第3回 時間

九産大講義
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 今日は小説のなかの時間について話をします。ちょっと難しく感じられるかもしれませんが、できるだけわかりやすくお話ししてみます。
 単純なやつからいきましょう。みなさんは『今昔物語』をご存知でしょう。芥川龍之介の「鼻」が『今昔物語』の説話を題材にしていることはよく知られていますね。「鼻」はどちらかというとユーモラスな作品ですが、『今昔物語』のなかにはかなり不気味なもの、怪談めいたものもあります。生霊や物の怪もたくさん出てきて、超常現象好みのみなさんが読んでも面白い話がたくさんあります。
 さて、『今昔物語』には千以上の話が収められていますが、どの話も例外なく「今は昔」ではじまります。だから『今昔物語』と呼ばれているわけです。今は昔、むかしむかし……。そして結末は、「何々であったそうだ」とか、「何々と言い伝えられている」とか、これもだいたい決まっている。つまり現在という場所にいる者(語り手)が、過去の出来事を物語っているわけです。『伊勢物語』の場合だと「昔、男ありけり」ですね。これも定型です。この男が、ああして、こうして、こうなった、というのが話の中身になります。
 あの長大な『源氏物語』だって、はじまりは「いづれの御時にか」、つまり「今は昔」という定型を踏んでいます。こういう形式が原初の物語のかたちだったんじゃないかと思います。なぜそうなのかというと、なかなか難しいのですが、神話とか伝説が、やっぱりこのスタイルですね。おそらく物語というのは、神話や伝説みたいなものから出発しているのだと思います。

 古い時代の小説も、やっぱりそういうかたちをとっています。ちょっと見てみましょうか。

 大地主のトリローニさんや、医者のリヴジー先生や、そのほかのかたがたは、わたしに、宝島についての詳細を、初めから終わりまで、すっかり書きとめておいてくれ、ただ、まだ掘りだしてない宝もあることだから、島の方角だけは隠しておいてくれ、といわれて。そこで、わたしは、西暦一七……年に筆をおこし、わたしの父が「ベンボー提督屋」という宿屋をやっていて、あの刀傷のある、日やけした老水夫が、はじめてわたしたちの家に泊まりこんだときまで、さかのぼることにする。(スティーヴンソン『宝島』佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)

 古いといっても、『宝島』が発表されたのは19世紀の末ですから、時代としては近代と言っていいのですが、小説のスタイルとしては古い。神話や説話のスタイルをとっています。もう一つ。

 私の名はイシュメイルとしておこう。何年かまえ……はっきりといつのことかは聞かないでほしいが……私の財布はほとんど空になり、陸上には何一つ興味を惹くものはなくなったので、しばらく船で乗りまわして世界の海原を知ろうとおもった。憂鬱を払い、血行を整えるには、私はこの方法をとるのだ。(ハーマン・メルヴィル『白鯨』阿部知二訳)

 この『白鯨』という作品は、1851年に発表されたものですが、アメリカ文学を代表する偉大な作品とされていて、主題も内容も非常に斬新で現代的です。おそらく作者のメルヴィルは意識的に、古い語りのスタイルを採用しているのだと思います。イシュメイルやエイハブといった登場人物の名前は『旧約聖書』からとってあります。作者のなかに、鯨をめぐる現代の神話を書こうという意図があったのかもしれませんね。
 では、つぎの作品はどうでしょう。

 ぼくはヴィラ・ボルゲエゼに住んでいる。ここには塵っぱひとつなく、椅子の置場所ひとつまちがっていない。ここでは、ぼくたちはみな孤独であり、生気をうしなっている。
 昨夜ボリスは、からだに虱がたかっているのに気づいた。ぼくは彼の腋の下を剃ってやらなければならなかったが、それでもまだ痒みはとれなかった。こんなきれいなところにいて、どうして虱なんぞにたかられるのか。だが、そんなことはどうでもいい。ボリスとぼくは、もし虱がいなかったら、これほどなかよくはならなかったかもしれないのだ。
(ヘンリー・ミラー『北回帰線』大久保康雄訳)

 ここでは語り手が自分のことを現在の時制で語っています。このあとも「ぼく」の物語が、ほぼ現在進行形で展開していくことになります。「今は昔」とか「むかしむかし」という説話のスタイルからすると、なんとなく新しく、現代的な感じがしませんか? この作品が発表されたのは1934年ですから、時代もこれまでのものからすると新しくなっています。

 きみは真鍮の溝の上に左足を置き、右肩で扉を横にすこし押してみるがうまく開かない。
 狭い入口のへりで体をこすりながら、きみはなかにはいり、それから、ぶとう酒の瓶のような暗緑色の、表面が粒状になった革製のスーツケース、長い旅行になれた男がよく手にしている小型のスーツケースのべとべとする握りのところを、あまり重くはないのだが、ここまでもってくることで熱っぽくなっている指でにぎって、もちあげると、きみの筋肉と腱の輪郭が、きみの一本一本の指、掌、握ったこぶし、腕に、さらにはきみの肩にも背中の片側半分にも、脊椎の頸から腰にいたるまでにも、くっきりと浮かびあがるのを、きみは感じる。
(ミシェル・ビュトール『心変わり』清水徹訳)

 ミシェル・ビュトールの1957年の作品ですが、これは語り手が二人称で語りかけていますね。しかも意図的に現在形だけを使っている。ちょっと珍しいスタイルです。このビュトールという人は、一般に「ヌーヴォー・ロマン」と呼ばれる、フランスの現代文学を刷新しようとした人たちの一人です。
 みなさんはどのような語りのスタイルを採用したいと思いますか? 過去の回想というスタイルをとるか、それとも現在進行形で書いていくか。これは文体の問題でもありますし、これから書こうとしている作品の内容と密接に関係してくることなので、一人ひとりのプランを聞きながら、ぼくのほうから少しアドバイスすることにしましょう。

 もう一つ、小説のなかで時間を扱う場合に気を配ってもらいたいことをお話ししておきます。小説のなかには二つの時間があります。一つは物語の時間(小説のなかで流れているとされる時間)で、もう一つは、それを叙述するのに費やされる時間です。
 たとえば小説のなかで「つぎの日」と書けば、物語のなかでは一日の時間が流れたことになります。この場合、叙述に費やされる時間は「つぎの日」とか「翌日」という、きわめて短いものです。「そして千年が過ぎた」と書けば、短い一文の叙述によって、物語を千年進めることができます。先にあげたビュトールの小説が面白いのは、物語の時間と叙述の時間が、ほとんど重なり合っていることです。さらに言うと、それを読むために費やされる時間も、ほぼ同じです。物語の時間と、叙述の時間と、読書の時間という三つの時間が重なり合っているわけです。これらの時間を、できるだけ同じにしようとすると、自ずとビュトールのようなスタイル、文体になると思います。これはこれで面白いですが、このスタイルで一冊の小説を読まされるのは、かなり苦痛かもしれません。退屈だと感じる人も多いでしょうね。もちろん作者は新しい試みとして意識的にやっているわけです。
 でも普通は、ビュトールのような書き方はせずに、簡潔に進めていいところは「つぎの日」とか、主人公の行動を描く場合も、適当に省略して物語を進めます。言葉というのは不思議なもので、細かく叙述すればするほど、描かれていることが読者には見えなくなっていくのです。読者が読むのは言葉ですからね。「彼は重いスーツケースを持って自分のコンパートメントに入った」と書けばいいところを、ビュトールのようにたくさん言葉を使って書くと、かえって描かれていることが浮かび上がらない。このことも頭に入れておいてください。
 物語の時間と叙述の時間。この二つの時間を操作することによって、いろんな印象を作り出すことができます。たとえば時間の流れを速くしたり、場面転換をうまく使ったりして、物語を加速させることができます。逆に物語を減速させることもできます。登場人物の動きを大きくし、あるいは細かいカット割りを使うと動的な印象が生まれる。ワンショットでカメラをまわすと静的な印象になります。またズームとスローモーションによって凝集した場面をつくり出すことができます。登場人物の表情を描写するときなどは、このやり方がいいでしょうね。反対にカメラを引いて遠景をさっと撮ると淡白な絵柄になります。人物の背景を描写するときは、こっちのほうがいいかもしれません。
 こうした印象を組み合わせて作品にリズムやメリハリをつけていきます。作品の山場は、加速、動的、凝集といった印象から作られることが多いのです。反対に、山場から山場へ橋渡しするところは、淡白に経過させたほうがいいことが多い。

 Kは夜おそく村に着いた。あたりは深い雪に覆われ、霧と闇につつまれていた。大きな城のありかを示す。ほんのかすかな明かりのけはいさえない。村へとつづく道に木橋がかかっており、Kはその上に佇んだまま、見定めのつかないあたりを、じっと見上げていた。
 それから宿を探しにいった。居酒屋はまだ開いていた。主人は夜ふけの客に肝をつぶし、うろたえたせいか、貸すための部屋はないが、藁袋の上でよければ食堂で寝てもいいと言った。Kは了解した。何人かの農夫がまだビールを飲んでいたが、Kは誰とも口をきかず、自分で藁袋を屋根裏から運び下ろし、暖炉の近くに横になった。暖かかった。農夫たちは口をつぐんでいる。Kは疲れた目で少し探るように彼らを見やってから、すぐに寝入った。
(フランツ・カフカ『城』池内紀訳)

 印象的な作品の冒頭です。この箇所を印象的にしているのは、作者が物語の時間と叙述の時間をうまくコントロールしているからです。いまお話した、加速と減速、動的と静的、凝集と希薄といったことは、この短いパラグラフにほとんど入っています。カフカはそういうことが本当に上手で、ぼくらからすると、天才的じゃないかと思えることがあります。
 みなさんと一緒に読んでいる『変身』でも、そうしたテクニックは随所に使われていますので、残りの時間は、いまお話ししたようなことを意識しながら、カフカの作品を少し丁寧に読んでいくことにしましょう。

2016.10.26 九州産業大学