なお、この星の上に(3)

3 
 農家の生垣から、馬酔花の白い花が顔を覗かせていた。庭先では梅は鮮やかなピンクの花をつけている。牛がときどき間延びした鳴き声を上げた。春休みに入ったばかりの日曜だった。四人はほとんど喋らずに、大根や白菜が植えられた畑添いの道を歩いていった。畑の黒い土は、暖かそうな太陽の光を浴びている。
 山鳥を撃ちに行こうと言い出したのは武雄だった。カモばかり撃つのには飽きたという。撃つといっても、使うのは「ゴム管」と呼ばれる玩具のような用具で、「飽きた」というほど獲物が捕れるわけではない。しかし他の三人も、あまりスリルのないカモ撃ちよりは、山に入って獲物を狙うほうが面白そうだということで話がまとまった。
 彼らが持っているゴム管は、各自が手作りしたものだった。まずフレームにするために、丈夫な二股の木を探してくる。できるだけきれいなY字型になったものが理想だった。二股のあいだにゴム製のバンドを渡し、その張力によって小石を飛ばすという仕組みである。とくにゴムを引っ掛けるところは壊れやすいため、針金などの金属で補強する必要があった。ゴムはチューブ状のものを二重にして使うのが一般的で、熟練すれば四、五メートル先の空き缶くらいは撃てるようになる。
 その日、武雄が新たに製作してきたゴム管は、ちょっと特殊な仕様になっていた。バンドの部分に、自転車のタイヤに入っているゴム製のチューブが使ってある。フレームも通常の二倍ほどある大ぶりなもので、ゴムを掛けるところは、引き戸に使う金属製のレールで補強してある。
「おまえ、凝り過ぎじゃ」通常のゴム管を持ってきた新吾が呆れたように言った。
「かっこええだろ」武雄はいかにも得意げだった。
「たしかに威力はありそうだが」健太郎は半信半疑に言葉を挟んだ。「ちゃんと命中するんか」
「まかしとけ」
「試してみたか」新吾がたずねた。
「うん、試した」
 武雄のところは父親が戦争で亡くなり、残された母親は未亡人会という組織の役員をしている。下に妹が二人いて、上の妹は健太郎の妹と同級生だった。武雄は中学を卒業したら猟師になると言っている。本人は真面目に考えているらしいが、担任の栗山は「ちゃんとした就職先を考えろ」とことあるごとに諭している。たしかに健太郎たちの村で、専業の猟師といえば吉右衛門爺さん一人だけだ。しかも歳をとって、ほとんど引退しているという話だった。この歌舞伎役者みたいな名前の爺さんのところに、武雄は中学を卒業したら弟子入りしたいと考えている。
「吉右衛門爺さんは、いろんなまじないが使えるぞ」と彼は我が事のように自慢した。
 それは呪文のようなものらしかった。獲物をおびき寄せるための呪文や、仕掛けた罠にイノシシやシカをかからせるための呪文がある。
「人間にも使えるぞ」と不気味なことも口にした。「まじないをかけられた人間は、山から出られんようになる。道がわからんようなってしまうのよ」
 健太郎たちのあいだで、吉右衛門爺さんは一つの伝説だった。まず年齢からして、はっきりしたことがわからない。九十歳以上と言う者もいたし、百歳を超えていると主張する者もいた。すでに死んでいるという説さえあった。遺体は死んだあとも腐らずに、いまでも囲炉裏端にじっと坐っているという。吉右衛門爺さんの家は山奥の峡谷にある。山の切り立った斜面の石塁を積んで建てた小さな家に、一人で住んでいるということだが、生死さえはっきりしない爺さんのことだから、確かなことはわからない。
「行ったことあるんか」健太郎がたずねると、武雄はあるともないとも答えずに、
「家の壁には、百発百中の銃が掛けてあるのよ」と見てきたようなことを言うのだった。どうやら彼のなかで、吉右衛門爺さんは生死を超えて神格化された存在になっているらしい。
「自分にまじないをかけたのかもしれんな」
「どういうことか」
「死んだあとも腐らずに坐っとるのは、まじないが利いとるんだろ」
 武雄は露骨に厭な顔をして、それ以上は吉右衛門爺さんのことを話題にしようとしなかった。武雄を傷つけたかもしれないと思い、健太郎は少し気が咎めた。

 いつのまにか竹林のところまで来ていた。そろそろウグイスが鳴きはじめるころだが、林のなかは静まり返っている。竹林の横は柿畑だった。これらの柿は出荷用で、実を採りやすいように、大人が手を伸ばせば届くくらいの高さに揃えて剪定されている。鮮やかな緑の新芽が出てくるのは、あとひと月以上も先のことだった。いまは節くれだった丸裸の枝を、何かにつかみかかろうとするかのように、雲ひとつない空に向かって伸ばしている。
 やがて道は棚田のあいだを縫うようにして上りにかかった。土手にも何本か柿の木が植えられているが、ほとんどは渋柿だった。出荷用と違って、こまめに剪定もされないため、枝は伸び放題になっている。健太郎の祖母は干し柿を作るのが上手かった。母親の話によると、嫁に来たころから評判だったそうだ。いまも器用に皮を剥いて干し柿を作る。ただ乾かすだけではだめで、黴を生やすために、途中で取り込んで藁に入れたりしなければならない。意外と手間のかかる作業だった。その甲斐もあってか、表面に白い粉を吹いた祖母の干し柿は見た目にも美しかった。軒下の竹竿に柿が吊るされているのを見ると、また冬がやって来るのだなと思い、健太郎はちょっと物悲しい気分になった。
 干し柿にするためには、熟す少し前に実をとって皮を剥かなければならない。これが面倒なので、かなりの実は取り残されたままになる。とくに枝も折れそうなほどたわわに実った年は、粒が小さいので干し柿には向かない。多くの実が枝に付いたまま熟していく。その時機を見極めて、ムクドリたちがやって来る。ツグミやヒヨドリやオナガもやって来る。彼らはよく熟れた柿が好物だった。ときどき一つの実をめぐって喧嘩をしている。たくさんあるのだから別の実を食べればいいようなものを、人間と同じで鳥たちも意地を張り合うらしい。群れで啄んでいるところをゴム管で狙えば、一発くらい当たりそうな気もするが、なんとなく心ないことに感じられて、健太郎はいつも二の足を踏んでしまうのだった。
「武雄、あの柿を撃ってみ」枝の先に残っている干からびた柿をさして、健太郎はけしかけるように言った。
「ちょっと遠いの」武雄は思案げに答えた。
「無理か」
「なんが、当てちゃる」
 武雄は足もとの手ごろな小石を拾った。あいだに挟んでゴムを引き絞った。歯を喰いしばり、必死の形相で引っ張っている。固唾を飲んで見守っている三人も、加勢するように拳を握りしめている。石が放たれた。シュッという音とともに、小石は空気を切って飛んでいく。スピードが速くて、目で追うことができないほどだった。残念ながら実には命中せず、枝に残っていた葉が数枚落ちただけだったが、ゴム管の威力は明らかだった。
「だいぶ飛んだの」健太郎は感心したように言った。
「当たったら一発だの」新吾が石の飛んでいったほうを見たまま言った。
「もうちょっと的が大きけりゃあ当たるぞ」武雄の顔には小さな汗の粒が浮かんでいる。
 四人は再び歩きはじめた。棚田の二番穂は、この時期は茶色になっている。冬のはじめには燃えるような蜜柑色だったチガヤも、いまは褐色に近い暗い色をしていた。土手やあぜ道にレンゲ、タンポポ、オオイヌノフグリなどの草花が咲きはじめるころには、春休みも終わりに近づいている。
「四月からは三年生だの」それまで口をきかなかった田部豊が言った。
「二年生が終わったら三年生になるのは当たり前やが」武雄が小馬鹿にしたように答えた。
 豊は出端をくじかれた感じで下を向いた。四人のなかで、豊はいつも割を喰う役まわりだった。気が小さいので、なんとなく見くびられている。
 村では毎年、夏休みの終わりに青年団の主催で肝だめしが行われることになっていた。通過儀礼的な意味合いをもつイベントで、小学六年生の男子は全員、これに参加しなければならない。いま一緒に歩いている四人が、その年の六年生だった。墓地と火葬場と避病院という三つのコースがあり、どのコースになるかは直前まで明かされない。健太郎たちの年は避病院だった。それを聞いたとき、豊はほとんど泣きそうになった。もちろん墓地や火葬場も嫌だが、避病院の気味の悪さは格別だった。もともと伝染病に感染した者たちを隔離するために建てられたもので、いまは閉鎖され廃墟になっている。松林のなかにあり、昼間でも暗い避病院のまわりでは、夜になると魔物が出ると言われていた。
 ここを夜更けに一人で一周しなければならない。順番は籤引きによってきめられる。最初が武雄で、二番目が新吾、三番目が豊、最後が健太郎だった。武雄と新吾は無事に帰ってきたが、三番目の豊は青年団の若者に背負われて戻ってきた。肝試しではコースの途中に何人か若い衆が潜んでいて、やって来る小学生を脅かすのが恒例となっている。彼らの迫真の演技に、豊は恐怖にかられて腰を抜かしてしまったらしい。このハプニングのせいで、脅かすほうもやる気をなくしたらしく、最後の健太郎はそれほど怖い思いもせずに済んだ。
 小学校を卒業すると、村の子どもたちは少し離れた町の中学校に通うことになっている。他の幾つかの村の子どもたちも通ってくるのだが、家が近所ということもあり、中学生になってからも、四人は何かと行動を共にすることが多かった。
「健太郎は将来は医者になるんだろ」しばらくして豊は言った。
「医者ではのおて獣医じゃよ。まだはっきりきめてないがの」
「それなら普通高校だの」
「獣医になるには、大学へ行かねばならん。栗山の話では、よっぽど勉強せねば行かれんらしい」
「健太郎は勉強好きやけんええが」武雄が言った。
「別に好きやない」健太郎はやや心外そうに答えた。
「武雄は本当に猟師になるんか」新吾が真顔でたずねた。
「わしは勉強は嫌いやけん」
「かあちゃんはなんも言わんのか」
「なんも言わん。未亡人会の仕事が忙しゅうて、息子のことは考えとる暇などないらしい」
「何がそんなに忙しいんかの」新吾は素朴な疑問を口にした。
「わしにもわからん」
「豊も進学やろ」健太郎は話を持ち出した本人に言葉を向けた。
「まあの」豊は煮え切らない返事をした。
「普通高校か」
 豊は再び下を向いて考え込んだ。
「担任になんか言われたんか」健太郎は探りを入れるようにたずねた。
「先生はなんも言わんが、家のもんがの……」
 健太郎と武雄は同じクラスだったが、他の二人はそれぞれ別のクラスだった。しかし四人とも、お互いの成績くらいは知っている。豊の成績なら、当面の進学には問題ないはずだった。
「反対なんか」健太郎がさらにたずねると、
「親は高専を勧めよる」と豊は言った。
「高専か」
 健太郎が行こうと思っている普通高校は、隣町とはいえ自宅からバスで通うことができる。しかし県内に一校しかない工業高等専門学校となると、自宅から通学することは無理だった。それに高専は全寮制とも聞いている。
「これから農業はだめらしい」豊は受け売りの口調で言った。「この先、日本は工業の国になっていく。高専に行って技術を身につけたほうがええと言うのよ」
「農業がだめになる言うが、おまえんとこもうちも農業やろうが」新吾が不信感をあらわにして言った。「おれは家を継いで農業しよう思いよるのに、そんなことを言うてもろたら困る」
「高専へ行きとうねえなら、親にそう言やあええ」健太郎は控えめに口を挟んだ。
「そうじゃ」新吾も同意した。
「わしにはどうしようもできん」豊は悲観的に答えた。
「吉右衛門爺さんとこに弟子入りして一緒に猟師になるか」
 武雄が言うと、豊は相手のほうをちらりと見て、人生の苦難を一身に背負ったような大きな溜息をついた。ひょっとして豊は清美と離れるのが辛いのではないだろうか、と健太郎はひそかに思った。多賀清美は健太郎たちと同じ年に村の小学校を卒業した、五人の女子のうちの一人だった。どうやら豊は清美に、ほのかな想いを抱いているらしいことに、健太郎は前から気がついていた。明らかに他の女子とは区別している。言葉や態度の端々に、そのことが感じられた。小さいころから身近にいる清美にたいして、健太郎は異性という意識さえもったことがなかった。武雄や新吾にしても同じだろう。豊は見かけによらずませているのかもしれない、と健太郎は思った。

 山の棚田を過ぎると、それまでの砂利道から土だけの道になった。まわりの木々の様子も、明るい雑木林から、植林された杉や檜の林に変わっていく。針葉樹が生い茂った林は暗く、その横を通る道までがひんやりとしている。清水が湧き出しているところがあるので、四人は交互に手で掬って咽喉を潤した。
 植林が行われた山よりも、いろんな種類の木が混じっている自然の山のほうが健太郎は好きだった。葉を落とした広葉樹の枝が玉状になり、春先には尨犬のようにモコモコして見える。色や濃淡の異なる木々によって、山全体が柔らかく波打って見えるところから、土地の人たちは「山を洗う」とも言う。そんな山の中腹で広範囲に伐採が進み、整地された斜面に、学校の校舎じみた建物が幾棟か立ち並んでいた。
「また建物が増えとる」新吾が谷を隔てた向かいの山に目をやって言った。「このぶんじゃあ町が一つできるな」
「どうする武雄、山が消えて猟ができんようなったら」豊が心配そうにたずねた。
「山が消えるこたあね」武雄は頑なな口調で答えた。「それに獲物はどこにでもおる」
 のちに「エラン爺さん」と呼ばれることになる老人と出会ったときには、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。小学五年生のときだった。最初の情報をもたらしたのは武雄だった。そのころから武雄は、将来は猟師になるという決意を固めつつあり、学校が休みの日には自分で製作した弓矢などを持って山に入り、猟の修行に勤しんでいた。そんな折に、何度か怪しい男を見かけたという。男は道端に露出している岩などをハンマーで叩いて、何か調べているようだった。化石でも採っているのではないか、と健太郎が言うと、そんなふうには見えない、と武雄は確信ありげに答えた。
 ほどなく夏休みに入り、四人は本格的に、武雄のいう「怪しい男」の探索に出かけることにした。その正体を暴き、もし村に危害をもたらすおそれがある場合には、しかるべき筋に報告することで意見が一致した。各自がナイフや鉈を腰にぶら下げて出発した。山に入るときにはいつも持っていくものだが、今回は木や竹を切るだけでなく、護身用に使う事態も想定された。
 半日ほど歩きまわって、ようやく男のものらしいテントを見つけた。一人か二人用の古いものだった。なかは無人で、近くに焚火の跡があった。何か男の素性につながる手掛かりはないかと、四人はあたりを物色したが、とくに怪しいものは見当たらなかった。テントのなかには寝袋や衣類や本などが転がっている。焚火のまわりにも、飯盒やアルマイトの食器など、普通のキャンプで使うようなものが置いてあるだけだ。
「傷痍軍人やないか」と新吾が言った。
「どこも怪我しとらんし、軍人上がりにしては歳がいっとる」武雄は大人びた口をきいた。
 そのとき突然、近くの茂みから男の声が響いた。
「何をしている」
 四人は弾かれたように逃げ出した。申し合わせたように、声がしたのとは反対の方向へ走った。安全なところまで退避して後ろを振り返ると、男はテントのところで腕組みをして立っていた。追いかけてくる様子はない。それ以上は、威嚇する素振りも見せなかった。もともと脅かすつもりもなかったのかもしれない。いきなり声をかけられたので、不必要に驚いてしまったのだ。たしかに武雄が言うように傷痍軍人ではなさそうだった。老人と言ってもいい歳恰好の小柄な男で、眼鏡をかけ、頭にはよれよれの登山帽をかぶっている。こんな相手なら捕まる心配はない、と健太郎は思った。ただ黙ってこっちを見ているのが、かえって薄気味が悪かった。
「あれは化石採りやないぞ」山を下りながら新吾が言った。
「あんな山んなかで、何をしよるんかの」健太郎がつなぐと、
「年寄りの乞食やろう」豊がいい加減に応えた。
「やっぱ怪しいが」と武雄が言った。
 その後も四人は、夏休みのあいだに何度となく山に入った。山の神が祀られているあたりは森が深く、夏でも涼しいので、何をして遊ぶにも恰好の場所になった。川の上流で釣りをしたり、サワガニを捕まえたりすることもあった。しかし再び老人を見かけることはなかった。彼はテントとともに消えてしまった。どこか別の山へ移動したのかもしれない。それとも目的を達成して引き揚げたのだろうか。ときおり思い出したように、誰かが老人の消息に言葉を向けた。やがて夏休みが終わり、新学期がはじまると、老人のことは話題にも上らなくなった。

 リンドウの紫の花が土手を飾るころになると、キノコ採りがはじまる。主役は村の年寄りだが、休みの日には大人も子どもも山に入る。そんな折に、山のなかを走りまわるジープの姿が、しばしば目撃されるようになっていた。車には揃いの作業服を着た男たちが四、五人乗っており、崖下の岩をハンマーで叩き割って鉱石を採集したり、ドリルで地中に深く穴をあけたりしている。地質調査をしているのだ、と大人たちは言った。夏に見かけた老人のことを、四人は久しぶりに思い出した。老人とジープの男たちとのつながりはよくわからない。しかし男たちが、老人と同じものを探していることは容易に想像がついた。
 ほどなく大人たちの会話のなかに、「エラン」という聞き慣れない言葉があらわれるようになった。それは金やダイヤモンドにも相当する貴重なものであるらしかった。地質調査の男たちも、また健太郎たちが出会った老人も、この高価で貴重な鉱物を探していたらしい。やがて「エラン露頭発見」という記事が、地元の新聞に掲載された。さらに「有望なエラン鉱床発見」というニュースが、全国的にも大きく報道されるに至って、健太郎たちの村を含む一帯は、鉱石生産の中心地として一躍有名になった。村中が鉱石の話題で持ちきりになった。新聞の見出しなどに使われた「石炭にかわる夢のエネルギー源」という謳い文句を、大人も子どもも門前の小僧のように口にした。エランとは何か? 石炭にかわる夢のエネルギー源である。それで充分だった。
 小学校の冬の暖房は主に石炭ストーブだった。当番は倉庫から石炭をバケツに入れて運んできたり、ストーブの底に溜まった燃えカスを捨てに行ったりしなくてはならない。雪の降る寒い日などは、なかなか辛い作業だった。あるとき朝礼で校長先生が話したことを、健太郎はいまでもおぼえている。将来は石炭などを使わなくても、エランによって簡単に暖房ができるようになる。エランを使って発電した電気によって、日本中の街が夜でも明るくなる……そんな話を校長先生は得意げにしたものだった。日本にとっても、健太郎たちの村にとっても、エランは明るい未来の象徴だった。
 しかし村の人たちが、この物質について、どのくらい正確な理解や認識をもっていたかとなると、甚だ心もとないところがあった。「明るい未来のエネルギー」というキャッチフレーズから飛躍し、逸脱して、怪しげなことを口にする大人は、小学校の校長先生にとどまらなかった。たとえばエラン鉱石と一緒に一晩置いておけば、安物のお茶でも玉露のような味になるとか、二級酒が特級酒並みになるとか、真面目な顔をして言う大人も現れた。
 時ならぬ「エラン・ブーム」に町中が沸き立っていた。農業や林業以外に、これといった産業もない土地に住む者たちにとって鉱床の発見は、まさに降って湧いた幸運だった。大人たちは毒にでも当たったみたいに、「未来」や「科学」や「エネルギー」という言葉に熱狂した。町の名前を全国にPRしようと、役場は「エラン音頭」なるレコードを製作して販売した。観光土産として「エラン饅頭」、鉱石の粉末を釉薬にした「エラン焼き」などが登場し、都会からやって来た会社が、万病に効力を発揮する健康器具としてエラン枕やエラン腹巻など、ほとんどインチキまがいの商品を売り出した。隣の町では、鉱石を湯船に入れたエラン風呂やエラン温泉が、珍しいものが好きな観光客を呼び込んでいるということだった。
 そのころになって健太郎たちは、あらためて夏に出会った老人のことが気になりはじめた。あの老人はどうなったのだろう。老人の探していたものが、エランであったことは間違いない。彼は一人ひそかに、貴重な鉱物を探しまわっていたのだ。なぜ、このあたりの山に目をつけたのかはわからない。たんなる偶然なのか、何か信頼のおける情報でも手にしていたのか。いずれにしても老人は、きっと目当てのものを見つけたのだ。そして忽然と姿を消した。
「殺されたんやないかの」豊が言った。
「誰にか」
「あのジープの男たちかもしれん」
 豊の推理はつぎのようなものだった。当局は、老人がエラン鉱床を探しまわっていることを知っていた。また発見した鉱床を、彼が一人占めするであろうことも見越していた。その上で、老人にエランを探させておいて、鉱床の発見が確認された時点で抹殺したというのである。
「なんのために、そんなことをする」
「エランは国全体のものやけん、爺さんに一人占めさせてはならん」
「なら、爺さんを殺したのは警察か」
「そこまではわからん」
 冬がやって来るころになると、山のあちこちで発破の音が響くようになった。坑道の開削がはじまったのだ。音は健太郎たちの村まで聞こえてきた。その音を耳にするたびに、健太郎は不思議な気分になった。石炭に換算すると何億トンにも相当するといわれた。国の将来を左右するとも言える有望なエネルギー源が、毎日のように遊んでいた山のなかに埋まっているという。坑道は何箇所かで同時に掘り進められていた。工事用のトラックが頻繁に町を通るようになり、そのための道路が整備された。
 村の幹線道路が舗装されたのは、健太郎たちが六年生に進級するころだった。近所の中学生の一人がローラー・スケートを持っていた。ほどよく勾配のついた舗装道路は恰好の遊び場となった。それはちょっとしたブームと言ってよかった。何人かの子どもたちが相次いで、親にローラー・スケートを買ってもらうことに成功した。手に入れ損なった子どもたちは、仲間のスケートを貸してもらった。なんでも自分で製作するという性分の武雄は、古くなった下駄の歯を切り落とし、板底に戸車を釘で打ちつけた。いかにも不細工なローラー・スケートは、たしかに滑るには滑ったが、すぐに戸車が外れてしまうので、武雄もあきらめて、途中からは友だちのスケートを借りて滑ることにした。しかしトラックの往来が増えてくると、道路でのローラー・スケート遊びは危険だということで禁止された。
 そんなふうにして山は切り開かれていった。健太郎の祖父は「山が動きよる」と言った。日ごとに山の姿が変わっていくことを、そんなふうに表現した。
「山の仕事も、人間がやりよるあいだは間違えるこたあね」と祖父は言った。「人のやることには限度があるでな。斧や鋸で一日に何本も木を伐るこたあできん。無理をすりゃあ、身体のほうがえろうてまいってしまう。どうしても身体と相談しながらのことになる。ところが機械は限度いうもんを知らん。そこが困ったとこよ」
 多くの木が伐られ、開削のためのスペースが整地された。坑口の近くには、大量の木材が積み上げられていた。坑道の天盤を支える支持材として使われるものらしい。掘られた鉱石はトロッコを使って運び出される。そのためのレールが敷かれ、トロッコのための操車場も設けられた。運び出された岩石は、坑道の近くの小山をなして積み上げられていった。
 その年の秋には、小学校の生徒が全員で鉱山へ慰問に行った。鼓笛隊で練習した曲を演奏し、生徒を代表して多賀清美が、作業の安全を願う内容の作文を朗読した。鉱員たちのほとんどは、単身で働きにきている人たちだった。平地が乏しいために、彼らが寝起きするための住居は谷間の傾斜地に密集して建てられていた。ヘルメットにキャップ・ランプを装着した男たちは、下を向いていくらか照れ臭そうに、清美の朗読に耳を傾けていた。全員が爪先に金属板が埋め込まれた安全靴を履いていた。
 現場責任者のような人が、慰問にたいする感謝の言葉を述べ、鉱山での仕事について簡単に説明した。仕事の内容や役割の分担。採石するにつれて、どんどん拡大していくトンネル。週ごとに変わる勤務シフトによって、鉱員たちは一日二十四時間、エランを掘りつづけている。「トンネルのなかでは、昼も夜も関係ありません」と男は言った。校長先生をはじめ、引率してきた先生たちは軽い笑い声を上げたけれど、子どもたちは誰も笑わなかった。どこがおかしいのかわからなかったからだ。男たちは暗いトンネルのなかで、昼も夜も鉱石を掘りつづけている。健太郎たちが学校で勉強しているあいだも、家の布団で寝ているときも、地中で休む間もなく掘りつづけている。子どもたちの未来のために、街という街を明るく照らすために。豊が言うように、これから日本は工業の国になっていくのかもしれない、と健太郎は思った。

 結局、その日は昼近くまで猟をつづけたけれど、これといった成果を上げることはできなかった。武雄の強力なゴム管も、雑木林に残っている葉をいたずらに散らすばかりで、獲物に命中することはなかった。だいいち獲物らしい獲物に遭遇することさえない。これなら池や田んぼでカモでも狙ったほうがましだった。
 歩き疲れた四人は、日の当たる暖かい草原に仰向けに横たわった。空にはやわらかな光が溢れている。風が顔の上を吹き渡っていく。目を閉じていると眠気に誘われそうになる。ここは穏やかさと安らぎに満ちた光の王国だ、と健太郎は思った。生命を脅かすものは何一つない。ゆっくりと息を吸い、息を吐いた。呼吸に合わせて、太陽の熱に温められた身体が少しずつ膨らんでいく気がする。そして草原のいっぱいに広がっていく。
 自分が大人になった日のことを想像してみた。まだ何十年も先のことだ。そのころには、今日が遠い昔になって、多くのことが忘れ去られているだろう。ある一日、彼はこの草原にやって来る。そして同じ場所に寝転ぶ。すると何もかもが同じ姿で甦ってくる。この草の上に寝転んで目を閉じれば、いまの自分たちの姿を目に見ることができるだろう。太陽の日差しの暖かさや、鼻先をかすめていく風の匂いを感じることができるだろう。何も失われない。すべてはこの場所、この土地とともにありつづける。
「やっぱゴム管で獲物を捕るのは無理やな」武雄がどこか投げやりに言った。「早いとこ免許をとって猟銃を持ちたいの」
 健太郎は静かに目をあけた。一瞬、眼球が光のなかへ砕け散っていくような錯覚にとらわれた。もう一度目を閉じると、瞼の裏側に深い闇が見えた。
「おまえ、本当に猟師になるんか」身体を起こしながらたずねた。
 武雄は仰向けになったまま答えなかった。またからかわれると思ったのかもしれない。
「新吾はどうする」健太郎は同じ問いを向けた。
「家を手伝う」すでに起き上がっている新吾は、迷いのない口ぶりで答えた。
「高校には行かんのか」
「行かん」
 新吾の父親は結核で、もう何年も町の病院に入っている。家は農家で、二人の兄が父親に代わって田畑を守っていた。上の兄は結婚して子どももいるから、実質的な跡取りと言っていい。学校の成績も悪くない新吾は、高校へ行こうと思えば行けるはずだった。
「そろそろ帰るか」豊が見計らうようにして言った。
 誰も返事をしなかったが、みんな気持ちは昼飯のほうに向いている。やがて立ち上がると、気だるいような眼差しをさまよわせた。
「見てみい」武雄が言った。「イヌワシじゃ」
 四人は雲ひとつない青空に目をやった。上空を一羽の鳥が舞っているのが見えた。
「あいつがおっては、キジもノウサギも怖がってよう出てきよらん」武雄は手ぶらで帰るための口実を見つけたみたいに言った。(イラスト RIN)