あの本、この本……2 国防と安全保障について、日本が最優先で考えるべきこと。

あの本、この本
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 安保法制をめぐる伊勢崎賢治さんの苛立ちは、安保法制によって自衛隊を海外に送ろうとしている側(安倍政権)にも、これに反対している側(反安倍や護憲など)にも、ともに向けられている。その批判は、つぎの二点に要約できるだろう。

1.国際情勢の流動化によって、PKO(国連平和平和維持活動)に派遣された部隊は、国際法上は交戦主体として位置づけられる。自衛隊が派遣されれば、当然、自衛隊を含むPKO部隊全体が交戦主体となる。しかし軍事組織としての法的地位が与えられていない自衛隊員の場合、仮に捕虜になってもジュネーブ条約上の捕虜としての扱いを受けられず、また軍事的過失(誤って民間人や子どもを殺傷してしまう、など)にたいしては、隊員個人が犯罪としての責任を追うことになる。こうした現状を放置して、自衛隊を海外へ派遣すべきでなない。

2.憲法九条のおかげで平和が維持できたというのは嘘である。日本が戦争に巻き込まれなかったのは、たんに運が良かっただけである。現にこれまでも、憲法の条文を一字一句変えることなく自衛隊は海外に派遣され、アメリカなどの軍事活動に協力してきた。たまたま甚大な被害が出ていないだけで、これからは間違いなく人的被害が出る。こうした現実を、国民は認識すべきである。「反安倍」とか「戦争反対」といったわかりやすいキャッチフレーズによって、大事な問題がスルーされている。

 以上のような伊勢崎さんの提言は間違っていないと思う。安倍政権を支持するか否かにかかわらず、踏まえておかなければならない事案である。必要最低限の現状認識を怠って、いくら議論をしても空理空論にしかならない。お花畑と揶揄される日本国内で呑気な議論をやっているあいだにも、自衛隊は危険な紛争の現場に派遣されていく。
 現在、最優先の脅威として位置づけられるのはグローバル・テロリズムである。グローバル化したテロリズムに、いかに対処するかということである。「われわれは人類の敵を二つのカテゴリーで捉えなければならなくなりました」と伊勢崎さんは述べている。一つは旧来の「まともな敵」である。どんな独裁国家であっても、国民や国連にたいしてレジティマシー(法的な正統性)を提示しようとする意思がいくらかでもあるかぎり「まとも」である。この基準からすると、イランも北朝鮮も「まともな敵」である。
 一方、イスラム国に代表される新興勢力や、アルカイダなどの武力組織には、国際法のような共通言語がない。兵士の行動をある程度まで規制する国際交戦規定や、捕虜や傷病者の扱いを定めたジュネーブ条約といった「常識」が通じない、「まともじゃない敵」である。

 前回も述べたように、国と国のあいだで戦争が起こる可能性は低くなっている。現代の国際法で許された武力行使の口実は、つぎの三つしかない。

①個別的自衛権(敵が国内に攻めてきたら反撃できる。)
②集団的安全保障(国連的措置、PKO。国連加盟国としての義務。)
③集団的自衛権(同盟関係にある他国が攻撃されたときに反撃する。国連的措置までの暫定的行使。)

 これ以外の口実による武力行使は「侵略」となり許されない。どんな超大国も、武力の行使にかんしては、この三つのどれかの言い訳を探さなくてはならない。

1.「中国の脅威」を煽ることによって生まれる脅威。
 中国は国連の常任理事国であり、いわば国際法の運用の頂点に君臨する「手練れ」である。そして国際法において認められた武力行使は「自衛」しかない。個別的自衛権にしても集団的自衛権にしても、まず自分か、自分の仲間が武力攻撃を受けなければならない。自衛隊が撃たない限り、中国が自ら「軍事的脅威」になるようなヘマはしない。中国が正真正銘の脅威になるのは、自衛隊が出ていくときである。このときは日本が武力を行使した、つまり侵略したと説明できるから、中国が個別的自衛権を行使する言い訳が成り立つ。
 もともと日本は国連憲章53条が定める「敵国条項」に縛られており、第二次世界大戦における旧敵国(日本とドイツ)の武力行使にたいしては、安保理五大国の一致など関係なくボコボコにしてかまわない、ということになっている。前提からして、対等に戦える相手ではないのだ。
 中国の非軍事的な挑発にたいして絶対に自衛隊で対処しないということを鉄則にすれば、中国は日本を「侵略」できない。実際に侵略もしていない中国を「軍事的脅威」と見なすのは間違っている。「中国の脅威」のために軍事的なプレゼンスを増やすことで、日本が標的にするに足る国だと覚醒させる可能性が高まる。「敵を増やすリスク」が飛躍的に増大する。「中国の脅威」への対処が、めぐりめぐって日本の国防上の別の脅威をつくっていく。

 世界各地で頻発しているテロは、もはや対岸の火事では済まされない。日本はテロの格好の標的となる原発を、国土の周囲にずらりと並べている。しかもグローバル・テロリズムが最大最強の敵として照準を合わせているアメリカを、軍事基地というかたちで体内に宿している。これほどテロの脅威に曝されている国は、世界中探しても少ないだろう。

2.国防上の原発の問題。
 国土の周囲に無防備な原発を並べた日本のあり方を、伊勢崎さんは「自らの腹を掻っ捌いて臓物を敵に露出しているようなもの」と述べている。この臓物を攻撃しないだろうという敵の善意、原子力施設への攻撃が違法化されている国際人道法や戦時国際法を、北朝鮮も含めた国連加盟国なら守ってくれるだろう、という薄氷のような「良識」に依存していかなければ、国防という概念さえ成り立たない。
 原子力施設への攻撃を企てるのは十人くらいの軽武装のチームかもしれない。彼らが施設を急襲して制圧し、電源を止めてしまえば、簡単に原発をメルトダウンさせることができる。テロリストが標的にしたら、原発はひとたまりもない。「電源喪失」で甚大な被害が発生することを、福島の事故は全世界に明確に示してしまった。「グローバル・テロリズムの時代において、廃炉、廃炉作業中の原子炉が潜在的に持つ脅威は、核兵器と同じ」であることを、伊勢崎さんは強調している。

 面倒くさくても、ぼくたち一人ひとりが、まず現場を知らなくてはならない。激変する世界の現状を踏まえずに、いくら国防や安全保障について語っても無意味である。無意味であるばかりではなく、国防や安全保障のためと喧伝される行動が、かえって新たな脅威を生み出すという点で危険である。
 ただ一つだけ、簡潔につぎのことは言えそうだ。敵をつくらないことが最良の防衛である。