The Road To Singularity Ep.10

The Road To Singurality
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10 The Land of Secrets

 朝5時に目が覚める。気持ちがいいのでしばらく散歩。ボブはまだ起きてこないので、もう少し寝る。8時に起きて二人でテントを片付ける。車でしばらく走るとSafewayがあった。店のなかにスターバックスが入っているのでコーヒーを飲む。例によって肥満体の人々がつぎつぎに訪れる。太っていない人を見つけるほうが難しい。この太り方はやはり異常だ。慣れることができない。アメリカという国の、もっと言えば、ぼくたちが生きている世界の一面を象徴しているように見える。

 経済成長を至上の価値とする世界では、人々は欲望を抱きつづけ、より多くのものを消費しつづけなければならない。2009年のリーマンショックを引き起こしたサブプライムローンは、信用力の低い人や低所得者層を対象とした住宅ローンというかたちで、自分の家を持ちたいという欲望を喚起し、返済能力を超えた融資によって住宅購入を促すものだった。それと似たようなものを、WalmartやSafewayで目にする人たちの消費行動に感じる。

 アメリカでは国民の一割強を占める低所得者層に政府がフードスタンプ(食糧配給券)を支給している。これはアルコールや煙草などの嗜好品を除く食料品と交換できる金券で、日本の生活保護費にあたるものだ。このフードスタンプの受給者がWalmartを頻繁に利用していると言われている。たしかにWalmartで売られている食料品は、中国などから輸入しているものが主体なので一様に安い。栄養価的には糖質や脂質がたっぷり含まれているものが多く、健康に悪そうだし、当然肥満の原因にもなるだろう。低所得者層の人たちは、こうした安い食品を過剰に消費しつづけることで、経済成長の一翼を担っているわけだ。

 サブプライムローン問題では、住宅バブルの崩壊と金利負担の上昇により、ローンの延滞や債務不履行が急増し、多くの人が破産して自分の家を失うことになった。Walmartなどで買い物をする人たちのなかにも、安価で劣悪な食品を過剰に摂取しつづけることで健康を損ない、動物としての運動能力を失っているように見受けられる人が多い。まずこれだけ太っていては走れない。俊敏な行動ができない。歩くことさえ辛そうだ。日常生活を送るための必要最小限の機動性を失っている。衣服はどうだろう。ボタンの付いたシャツが着られず、まともなズボンがはけそうにない人もたくさんいる。彼らは一年中、Tシャツと緩いパンツで過ごすのだろうか。暑さも寒さも感じずに……。

 食うこと、飲むこと、産むこと、等々は、なるほど真に人間的な諸機能ではある。しかし、それらを人間的活動のその他の領域からひきはなして、最後の、唯一の究極目的にしてしまうような抽象がされるところでは、それらは動物的である。(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳)

 神事に飲食は欠かせず、祭祀や伝統的な行事では定まった衣装を着用する。子どもの誕生に際しても、かつては餅をついて祝ったり、「お七夜」として名付けの披露が行われたりした。食べることも飲むことも産むことも、さらには纏うことも、本来は文化や伝統といった人間的な文脈のなかでなされる。身近なところで考えても、食べることや飲むことは生きていることの実感に直結している。美味しく食べたり飲んだりできるかどうかは、心身の状態と密接に結びついている。また多くの場合、人は家族や友だちとの関係のなかで食べたり飲んだりする。つまり食べることは集うことであり、交わることであるのだ。

 マルクスも述べているように、食べるという行為だけを抽象すると、それは動物的な摂食行動と変わらないものになる。肥満体の人たちの体型をあげつらいたいわけではない。スリムだからいいというものでもないだろう。太っているか痩せているかにかかわらず、ぼくたちの暮らしのなかで食べることが人間的な文脈から切り離され、動物的なものになっているのを感じる。その象徴を異常な肥満体の人たちに見る気がするのだ。こうした抽象は今後、多くの人間的活動で顕著になっていくだろう。すでにぼくたちが着ているものは、高級ブランドでもユニクロでも伝統的な民族衣装にくらべるとずっと抽象的である。生殖医療がゲノム編集技術などと結びつくことによって、「産む」ことも人間的な文脈から切り離されて抽象化(動物化)していくだろう。

 自然、すなわち、それ自体が人間の肉体でない限りでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の〔交流〕過程のなかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。(マルクス、前掲書)

 人間は食べることを通して自然と交流する。世界や他の人たちと交わる。肥満体の人を一概に病んでいると決めつけることはできないかもしれないが、少なくとも健康そうには見えない。彼らは広く同じ世界に住む人たちだから、ぼくたちもやはり健康ではないのだろう。人間が病んでいるということは、その非有機的身体である自然も病んでいるということだ。自然や世界との、さらに言えば他の人たちとの交わり方が間違っているのかもしれない。

 何を食べるか、どのように食べるかは、大袈裟に言えば世界とどのように相対して生きるかということである。どんな文化も食にかんする禁忌やしきたりをもっている。伝統的な食文化には、そのなかに暮らす人々が世界をどのように感じ、どんなふうに触っているかが表現されているのだ。いま急速に失われつつあるのは、こうした世界の実感と、それに相応した思想である。「グルメ」などという言葉には、ファストフードやコンビニ弁当と似たり寄ったりの薄っぺらなものしか感じられない。ぼくたちは新しい世界の感じ方、触り方を発明しなければならないのかもしれない。

 昼前にハンフォード(Hanford Site)に到着。旅のコーディネーターであるHさんに、ぜひ訪れるようにと勧められていた場所だ。Yakima川とColumbia川に囲まれた荒野に何があるのか? 小さな掲示板の見出しはこうなっている。

 The Manhattan Project:Why here?

 ここはマンハッタン計画の拠点となった核施設の一つで、世界ではじめてプルトニウムの生産に成功した場所だ。そのプルトニウムは長崎の原爆に使われたというから、ぼくたちにとっても因縁浅からぬ場所である。辺境の地で秘密が守れることや、Columbia川の豊富な水を原子炉の冷却水として使えることから、この地が選ばれたと言われている。1943年ごろのことで、広大な核関連施設を作るために土地は軍によって接収され、農業を営んでいた1200人ほどの人たちは強制移住させられた。ピーク時には技術者をはじめとして5万人以上の人が動員され、3基の原子炉のほか、ウラン燃料工場や再処理工場などがつぎつぎに建設されていった。

 旧ソ連との核軍事競争が展開された冷戦期には、さらに6基の原子炉が建設され、1987年の全面的生産停止までに約55トンの兵器用プルトニウムが製造された。現在もエネルギー省との契約企業の従業員を中心に一万人以上の人たちが、40年以上に及ぶ生産活動で生まれた放射性物質や化学物質による大規模な汚染の除去作業に取り組んでいるが、その解体と除染が終わるのは今世紀末と言われている。公表されていないが汚染事故も起こっているらしく、作業に携わる人たちの放射性物質による被爆が懸念されている。また近隣の住民たちには各種の癌や甲状腺障害、精子異常、流産、奇形児の出産などが多いと言われている。そこで生産される農産物は日本にも入ってきている。

 

 施設内を見学するツアーも出ているようだが参加する気になれない。遠くから眺めるだけで充分だ。ここから見るかぎり砂漠も川も美しい。ぼくは「Red River Valley」というアメリカ民謡のメロディを口ずさむ。ギターを弾きはじめた中学生のころ、好きでよくうたっていた曲だ。たしかジョン・フォードの映画『怒りの葡萄』のなかでも使われていたと思う。それにしてもハンフォードの日差しは凶暴なまでに明るい。痛いほどだ。眩しい日差しの下では、何もかもが剥き出しである。
「おい、そんなに照らし出さないでくれよ」
 Columbia川を隔てた荒涼とした大地に白っぽい建物が点在しているのが見える。かつての原子炉で、銀色の建物で覆われていることから「Cocoon」と呼ばれている。愛らしい名前は付いているけれど、どこか物悲しい光景だ。深く魂が脅かされる気がしてくる。それは掲示板にこんなことが書いてあるせいかもしれない。

 Even now, scientists are discovering new species in a land slowly revealing secrets.

 どうして、なぜ人間はこんな愚かしくも醜悪なものをつくってしまったのだろう。初期人類が直立二足歩行をはじめたのは、こんなものをつくるためではなかったはずだ。ホモ・デウス(神なる人間)が来るべきヒトの姿だとユヴァルは言うのだが、神になろうとした人間の無様な姿を、いまぼくはハンフォードの荒野に見ている。冷戦が終結して以降、アメリカ国内のあちこちに残る核関連施設を解体・除染するために、連邦政府は1000億ドル以上を投入してきた。その作業によって健康被害を受けた従業員は数百人とも数千人とも言われる。

 ここでも「一人」が行き詰っているのだ。一人が集まって大勢になって、他の大勢を怖れるあまりに国家をつくった。「國」という字は城壁で囲まれた都市のことだ。壁によって外敵の脅威を防ぎ、内部の平和と秩序を保とうとした。外部を怖れるあまりに世界一をめざした。かつてのソ連もアメリカも。この砂漠に放置された愚かしい施設はその象徴だ。あらゆる怖れは「一人」という人間の仕様から生まれてくる。飢えにたいする怖れも死にたいする怖れも、「一人」という意識のあり方から生まれる。そして「一人」という意識を濃く、過剰にするほどに強くなる。肥満や核武装が飢えや死にたいする過剰反応だとすれば、根にあるのは自我や自己という意識のあり様だろう。そこが行き詰っているのだ。行き詰まりを打破するために、さらに自我や自己を肥大させていく。

 こんなことしか人間にはできないのだろうか。マーケットで異常な肥満体になるほどの食料品を買い込んだり、後始末もできないような愚かしい施設を作ったり。来るべきシンギュラリティがどれほどのものかと思えてくる。AIがいくら優秀になったところで、その優秀さには旧態依然の人間の愚かさがしっかり搭載されているわけだから、これまで以上に愚かしく手に負えない代物になる可能性は充分にあるだろう。シンギュラリティに備えて何をすればいいのか? ぼくたち一人ひとりが賢くなるしかない。こんなものに負けない善きものを、それこそ命がけで生み出さなければならない。

Walla Wallaは落ち着いた雰囲気の美しい街だ。ここではAirbnb(エアビーアンドビー)を利用する。Hさんが予約を入れておいてくれたのは100年を超える古い民家で、ぼくたちは二階の部屋を使っていいことになっている。一階には使用人が住んでいる。持ち主はバカンスに出かけているらしい。近くを散策していると手ごろなイタリアン・レストランを見つけたので入ってみる。「ワラワラでクスクスを」なんて言っていたけれど、カルパッチョとパスタにあっさり転向。さっそく地元のワインを注文する。まずは白をグラスで一杯。つぎに赤をボトルで。
「毎日好きな人と一緒に食事をしていたら、WalmartやSafewayの人たちみたいに太るかなあ」
「関係ないんじゃない」
「そうかなあ」
「まあ、好きな人の前ではあまり大食いはしないだろうけど。そういうことが言いたいわけ?」
「最後の晩餐ってあるでしょう」
「ミラノで本物を見たよ。写真も撮った」
「聖書では一同が食事をしているときにイエスがパンを取り、弟子たちに分け与えながら、取って食べなさい、これはわたしの身体であるって言うんです」
「ぼくのお肉、少しあげようか」
「そういうことじゃなくて、ぼくは愛について語りたいんです」
「そりゃきみ、語る相手を間違えているよ。別の人に語ってあげなさい」
「美味しいっていう感覚は一人では絶対につくり出せないんです。イエスがやったように自分が分け与えた食べ物を相手が口に運び、思わず笑みをもらしたときに美味しいという感覚は発明されたんです。それがイエスの行った奇蹟ですよ。それまで存在しなかった美味しいという感覚を創造したんだから。以来、食べることは喜びと結びついた。異常な肥満体になるような食べ方をしている人たちって、美味しいと思って食べているのかなあ」
「知らないよ」
「そこで好きな人の話に戻るんです。美味しいという感覚の根源にあるのはふたりなんです。一人じゃない。だって動物に美味しいという感覚は不要でしょう? ライオンがあのシマウマは脂がのっていてうまそうだとか、こっちは痩せててまずそうだとか考えて猟をしていたら、たぶん飢え死にしてしまいますよ。食べること一つをとってみても、人間が人間らしく生きるためには他者という契機が必要なんです。Walmartで買い物をする異常な肥満体の人たちを見て思ったんです、ぼくたちは他者なき世界を生きはじめているのかもしれないって」

 その夜、格式ある屋敷のキングサイズのベッドでしばらく寝付けなかった。エアコンディションが効きすぎていたせいかもしれない。頭のなかでいろんなことを考えつづけていた。ハンフォードで見た人間の愚かしさと不遜さ。直視すると目がつぶれてしまいそうなほどの倨傲。素粒子を研究するために莫大な費用をかけて、山手線一周ほどもある巨大な円形加速器をつくったなどという話を聞くと、果てしなく疲弊した気分になる。中世の異端審問を連想してしまう。見つけたいクォークが飛び出してくるまで自然を拷問しているとしか思えない。肥大化したのはWalmartで買い物をする人たちの体躯だけではない。知と力にたいする思い上がりも肥大化しているのだ。倨傲の行方がハンフォードの荒廃ではないだろうか。

 いくら科学やテクノロジーが進歩しても、人間の精神性は何も変わっていない。むしろ退化しているのかもしれない。人間は人間を生きそこなっている。何か根本のところで間違えている。どこで間違えたのだろう? 直立二足歩行をはじめた初期人類まで歴史を遡る必要があるのかもしれない。彼らを現代に呼び出す必要がありはしないか? The Land of secret。原爆の記憶は薄れ、核施設は風化しても、荒野で生をつないでいる突然変異の動物たちは人間の行いを遺伝子のレベルで記憶している。その愚かさと不遜さを子孫に伝え、無言で訴えつづけている。未来へ向かって追憶される初期人類の傍らに、彼ら奇形の動物たちを置いてみたい気持ちに駆られる。