往復書簡「歩く浄土」(15)

往復書簡
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第十五信・森崎茂様(2018年1月18日)

あけましておめでとうございます。今年も元気の出る、音色のいい言葉を紡いでいきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
この往復書簡、去年(2017年)12月6日に森崎さんから第十四信をいただいたまま小休止状態に入り、その間、ぼくは宮沢賢治について短い文章を幾つか書いたり、年末は風邪を引いて臥せったりしていました。年もあらたまったことですし、ここ一年から半年くらいのあいだに、森崎さんがご自身のブログで考えつづけられてきたこと、またぼくたちが討議で言葉を向けてきたことを、少し整理しておきたいと思います。

1.現状認識
やはりAIの問題を取り上げるのがわかりやすいでしょうね。AIについてはシンギュラリティ(技術的特異点)をめぐって話題にされることが多いようです。囲碁AI「アルファ碁」が最強の棋士を打ち負かしたとか、要するにAIの能力が人間を超えてしまうのではないかということです。これはもう考えるまでもなく、間違いなく超えるわけで、ああだこうだ言ってもしょうがない。だってAIのとりえはそのことにあって、逆に言えばそれしかできないわけだから。きわめて限定的なことしかできないけれど、できることにかんしては圧倒的に人間を凌駕してしまう。その一つが「アルファ碁」だし、大量のデータを扱う金融とか医療とか採用活動といった業務にかんしては、人間よりもAIにやらせたほうが効率はいいにきまっている。当然、AIに雇用を奪われるわけですけれど、それはしょうがないというか不可避だと思います。だからAIにできないことを一生懸命やればいい、とぼくなどは思います。
いずれにしても問題の核心はそこにはありません。いちばん本質的な点は、コンピュータ技術と結合した生命科学や分子生物学が急速な発達をとげ、さらにインターネットを中心とするネットワークの上で運用が可能になった結果、ぼくたちの生に直接的に介入(アクセス)できる仕組みがグローバルに構築されつつあるということです。その結果、一人ひとりの生はグローバル・ネットワークの小さな端末になろうとしている。生が二進法のビット情報に細分化され、こうした情報がビッグデータとしてグーグルとかアマゾンみたいなグローバル企業によって所有され、交換(売買)というかたちで流通していく。心を含めて生きること全体が商品になる。生はコストパフォーマンスの面から経済的に分別され、貨幣に換算されるものになる。ぼくたちの生がまるごと経済的な資源になる。そうして適者生存という世界の条理が、より冷徹に70数億の人類すべてに貫徹していくことになる。
フランス革命に代表される近代の市民革命は、人間を個人という人格のもとに粗視化しました。それまで個人なるものが歴史に登場したことはありません。近代のヨーロッパやアメリカにおいて、はじめて個人というものが可視化され、主題化された。これに自由や平等が付与された。同時に、納税や兵役などの義務も課せられたわけですが、善きにつけ悪しきにつけ近代は人間を個人という人格として扱おうとしました。こうした流儀、人格や人倫を媒介として個人にアクセスするという近代の理念が、完全に解体しようとしているのだと思います。いまや個人は細分化され、たとえばパフォーマンスや嗜好や欲望や遺伝子情報といったデータとして扱われ、そこにアマゾンやグーグルのようなグローバル企業がダイレクトに介入してくる。表面的には利便性のいい「サービス」というかたちで、より厳格にして精緻な適者生存の仕組みが世界規模で出来上がりつつある。このことが現状認識として、ぼくたちが根幹にあると考えている問題です。

2.知識人と大衆
その結果、生きることはますます「合理」に近づいていきます。健康という合理。コストパフォーマンスという合理。効率のいい心(伊藤計劃が『ハーモニー』で描いたようなフラットな感情をもった人間)という合理。こうした科学知の合理を生の規範として生きることを、ぼくたちは拒めなくなっていくでしょう。そして合理のために果てしない投資するようになる。癌の早期発見・早期治療にはじまり、遺伝子診断、ゲノム編集ととどまるところを知りません。気に入った合理を購入するために働く、お金を稼ぐ、これが生きることになる。
合理を差配するのは、あいかわらず知識人です。これは大乗仏教の時代から変わりませんね。仏や菩薩は理念化された知識人みたいなものだと思います。親鸞が聖道門を批判したのは、このやり方では現状をなぞることにしかならないからでしょう。現代でいえばポリティカルコレクトネス、市民主義とか民主主義とか、要するに小さな善の積み増しによって世界は変わっていくという考え方ですね。これは変わるとも言えるし、変わらないとも言えるわけで、放っておいても変わるようにしか変わらない。つまり適者生存という万古普遍の世界のたたずまいをなぞることにしかならない。
科学知という合理に、金融工学と結びついたグローバルな貨幣を加えれば、貨幣、健康、効率といった合理をめぐって、最強にして最大の信の共同性がつくられつつあります。こうした合理に一人ひとりの内面を同期させることで「救い」がもたらされる。要するに「宗教」としてぼくたちがよく知っている信のかたちであり、頑迷固陋な思い込みではあるわけですが、この頑迷にして固陋な信の対象が「合理」であるだけに、拒むのはとても難しい。たとえば癌の告知を受けて、医者から手術しましょう、抗がん剤を投与しましょうと言われれば、命を縮めるとわかっていても、個人の判断で治療を拒むことはなかなか難しい、というのが厄介なところです。
結局、森崎さんが言われる「知識人と大衆という生の分割統治」をいかにしてひらくか、ということだと思います。この場合の「知識人」は、すでに人格ではなくなりつつあります。テクノロジーとかアルゴリズムとかビッグデータとか、無人格的な知の集合体と考えたほうがいい。それが大乗仏教における仏や菩薩のように人々を帰依させていく。こうした事態を森崎さんは「世界システムの属躰になる」と表現しておられます。「合理」という新たな世界宗教を受け入れ、世界システムの属躰として生きることが「自然」になっていくということですね。
何が問題なのか。A=Aという同一性だと思います。いわゆる自同律ですね。コンピュータサイエンスにしてもライフサイエンスにしても、根底にあるのはA=Aという同一原理です。これを前提としなければ、数学的なサイエンスを構築することはできない。AがAと同定されるから、0と1の二進法によるアルゴリズムも書くことができるわけで、知識とはA=Aという同一性のことだと言ってもいいと思います。A=Aが果てしなく積み増される(集積される)ことが外延的な知識であり、これをうまく扱うことができるのが知識人でした。いまはA=Aがあまりにも膨大になって、人間では扱えなくなったので、AIのような無人格的なものに取って代わられようとしている、ということだと思います。
近代の人権理念が粗視化したのも、やはりA=Aという自己同一的な個人でした。だから近代的な人格としての個人と、サイエンスやテクノロジーはとても相性がいい。両方とも自同律や同一原理という共通したOSの上を走っているわけですからね。人間を同一原理においてとらえるかぎり、ヒトはAIに漸近していき、このようなヒトは当然のことながらAIによって凌駕される。一般に考えられているシンギュラリティ問題ですね。自同律や同一原理を前提とするかぎり、人は個人という人格とともに粗視化される。このような人格をもった個人は、内面と外界、私と世界というパースペクティブのもとに可視化され、社会的な存在として実体化される。社会的存在としての人々(大衆)を、僧侶や司祭や知識人が統べ治める。これからは無人格なAIが統御していく。こうしたあり方は変わらないし、知識という権力によって人々の生が「合理」や「適者生存」の下に引き裂かれていくというあり方も不変です。

3.存在の複相性(生の二相性)
どこで同一性を超えられるか。自同律や同一原理にとらわれた自己を、いかにしてひらくことができるか、ということを森崎さんは内包論として考えてこられました。このところ「存在の複相性」という言い方をされていますね。「生の二相性」という言葉が使われることもあります。内包論の要であり、とても難しいところです。もともとの着想が、親鸞の往相廻向と還相廻向にあるとすれば、「複相」や「二相」とは往相と還相ということになるでしょうが、ここから入るとかえって難しくなる気がしますので、別のところから「複相性」ということを考えてみます。
人工知能の研究者などは、人間の脳の活動(思考、認識、記憶、感情など)を総合して意識と考えているようですが、ぼくはどうも違う気がします。思考というのは、ものを考えたり、書いたり、本を読んだりすることでしょうか。認識は音楽を聴いたり、絵を見たり、美しい庭や景色を眺めたり……。このとき意識は、それぞれの対象への志向性をもちますが、同時に、ぼんやりとした広がりとしてあるように思うのです。たしかにフッサールが言うように、「意識とは何かについての意識である」と考えるとわかりやすい。こうした志向性をもつ意識だけを意識とすると、研究者たちが言うような意識をもったAI、いわゆる強いAIを作ることは可能かもしれません。しかし人間の意識というのは、もっとやわらかくて膨らみをもつものだと思うのです。何かについての意識とは別に、志向性をもたないぼんやりとした膨らみや広がりが、意識というものには伴う気がします。
この膨らみや広がりのなかに「誰か」がいる。人間の意識は二人称の膨らみとともにある、と言ってもいいでしょう。AIにはなかなか真似できないところです。森崎さんの言い方をお借りすれば、ぼくたちは常に「ひとりでいてもふたり」という状態で、ものを考えたり、書いたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、美しいものを見たりしているのではないでしょうか。これが人間の意識の本質的なところだと思います。この場合の「ふたり」を実体として取り出すと、もう違ってきます。それでは認識や記憶になって、そこから様々な感情が喚起される。以下は脳科学や生理学的な過程となり、容易にアルゴリズム化されますから、AIが模倣することも可能である、という流れが出来上がってしまう。
本当は誰もが気づいていることだと思うのです。意識がフッサールの言うようなものでないことは、みんな知っているはずのことです。ただ、ぼんやりとした膨らみや広がりとしての意識、「ひとりでいてもふたり」という意識のあり方は、同一性的な意識の明証性のもとで対象的に取り出すことができません。志向性をもつ明晰判明な意識ではつかまえられない。だからといって「ない」ことにしてしまえば、人間は他の動物とほとんど変わらなくなり、動物との連続性へと縮減されたヒトはAIに漸近していくことになる。しかし人間であることは、動物や他の霊長類との連続性のなかにあって何かが決定的に変異していることです。連続しながらも断絶し隔絶している。このようなヒトが人であることの存在原理として「複相性」という概念が提起されます。
この「複相性」を、ここではフッサールが志向性と呼ぶ明晰判明な意識と、同時に、ぼんやりとした膨らみや広がりとしての意識、二人称の膨らみとともにある意識、森崎さんの言葉では「ひとりでいてもふたり」という意識、という意識の二層性と考えてみます。二層の意識とともに人間はあるということですね。同一性的な意識の明証性において、自己とは自己についての意識であり、他者とは他者についての意識であり、両方ともモナドみたいなものとして対象化されている。こうした自己と他者、個人と個人が一対一の関係をつくる。このとき性は吉本さんの言う対幻想として実体化されます。
一方、ぼんやりとした膨らみや広がりとしての意識、二人称の膨らみとしての意識のほうを追いかけていくと、自己というものが本当は「ひとりでいてもふたり」という領域としてある、というシンプルな事実に行き当たる。この領域化された自己は、それ自体が〔性〕である。それ自体としての〔性〕は自己に先立ち、自己の手間にある。同一性的な自己が他の自己とつくる対関係を「往相の性」と呼ぶなら、同一性の手前にある〔性〕は、それを突き抜け、折り返したところにある生存感覚として「還相の性」と呼ばれる。この「還相の性」にたいして同一性的な自己は事後的であり、自己なる意識が「還相の性」をそれ自体として取り出し対象化することはできない。
どういうことでしょう? おそらく同一性的な意識の明証性から「還相の性」は、ぼんやりとした膨らみや広がりとして感知されるしかないのだと思います。このぼんやりとした膨らみや広がりとしての意識のなかに、ぼくたちは常に「誰か」を感じるのですが、それを誰某として実詞化すると、たちまち同一性的な意識の明証性としてフッサールが言う志向性に回収されてしまいます。したがって「還相の性」のなかにいる「誰か」は実詞化の手前にいる誰かなのですが、その誰かは誰でもいい誰かではなく、やはり固有の誰かです。
うまく言えるかどうかわかりませんが、これまで何度も取り上げてきた山手線の事故を例として少し言っています。あの事故で、ホームから転落した酔っ払いを助けようとして亡くなった日本人カメラマンと韓国人留学生にとって、酔っ払いは実詞化されていなかったと思うのです。逆に、どこの誰某と実詞化されていたら、あの行為は起こらなかったかもしれない。つまり人間の意識が、志向性をもつ明晰判明な意識だけで出来上がっているとしたら、あのようなことは起こらないと思うのです。同一性的な意識の明証性のもとでは、おそらく日本人カメラマンも韓国人留学生も身体が動かなかったと思います。恐怖や躊躇や分別や、何かそういったものによって拘束されたような気がします。
森崎さんが「自他未分の、ある激しい渾然一体となった感情」と言われるものによぎられて、二人の身体は動いたのではないでしょうか。出来事は自己の手前で起こっている。自他未分の場所で生起している。そう考えないと説明がつかない。しかしながら、未分である「他」は「自」にとって、命を賭する行動に赴かせるほどに固有な存在であったのです。

4.内包存在
したがってぼくたちは、自己を自己として生きていると同時に、自己の手前を生きていることになります。前者は自己同一的な個人であり、心身一如のモナドであり、私性としての自己であり、このような個人と個人、自己と自己、私性と私性は、社会や信の共同性を媒介とする以外に結びつきようがないので、内包論においては「外延存在」と呼ばれます。一方、自己の手前を生きている存在は、「ひとはだれでも、ひとりでいてもふたりなのだ」というリアルな感覚とともに「内包存在」と呼ばれます。
存在の複相性とは、人間が「外延存在」と「内包存在」という二つの相からなっていることであり、自己を自己として生きていると同時に、自己の手前を生きていることにおいて、ぼくたちの生は二相性をもちます。そして内包論は、内包存在があってはじめて外延存在が存在する、人間は個人である前に〔性〕(すなわち内包存在)であると主張します。
この先後関係は、きわめて重要な意味をもちます。まず言っておくべきことは、外延的な意識によっては内包存在を知覚することができないということでしょう。同一性的な意識の明証性のもとで、内包存在をそれ自体として取り出すことはできない。自己の同一性や内面という自然を前提とするかぎり内包存在には届かない。内包論として主題化されようとしていることは、外延的な知識の埒外にあると言ってもいいでしょう。では、ぼくたちが外延存在と内包存在という複相性を生きているとは、どういうことなのでしょうか?
人間という存在の複相性は、内包存在から外延存在への一方向的なものである、ということだと思います。逆はない。外延存在と内包存在という二相性は双方向的なものではない。外延存在としての自己、自己同一性的な個人の場所から内包存在にアクセスすることはできない。しかしながら内包存在のほうは、ときとして「自他未分の、ある激しい渾然一体となった感情」として自己のなかに吹き込んでくる。内包存在からの働きかけを受けて、外延存在にとっては自己保存のための大切な戒律であるはずの自同律や同一原理はたちまちにして破られる。そして内包存在への応答として、私性の深い穴に棲んでいる同一性的な自己は、実詞化されることのない固有の他者のために、自己の手前で命を賭するような行動を起こしてしまう。
これも何度も取り上げてきたところですが、映画『タイタニック』のなかで氷の海に投げ出されたジャックが、「きみが生きろ」と言い残して沈んでいく場面を見てみましょう。ここでも同じことが起こっています。あの場面は、ぼくたちの生がまさに存在の複相性としてあることを、わかりやすく表現してくれていると思うのです。映画のなかでは、まずジャックとローズという実詞化された男女が船上で出会います。誰もがそのようにして出会うわけですが、出会って数日の、ほとんど見ず知らずと言っていい二人のあいだで、「きみが生きろ」という関係が可能になってしまう。これは山手線の列車事故の例と同じように、私性と自己保存の戒律にとらわれた外延存在のあり方からは説明のつかないことです。
少し丁寧に見てみましょう。実詞化された一人のジャックは、画家志望の普通の男でありながら、誰に強制されたわけでもなく、おのずからなる表出として「きみが生きろ」という言葉を残して死んでいく。このときジャックはジャックのままで、ジャックという自己同一的な個人の手前を生きていると思います。残されるローズも同じです。「人間は個人である前に〔性〕である」という内包論の主題に照らし合わせて言えば、個人の手前にある〔性〕が分け持たれて、氷の海に沈んでいく男は「ジャック」として実詞化され、同時に、残される女性は恋人の面影とともに生きる「ローズ」として実詞化されている。
誰の身にも起こりうることです。現に誰もがそうやって誰かと出会っている。実際に映画のジャックとローズのような極限状態に立ち会うかどうかは別として、誰もがジャックとローズのようにして出会っているはずです。それは誰のなかにも、「きみが生きろ」という表出の場所があることを意味しています。無限小と言っていいほど小さな可能性かもしれないけれど、山手線での出来事のように身が動いてしまう場面が、誰のなかにもあるということでしょう。自己同一的な個人として外延的な世界を生きている誰のなかにも、内包からの呼びかけに応答する機縁がある。ぼくたちが存在の複相性を生きている以上、誰のなかにも外延存在に内包存在を優先させてしまう契機が埋め込まれている。
親鸞の悪人正機や第十八願は、こうした意味から理解されるべきでしょう。つまりジャックが私性に凝り固まった強欲な人間であってもいいわけです。トランプや安倍信三であってもなんの問題もない。「人間は個人である前に〔性〕である」のだから、その〔性〕が分有される場面では、トランプや安倍信三の口からだって「きみが生きろ」は出てくる。強欲であったり卑屈であったりする個々の人格を超出して、おのずからなる善が可能になる。実際にトランプや安倍信三の顔を思い浮かべると、あの場面を成立させるのは非常に苦しい気もしますが、なんのそれしき、幾多の困難をはるかに超えたところに親鸞の悪人正機も第十八願も息づいている。
だから内包は福音なのです。トランプや安倍信三のなかにあるくらい普遍的なものだから、誰もが例外なしに存在の複相性といて内包存在を生きているから、「自己や社会に先立ち自己や社会のはるか手前にある意識の内包性を、それ自体として自存するものとして表現するとき世界は革まる」(「歩く浄土」224)という内包論の主張は現実性をもつのです。人間は社会的存在である前に内包存在であるから、ジャックとローズのように一人で引き受けるしかない死も二人という場所においてひらかれるのだし、同様にして飢餓が分有され交換が贈与に転換されるという、新しい世界を構想することが可能になるのです。

5.総表現者と内包自然
もう一度、映画『タイタニック』に戻ります。「きみが生きろ」という言葉が発せられるとき、ジャックは一人のジャックではなく、ローズもまた一人のローズではなく、ジャックはジャックでありながらローズであり、ローズはローズでありながらジャックである。つまりジャックもローズも、ともに自己を領域として生きています。このときジャックはジャック自身に届いているし、ローズもまたローズ自身に届いている。そのことは映画を観た誰もが感得することだと思います。
自分が自分に届くということは、自分が自分であることとはまったく違います。百八十度違うと言ってもいい。「私は私である」ということは、「私は私であって私ではない」ということです。この間隙にグローバルにデジタル化された信が入り込み、「私」を容易にシステムの属躰にしてしまします。自分が自分に届きはじめるとき、「私」は自己よりも深くて広い場所を生きはじめている。「私は私である」という場所からははるかに隔たって、「私」はすでに二人称になっている。つまり「私は私でありながらあなたである」というジャックとローズの場所に、いつのまにか来てしまっている。
自分が自分に届いたと感じられるとき、私は私をはみ出し、私は「私」と「あなた」が渾然一体となった領域として膨らんでいます。このように自己は可塑性をもっています。なぜならぼくたちの存在は、外延存在と内包存在の複相性としてあるからです。だから最期のフーコーが残した言葉のように、主体は実体ではないと言ってもいいわけです。同一性的な自己は可塑性をもち、領域化されることによって自分が自分に届きはじめる。
こうした表現をなしうる者として「総表現者」という概念が提起され、総表現者が棲まう大地として「内包自然」が想定されます。ぼくたちは誰もが例外なく総表現者である。なぜなら人間は人種、性別、種族、宗教、国家を超えて等しく外延存在と内包存在の複相性においてあるから。内包という遠くて近いリアルを生きるものとしてあるから。誰もが内包存在の呼びかけに応答して表現をなす者として、個々の実詞化された生を生きています。応答の仕方は無数にあり、それこそ百人百様ですが、その核心は「きみが生きろ」という言葉の象徴されるように、言葉が言葉を生きるということであり、言葉が性であるということです。総表現者がなす表現の概念をもっとも広くとらえるとき、言葉が言葉を生きる場面、言葉が性である場所が、70数億の人類を一人の取りこぼしもなく包んでいる。この広義の表現のなかに、文学や音楽や絵画などの狭義の表現が含まれています。
ここで映画『タイタニック』の「きみが生きろ」という場面と、島尾敏雄の『死の棘』に描かれた三角関係の修羅場を対比してみたい誘惑にかられます。『死の棘』の当該場面については、森崎さんも「Sさん問題」として何度も言葉を向けられ、「通俗」であり「書かれるべきことはなにも書かれず、書かなくてもいいことが書かれている」と断言しておられます。あの小説のなかで主人公のSは、いわば私性に凝り固まったジャックであり、強欲なトランプであり、卑屈な安倍信三だと思います。それ以上のものとしては描かれていない。
文学者としての島尾敏雄は、そこまでしか行くことができなかったということでしょう。その先に、総表現者としての表現があったはずです。それが本当に「書かれるべきこと」なのですが、このとき彼が文学者であるかどうかは関係ありません。文学者であったり芸術家であったりすることからは、深淵をもって隔てられたところに総表現者は棲んでいます。『死の棘』という作品は、「島尾敏雄」という一つの人格の表出として書かれており、そのたたずまいを通俗であり無惨であるとぼくたちはみなしている。通俗でも無惨でもない表現は、「島尾敏雄」という文学者の人格のはるか彼方に、おそらくシモーヌ・ヴェイユが「匿名の領域」と呼んだ場所に、総表現者のなす表現としてあるはずです。
同じことはテニアン島で自分の母親と妹を撃つという過酷な体験を生き延びた男性にも言えるでしょう。戦争ではそういうことが間々あった、天皇に赤子としていたしかたのないことだった、自分も被害者の一人だった……というのはヴェイユが言う間違った一般化です。ここには島尾敏雄の『死の棘』と同じように、自分の身に起こった出来事を風景のように見ている冷たいまなざしがあります。そこからはどんな固有の生も立ち上がってきません。厳しい言い方かもしれませんが、テニアン島の悲劇の男性も『死の棘』の島尾敏雄も、意識のかたちとしては「二度と過ちは繰り返しません」という空疎な反省の仕方と同じだと思います。
誰もが自分の生を生きることにおいて生の当事者である、ということを森崎さんは何十年も言いつづけてこられました。当事者としての生は、誰にとっても内面化も共同化もできない出来事としてあります。このところ入れ揚げている宮沢賢治の文学にからめて言うなら、人は誰もが自分に固有の「ほんとうのほんとうの神」からの問いかけとともにある、ということだと思います。ヴェイユが「不在の神」と言ったように、この「ほんとうのほんとうの神」は実詞化できません。実詞化した途端に個々の特別な神になってしまう。
『なお、この星の上に』というぼくの小説の最後の場面について、森崎さんに贈与してもらった言葉に重ね合わせて言えば、誰もが固有名をもった匿名の存在から「お花を摘んできてくれるか」と問われているのだと思います。テニアン島の悲劇を生きた男性は、「なぜ、ああいうことになったのか」とやはり固有名をもった匿名の存在から問われている。それが彼にとっての「お花を摘んできてくれるか」です。誰もが自分に固有の「ほんとうのほんとうの神」からの問いかけを生きている。この猶予のない問いに応答しつづけるとき、内包自然とともに総表現者の世界がひらけてくるように思います。