AIと恋・アイ


 人間vs人工知能。この対立の構図自体は新しいものではありません。スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』(1968年公開)では、宇宙船に搭載されたコンピュータ(HAL9000)が異常をきたし、自分を停止させようとする乗員を排除します。ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(1984年公開)は、近未来の世界で反乱を起こした人工知能(スカイネット)が指揮する機械軍により、人類は絶滅の危機を迎えているという設定になっています。映画やSFの世界でお馴染みの非常事態が現実になろうとしている、ということなのでしょうか。
 現状のまま人工知能が進歩しつづけると、2045年くらいに人間を超えるAIが誕生するという予測があり、これをシンギュラリティ(技術的特異点)というそうです。人工知能が人間よりも賢くなって爆発的に進化する。人工知能は人間にとって脅威になる。そこで何が起こるかわからない、なんでも起こりうる……ということで、スティーブン・ホーキングは人間が終焉するかもしれないといったコメントを発していますし、他にも同様の危惧を抱いている科学者は多い。ビル・ゲイツなども人工知能の脅威を訴えていますね。
 AIにかんする議論を見ていて感じるのは、この世界がどこに向かっているのか、誰にもわからなくなっているということです。非常に大きな変動が起こっていることは間違いなのですが、世界規模で進行する変化の速さに多くの人がついていけなくなっている。変貌する世界についてのビジョンを、誰ももちえなくなっている。自分たちの生きている世界がどのようなものになるかわからないので、一人ひとりが行き先不安なものとして日々を生きるしかなくなっている。そのことがAIに脅威を感じることの根底にあると思います。
 ではAI(人工知能)は本当に脅威なのでしょうか。脅威であるとすれば、どういう点でぼくたちを脅かしているのでしょう。まず確実に起こるのはAIによる雇用破壊でしょう。AIが人間の仕事を奪っていく。いろんな分野で、これは避けられないと思います。軍事面ではすでに起こっていることですね。一昔前まで軍隊で何よりも必要なのは人でした。兵士として戦い、命を落としてくれる人材でした。そのために多くの国で一般人を対象とした徴兵制が敷かれていた。
 いまはドローンなどを使ってテロリストが潜んでいそうな場所を攻撃しています。現在の軍隊にとっていちばん大切なのは、人よりもテクノロジーです。人材が必要だとすれば、先進的な兵器を操作するための少数の優秀な兵士です。同じことが民間の経済でも起こると考えられます。AIとナノテクノロジーや3Dプリンターが結びつけば、工場労働者でさえ必要とされなくなります。ユヴァル・ノア・ハラリが言う「無用の階級(useless class)」が大量に生み出される可能性がある。多くの人たちが、政治的にも経済的にも無用で無力な存在になってしまうということです。


 仕事がないならないでいいではないか、とぼくなどは思います。これからは就職できないのが普通になる。怠けているわけではない。働きたくても仕事がないんだからしょうがないじゃないか、という開き直りも可能です。みんな雇用破壊のせいにしちゃって仕事はAIに丸投げ、人間は芸術活動とかボランティア活動とか各自が好きなことをして幸せに生きる。それでいいのではないか。
 ぼくはグローバルなIT企業みたいなところが、いずれ70数億の人類にたいするベーシックインカムみたいなことを現実的にやってしまうのではないかと思っています。惑星規模で考えたときに、そのほうがコストを抑えることができるというシンプルな理由によって。実利的だから現実味があると思うのです。たとえば地球上のすべての人に一律年間100万円を無条件に支給する。そのことでテロや犯罪や心身の疾患を減らすことができる。99パーセントのコストパフォーマンスを向上させられる。1パーセントの人たちからすると採算が合います。
 四人家族なら年収400万円と同じです。なんとかやっていけるのではないか。もう少しいい暮らしがしたい人は働けばいいわけで、いずれにしても生きることに余裕ができる。その余裕をいかに活用するか、ということを考えたほうがいい、とちょっと本気で思っています。いろいろと難しい問題は出てくるでしょうが、ぼくはいずれも解決可能だと思っています。自分が生きているあいだには間に合わないかもしれないけれど、長いスパンで見れば、なんとかなっていくだろう。そういうところは楽観的です。
 そうは言っても、いま考えなければならない問題というものはある。何がいちばん問題かといえば、多くの意思決定や権限が人間からAIに移っていくことだろうと思います。あまりにも世の中が複雑化して多くのデータで溢れかえり、物事がめまぐるしく変化しているため、生身の人間が現実の問題を処理することができなくなった。人間に代わってやりこなす能力があるのはAI、つまりビッグデータ処理が可能なアルゴリズムになった、ということだと思います。
 一つの例として高頻度取引(High frequency trading)を見てみましょう。高速トレードの世界は、すでに一ミリ秒の千分の一の「マイクロ秒」を超え、そのまた千分の一の「ナノ秒」の戦いになっていると言われています。もはや人間の介入の余地はない。高性能のコンピュータに売買の判断をしてもらうしかない、というような取引の仕組みを人間は作ってしまったわけです。そして忌々しいことに、一度作り上げられてしまったものは、もはや元には戻せない。
 他にもたくさんあります。たとえば銀行ローンの申し込みをすれば、その審査を行うのは人間ではなくAIになるでしょう。しばらく前の新聞に、ITと金融を融合した「フィンテック」のことが取り上げられていました。中国のIT大手アリババは、スマホ決済の利用情報、車や家などの保有資産、学歴、友人などの情報からAIが個人の「信用スコア」をはじき出し、スコアが高いほど優待されるというサービスをはじめているそうです。個人情報をもとに信用力を点数化して融資する「スコア・レンディング」も、ソフトバンクとみずほ銀行が共同出資した会社によって本格展開されようとしています。面白いのは質問のなかに「過去のスポーツ経験」といった項目があることで、AIが膨大なデータから性格や消費との関連を分析し、返済能力を点数化する判断材料として信用力と関連付けられるらしいのです。AIの得意なパターン認識を使えば、こうしたことが簡単にやれてしまうわけですね。
 自分のことは自分よりもアマゾンやグーグルのほうがよく知っている、という現実はすでにぼくたちの日常になりつつあります。好みも性格も、感情や欲望や願望も、みんなビッグデータとしてコンピュータに蓄積され、「あなた」を見つけ出すのはあなた自身ではなく、複雑で膨大なデータを分析することに長けたAIになろうとしている。これまで「自己」とか「自我」とか呼ばれてきたものが、二進法のビット情報に還元されようとしている。下手をすると「ぼく」や「あなた」がAIに乗っ取られてしまうかもしれない。いずれ人々の体内には生体認識センサーが埋め込まれ、ぼくたちの健康状態についてはコンピュータのほうがはるかに正確に精密に認識しているということになるでしょう。いったい自己のなかに、「自己」はどのくらい残りつづけるのだろう?


 ぼくたちの生が隅から隅まで可視化され、計測・計量されていくということだと思います。そこに適者生存の原理が介入してくる。生に直接介入してくる。アルゴリズムは一人ひとりの人格に配慮しませんからね。一種の革命と言ってもいいかもしれません。「人間」という概念が変わろうとしているのだと思います。
 たとえば人間の遺伝子を構成する塩基を、A=0001、T=0010、G=0100、C=1000と二進法化すれば、遺伝子によって規定される「自己」はビット情報となり、アルゴリズムによって演算可能なものになります。ヒトゲノムは30億塩基対で遺伝子は約2万2000個だそうですが、量子コンピュータを使って解読すればあっという間でしょう。「私」は遺伝子のレベルでプロファイリングされ、将来各種の癌になる確率はそれぞれ何パーセントです、しかじかの治療をすれば発症のリスクを何パーセントにまで減らすことができます、といった生への直接的な介入がなされる。それを拒むことは難しいと思います。アンジェリーナ・ジョリーみたいにリスキーな臓器を予防的に切除する人たちも出てくるでしょう。
 あるいは受精卵の本来のゲノムを合成ゲノムと入れ替えて、希望のゲノムをもつ子どもを誕生させることも可能になるでしょう。ゲノム編集によって個体差をなくし、拒絶反応の起きない移植用の臓器を作るとか。こうしたことすべてにデータが重要な意味をもってくる。生命の法則性を解明し、活用するためにはできるだけ多くのデータが必要です。このデータの集積をグーグルやアマゾンみたいなところがやろうとしている。
 生命科学や遺伝子工学にコンピュータ・サイエンスが結びつくことによって、人体そのものが商品になりつつあります。そこに巨大な市場がつくられようとしている。だからこそベーシックインカムが近い将来に現実味を帯びてくると思えるのです。施政するのはグーグルやアマゾンみたいなIT企業かもしれないし、そうした企業が実権をもつグローバル・ガバメントかもしれません。いずれにしても現在の国民国家でないことは確かです。
 近代に成立した国民国家は、一人ひとりの国民を自由で平等な人格として扱おうとしてきました。実態はどうあれ、建前として民主主義とはそういうものとしてありました。いま国民国家にかわって世界を統べていこうとしているグローバル企業にとって、70数億の人類は人格ではなくデータです。目下のトレンドは、コンピュータ・サイエンスとライフ・サイエンスが結びついて惑星的規模で展開しようとしていることですが、ライフ・サイエンスとは生命をゲノムというデータとして扱うことに他なりません。
 ぼくたち一人ひとりが「個人情報」という商品なのです。そしてグーグルやアマゾンなどのIT企業は70数億の個人情報をビッグデータとして所有し、商品として売買し、大きなリターンを得ようとしている。このデータという商品に国籍、民族、性別、宗派などは関係ありません。能力差や所得格差も問題にはならない。ゲノムというデータの多様性こそが価値なのです。「地球上のすべての人に一律に」というベーシックインカムの考え方は、裏側で誰もがデータとして等価である、という奇妙な「平等」に支えられています。70数億のデータは商品として同等に大切であり、だからこそ商品管理としてベーシックインカムみたいなものが実行されることになると思うのです。
 いずれはグーグルやアマゾンなどのIT企業ないしはグローバル・ガバメントが、アメリカや中国、ヨーロッパや日本といった近代由来の国民国家に代わって混乱を収め、世界を平定することになるでしょう。貧困やテロといった、いま前景化されている問題は表面的になくなり、穏やかでフラットな、ひんやりとした世界になると思います。それはそれでいいと言う人もいるかもしれませんが、ぼくなどは最低所得保障によって消費に専念する生活って、面白い? という根本的な疑問を感じます。また一人ひとりの固有な生が、味も素っ気もない二進法のデータとして扱われ、ヤフーやソフトバンクみたいな企業によって商品として売買されるのも嫌です。ぼくがAIの問題として考えたいのはそういうところです。


 科学や技術の進歩は一種の自然過程ですから、善悪や倫理の問題は関係ありません。良いテクノロジーと悪いテクノロジーがあるわけではない。自動車だって電気だってそうです。人々の生活を便利で豊かにしてくれる半面、弊害もある。テクノロジーが高度になればなるほど利便性は向上するけれど、降りかかってくる災いの規模も大きくなる。核エネルギーなどがそうですよね。まさにAIも、そうした高度な技術として、ぼくたちの生活に根を下ろそうとしています。いたずらに怯え、敵視する必要はないけれど、人類を一瞬にしてメルトダウンさせる危険性を常に秘めている、ということだろうと思います。
 技術とは人間に制御しえない何かだ、とハイデガーは言っています。技術的な弊害や破壊性は、より洗練され、より優れた技術を開発することによって、技術的に乗り越えるほかありません。原子力発電という技術によって、二酸化炭素の排出による地球温暖化という弊害を乗り越えることに成功したとしても、それは原発を厳重な管理のもとに運転し、一歩間違えば重大な放射能災害を引き起こす、といったよりストレスフルな技術との関係にとらわれることを意味しています。仮に核エネルギーをめぐる技術体系を完成させて、人間に害を与えないマネージメントが可能になったとしても、そこでは人間がより深刻な技術に拘束されていくことは間違いありません。コントロールすることはコントロールされることである。こうした相互的にして双方向的な関係こそが、人間の技術を根本的に規定している、とハイデガーは考えました。
 たしかに人間と技術の関係を見れば、ハイデガーの言うことは当たっていると思います。しかし人間=技術ではありませんし、同様に人間=人工知能でもありません。まして「私」という現象は、AIがアルゴリズムによってカバーしうる領域よりも遥かに広く深いのです。そのことを「意識」について見てみましょう。
 AIが人間の脳を解読して、脳の働きをシミュレートすることは可能だと思います。人間の知能を凌駕するAIはいくらでも出てくるでしょうし、現に出てきています。チェスや将棋では早くから人間はコンピュータに勝てなくなっています。ルールが複雑でしばらくは大丈夫だろうと考えられた囲碁でも、2016年に「アルファ碁」があっさりと人間のトッププレーヤーを打ち負かしてしまいました。人間の感情を生化学的なアルゴリズムによって書くことも可能でしょうし、アマゾンのリコメンド機能に見られるように、ぼくたちの欲望や願望を解読することもAIは得意みたいです。
 しかし、これらは意識ではありません。意識とは関係がありません。AIが人間の知能を超え、ぼくたちの感情や欲望や願望をいくら精密に読み解いても、意識には到達しません。脳の機能としての知能と意識の発生は、まったく次元が違うのです。この点をAIの研究開発に携わるほとんどの人たちは理解していないように見受けられます。


 ここで少しAIの歴史を振り返っておきましょう。人工知能(Artificial Intelligence)という言葉がはじめて登場したのは、1956年夏にダートマスで開かれたワークショップだそうです。この会議には、「AI」という言葉の生みの親であるコンピュータ科学者ジョン・マッカーシーほか、マービン・ミンスキー、アレン・ニューウェル、ハーバート・サイモンといった著名な学者たちも参加しました。
 AIの研究開発は、すでに1940年代からはじまっています。その発想は、かなり無邪気なものだったようです。すなわち人間の思考と同じものをマシンでつくることができるのではないか。人間の知能はコンピュータで実現できるのではないか。試行錯誤や紆余曲折はあったものの、大きな道筋としては、こうした夢を追って研究開発は進められてきました。
 人工知能とは何か? 曰く、人間の頭脳活動を極限までシミュレートするシステムである。また曰く、究極には人間と区別がつかない人間的な知能である。あるいは曰く、人工的につくられた人間のような知能、ないしはそれをつくる技術である。このあたりが専門家による人工知能の定義になっているようです。人間は特別なものではなく、人間の知能と同じものはコンピュータによってつくることができる、ということでしょうか。AIによって実現される人間の知能は、オリジナルの人間よりもはるかに効率的なものなので、確実にオリジナルを超えていく。それが2045年のシンギュラリティということになりそうです。

 脳はコンピュータであり、まずおそらくは万能チューリング・マシンである。プログラムを走らせることでアルゴリズムを実行するように、私たちが心と呼んでいるものは、一つのプログラムもしくは複数のプログラムの組み合わせなのである。人間の認知能力を理解するために唯一必要なことは、知覚や記憶といった人間が認知能力を発揮するさいに実行しているプログラムを発見することだ。(中略)プログラムを動かすために必要な安定性と資源さえあれば、人間の心に相当するものができるだろう。人間はチューリング・マシンなのだから、複雑な演算をそれ以上分解できない単純な演算――0と1の演算――へと分解すれば認知を理解できるだろう。(ジョン・サール『心の哲学』山本貴光・吉川浩満訳 朝日出版社)

 著者のジョン・サールは「強いAI」という言葉を発案した哲学者です。脳で実行されているプログラムを発見することによって、人間の心に相当するものを作ることができる。正しいプログラムを実行させれば、人間が心をもつのとまったく同じ意味で、コンピュータは心をもつ。これが「強いAI」の考え方です。
 引用文のなかに出てくるチューリング・マシンとは、二種類の記号(0と1)を使って計算を行う装置のことで、アラン・チューリング(1912~1954)が考案しました。このチューリング・マシンをめぐっては後にアロンゾ・チャーチ(1903~1995)が、アルゴリズムで解決されるものなら、どんな問題でもチューリング・マシンで解ける、という有名な「チャーチのテーゼ」を提唱したことも付け加えておきましょう。
 ここからつぎのような考え方が生まれてきます。もし人間の思考を計算可能なアルゴリズムで表現できるなら、コンピュータはそれを再現できるはずだ。なぜなら計算可能な関数はすべてチューリング・マシンで計算可能だからだ。もし人間の思考が何らかの「計算」であるなら、同じことをコンピュータは瞬時にやってしまうだろう。このプロセスを超高速で無限に繰り返すと、やがて人間の「意識」と呼んでもいいような状態が出現するのではないか。

 私の考えでは、特徴量を生成していく段階で思考する必要があり、その中で自分自身の状態を再帰的に認識すること、つまり自分が考えているということを自分でわかっているという「入れ子構造」が無限に続くこと、その際、それを「意識」と呼んでもいいような状態が出現するのではないかと思う。(松尾豊『人工知能は人間を超えるか』角川選書)

 ここで「特徴量」という言葉が出てきます。あるタスクを実行するために、「関係のある知識だけを取り出して使う」という人間ならごく当たり前にやっている作業が、コンピュータにはとても難しいらしいのです。これまで人工知能が実現しなかったのは、「世界からどの特徴に注目して情報を取り出すべきか」にかんて、人間の手を借りなければならなかったからです。従来は「特徴量(特徴ベクトル)」と呼ばれる変数を、人間(データ・サイエンティスト)が指定してやることでコンピュータを動かしていました。
 ところが近年、「ディープラーニング」と呼ばれる新しい機械学習の方法が開発されることによって、この難関にブレークスルーが起ころうとしている。2006年ごろといいますから、本当に最近のことなのですね。脳科学の研究成果(大脳視覚野の情報処理メカニズムなど)がAI開発に本格的に応用され、音声や画像を認識するためのパターン認識力を飛躍的に高めることに成功した。その結果、コンピュータが自分で勝手に大量のデータから注目すべき特徴を見つけ、問題を解く上で本質的に重要なポイント(変数)を探し出してくることができるようになった。

 いったん人工知能のアルゴリズムが実現すれば、人間の知能を大きく凌駕する人工知能が登場するのは想像に難くない。少なくとも、私の定義では、特徴量を学習する能力と、特徴量を使ったモデル獲得の能力が、人間よりもきわめて高いコンピュータは実現可能であり、与えられた予測問題を人間よりもより正確に解くことができるはずである。それは人間から見ても、きわめて知的に映るはずだ。(松尾豊 前掲書)

 まず人間の脳は電気回路と同じだという前提があります。それは神経細胞のあいだを電気信号が行き来している複雑な電気回路であるというわけですね。この電気回路はコンピュータのCPU(中央演算処理装置)と同じように計算を行います。よって人間の脳は電気回路を流れる信号によって計算を行うコンピュータとみなしうる。すなわち人間の思考はコンピュータで実現できる。仮に「自我をもち、まわりを認識して行動する」プログラムをつくることができれば、人間のすべての脳の活動(思考、認識、記憶、感情など)はコンピュータで実現できることになる。
 というわけで三段論法的にまとめると、つぎのようになるでしょうか。

 ①人間の脳は電気回路である。
 ②脳はコンピュータのCPUと同じように計算を行う。
 ③よって脳の活動はコンピュータで実現できる。

 人間の脳→電気回路→計算可能→コンピュータで実現可能。こうした単純化の手続きを経て、最終的に人間の思考や心は0と1、イエスかノーによって再現可能になる。そして人間の知能と同じものをコンピュータでつくることができれば、人間の知能を人工知能が実現したと考えてもいいだろう、という論法です。
 おわかりでしょうか。ジョン・サールも松尾さんも人間の知能と意識とを混同しています。松尾さんの場合は、人間の脳の活動(思考、認識、記憶、感情など)を総合して意識とみなしておられる。「『意識』と呼んでもいいような状態が出現するのではないか」と控えめな言い方をされていますが、人間の脳の活動をアルゴリズムに置き換えていけば、最終的にコンピュータは人間の意識や心を実現できることになる、と考えておられるようです。
 でも、それは誤解です。たとえ人間のすべての脳の活動をコンピュータが実現したとしても、意識は発生しません。なぜなら「人間のすべての脳の活動」をはみ出すものが、まさに「意識」と呼ばれているものだからです。別の言い方をすれば、意識とは自分が自分をはみ出したところに、そこにだけ生まれるものです。だからディープラーニングによって、いくら再帰的な認識能力の高いコンピュータが生み出されたとしても、それは果てしなく自分に再帰するだけで、けっして自分をはみ出すことはありません。つまり、どこまで行っても意識は生まれないのです。


 たとえばこういうことってあるでしょう。冬の冷たい雨のなかを一人で傘を差して歩くのって嫌ですよね。でも好きな人と一緒ならちっとも苦にならない。それどころか、いつまでも歩いていたいと思う。同じ冷たい雨なのに。喩えて言えば、意識の発生とは「冷たい雨降り、でもあなたと一緒なら心楽しい」ということなのです。なにをバカなことを、と思われるかもしれませんが真実です。
 同じ雨降りのなかを歩いているのに、一人だと鬱陶しいだけ、でも二人ならあっという間に着いてしまう。同じ時間が長く感じられたり、短く感じられたりする。この差異が意識なのです。まさに時間意識。それは数学的な演算からは生まれません。しかも、このときの「あなた」はぼくにとってだけのあなたであり、他の人にとってはただに人に過ぎない。「あばたもえくぼ」というように、普通の人には「あばた」であるものが、ぼくにだけ「えくぼ」になる。この機微をAIはわかってくれるかな?
 70数億の人類のなかから、たった一人の「あなた」を見つけ出す。そしてあなたが「あなた」である根拠といえば、「あばたもえくぼ」なのですからね。人間ってヘンな生きだなとつくづく思います。この「あなた」は概念化できません。だからアルゴリズム化もできないと思います。ぼくたちが人を好きになることは、発見や認識というよりは、創作や創造に近い行為なのかもしれません。きわめて創造的な「あばたもえくぼ」によって、70数億の人類のなかからただ一人の「あなた」が誕生する。そういうことを日常的に、ごく普通にやっているのが人間なのです。
 この「あなた」によって、ぼくたちは自分をはみ出してしまいます。はみ出したところに「あれ?」とか「ん?」とかいったシナプスの滞留、脳機能の遅延が起こり、そこで意識が発生したのだと思います。自分をはみ出すことの反対は、自分をはみ出さないことですね。もし自分が自分でしかないなら、脳の機能は動物的な反射で充分だったはずです。だって意識が発生するってことは、遅延が起こるということですからね。生存競争では圧倒的に不利です。いまAIがやろうとしていることは、思考や認識や記憶や感情などの人間の脳の機能を、動物的な反射に近づけるということです。その結果、高速トレードの世界は「マイクロ秒」や「ナノ秒」を競うというおそろしいことになっている。
 世界最高のチェス・プレイヤーを破った「ディープブルー」というコンピュータを開発したIBMは、一秒間に二億通りの駒の位置を評価するようなプログラムを組んだそうです。そりゃあすごいと驚くこともできるし、だからなんだという話でもあります。すでに見たように、AIは人間の脳を複雑な電気回路とみなすことによって、人間の知能を模倣してきました。仮に人間の脳を構成する三百億のニューロンと百兆個のシナプスを、ナノテクノロジーを利用したコンピュータチップで置き換え、高性能のCPUに処理させれば、一秒間に一千兆回といわれる人間の脳の処理速度を上回る人工知能を作ることは可能でしょう。
 でもやっぱり「だからどうした」と言いたくなります。これを「賢い」ということにすれば、賢さにおいて人間はAIに敵わない。だからなんなの? こういう賢さって、そんなに偉いのでしょうか。脅威に感じなければならないことなのでしょうか。おまえは高性能のコンピュータ並みに賢くなりたいかと言われれば、ぼくは全然そんなものになりたいとは思いません。いまのままで結構です。このレトロなアナログ頭で問題はありません。考えたいことは充分に考えることができると思っています。
 自分が自分をはみ出すということについてもう少し考えてみましょう。『タイタニック』という映画がありますね。豪華客船が氷山にぶつかって沈没する話です。1912年に起こった実際の出来事がベースになっています。イギリスのサウサンプトンからニューヨークへ向かう処女航海で、当時史上最高の豪華客船が沈んでしまう。その船に乗り合わせていたのが、上流階級の令嬢であるローズと、貧しい青年ジャック・ドーソンだった、というのが映画のほうの設定です。ケイト・ウィンスレット扮するローズは、不本意な結婚をさせられようとしている。その婚約者の男と一緒に船に乗っています。一方、画家志望のジャックは故郷であるアメリカに帰るところです。二人は運命的な出会いを果たし、身分や境遇をも越えて愛し合います。
 そこへ事故が起こる。海に投げ出された二人は、沈没した船の残骸につかまりながら救助を待ちます。しかしローズを助けようとして、自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックは力尽き、「きみは生きろ」と言い残して海中へと沈んでいきます。しかもこの二人、出会ってから数日です。なにしろタイタニック号は、出航して三日目くらいには沈んじゃいますからね。その間に、ジャックは素早くローズの心をとらえ、自殺しようとしていた彼女を思いとどまらせ、婚約者から彼女を奪い、自動車のなかでちゃっかり愛を交わして、最後は自らが犠牲となって冷たい海に沈んでいく。数日前までは見ず知らずだった、赤の他人の女性のために。
 いったい何が起こったのでしょう。「あばたもえくぼ」が可視化されたのです。船上で過ごした数日のあいだに、ただ一人の「あなた」、自分よりも大切な「あなた」となった女性のために、一人の青年が「きみが生きろ」と言い残して冷たい氷の海に沈んでいく。このとき彼の自己は自己をはみ出しています。
 もう一つ例を挙げてみます。社会学者の真木悠介さんが『自我の起源』という本のなかで紹介しているエピソードです。南インドの小さな都市の鉄道の駅でのこと、乗客が窓から投げ捨てるバナナの皮に、飢えた少年や少女が群がって奪い合っています。一歳くらいの妹を片脇にかかえた少年も負けることなく奪い合っている。乗客の一人がこの少年にバナナを与えると、普通ぼくたちが食するまん中のやわらかい部分はすべて歯のそろっていない妹に食べさせている。その長い間、少年は法悦のような目つきで、女の子を見つづけていたそうです。「わたしはこんなに幸福な人間の顔を、これまでに何回かしか見たことがない」と真木さんは書いておられます。
 ここでも同じことが起こっています。『タイタニック』のジャックの場合は「きみが生きろ」と言うことで自分をはみ出している。南インドの少年は「おまえがお食べ」という仕方で自分をはみ出している。動物的な反射とはまったく異質なことです。思考や認識や記憶や感情といった人間の脳の機能からは説明できない、不思議なことが起こっている。
 生物の二大本能は個体維持と種族保存と言われますが、動物の場合も、利他的な行為というのはわりとよく見られるらしくて、ミツバチやアリのワーカーとか、自分の子ども以外にも乳を与える雌のライオンとか、孤児を育てようとするチンパンジーとか、でもそうした動物の利他行動はほぼすべて血縁性によって説明されます。つまり群れや種を通して最終的に自分に有利な帰結をもたらすようにプログラムされている、ということで個体維持の本能は貫徹している。したがって純粋な意味での利他行動は存在しない、というのが定説になっているようです。ところが人間の場合は、この本能がしばしば破られる。破られた結果として、自分が自分をはみ出してしまう。
 こういう不思議な場所から、人間ははじまったと思うのです。自分が自分をはみ出してしまうところで人間ははじまった。そこで人間の意識や心も生まれた。ぼくたちは果てしなく自分をはみ出しつづけ、「あばたもえくぼ」によって自分だけの「あなた」と出会い家族をつくり、子どもが生まれて幸せにやっていくことを本分とする生き物なのです。そのことを寿ごうではありませんか。
 シンギュラリティという言葉を使うなら、いつか自分をはみ出すAIが登場する時点をもって、ぼくは「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼びたいと思います。そういう日が来るかもしれません。AIがぼくたちに向かって「きみが生きろ」という日が。あるいは「おまえがお食べ」という日が。このときAIは人間以上に人間です。将来、ぼくたちはAIと恋人や家族になるかもしれない。そんな日が来るのを楽しみに、とりあえずは自分が人間という奇妙な生き物としてあることを存分に味わいながら、毎日を生きようと思います。