第5回 フィクション(1)

九産大講義
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 これから何回かにわたって虚構、つまりフィクションの話をしようと思います。大きな本屋さんへ行くと、フィクションとノンフィクションというふうに棚を分けているところがありますね。小説はフィクションです。では、フィクションとは何か? これがなかなか難しい。辞書を引くと虚構、作り話、小説などと書いてあります。もちろん小説は作り話です。つぎに「虚構」を調べてみましょう。事実そのままではなく、作意を加えて一層強く真実味を印象づけようとすること、とあります。なるほど。事実そのままではないってところがポイントですね。作意を加える、つまり文学的に意匠を凝らす、加工するってことでしょうか。
 たしかに小説を「事実そのまま」と思って読む人はいないでしょう。どの小説も多かれ少なかれ「事実そのまま」を外れているわけですが、この外れ方、事実からの隔たり方にもいろいろあって、まずそっちの話をするほうがいいでしょう。具体的に例を挙げて説明してみます。

 いつだったか、寒い日、溜まっていた古い林檎箱とか蜜柑箱を、裏の路に持出して燃すことにした。溜った落葉なら庭の片隅で燃せるが、大きな木の箱となるとそうは行かない。狭い庭に木が沢山植わっているから、燃え移る危険がある。尤も、蜜柑箱一つぐらいなら庭でも構わないが、沢山溜って目障なので、それを路で一度に燃してやろうと思い附いた。
 あれは、何年前のことだったかしらん?
 木箱を金槌で壊して燃していると、どう云うものか、木枕の垢や伊吹に残る雪、焔とともにそんな句がちらちらしたのを想い出す。威勢良く燃える火に手を翳していると、自転車に乗った警官が通り掛った。
 ―――焚火ですか?
(小沼丹「煙」)

 見たところ「事実そのまま」ですね。ある冬の日の体験をそのまま書いたように読めます。小説というよりも随筆に近いものとも言ってもいいでしょう。この作品が依拠している現実は、ぼくたちがよく知っているものです。誰もが同じように生き、体験している現実で、ミステリアスなものは何もありません。落ち葉、木箱、焚き火、自転車に乗った警官など、日常目にしているものばかりです。ここに描かれている世界は、ぼくたちが生きている世界と地続きにあることがわかります。だから安心して作品に入っていくことができます。
 では、つぎの作品はどうでしょう。

 フィッシュ葬儀社の三男坊が人を殺してその肉を食べたこと自体は、まあ、目くじらを立てるほどのことでもない。ヘレイン法が施行されてからのこの三年というもの、国じゅうでその類のことは起こるべくして起こってきたわけだし、カンザスシティ・フリープレスのよれば先だってもリトルロックでT・V・マントルという男が逮捕された。マントルは会員制の美食クラブをつくり、そこで本物の肉を出していたのだが、言い渡されたのはたった一年半の禁錮刑だった。(東山彰良『ブラックライダー』)

 こちらは先ほどの小沼丹の小説のように、安心して作品世界に入っていくことはできません。何しろ作者が描こうとしているのは、「人を殺してその肉を食べたこと自体は、まあ、目くじらを立てるほどのことでもない」という世界ですからね。ここで二の足を踏んで、先を読むのをやめる人もいるかもしれません。
 物語の舞台はアメリカらしい、ということはわかります。でも、そこは終末世界というか、文明が崩壊して人肉食が日常化しているかなり異常な世界です。人間が向かっている一つの可能な未来として、作者はこうしたSF的な世界を創出したのかもしれません。それが『ブラックダイダー』という作品が依拠している現実です。その現実は小沼丹の小説とは異なります。つまりぼくたちがよく知っている現実からは、ちょっと外れています。未来においては交差するかもしれないけれど、いまぼくたちが生きているものとは異質な現実です。
 このように物語が依拠している現実は、作品によって異なります。これを小説的現実と呼ぶことにしましょう。『ブラックライダー』という作品では、作者は人肉食が日常化した世界を小説的現実として設定し、この現実の上に物語を展開していきます。大事なことは、最初に設定した現実のレベルを崩してはならないということです。通常、小説の物語世界は、一つの小説的現実の上に構築されます。「人を殺してその肉を食べたこと自体は、まあ、目くじらを立てるほどのことでもない」という現実のレベルを設定した以上、作品の登場人物は、人肉食が日常化したモラルや習慣のなかを生きなければなりません。そこで彼らがどんなことを考え、感じ、どんな振る舞いを見せるか、ということが作品の出来を左右します。
 もう一つ見てみましょう。

 今朝早く、すなわち二〇二一年一月一日午前零時三分過ぎ、この地球で誕生した最後の人間がブエノス・アイレス郊外のパブで喧嘩騒ぎに巻き込まれて、二十五歳二ヵ月十二日の生涯を閉じた。第一報をそのまま信じれば、ジョセフ・リカルドの死にざまはその生涯に通じるものがあった。誕生を公式に記録された最後の人類という、個人の美徳や才能とは無関係の名声(と言えるかどうか)は、リカルドにとって常に手に余るものだった。その彼が死んだ。(P・D・ジェイムズ『トゥモロー・ワールド』青木久恵訳)

 この作品の小説的現実は、なんらかの原因で人間が生殖能力を失った世界です。二十五年前に生まれた最後の人間が死ぬところから物語がはじまります。舞台はイギリス、ロンドンやオックスフォードとはっきり書かれていますから、やはり未来小説ということになるでしょう。いまや多くの人が人類滅亡の日は近いと感じているのではないでしょうか。放射能や環境汚染が原因で、人間が生殖能力を失うという設定は、なんとなくありそうな気がしてきます。そのあたりが作品の説得力になっています。
 何を描きたいのか。なんのために、どのような小説的現実を設定するか。漠然とSFや未来小説っぽいものを書いてみようとするのは、懸命なやり方ではありません。失敗する可能性が高いからです。特異な現実の上に物語を構築していくことは、かなりの力技です。それなりの技量と体力が要求されます。よほど明確なモチーフやビジョンがないかぎり、通常の現実世界、つまりぼくたちが現にそこを生きていて、誰もがよく知っている現実のレベルで書いたほうがいいと思います。

 これが太陽の見納めかな。
 赤外線分光器、X線分光器、温度センサ、レーザー測定器、磁力、プラズマ、イオンなどなどの検出器、その他もろもろのあらゆる観測装置のアンテナがノイズの邪魔に音を上げて太陽方向に頭をたれた。可視光で見える太陽は弱々しく、その背後に埋没しつつある。最後までがんばっている重力計だけが後ろ髪をひかれてでもいるかのように、名残惜しげに身震いしている。
(六冬和生『みずは無間』)

 こんなふうに物語をはじめてしまうと、あとが大変です。太陽系の外へ旅立とうとしている無人探査機が物語の舞台です。かなり高度な科学技術が確立された未来が、作者が描こうとしている世界です。無人探査機に搭載されたAIを主人公=語り手として物語は進みます。正確には、AIに転写された科学者の人格が、いろんなことを思い出したり考えたりするわけです。当然、コンピュータや人工知能にかんする豊富な知識が必要です。それらの知識を駆使して、設定された世界が破綻を来さないように、最後まで物語を進めるのは相当な力技です。短編ならまだしも長編ではなおさらのこと。この『みずは無間』という小説ではうまくいっています。かなり力と才能のある作者だと感じました。

 小説では物語の世界を様々に設定することができます。つまり書き手は自由に、自分の作品の小説的世界をつくることができます。これまで見てきた例で言えば、文明崩壊後の未来、人類の滅亡が迫る終末世界、高度な科学技術に支えられた宇宙空間などですね。もちろん小沼丹の作品のように、誰もが知っている日常を題材にしてもいいわけです。
 ここで最初の問いに戻りましょう。フィクションとは何か? 小説におけるフィクション(fiction)とは? それは「fix」することだと思います。語源的にどうかわかりませんけれど、そう考えるとフィクションというものを、うまく説明できそうです。ある現実世界を設定する、書き手が決めて固定する、それが小説におけるフィクションである。その結果、文明崩壊後の未来や、人類の滅亡が迫る終末世界や、高度な科学技術に支えられた宇宙空間といった、様々な小説的世界が立ち現れてくる。
 英語の「fix」には注意を向ける、思いを凝らすといった意味もあります。小説におけるフィクションには、作者がある現実のレベルに注意を向ける、そこで叙述の視点を決定し、固定する、といった操作が含まれています。その際の注意の向け方、設定する視点は、ほぼ無数にあると言っていいでしょう。一人ひとりの作者が自分の視点をもっており、また一人の作者のなかにも無数の視点がある。こうして無限に多様な小説が書かれることになります。
 こういうことが可能になったのは、やはり「個人」が誕生したからだと思います。最初の授業でもお話したように、近代以前のヨーロッパの社会では、「世界」とは神が創ったただ一つの世界でした。世界を見る視線も、神が創った世界を正しく見るための、いわば真理への眼差しがあるだけでした。この眼差しがヨーロッパの哲学や自然科学をつくり上げてきたと言っていいでしょう。世界は数学の言語で書かれている、とガリレオは述べています(『偽金鑑識官』)。神が創った世界を正しく見るためのツールが数学、とりわけ幾何学であると彼は考えていました。こうした考え方はデカルトやライプニッツ、カントなどに受け継がれていきます。そしてヘーゲルによって集大成されるとともに行き詰まった、とぼくは考えています。
 それはともかく、神なき世界に産み落とされた近代文学は世界を個人仕様にしてしまいました。つまり「世界は個人が勝手につくってもいい」と考えたのです。少なくとも小説的思考は、一人ひとりに世界を見る固有の視点がある、という前提から出発します。その視点によって、無数の小説的世界が生まれてくる。これが小説におけるフィクションのあり方です。
 なお、いま申し上げたようなことは、あくまでもぼくの個人的見解であり、けっして一般的なものではないので、そのあたり誤解のないように。さて次回は、フィクションによってどんな小説的世界が生み出されてきたか。幾つかの作品を例にとりながら、作者は何を意図して、それぞれの小説的世界を描き出したのか、といったことを考えてみます。どうぞ、お楽しみに。
(2016.11.16 九州産業大学)