小学生のときに父が秋田犬の仔犬を飼いはじめた。ぼくも世話をした。子犬を手配してくれた、いまでいうブリーダーみたいな人が、あるときぼくに「犬に与えるご飯は自分で食べてみたほうがいいよ」と言った。当の小学生としてはかなりのカルチャーショックだった。
以来、ぼくは動物を飼う以上、飼い主は与える餌をときどき食べてみたほうがいいかも、と思うようになった。うちの猫に与えているキャットフードは何度か食べてみた。そのことをフェイスブックに書いたら友だちが「バカなことはやめろ」と忠告してくれた。まあ、それはともかく、ぼくがカメやインコを飼うことに二の足を踏んでしまうのは、彼らに与える餌を食べてみる勇気がないことも一因である。
だが、それくらいのことで二の足を踏んでいてはいけない、という本をご紹介しよう。何年か前に出たもので、チャールズ・フォスターという人が書いた『動物になって生きてみた』という本だ。イグ・ノーベル賞(生物学賞)を受賞してちょっと話題になったので、ご存知の方もおられるかもしれない。とにかく面白い。この著者は文学的なセンスがあって、文章がすごくうまい。しかも視点がユニークで斬新、というか斬新すぎる。
そのなかにミミズを食べる話が出てくる。なぜ彼がミミズを食べる羽目になったかというと、文字通りアナグマになって生きてみるためだ。アナグマになるためには、彼らが食べているものを食べなくちゃならない。不幸なことに、アナグマの食料は85%がミミズなのだ。よって著者はミミズを食べることになる。普通、そこまでするか? その描写がじつに秀逸だ。
〈ミミズの味は粘液と大地の味だ。究極の地元産食品であり、ワイン好きの言葉に従えば、独特の「テロワール」を持っている。シャブリのミミズは、長い余韻を持つミネラル感が特徴。ピカーディのミミズは、かび臭いような、腐敗した木片の味がする。ウィールドオブケントのミミズはフレッシュで素直。シタビラメのグリルにお勧めのリストに載るだろう。(中略)粘液だけを吸ってみると、シャブリの粘液は、少なくとも春には、レモングラスとブタの糞だとわかる。ウィールドの粘液は焼けたコードと口臭だ。〉
こんな記述があちこちにちりばめられている。そこに新鮮な洞察が挿入される。野生の動物たちを知ることは深く人間を知ることだ。これはAIと人間の関係についても言えるだろう。この著者のようにいろんな動物になって生きてみると、ヒトという生き物がいかに特異な粗視化によって世界や自然を切り取っているかがわかる。時間といえども、人間の特異な粗視化によって切り取られた世界の断面に過ぎない。こうして揺るぎなく思えていた自然や世界の意味が相対化されてくる。それは新しい自然や世界をつくるきっかけを与えてくれる。
ぼくたちが家で犬や猫を飼うことの意味も、『動物になって生きてみた』の著者に比べると、やり方はいささか生温くはあるけれど本質は同じだと思う。うちの猫はぼくという人間について教えてくれる。犬や猫によって自分という存在が相対化される。それは自分を拡張し、新しい自分を生きるきっかけになる。動物に嫌われるのは、彼や彼女がそういう人間だからだろう。神経質に吠える犬は、飼い主にも問題があるのかもしれない。うちにいるのは15歳のアメリカン・ショートヘア(♂)だけれど、これはもう家族4人の誰よりも複雑でデリケートな性格をもっているように思える。(2020.3.18)
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