カナリアの。けど本物は見たことないわ」
「可愛い鳥じゃよ」
「お昼は何をご馳走になったん」と母親らしい質問をした。
「フレンチ・トースト」
「はあ」
「知っとるか」
「そりゃあ知っとるけど」母親はなぜかおかしそうに、「ハイカラなものを出してくれたんやな」と言った。
 健太郎はまるで自分が笑われたかのように、「日曜の昼はフレンチ・トーストときまっとるそうなよ」と弁解するように言葉を補った。「昭のとうちゃんが留学先で習うてきたらしい」
「留学かね」母親が感心したように言った。
「アメリカとイギリス」
「うちもアメリカ行きたいわ」と綾子が言った。
「綾子も留学するか」祖父が軽い口調でたずねると、
「したいな」小学生の娘は生真面目に受けた。「先生もいまからの日本人は、どんどん外国へ出ていかないかんて言いよんさる」
「そう簡単なことやないんよ」母親が言った。「いっぱい勉強せな、外国へは行かれんよ」
「うち、勉強好きやけん」
「そらあええことや」と祖母が言った。「おばあちゃんらのころは、女の人は忙しうて勉強する暇もなかった。これからは電気洗濯機も来るし、女も勉強する時間ができるやろう」
「先生も同じことを言いよった」
「そうか」
「電気で洗濯したりご飯を炊いたり、いろんなことができるようになっていったら、自由に使える時間が増えていく。そうやって生活が便利になって、自由に使える時間の増えていくことが歴史の進歩なんよ」
「綾子は学校で難しいことをいろいろ習うとるの」祖父が感心したように言った。「この前は民主主義で、今度は歴史の進歩か」
「昔はな、自由は王様やお殿様や、かぎられた人にしかなかったんよ」綾子は担任の受け売りをはじめた。「自分のかわりに洗濯したり、ご飯を炊いたりしてくれる人がおったおかげで、その人らは自由にしておられたけど、ほとんどの人は王様やお殿様の自由のために働かされて不自由やった。これからは機械が人間に代わっていろんなことをしてくれるようになるから、身分の高い人だけやのうて、普通の人も自由になっていく。そうして一人ひとりが自由になっていくことが歴史の進歩なんよ」
「なかなか偉い先生みたいだの」
「うちもそう思う」
「しかし機械いうてもタダやないやろ」母親が水を差すように言った。「電気洗濯機もだいぶ高いものやし。そのお金を稼ぐためには、やっぱり働かなならんわね」
「人のために働くんやないけん、うちはええ思うな。王様やお殿様のために働くのは嫌やけど、自分のために働くんなら、うちはええわ。うちだけやのうて、みんな一生懸命に働くと思うな」
「うん、たしかにそうかもしれん」と祖父は言った。
「あのな、うちらの農業でも、いまは田植えを一緒にやっとるけど、そのうち機械で田植えができるようになったら、一人で好きなときに田植えができるで。自分とこはお米以外のものを作ろうとか、一人ひとりがいろいろ工夫してできるようになるやろ。そしたら働くことがもっと楽しくなると思うな。人間はみんな性格も違うし考え方も違う。そやから本当は、一人ひとりが自分のしたいことをして、好きなように生きるのがいちばん幸せなんよ」
「それも学校の先生が言いなさったか」祖父はたずねた。
「これはうちの考えじゃよ」
「惣一郎」祖父は息子に言った。「綾子は政治家にしたらええかもしれんな」
 健太郎はなんだか妬ましいような気分になった。自分が妹に遅れをとっている気がした。つい数年前まで、たいていのことは信じ込ませることができた。捨て子の話みたいな、たわいない嘘で容易に泣かせることができた。ところがいまや、一家でいちばん立派なことを言っているのは、年齢的に幼い妹だった。祖父の言うように天賦の才があるのかもしれない。大半は学校の先生からの受け売りと思ってみても、健太郎は妹にたいして目に見えない重圧を感じた。

 その夜、布団のなかで健太郎が考えたのは、しかし何かと癪にさわる妹のことではなく、多賀清美のことだった。どうしてなのかわからない。ただ自然に、ぼんやりと彼女のことを考えていた。清美とは小学生のころからの幼馴染だった。特別に仲が良かったわけではないが、もともと生徒の数が少ない小学校なので、同性異性の区別もなく親しく交わってきた。中学へ進むころから、どことなく清美の態度がよそよそしくなった。そのことを健太郎は不満とも不愉快とも思わずに来た。そういうものだと思っていた。
 ところが内藤が引っ越してきて、清美は彼に気があるのではないか、将来は夫婦になるかもしれない、などといった取り沙汰が耳に入るようになると様子が変わってきた。新吾などが気安く口にする憶測を、穏やかならぬ気持ちで聞いている。近ごろは清美の名前が出るだけで、心の奥が波立ってざわざわしはじめる。幸い豊が一緒にいて、わかりやすい反応をしてくれるので、彼自身の内面は隠すことができた。他人にたいしてだけでなく、自分自身にたいしても。だが、いまはそういうわけにはいかない。自分だけを、自分の心を相手にしなければならない。そんな夜が、健太郎は苦手だった。
 厄介事から逃げるようにして、健太郎は豊のことを考えはじめた。やはり内藤への対抗意識があるのかもしれない。それが理由で招待を断ったというのは考え過ぎかもしれないが、豊が内藤を苦手にしていることは確かだった。露骨に嫌っているというよりは、なんとなく煙たがっている。内藤と比べられることを避けているのかもしれない。二人のあいだに清美という人間を置いてみれば、その心情はわからないでもない。では、自分と内藤とのあいだに清美を置けばどうだろう?
 呪いにかかったようなものだ、と健太郎は思った。誰がかけた呪いなのかわからない。まさか吉右衛門爺さんではあるまい。理由には思い当たらない。自分で自分にかけたというのが本当のところかもしれない。だから余計に厄介でもあるわけだが、健太郎の考えはそちらへは向かわなかった。あくまで呪いをかけた犯人を見つけ出さずには気がすまない。するとどうしても、内藤昭の存在が浮かび上がってくる。嫌疑をかけられた者こそいい迷惑で、本人には身に覚えのないことに違いない。だが内藤という一人の少年の影が、清美の存在を覆いつつあることは確かだった。それは豊だけではなく新吾も感じていることだ。健太郎も感じている。だからこんなふうに、彼女のことを考えておかしな気分になるのだろう。
 これまでは見向きもしなかったものを、誰かが欲しがっていると知った途端に自分も欲しくなる。そういうことはある。つまり内藤は、期せずして清美に新しい光を当てたのだ。この狭い村の外から、別の視線を持ち込んだ。異質な光や視線に触発されて、幼いころから清美という少女を見てきた者たちが動揺している。いまの自分はそういう状態なのだ、と健太郎は折り合いをつけるようにして思った。おそらく豊にも似た症状が出ているのだろう。この気持ちは一過性のものだろうか。いずれは過ぎて、消えてしまうのか。そうかもしれない。しかし永久に解けない呪いというのも、あるのかもしれない。
 遠足の日のことを、健太郎は思い出した。草の上に寝転んで目を閉じていたとき、ふと何か気配を感じて目をあけた。自分を見つめている眼差しと出会った。その眼差しは、彼がよく知っているものでありながら、まったく知らない誰かのものだった。いった何が起こったのだろう。何が起ころうとしていたのだろう。ある種の音楽と出会ったようなものだった。これまで耳にしたこともない未知の音楽。出会いは新鮮な驚きであるとともに、懐かしくもあった。長いあいだ忘れていた友だちと、久しぶりに顔を合わせたような、そんな驚きでもあった。
 とても小さな音で、静かに流れていたのかもしれない。ずっと絶えることなく、流れつづけていた。いつも聞こえていたはずなのに、気がつかなかった。それが何かのきっかけで、突然聞こえはじめる。あのときがそうだった。春の野で、不思議な眼差しと出会ったとき。以来、聞こえつづけている。耳について離れない。どうやっても閉め出すことができない。その美しい音楽は、遥か彼方の宇宙の果てを流れているようであり、また彼自身のなかを流れているようでもあった。(イラスト RIN)