The Road To Singularity ~未知の世界を生きる(Ep.9)

The Road To Singurality
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9 Yakima川のほとりで

 午後4時過ぎにキャンプ場に到着。所定の場所に車を停めて、まずは冷たいビールといきたいところだが、面倒くさいことを先に済ませてしまおう。昔はテントの設営といえば厄介なものだった。まずテント自体が重くかさばっていた。素材はコットンキャンバスだったと思う。形状もずいぶん違っていた。ポールはテントを両端で支えるものが二本、つまり天上にはポールがなく、テントの端をペグで地面に固定しているだけなので、いつも屋根の部分は垂れ下がっていた。このため設営者によって出来不出来が生じることになり、中学や高校の夏休みにクラスでキャンプに出かけると、不細工でいまにも倒れそうなテントがかならず一つ二つ見受けられたものだ。

 いまはそんなことはない。自在に曲がるポールを決められたところに通し、端っこをグラウンドシートの穴に差し込んでペグで固定すれ出来上がり。いたって簡単だ。誰でも均質に張れてしまう。いずれAIを搭載されたテントが、自分で自分を組み立てたり折りたたんだりするようになるかもしれない。音声認識技術を使って、「アレクサ、テントを張って」とか「バーベキューの火を熾して」とか……楽しいのかなあ?

 さあ、ビールだ。昨日、Paradise Innで飲んだRainierの缶入りを半ダース。もちろん一晩で飲むわけではない。でも調子に乗って飲んじゃうかも。ところでデヴィッド・リンチ制作のテレビシリーズ『ツイン・ピークス』のロケ地はシアトル郊外にある。旅の最後にぼくたちも訪れる予定だが、シアトルの中心部から車で30分くらいのところだそうだ。そこにドラマのオープニングで映るスノコルミー滝(Snoqualmie Falls)がある。またFBIのクーパー捜査官(カイル・マクラクラン)が泊まるGreat Northern Hotelもサリッシュ・ロッジ(Salish Lodge)として実在するらしい。

 話はさらに脱線するけれど、テレビシリーズの劇場版としてリンチ監督が撮った『ローラ・パーマー最期の7日間』のなかに、高校生たちがどんちゃん騒ぎをするシーンがある。彼らが飲んでいるビールがRainierだ。缶に赤い字で大きく「R」と書いてある。デザインは当時とほとんど変わっていないようだ。そんなRainierを開けて、まずは乾杯。

 Walmartとは気が合わなかった。だいいちろくなワインを売っていない。日本のコンビニに置いてあるようなチリやオーストラリアの輸入ワインが並べてある。どうしてワシントン州まで来てアルパカやイエローテイルを飲まなきゃならんのだ。根本的に間違っているぞ……というわけで、大した違いはないのだけれど、近くにSafewayを見つけたので、そちらでワインとビールを調達。ついでに食材も買い込む。ワインは地元産のものを赤と白一本ずつ。これでいいのだ。

 老夫婦が車でやって来て、日よけテントの下で向かい合ってビールを飲んでいる。
「いい光景ですね」
「ほんとだね」
「こうやってビールを飲んでいると、AIとかシンギュラリティとか考えるのが面倒くさくなるな」
「ウォルマートのこともね」
「アメリカ人には勝手に太らせておきましょう」
 ぼくたちまで太ってはまずいので、ビールは一本だけにしてSafewayで買ってきたコロンビアバレーのワインを開けた。まずは白、つぎに赤。飲み残してもいいようにキャップ式のものだ。
「キャンプなんかするときにも、彼らは銃を携帯するんでしょうかね」
「どうだろうね。なんでそんなことが気になるの?」
「近くに警察はないし、強盗とかレイプ魔とか襲ってきたらどうするのかと思って」
 アメリカの銃規制は州によって異なる。所持はOKだけれど携帯するには許可がいるところもある。もっとも厳しいのはニューヨーク州で、政府機関が集まるワシントンDCも厳しいガン・コントロールが敷かれている。逆に緩いのはヴァーモント州で、全米ライフル協会の本部があるヴァージニア州もロビー活動により規制は緩いとされる。ぼくたちがいるワシントン州もほとんど規制がない。
「最近読んだ本によると、人類はホモ・サピエンスの他にも25種類以上いたんだそうです。それが全部絶滅してしまって、ぼくたちだけが残っている。なぜ生き延びたのか」
「銃規制と関係あるの?」
「あるんです、これが。進化論的に考えると人類は絶滅して当然なんです。弱肉強食の生存競争を生き抜くにはあらゆる点で劣っていた。喧嘩は弱いし逃げるのは遅い。敵を倒すための牙も爪もない。だから銃が必要になってくる」
「なるほど」
「でも当時は丸腰だから、サバイバルは難しかったでしょうね。実際、25種類以上いた仲間はみんな絶滅している。森を追い出されたサル目のなかで、ホモ・サピエンスと呼ばれる一群だけがかろうじて生き延びた。なぜだと思います?」
「火を使ったり道具を作ったりできたから」
「どちらかというと、それは結果なんだそうです。正解は子どもをたくさん産むことができたから」
「面白くない結論だね」
「これから面白くなりますって。チンパンジーやオラウータン、ゴリラなどの大型類人猿とくらべてヒトは授乳期間が短い上に、出産から数ヵ月でまた妊娠できる状態になる。マリー・アントワネットのお母さん、マリア・テレジアは生涯に16人子どもを産んだそうです。バッハも最初の妻とのあいだに7人、二人目のアンナ・マグダレーナとのあいだには13人も子どもをもうけています」
「仲のいい夫婦だったんだろうね」
「お母さん一人では大勢の子どもの面倒は見られない。おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなが協力した。お父さんは家族に食べ物を運ぶために直立二足歩行をはじめた」
「本当にそんなことが書いてあるの?」
「人類史研究の最前線ですよ」
「お父さんとかお母さんとか家族とか、初期人類の話だろう?」
「もちろん言葉や概念はなかったけれど、ぼくたちの祖先が助け合い、支え合っていたのは間違いないんです。協力して苦難を乗り切る術を知っていた。そこがネアンデルタール人との違いだな。つまり絶滅の運命にあった二十何種類かの人類のうち、ただ一種類においてどういうわけか善良なものが芽生えた。それがヒトになって、いまは人間と呼ばれていて、ユヴァルによると近い将来はホモ・デウスになるらしい」
「ワグナーが喜びそうな話だね」
「ぼくはもっと別の話にしたいんですよ。ある日、草原を歩きまわっていたお父さんが、何か美味しそうな食べ物を見つけて、これを持ち帰れば家族は喜ぶだろうなと思った。そうしてうっかり立ち上がってしまった初期人類がいた。学名をホモ・サピエンス、和名ヒトと呼ばれる彼らのなかで生まれた善が、現在も駆動しつづけているんです。ぼくたちが二本足で歩いているのは善を運ぶためです。直立二足歩行はヒトが善を宿した生き物であることの象徴なんです。この善なるものを知っているから、それが誰のなかにもあると確信しているから、ぼくたちは相も変わらず誰かを好きになって、ともに家族をつくって子どもたちを生み育てるんじゃないか」
「すばらしい」
「この営みは人間がはじまって以来、一度も途絶えたことがありません。誰もが生まれることと死ぬことにかんしては不如意です。自力ではどうにもできない。他者の意向に身を委ねるしかない。考えてみればリスキーなことですよ。もし悪いやつだったらどうする? そんなリスキーなことを人間は何万年もやっている。これからも繰り返していくでしょう。他者の意向のままに生まれては死ぬことを。善なるものへの信頼があるからやれていると思うんです。あとを引き継ぐ者たちが善き者たちであると信じているから、不承不承とは言いながら、誰もが最後は観念して死んでいくことができる。もちろん子どもは親の善意に身を委ねて生まれてきます。たまに失敗しても、ほとんどの場合はうまくいく。ニュースでは失敗例ばかりが取りあげられますが、そんなに失敗が多ければ人間はとっくに絶滅していたはずですよ。25種以上いた人類のなかで、ぼくたちだけが生き残っているのは圧倒的にうまくいったからです。うまくいった最大の要因は、人間のなかに善なるものがあったからです」
「貴重なご意見、ありがとう」

 それにしても、である。エアマットが膨らまない。ここを手で押せと書いてある。親切にイラストまで描いてある。だが、三十分くらいやっているけれど全然空気が入らない。シンギュラリティも間近だというのに、たかがエアマットを膨らませるのに、どうしてこんなに苦労しなければならないのだ。エアマットの寝心地に未練があるわけではない。膨らまないのが悔しいのだ。アメリカ人の約束の不履行が腹立たしいのだ。

 いつのまにかボブの姿が見えなくなっている。エアマットは膨らまない、相棒はいなくなる。いったいどうなっているんだ。ぼくはエアマットのこともボブのことも忘れて一人でワインを飲みつづけた。一人でいるとふたりが懐かしくなる。家族のことなどが想われる。「寂しがり屋」などという甘ったれた言葉で片付けてもらっては困る。初期人類のなかに生まれた善なるものが、脈々と流れつづけているのである。

 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそを負ふ母も我を待つらむそ(『万葉集』3・337)

 山上憶良のなかにも流れていたらしい。700万年前の初期人類が直立二足歩行をはじめたころの心情が、憶良たちの時代まで保存されていた証として、この歌は読むことができるのである。新解釈だ。しかしその後、こうした歌が詠まれることはなくなる。「女々しい」とか「恥ずかしい」とか考えられたのかもしれない。とくに武家の社会になると、「宴をまかる歌」などとんでもないということになる。こうした因習は現代の会社社会でもしぶとく生き残り、つきあいのために家族を犠牲にしている可哀そうなお父さん、といった意識を生むに至っている。嘆かわしいことである。初期人類のピュアな心情を取り戻したいものだ。

 それにしてもボブはどこへ行ってしまったのだろう。近くには人の気配もない。キャンプ地内には公衆トイレが設置してあり、用はそこで足すようになっている。所定の場所以外でしているところを見つかると罰金である。しかし人は酒が入ると面倒くさがり屋になる。夜陰に乗じて手早く、という安楽な気持ちに傾く。われわれのテントとYakima川のあいだは20メートルほどしか離れていない。誤って転落した可能性は充分に考えられる。

 不吉な胸騒ぎがする。急に心配になってきた。小さな懐中電灯を持って探しに行ってみる。夕暮れに見たYakima川の川幅は広く、流れも速い。水鳥や人が、猛スピードで下流へ向かって流れていた。人が流れていたのは、浮袋につかまってラフティングのようなことをやっていたからで、事故ではない。ビール片手に「やあ」とか手を振っていた。気楽なものである。しかしボブが川に落ちたのなら事故である。どこに連絡すればいいだろう? キャンプ地によってはレインジャーのような人が常駐しているところもあるが、ここではそんな人は見かけなかった。キャンプをしている人に事情を説明するにしても、英語もろくに喋れないアジア人の言うことが伝わるだろうか。そんなことを思い悩みながら、ぼくは小さな明かりを手に右往左往しつづけた。すると暗闇のなかを人が歩いてくる。咄嗟に明かりを向けた。
「やあ」
「ボブ!」
「トイレはあっちだよ」
「どこへ行っていたんです」
「ちょっと確定申告に」
「冗談言ってる場合じゃないでしょう。本気で心配したんだから」
「ごめん。星空の写真を撮っていたら途中で眠っちゃって。昨夜ほとんど寝てないところへワインを飲んだのがいけなかったんだな。いきなり眠気に襲われて、気絶するように意識がなくなったんだ」
「とにかく無事でよかったです。つぎからはテントで寝てくださいね」
「そうしよう。じゃあ、おやすみ」
「エアマットは膨らんでいませんよ」
「エアマット?」

 どうして一人になるとふたりが懐かしくなるのだろう。それは人間がもともと〈ふたり〉でできているからではないだろうか。基本的な仕様としてヒトは孤独を感じることができないようになっているのかもしれない。どんなに果てしなく一人でも「誰か」の気配を感じてしまう。一人の存在など気化してしまいそうな広大な砂漠でも、荒涼とした月面でも、いつも誰かとともにいる。ヒトはそのような生き物だ。

 この世界が行き詰っていることを多くの人が感じている。何が行き詰っているのだろう? 根本的なところで言えば「一人」が行き詰っているのだと思う。「一人」という仕様で築き上げてきた世界が行き詰っているのだ。つまり「近代」ということになる。アメリカ独立革命やフランス革命、産業革命などを通して個人を単位とする社会の仕組み(民主主義や国民国家)が生まれた。これらをヨーロッパ以外の国々に汎用した世界が行き詰っている。打ちつづくテロや紛争はそうした現状を象徴している。

 人の気配が絶えたYakima川のほとりで、いまぼくが感じている懐かしさは、これからヒトが向かおうとしている世界を暗示しているのかもしれない。自己や自我という意識のありようが、もはやどこへも行けなくなっている。「心」と呼ばれてきた風景が、写実を極めた絵画のように行き詰まり、新しい様式を生み出せなくなっている。〈ふたり〉という感覚のもとにひらけてくる風景があるように思う。その感覚は懐かしいものだけれど、過去を追憶し、追想することの懐かしさではないのかもしれない。ありえたけれどなかったものへの懐かしさ、ありたいと思いながら、あることのできなかった自分たちへの懐かしさ。

 懐かしいという感覚を、ぼくたちはとかく過去に結びつけがちだ。しかし未来を想起して「懐かしい」と感じることもあるように思う。家族に食べ物を運ぶために直立二足歩行をはじめた初期人類が、なぜかぼくには懐かしい。彼らは700万年前の過去にいたのではなく、未来でぼくたちを待っているのかもしれない。

 ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
 わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
 きみたちの巨きなまつ白はすあしを見た
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
                 (宮沢賢治「小岩井農場」パート九)