なお、この星の上に(7)


 緑が深くなっている。早春を賑わわせた野草、フキやゼンマイ、ツクシ、ワラビなどの季節は終わり、草花は夏へ向かう準備をはじめている。小さな花の蜜を求めて、蝶たちが飛び交っている。そろそろ冬眠から目覚めたクサガメやヒキガエルが出てくるころだ。雑木林のなかから鳥たちの囀りが聞こえてくる。ウグイスの他にもたくさんの種類がいるらしい。
 中学校の遠足は、生徒数が少ないために全学年が一緒に出かける。特別に変わったところへ行くわけではない。いくらか遠方の山や川へ足を伸ばし、景色のいいところで弁当を食べるだけの面白みのないものだった。出発前に校庭で何点かの注意事項が伝達された。とくにマムシに注意すること、と教頭が言ったときには、生徒のあいだにざわめきが起こった。この時期、マムシは木の洞などに潜んでいることがある。小学校の遠足では、不注意に手を入れた児童が噛まれるという事故が起こっているらしい。
「木の洞に手を入れるなど、肝試しで賞品をやると言われても嫌だの」そう言って、武雄は酢でも飲んだような顔をした。
「小学生は何をするやらわからんな」近くを歩いている新吾が大人びた口ぶりで言った。
「足元に隠れておったやつに飛びかかられたらどうにもならんぞ」心配性の田部豊が言葉を返した。
「歩く順番を決めておくか」武雄が言った。「わしが先頭で、豊が二番目じゃ」
「なせわしが二番目か」
「先頭を歩いとるもんがマムシを驚かしたら、マムシは二番目を歩いとるもんに噛みつく」
「噛みつかれるのはわしやないか」豊が悲壮な顔で言った。
「できるだけ草の生えとらんとこを行こう」新吾が現実的な提案をした。
「マムシに噛まれるような遠足は、最初からやめればええのに」豊がもっともなことを言った。
 目的地は高原平という古戦場だった。このあたりでは昔から、領地をめぐって何度となく戦が繰り広げられてきたという。近くには古い首塚や地蔵があり、いまは枯れ沢になっているものの大刀洗川という地名も残る。最後の大規模な合戦は四百年ほど前、江戸幕府が開かれる少し前に起こった。領主が亡くなった機に乗じて、近隣の武将たちが兵を集めて城を攻めた。迎え撃つほうも援軍を求めて備えた。夜明け前にはじまった戦は午後までつづき、双方で千名近い戦死者を出したという。
 やがて弁当の時間になった。男は男、女は女で固まって食べるのが、小学校のころからのしきたりだった。
「うちの学校もヘンだの」田部豊が箸を遣いながら釈然としない顔で言った。
「何がヘンなんか」新吾がたずね返した。
「わざわざ遠足でマムシが出るようなとこへ来てみりゃ、そこは古い合戦の跡だという」
「他にええ場所がないんやろ」と新吾は言った。
「こういうところでは、昔からたくさんの人間が死んどる」豊はどこか分別臭い口調で、誰かから聞き知ったらしい話をはじめた。「非業の死というやつよ。死にとうない者や死にきれん者、絶対に死なんと思いながら死んでしもうた者、本当は死んでおるけれど死んだと思うておらん者、そういう者らの魂がここに集まっとるんだわ。死んだ人間の力が集まると、生きとる人間に悪さをするようになる」
 豊の話を聞いた三人はいくらか神妙な顔つきになった。
「飯が不味うなるような話だの」武雄が雑ぜ返すように言った。
 しばらく話題が途切れたのは、それぞれに死んだ人間のことを考えていたせいかもしれない。高原平の古戦場に残る首塚の話は、健太郎も幼いころから聞かされてきた。合戦で討ち取った首は検分して、名のある武将の首は敵の城へ送り返して墓所に葬らせた。その他の首が、ここに葬られて供養されたと伝えられている。
「多賀清美は内藤に気があるじゃねえかの」辛気臭い空気を打ち破るように、新吾が脈絡のないことを言った。
 他の三人は夢から覚めた顔で新吾のほうを見た。
「クラスの女はみんな内藤に気がある」武雄がつまらなそうに返した。
「証拠があるんか」豊が詰問の口調で言うと、
「清美は内藤に、勉強のことなどよう訊いとる」新吾はあっさりと答えた。
「そりゃあ、内藤は都会から来て、勉強のことはよう知っとるからやろう」豊は自分を納得させるように言った。
「二学期から、級長は内藤かもしれんの」武雄が言葉を挟んだ。
「そしたら健太郎は失脚だが」と新吾が言った。
「なんじゃ、そのシッキャクいうのは」武雄がたずねた。
「やめさせられることだわ」
「ふん」
「うちの担任がそんな話をしよった」新吾は説明した。「どこか外国の話らしい。政治のこたあ、ようわからん」
「わしはべつに失脚してもええで」健太郎は平然とした顔で言った。
「清美は副級長のまんまやろうな」新吾は話を進めた。
「女のなかでは清美がいちばん頭がええけんな」武雄が同意するように言った。
「そしたら内藤と清美はますます仲がようなる」
「将来は夫婦になるかもしれんの」
「やめんか、そんな話は」豊が苛立たしげに遮った。
「なにを怒っとる」新吾が不思議そうに言った。「ひょっとして豊は、清美に気があるんじぇねえか」
「馬鹿なこと言うなら、わしは怒るぞ」
「もう怒っとるが」と武雄が言った。
 健太郎たちの中学校がある町の外れに小さな研究施設が作られていた。山奥で採掘されたエラン鉱は、この施設に運ばれ、実用化に向けた研究開発の工程に入る。職員十人ほどの小さな研究組織の所長が、内藤昭の父親だった。
 研究施設の建設が発表されたときには、町のなかに「歓迎エラン研究所」という横断幕が幾つも垂れ下がった。半年ほど前に行われた研究所の開設を祝う式典では、東京からやって来た大臣が、「国民生活の安定を図るには、エランの力による方法しかないのであります。あのエランの偉大なる力を利用してこそ、はじめて産業の革命ができ、農業の革命もでき、さらに技術の革命ができると、私どもは信じております」と演説して、住人たちの拍手喝采を浴びた、という新聞記事を健太郎も見たおぼえがある。つづいて挨拶に立った町長は、「エランを利用すれば、一毛作が二毛作に、二毛作が三毛作にできるのです」と説いたらしい。その記事にかんして父親は、「さすがに、そんなことはあるまい」と呆れたように言い捨てた。
 東京から転校してきた内藤昭は、同級生たちにとっては軽い反感を交えながらも気になる存在だった。クラスでも群を抜いて勉強ができ、とくに英語の力は教師たちも舌を巻くほどだった。性格も悪くなかった。都会から来たことを鼻にかけるところもなく、田舎での暮らしに溶け込もうとしている。最初は反感をもっていた級友たちも、しだいに好意を抱くようになっている。昭のほうでも、折々にリーダー的な存在感を発揮するようになっていた。豊には気の毒だが、清美が昭に心を惹かれるのも無理はない、と健太郎は思った。誰が見ても、彼女にふさわしいのは昭のほうだろう。
 弁当を食べ終えると、話は釣りのことに移っていった。昔から村の人たちは様々な方法で魚を獲ってきた。ミミズや川虫を使っての餌釣り。毛鉤などの疑似餌を使っての釣り。もちろん源さんのように、素手で魚を捕る手掴み漁も行われてきた。山の子どもたちは川で泳ぐうちに、自然と素手で魚を捕えることをおぼえていく。さすがに大人たちのように、イワナやヤマメのような魚は難しいが、淵の岩下に潜んでいるコイぐらいなら比較的簡単に捕まえることができた。手掴みで捕った魚は傷んでいないので、川原に池を作って生かしておくこともできる。
 手掴み漁にかんしては、娯楽という面が大きかったのかもしれない。効率よく魚を捕ろうと思えば、毒漁に勝る方法はないだろう。戦後の食糧難の時代には、青酸化合物などの毒物を川に投げ込んで大量に魚を捕ることも行われていたらしい。しかしさすがに危険だし、また使用する薬物が簡単に手に入らなくなったことなどもあって、最近ではほとんど行われていない。
 それに似たことは、健太郎も小学生のころに一度やったことがある。山椒やクルミの根、ヨモギの葉などをすり潰して川に流す、やはり一種の毒漁だった。漁を指揮したのは年長の中学生だった。魚が痺れて動きが鈍くなったところを網や手掴みで捕ろうというのだが、実際にやってみると、小さな魚が数匹よろよろと水面に浮かび上がってきたくらいで、伝え聞いていたほどには毒の効果はなかった。鬱憤を晴らすかのように、誰かが川岸から淵のなかへ大きな石を投じた。他の者たちもそれに倣った。みんなで面白がって石を投じつづけるうちに、その衝撃と振動でショック状態に陥ったのか、かなり大きなものまで含めて、何匹もの魚たちが白い腹を見せて浮いてきた。思いがけない釣果に、小さな子どもたちは歓声を上げたものだった。
 健太郎がとくに好んでいるのは、ミミズを使ったイワナ釣りだった。仕掛けは道糸とハリスのあいだに板鉛を巻きつけて錘にしただけの簡単なものだ。ミミズは堆肥置き場に湧いているものを掘り出して使う。毛鉤のほうが手は汚れないし、餌を付ける面倒もいらないが、喰いがいいのは、やはり生餌を使った釣りである。魚を警戒させないように、下流から上流へ遡りながら釣るのがコツだった。
「今年はいつものように魚が釣れんいう話だの」新吾が気がかりな様子で言った。
「なせかの」健太郎は首をかしげた。「春先に雨がつづいたけん、水の量は多いはずやが」
「兄ちゃんが言うには、よそ者が川を荒らしとるらしい」
「飯場の連中か」健太郎が言うと、
「たぶんそうやろう」新吾は難しい顔で頷いた。
「魚止めの呪文がかかっとるんでねえかの」と武雄が言った。
「呪文を使える人間は、もうおらんいう話だが」新吾が言葉を返した。
「吉右衛門爺さんがおる」武雄はきっぱりと答えた。
「なんのためにそんなことをするんかの」健太郎がたずねるともなく言葉を重ねると、
「よそ者が川を荒さんようにするためよ」武雄はわかりきったことのように言った。「魚が釣れんければ、あの人たちも諦めて川から出ていく」
 たしかに吉右衛門爺さんなら、廃れたと言われている魚止めの呪文が使えるのかもしれない、と健太郎も思った。問題は、爺さんが実在しているかどうかだった。吉右衛門爺さんのことが話題になるたびに、話はうやむやのまま振り出しに戻ってしまう。時間を超越して生きているらしい、素性のわからない老人。この山のどこかにいるのだろうか。それとも霧のようにつかみどころのない伝説の存在なのだろうか。いつか真偽を確かめる必要があるだろう、と健太郎は思った。

 遠足の残りの時間、四人は何をするでもなく雑木林のなかを気ままに歩きまわりながら、吉右衛門爺さんを探し出す計画のことなどを話し合った。なにしろ相手は吉右衛門爺さんだ。エラン爺さんのときのようなわけにはいかない。エリアをきめて、山のなかを隈なく捜索する必要がある。場合によっては、野宿もしなければならない。どこまで本気なのかわからない話をしながら、武雄は持ってきたパチンコで、ときどき鳥などを撃ったりしていた。そのうちに姿が見えなくなり、やがて新吾や豊とも離れて、健太郎は一人になっていた。木立の向こうには草原が見えているから、迷ってしまうことはない。同級生たちの声も聞こえてくる。思いがけず一人になれたことを、むしろ彼は幸いに思った。
 暖かい草の上に腰を下ろした。風が吹いて梢の葉を揺らしている。光がはしゃぎまわるように、木の間で輝いている。あちこちで鳥が鳴いている。おそらく鳥たちも、光と一緒になってはしゃぎまわっているのだろう。草の葉をてんとう虫が這っていた。背中は朱色で黒い斑点がある。ゆっくり動いているように見えるが、本当は急いでいるのかもしれない。よく見ると同じ草の上に、もう一匹いた。オスとメスかもしれない。風が木々のあいだを吹き抜け、近くの草が波打った。
 眠り足りないようなものが降りてきて、健太郎は草の上に仰向けに横になった。若葉のあいだから空が見えた。白い雲がゆっくりと流れている。長いあいだじっとしていた。何かが起こることを期待しているわけではない。ただ太陽の下に転がって、光と風を感じていたいだけだ。静かに息を吸い込み、少しずつ吐いた。鼻孔から入り込んだ光が、肺の奥まで届くように感じられた。さらに血液に溶け込み、全身に行き渡る。心臓を輝かせ、筋肉や、骨の一つ一つを輝かせる。いつか自分が死んで、太陽や空気、名のない透明で完全なものの一部になったとき、このように感じるのかもしれない、と健太郎は思った。
 森のなかに入って心の落ち着く場所があれば、死んだ人の魂が集まっている場所だ。そんな知識を吹き込んだのは、おそらく祖父だろう。ここは豊も言うように、合戦などによって、昔からたくさんの人間が死んでいる場所だ。成仏した魂もあれば、死にきれなかった者の魂もある。それらが集まって、この静謐な空間をつくり上げているのかもしれない。
 信心深い祖母によると、亡くなった人はみんな「みたまさま」になるのだという。それは「ご先祖さま」とほとんど同じ意味らしい。生前に善いことをしても、また悪事をはたらいても、五十年や百年といった長い年月が経つうちに、生きているあいだのことは読み取れない文字のように霞んでしまい、善人の魂も悪人の魂も同じように浄化されて、「ご先祖さま」や「みたまさま」と呼ばれる、一つの尊い霊体に融け込んでしまう。それは多くの先祖たちが一体となった神であり、この先祖を主体とする神さまが、子孫後裔を長く守護してくれるのだった。
 だから年忌ごとの法要や、盆や彼岸の供養を欠かしてはならない、と祖母は日ごろから孫たちに諭していた。生きている者たちの追善廻向を受けることによって、死者の霊魂は清められていき、生前の個別性を失いながら、最終的に先祖の霊に集約されていく。これを怠ると、成仏できない魂は障りをもたらす。祖母によれば山の神さまも、亡くなった祖先たちの霊魂が寄り集まったものらしい。春には里に降って田の神となり、秋の終わりには田から上がり、山に還って山の神になる。いずれも本体は「みたまさま」と呼ばれる先祖たちの霊魂なのだった。
「ばあちゃんは死んだらどこへ行くんか」遠い記憶のなかで幼い子がたずねていた。
「ずうっと見守っておるよ」遠い声が答える。「だからなんも心配はいらんよ」
 いま自分のいる場所が定かではなくなっていた。あたりには人の気配がなく、先ほどまで聞こえていた同級生たちの声も遠くなっている。ここはどこだろう、と健太郎は思った。現実の世界のなかに忍び込んだ、もう一つ空間にとらわれている気がした。やけにうるさく鳥が鳴いている。人間の知らない言葉で、何事か言い交わしているらしい。
「ツァラン、ツァリルリン」
「ツァリル、ツァリル」
「チチツン、ツーン、チ、チ」
 何を言っているのだろう。
「ギギンザリン、ギギンザリン」
「ギュツク、ギュツク」
「ギシギシ」
 いい加減にしないか!
「チラロ、ケラロ?」
「リウリウ」
 時間の観念が薄らいでいく。嗅覚が鋭くなっているのがわかる。雨になるのかもしれない。雨が降り出す前には、こんなふうに嗅覚が鋭敏になることがある。だが、いま起こっているのはそれとは別のことだった。風に乗って漂ってくる動物たちの匂い、かすかな腐肉の臭いを嗅ぎ取ることができた。言葉にできない匂いも混じっている。いい匂いも悪い匂いも、この空気のなかを流れている。遠くから流れてくる匂いを誘惑のように感じた。彼を別の場所へ連れていく匂い……そこは深い森のなかだ。
 森の奥深くに「山の神さまの遊び場」と呼ばれる場所がある。この話を健太郎にしたのは、祖父ではなくて父だった。鬱蒼とした原始の森が開け、箒で掃き清められでもしたような清浄な空間が忽然と現れる。旺盛に繁殖したシダや蔓植物が地面を覆っているなかにあって、そこだけは下草も生えず、枯れ枝一本落ちていない。風は吹いていないはずなのに、落ち葉がゆっくりと渦を巻くように宙に舞っている。木々の梢や周囲の雑草はそよとも揺れていない。
「そういう場所では、誰でも畏れ多いような気持ちになるもんだ」と父は言った。「足を踏み入れるのも憚られる。もちろん踏み荒らしたり、小便や糞をしたり、血で不浄に汚すなどはもってのほかだ。怒りに触れたら、どんな祟りを受けるやもしれん。山の神さんはきれいなところを好いとんなさるでな」
 ひょっとしてここが、その山の神さまの遊び場ではないだろうか、と健太郎は思った。いつのまにか来ていたのだ。時間は永劫のなかをゆっくりと流れている。その時間の澱みのなかで、自分が一つの欲望になったような気がした。あるいは何かを切望する一つの生命に。人間としての感情はどこかへ消え去っていた。欲望だけが走っていく。空腹を感じた。まるで自分のなかに別の何ものかがいるみたいだった。激しい空腹のために下腹が痛くなった。いますぐに何かを口いっぱいに詰め込みたいという衝動をおぼえた。生きて動いているものを無性に食べたい。そんな不気味な欲求だった。いったいどうしたというのだろう。山の神さまが悪戯しているのだろうか。吉右衛門爺さんが忌まわしい呪文をかけたのだろうか。何かが深々と自分のなかを歩いていくのを感じた。これまでに感じたことのないような強い力だった。使い方を誤れば人をも殺しかねないほどの凶暴な力だ。その力には何か崇高なものがあった。泥や肉汁にまみれていながらも輝いている。
 ふと何者かの気配がした。いまにも姿を見せようとしていたものは引っ込み、かわって身体の内側に沸き立つ新しい力を感じた。
「どうしたん」
 目をあけると、傍らから多賀清美が不思議そうに健太郎の顔を覗き込んでいた。
「どうもせん」いくらか邪険な口調で払うように言うと、彼は乱暴に起き上がった。「清美こそ、こんなところで何をしとる」
「別に何もしちゃおらんよ」彼女は素っ気なく答えた。「林のなかを歩いておったら、健太郎が倒れとったんで、どうしたんやろう思うて様子を見に来た」
「ちょっと昼寝をしとっただけじゃ」
「こんなところでか」
「静かやし、暖こうて気持ちがええ」
「そうか」清美は自分も草の上に腰を下ろすと、その場で仰向けに横たわった。
「やめんか」健太郎は慌てていった。
「なせかの」すでに目を閉じている。
「人が見たらおかしい思う」
「なんもおかしいことないよ」
 平然とそんなことを言う少女の顔を、健太郎は盗むように見た。唇をゆるやかに合わせて、うっとりした表情を空に開いている。このやけに白い肌をした不思議な生き物はなんだろう。健太郎はその存在を持て余した。見つめていると吸い込まれそうになる。かといって目を逸らすことはできない。落ち着かない気分を紛らわすようにしてたずねた。
「清美は内藤のことをどう思うとる」
「なんやの、そんなことを訊いて」清美は目を閉じたまま、興味のない様子で答えた。
「あれは勉強ができるし、頭も悪うない」健太郎は低調な言葉を繰り出した。
「それがどうかしたん」
「だけん、どう思う」
「どうもこうも、なんとも思わん」
「そうかのう」
「今日の健太郎はおかしいの」
 たしかに今日の自分はおかしい、と彼は思った。いつからおかしくなったのか、その境目がはっきりしなかった。ここに来て草の上に横たわったときからか、小鳥たちの奇妙な言葉が耳について離れなくなったときからか、それとも匂いに感覚が研ぎ澄まされていったときからか……。無力感をおぼえるようにして、健太郎は傍らに横たわる清美を見た。顔に当たっている光は、彼女の内部より現れ、宇宙へ解き放たれている。これはいったいなんだろう。このキラキラと輝くものは。清美の顔や身体全体から放たれ出ているもの。それは彼のなかにもあった。清美から放たれ出たものが身体を通過し、自分のなかにある同じものとぶつかり、混ざり合い、共振し、落ち着かない気分にする。これまでは気がつかなかった。こんな輝かしいものが自分のなかにあることに。それは彼のなかにありながら、彼のものではなかった。
 健太郎は喘ぐようにして考えつづけた。先ほど口いっぱいに詰め込みたいと思ったものが、いまは彼の身体のなかにあった。胃袋の粘膜にこびりつき、悶々として光彩を放っていた。暗い臓腑の奥深くで、鈍く光っている。胃の腑にあり、五臓すべてにある。この卑俗な欲望は、卑俗であるがままに清浄だった。暗く窮屈なところに押し込められていながら、縹渺として自在だった。これは本当に自分だろうか。この身に起こっていることなのだろうか。極彩色に輝きながら、彼のなかに潮のように満ちてきたもの。それは生物であること、一個の欲望する生命であること、そのものだった。彼は自分がここに在ることに、目の眩むような慄きをおぼえた。(イラスト RIN)