『歩く浄土』Live in FUKUOKA 2017.4.14 (Part 2)

緊急討議
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2 国家を私的に運用する

片山 トランプが手続きなしに、いきなりシリアを空爆した。実際にどういう経緯だったのか、いろんな情報が錯綜していて真相はわかりません。新聞やネットで手に入れることのできる情報をもとに、できるだけ本質的なところをつかみ出したいと思います。幾つかのメディアによると、今回の攻撃命令はトランプの別荘でティラーソン国務長官、マティス国防長官、マクマスター大統領補佐官(国家安全保障担当)ら、数人のメンバーによる国家安全保障会議(NSC)で決定されたようです。しかもNSCが招集された30分後くらいには攻撃命令が出されたらしい。拙速というよりも、粗忽な印象を受けます。この粗忽さの本質は、森崎さんがメールで書かれていたように、「国家を私的に運用する」ということだと思うんです。極端に言うと、政権を握っている者たちの主観、好みや私利私欲で国家が運用できる。本来、アメリカのような国で軍隊を動かすためには、いろんな手続きが必要だったはずです。一人の強権的な独裁者が支配する国ならともかく、曲がりなりにも議会制民主主義の国ということになっているわけですからね。ところが今回は、そういった手続きをまったく経ていない。トランプたちが勝手に自国の軍隊を使っているという印象を受ける。
森崎 国家を統治者の手足として運用できるということですね。それが当たり前のことになろうとしている。国家が私性のなかに融解している。私性のなかに、他者の生が引き裂かれる痛みはありません。今回、シリアで起こったことはそういうことだと思います。大統領がトランプでなかったら、と考えることはできます。しかしヒラリーが大統領になっていても、やはり彼女のやり方で国家を私的に運用したと思うんです。近代国家と言われてきたものは、いやまそういうものになっている。それを受け入れるしかないというのが現状だと思います。卓越した人格者が大統領や首相になったら変わるかといえば、あまり変わらない気がします。そのくらい世界にたいする構想力がなくなってしまっている。
片山 日本のことでいうと、いまや過ぎつつある森友学園問題ですが、3月23日の証人喚問をテレビの中継で見ていて、これは籠池泰典という一私人にたいする国家によるリンチだと思いました。同じような感想をツイートなどで幾つか読みましたから、多くの人がそう感じたのだろうと思います。あのイベントは一国の首相が、まさに自分や家族を守るために国家を私的に使用したということではなかったか。
森崎 森友学園問題で有効な発言をなしえたのは、『日本会議の研究』を書いた菅野完ただ一人だったと思います。彼の発言力は書き屋としては注目に値すると思います。まず現実をつかむ現場感が頭抜けて鋭い。状況にたいして有効な発言は彼のみがなしえています。久々に若い世代から文化人的でない言葉をつくることができる人が出てきたなと思って痛快でした。森友学園問題にかんして菅野完は、徹底して人権問題として追求すべきだと言っています。籠池泰典が人権を無視したレイシストであるとすれば、その籠池に共感した安倍晋三もレイシストであり差別主義者である。その安倍が、自分の身が危うくなると民間人の籠池を証人喚問で晒し者にし、国家権力を総動員して抹殺しようとする。これは根源的な人権問題ではないか。籠池とともに安倍の人権無視を徹底的に追求すべきだ。根本にある差別の構造を直視すべきだ、というようなことを菅野さんは主張しています。口先ではなく身体を張って発言している。彼が口舌の人権論者でないことはツイートを追いかけていてよくわかります。人権を唱えながら、人権という言葉では言いえないことを表現しようとしている気がします。彼の人権という言葉には独特の含みがあります。なにより文体がある。生きている現場をそのまま言葉で言えている。これはすごいことです。それはわかるが、ぬるいと思います。
片山 ぼくは丁寧に見ていないのですが、菅野さんが言っているのは、要するに「差別をやめろ」という立場から安倍政権を批判するってことなんですか。
森崎 それを愚直に主張しつづけろと言っています。人権や法治や議会制民主主義を保守する立場から安倍政権を激しく論難しています。もちろんわかります。よくわかりますが、彼の考え方は現実にたいして無効だと思います。人権という理念をどのように使っても、いま起こっていることにはまったく手をつけることができない。解けない主題を解けない方法で解こうとしていると思います。人権の住処は建前のなかにしかないのです。人権を唱和する者が、もっとも人権から遠いという逆説がここにあります。彼らは状況が厳しくなると、一瞬にして現場から去るのです。あっという間にそうなります。人権やヒューマニズムという近代的な理念がいかに脆いものであるか。ぼくは現場にいてずっと見てきました。だから実感としてそう思います。善悪や倫理を言っているわけではないのです。そこは親鸞の言う面々の計らいでいい。去るもよし、留まるもよし。でも命がかかる場面になると、大半の人はいなくなります。菅野さんの理念はなし崩しになると思います。それでも安倍とその一味の悪をえぐっているのが、菅野完ただ一人ということは事実です。だからまだ彼の発言の行方を注視しています。
片山 菅野完の活躍によって、安倍夫婦やそれを取り巻く人たちがやっていることはずいぶん明らかになってきました。でも安倍内閣を退陣に追い込むまでには至っていません。このままうやむやに過ぎていく気がします。森崎さんが紹介していた菅野さんのツイートです。
 森内閣は「神の国発言」で倒れた。あれ神道政治連盟での会合での発言で、公的な場所でも何でもなく、「支持者へのリップサービス」的な私的な発言。それでも発言の重大さから新聞が騒ぎ、内閣は倒れた。で、今の内閣の「教育勅語」の取り扱い方、誰も騒がん。おかしいでしょ(2017年4月7日)
 当時の森首相が「神の国発言」をしたのは2000年5月です。菅野さんが言っているように、神道政治連盟の国会議員懇談会での「支持者へのリップサービス」的な発言だったと思います。これを野党やマスコミは国民主権や政教分離に反するってことで一斉に批判する。世論も森さんの首相としての資質を疑問視し、内閣支持率は急速に下がる。結局、その年の4月に就任した森首相は二ヵ月で衆議院解散に追い込まれます。この違いはなんだろう? ぼくたちの討議でずっと問題にしてきたことですが、17年間で人も社会もここまで劣化したのかと、あらためて思いました。
 たった17年です。17年前には、たとえ私的な発言であれ、一国の首相が「日本は天皇を中心としている神の国である」みたいなことを口にすること自体が問題にされた。そういう考えをもっている人が日本の首相じゃいかんだろう、ということでマスコミも世論も盛り上がり、衆議院解散というかたちで内閣を総辞職に追い込んだ。いまはまったくそういう機運が起こらない。起こりそうな気配もありません。みんなそれどこじゃないってことなんでしょうか。安倍首相がやっていることはたしかにおかしい。しかし彼を辞めさせたところで、この日本の現実は変わらないということを、大半の人は無意識にわかっているのかもしれません。
森崎 そうだと思います。「今だけ金だけ自分だけ」という言い方がありますよね。これ以外のあり方はできない、というふうにすでになっているんじゃないでしょうか。アスリートの世界で生きるということですね。年金をもらって貯蓄がいくらあって、これ以外の生き方はできない。そこそこの年齢に達している人であれば、この先大きなことがなければ生きていける。そのためにガン検診を受けて早期発見・早期治療に努める、というふうになっている。イデオロギーも何もありません。ただ剥き出しの生存競争に曝されている一人ひとりのリアルがある。強烈だと思います。人も政府もあてにできない。「今だけ金だけ自分だけ」というあり方のなかに、個人も国家も巻き込まれていく。それがいま現に起こっていることではないでしょうか。
片山 安倍首相や夫人が国のお金や人や権力を私的に使っているのはおかしいじゃないか、と思っているほうも私性そのものを生きているってことですね。首相も閣僚も官僚も、それぞれの持ち場で公的な便益を私的に享受している。それが許容されるのは、日本人の多くが彼らと同じ生き方をしているからだ。誰もが我が身を守ることしか考えられなくなっている。それ以外の生き方ができなくなっている。一部の人たちによって国家が私的に運用されるのはおかしい。そのことを根本的に批判できないのは、ぼくたちが私性以外の生き方を発明できていないからだ。思考も意識のあり方も、私性の外の出ることができていないからだ、ということですね。
森崎 結局、人間はそういう自然しかつくってこられなかったと思うんです。「ここはおれの日向だ」っていう、レヴィナスがよく引用するパスカルの言葉があるでしょう。
片山 「ここは僕の、日向ぼっこの場所だ」ここに地上の横領の始まりと、縮図がある。というふうに『パンセ』295に出ています。
森崎 パスカルが言っていることは、人間がつくりえたもっとも強固な自然なんです。「ここはおれの日向だ」これ以上に強い自然を、人間はつくることはできなかった。貨幣はこの自然を補強するためにあります。スマホやインターネットといったテクノロジーも、いまのところそういった自然に奉仕するものとしてある。
片山 トランプの言動を見ていると、彼の言っていることはアメリカという国家にとっての「おれの日向」なのか、彼の一族にとっての「おれの日向」なのかわからないことがあります。おそらく本人のなかでもわからなくなっているのではないでしょうか。
森崎 アダム・スミスの経済学を批判的に継承して、マルクスは『資本論』を書きましたが、150年経ってマルクスが考えたことのほとんどは過ぎてしまったと思います。ところがアダム・スミスが『国富論』のなかで書いていることは、いまも生きつづけている。なぜかというと、スミスが言っていることは、「ここはおれの日向」という人間の自然を、そのままなぞったものだからです。彼の論理の糸はじつに強い。だから現在まで生き残っているのだと思います。
片山 有名な「見えざる手」のところですね。各自が自分の利益を増進しようとすることが、社会的な利益の増進につながる。見えざる手に導かれて(led by an invisible hand)、人間の利己的な衝動は社会全体を豊かにし、社会公共の富を増やすことで他人のためにもなる。だから個人の自由な営利活動を阻害してはならない、とかなり道徳的なトーンでスミスは主張します。利己主義すなわち利他主義である。身も蓋もない言い方をすると、強欲は善である。
森崎 アダム・スミスの経済論はありのままの現実を鋭く突いていると思います。同時に、彼の市場原理は私利私欲の追求や適者生存という世界の無言の条理に底がひらかれている。それは1%が99%を収奪することを自然とする世界のあり方を肯定します。そのことがマルクスにはわかっていたと思うんです。すでに彼の時代のイギリスでは、産業革命による科学の急速な進歩と勃興期の資本主義が結びついて様々な矛盾を生んでいました。あるがままの秩序のなかで富む者はますます富み、困窮する生活者はますます貧困にあえぐ。世の中がこんなものであってたまるか、という思いから大英図書館に日参してマルクスは『資本論』を書いたと思います。しかし150年後に生き残ったのはマルクスではなく、スミスの考え方でした。それはなぜかというと、マルクスが解けたと考えた貨幣の謎が、本当はまったく解けていなかったからです。貨幣と私性は起源としては同じものです。古代起源の人間に身体が巻き取ってしまった私性をほどかないかぎり、貨幣の謎は解けないし、現実は何も変わらないと思います。人権思想もポリティカル・コレクトネスも、あるいは民主主義も「おれの日向」ということに呑みこまれてしまう。結局は強い者が勝って、そのおこぼれを貧しい者がもらうというあり方は変わらない。いま起こっている出来事の本質は非常に根深いものです。一国の首相や大統領を批判して片付くようなことではない。人間という自然には、強固な私性が深々と横たわっているのです。
片山 近代のヒューマニズムも人権思想も、そういう人間の根源的な私性の問題にはまったく手をつけることはなかった。私性は私性として温存させたまま、自由・平等・友愛といった人権思想のようなものでコーティングしてきた。それが剥がれ落ちて私性が剥き出しになっている。剥き出しの私性のなかに国に民も融解していこうとしている。(Part3につづく)