『歩く浄土』Live in KUMAMOTO 2017.5.26(Part 1)

緊急討議
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森崎 この国のあり方は数年で臨界を越えて急速に変質したように見えます。なぜだ、という思いは誰の胸のうちにもあると思うんです。特別機密保護法から安保法制(戦争法)を経て共謀罪へ、戦後民主主義と呼ばれてきたものが一気に瓦解してしまった。多くの人がそう感じているはずです。なぜこんなことになってしまったのか。なぜこんなでたらめがまかり通っているのか。いろんな説明がありますよね。日本は中世に戻っている。人治主義に戻っている。法治主義ではなくて人治主義だと。あるいは縁故主義、ネポティズムが幅を利かせている。また小選挙区になって党の公認がなければ代議士になれない。結局、自民党の候補者しか受からないという、そういうふうに選挙の仕組みがなっている。公務員を勤務評定する内閣人事局をつくったこと。出世するためには上をヨイショしなければならない。いま言ったようなことが、だいたい日本の現状についてのコメントとして出てくるわけですね。
片山 少し補足して説明をしておくと、人治主義というのは中国の死刑制度の問題点として使われることの多い言葉ですね。要するに三権分立が成り立っておらず、量刑の判断基準が政治的な意向に左右されやすい。近代的な刑事訴訟の手続きが充分に行われていないということで、人権問題としてしばしば国際的批判の対象になっています。ネポティズム、縁故主義については説明不要だと思いますが、森友・加計学園事件で安倍総理が知人や友人に便宜を図ったというようなことですね。それから内閣人事局は第二次安倍内閣発足後の2014年に内閣府に設置されました。首相の意向を反映した幹部人事を一元管理することで、官邸が各省府の実質的な幹部人事権を握るようになった。前川喜平・前文部科学事務次官の記者会見(2017年5月25日)でも問題にされていましたね。
森崎 森友・加計学園事件に見られるような国家の私物化があり、安倍晋三をはじめ閣僚級の政治家による数々の問題発言、通常の失言や不用意発言よりも遥かに低劣なレベルでの言葉の垂れ流しがあり、挙げればきりがないというくらい無茶苦茶ことになっている。しかし安倍にたいする批判の声は高まらない。支持率は大きく崩れない。あいかわらず50パーセント近くを維持しているらしい。これについては、しばしがメディアの問題が指摘されます。たしかに記者クラブに加盟している大手メディアのトップが安倍首相と夕御飯を食べる寿司友になっている。そうすると安倍政権のやり方に真っ向から反対するような記事は表に出てこきませんよね。現場の記者には不満があると思うのですが、デスクがいて部長がいて、さらに上の管理職がいてというシステムのなかで、結局は政権にたいする批判的な記事は握りつぶされてしまうと思うんです。
片山 共謀罪についても「おかしい」とは言わずに、「もっと丁寧な説明を」とか「国民にわかりやすく」といった、安倍首相の気持ちを忖度した言葉遣いになりますね。亡くなった祖父が「ただ酒は飲むなよ」と言っていたのを思い出します。
森崎 では、そうした条件を勘案すると、いまのでたらめな状況を説明できるかというと、やっぱりできないという気がするんです。たしかに状況証拠としては必要条件を満たしている。でも「なぜ」という気持ちが残る。
片山 そうですね。いくら衆議院で自民・公明・維新の三党で議席の三分の二を占める圧倒的な数の力を背景にしているとか、自民党内の財政運用を総裁が一手に握れるように党規を変えたとか、いわゆる「安倍一強」を支える与件をいくら並べても、ここまでひどい政権が長くつづいていることの説明にはならない気がします。5月28日には在任日数が第一次内閣と合わせて1981日になり、小泉純一郎首相を抜いて戦後第三位になるそうです。その長期政権を担っているのは、森友学園問題のときの籠池泰典前理事長とか、加計学園問題での前川喜平前事務次官とか、自分たちに不利な文章を公開したり発言したりすると、その人物の人格を否定する言葉を公的な場で投げつける、ぼくたちの感覚からすると低劣としか言いようのない人間です。そんな人が、なぜ記録に残るほど長く政権を維持しているのか、維持できているのか? ……謎です。
森崎 この事態は安倍晋三という稀代の妄想家が引き寄せた奇異妖変のように見えます。しかし悪夢の原因を安倍晋三の所為にするのは、わかりやすいけれど安易過ぎると思うんです。
片山 もっと根が深いってことですね。
森崎 ぼくは戦後70年の総敗北だと思っています。戦後70年の左寄りの擬制が、そのあまりの中身のなさに振り子が右に振れているということです。人権や民主主義、その振り子がいまは右傾化というほうへ振れている。結構、深刻なことだと思うんです。
片山 戦後民主主義が擬制であった、中身のない虚妄であったという意見には、異を唱える人も多いと思うのですが。
森崎 それはこういうことです。太平洋戦争では総力戦をやったわけですよね。このときは全員が当事者だった。高松宮だって戦争に行ったわけですからね。おれは関係ないというのは言えない。一億層玉砕ということで戦争をやった。若い人は二十歳になったら死ぬのは当たり前ということで日常を生きていた。そういうなかで無条件降伏をした。撃ち方やめ、ですよね。つぎの日から民主主義になった。その過程のどこにも普通の人はまったく関係していないと思うんです。天変地異みたいなものです。地震が起こった、台風が来て家が壊れた、というのと同じだったと思うんです。
片山 なるほど。
森崎 天皇制は言うまでもなく擬制ですよね。と同時に、無条件降伏からただちに民主主義が押しつけられた。これもやっぱり擬制です。まったく何の関係もないのだから。
片山 まさに天変地異のようにして忽然と立ち現れた。天変地異としての戦後民主主義ですね。
森崎 戦後、誰もが当事者であったはずの総力戦を、そうした当事者であった者たちが反省することもなく、一億層玉砕はそのまま一億総懺悔になったわけでしょう。あの悲惨な戦争を二度と起こさない、というのは建前ですよね。一人ひとりに根付いた言葉ではまったくない。そのツケが、いままわってきているのだと思います。そう考えないと、先に挙げた日本の現状や、安倍のような愚劣な男がやりたい放題やっていることの説明がつかない。
片山 戦後の擬制が象徴として安倍的なものを生み出したということですね。つまりぼくたち一人ひとりに安倍的なものを乗り越えるという課題があるはずで、ただ安倍晋三や安倍政権を批判していれば済むという話ではない。
森崎 それよりも遥かに深刻なことだと思っています。同じ敗戦国でも、ドイツの場合は、ヒトラーがユダヤ人をたくさん殺したということを、ポリティカル・コレクトネスとして理念化したわけでしょう。建前論であっても、かたちにしましたよね。そのポリティカル・コレクトネスに伸び代がなくなっているわけですけれど、それでもメルケルなどはよくやっているなと思うんです。
片山 トランプにもちゃんと異議申し立てしていますしね。ドイツなりのポリティカル・コレクトネスの立場から。そういうのが日本にはありませんね。
森崎 日本の場合はいきなり被害者になれた。被害者が立つ瀬をつくるためには、韓国や中国にいいことをしたと言ったほうが喉越しは良くなりますよね。リベラルな人たちにしても、口先で民主主義を唱和していれば済んだようなところがあると思うんです。あるいは憲法9条を守れということで、なんとなく戦争に巻き込まれずに済んできた。
片山 実際は憲法9条があったから戦争に巻き込まれなかったわけではなくて、たまたまというか偶然というか、強いて言えば自国の利益を最優先するアメリカのおかげということになるのかな。
森崎 いずれにしてもドイツのように敗戦体験をもとにして、一つのポリティカル・コレクトネスさえ打ち立てることはできなかった。そうした知の不甲斐なさが安倍晋三をのさばらせていると思うんです。戦後70年は一つの言葉も生まなかったということです。言葉というよりも理念と言ったほうがいいかもしれませんね。そのことを抜きに法治主義から人治主義になったとか、縁故主義になったとかいうのは、非常に枝葉末節なことのような気がします。どれも当たってはいるけれど、じゃあ、そうしたものがなくなれば正常に戻るか? ぼくは戻らないと思います。安倍もいずれ代わるわけでしょう。誰に代わっても、日本の戦後70年が一つの言葉も生まなかったという事実は残りつづける。
片山 まさに戦後70年が総敗北しているわけだ。
森崎 その戦後70年の総敗北を、立憲主義や民主主義でただそうとしているわけでしょう。立憲主義や民主主義が何もなかったということなのに。擬制であり虚妄であったということなのに。安倍の嘘に嘘で対抗してどうかなるわけがない。
片山 ちょうど昨日(5月25日)の朝日新聞に、小熊英二という慶応大学の先生が論壇時評を書いていたのですが、そのなかで日本会議のような現代の保守を批判して、「大日本帝国の虚妄」に賭けるよりも「戦後民主主義の実在」に立脚するといったことを述べていました。「戦後民主主義の実在」というのが虚妄なわけだから、小熊先生は虚妄の上に立脚すると言っていることになる。
森崎 彼らにとっては痛くも痒くもないことじゃないですか、「大日本帝国の虚妄」にしても「戦後民主主義の実在」にしても。それを大学の教壇の上から衆生に囀り啓蒙するわけでしょう。なんの不自由もない者たちが、高みから「それでも民主主義は大切ですよ」と教宣する。いらぬお節介じゃないですか。
片山 戦後民主主義の実在に立脚するなんて言われると、ぼくらでも「いったいどこの話だ?」って感じになります。いくら目を凝らしてもそんなものは見当たらない、というのがすでに大半の人の現実になっていると思うんです。
森崎 それはもうリアルな実感としてありますね。民主主義の底は完全に抜けてしまっています。人はばらばらだ。アメリカの同時多発テロのときに、ワールドトレードセンターから人がばらばら落ちていく映像がしばらく流れていたけれど、ああいう感じだと思うんです。みんなばらばら落ちている。高齢者でアパートの一人暮らし、身寄りはない。厚生年金を合わせても10万円以下。それが普通になっている。荒涼たるものだと思いますよ。そこに民主主義、届きますか? すさまじいですよ。核家族でさえもうなくなった。もっとばらばらです。小さな相互扶助さえない。そこにどうやったら言葉が届くのか。届くと思っているから、ぼくらは対話をつづけている。(Part 2へつづく。)