なお、この星の上に(1)


 その日、イヌワシは切り立った崖の巣を飛び立った。昇ったばかりの朝日のなか、風をつかまえ、ゆっくりと旋回をはじめる。上昇気流に乗って、徐々に高度を上げていく。餌を探さなければならない。ワシは腹を空かせている。獲物はノウサギやヤマドリ、大型のヘビなどだ。ときにはカモシカの子どもを襲うこともある。獲物を見つけると、羽をたたんで急降下し、両足を突き出して襲いかかる。強力な爪で獲物を絞め殺してしまう。
 美しい朝だった。いい天気になりそうだ。イヌワシは気流に乗り滑空していった。羽ばたきをする必要はなかった。二メートルほどにもなる羽を広げれば、風が行きたいところへ運んでくれる。鋭い目と嘴が、太陽の光に反射して輝いている。たてがみのような後頭部の毛も金色だ。かすかに潮の匂いがした。風は海のほうから吹いてきているらしい。その風に乗って、今日はどこまで行ってみようか。
 山から流れ出た川が、深い谷を刻んでいた。川の上流に小さな神社があり、水の神が祀られている。神社のまわりに杉や檜の林が広がり、定期的に伐採がおこなわれる。ワシにとってはありがたいことだった。ノウサギやヤマドリは、日当たりが良く、餌になる草がたくさん生えた若い林を好む。木々のあいだを縫うようにして獲物を捕えるタカとは異なり、ワシは開けた場所がなければ獲物に襲いかかることができない。狩猟の季節は終わっている。散弾銃に脅かされることのなくなった動物たちは、安心して餌のある場所に出てくるはずだ。
 イヌワシは上空から目を凝らした。いつもの狩場に、今朝は動くものの姿は見えない。だが慌てることはない。獲物はかならず現れる。空の高みが彼の場所だった。そこから見渡すことのできる範囲は驚くほど広い。黄金色の朝日が、谷の奥のほうまで射し込みはじめた。田起こしを待つ棚田にも朝の光は満ちていく。もうしばらくすれば、早春の土手にレンゲが咲きはじめるだろう。そのときがワシは待ち遠しかった。冬眠から目覚めたヘビがのろのろと這い出してくるからだ。まだ動きが鈍いので、簡単に捕まえることができる。
 幾つかの集落が見えはじめた。村が近づいてくると、尾根筋はクヌギ、コナラ、アカマツなどが混在する雑木林になる。田んぼは黒い森と集落を取り囲むように広がっている。南側の日当たりのいい場所にある墓地は、イヌワシには興味のない場所だった。獲物はめったに現れないかわりに、人間が頻繁にやって来る。彼は翼をいっぱいに広げて、あっという間に墓地の上を飛び去った。人家がなくなったところで少し高度を下げた。短い草の生えた地面に落ちた影が、朝日に照らされた大地を力強く滑っていく。ワシはちょっと得意な気分になった。
 はじめて巣立ちをした日のことを思い出した。あのころ彼の羽は、まだカラスのようにまっ黒だった。その羽を動かして、身体の隅々にまで力が漲ってくるのを待った。失敗は許されない。風をつかまえる前に飛び立てば、目もくらむような崖をまっさかさまに落下し、切り立った岩に叩きつけられるだろう。ときどき身体が浮かび上がったが、まだ巣から離れる気にはなれなかった。幼いながらイヌワシは慎重だった。彼にとっては、二度目とも言える大きな賭けだった。一度目の賭けには勝った。今度こそ真の力が試される。誰も頼りにはできない。自分の力だけで、真に大空によって祝福された鳥であることを示さなければならない。
 岩棚の巣には、親鳥の運んできた餌の残骸に混じって、彼と同じ夏に生まれた雛の頭蓋骨や嘴が転がっていた。この世界に生を受けた彼が、最初にやったことだった。雛は抵抗もせずに、ただ攻撃されるままになっていた。声を上げて鳴くことさえない。何が起こっているのか、わかっていなかったのかもしれない。彼にしても自分がやっていることを、正しく理解していたわけではない。ただ何ものかに命じられるまま、イヌワシは雛の柔らかい身体を嘴でつつきつづけた。雛は少しずつ弱っていったけれど、それでも攻撃をやめなかった。ついに雛は動かなくなった。親鳥はその死骸を喰いちぎって彼に与えた。残った骨や嘴は、藁や木の枝に紛れて目立たなくなった。
 強い風が海のほうから吹いてきた。大気に抱かれたイヌワシの身体は、重さを失ったようにふわりと持ち上がった。いい気分だった。彼は空腹を忘れ、自分が殺した雛のことも忘れた。生き残るために、同胞を殺さなければならない。命をつなぐために、獲物を仕留めなければならない。だがイヌワシは、いま自分がもっと大きな掟に抱かれているのを感じた。高度を上げると、遠くに海のきらめきが見えた。あのきらめきのなかへ、潮の香りのするほうへ滑空していこう。こうして飛びつづけているかぎり、自分たちは一つのものだ、とイヌワシは思った。(イラスト:RIN)