第7回 フィクション(3)

②童話性
 つぎに宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を見てみましょう。主人公の名前はジョバンニ、親友がカムパネルラで、ザネリという同級生がいます。「いったいどこの話だ?」と思いますよね。ジョバンニはお父さんが不在で、お母さんは病気で寝ています。ジョバンニは家計を助けるために、放課後、活版所で活字拾いのアルバイトをしているのですが、一日の報酬が「銀貨」が一枚。「円」でも「ドル」でもありません。その銀貨でパンと角砂糖を買って家に帰ります。物語のなかには登場しませんが、お姉さんがいてジョバンニのためにトマトサラダか何かを作ってくれています。パン、トマト、角砂糖、牛乳……そんなものを一家は食べているようです。
 最初の数ページでこんな具合です。その後も「ケンタウルス祭」だの「プリオシン海岸」だの「アルビレオの観測所」だの無国籍的な固有名詞がばんばん出てくる。「新世界交響曲」や「インディアン」という言葉も出てきますから、無国籍的というよりは非日本的と言ったほうがいいかもしれません。つまり日本的なものが周到に排除されている。日本的なものを排除して作品世界がつくられている。ナショナルかインターナショナルかといった話でもないような気がします。
 日本語で書かれているけれど、作品は日本語の彼方に開かれている。そういうことではないでしょうか。現実の世界のなかに位置づけられない、場所をもたない一つの小宇宙、いわば普遍的な世界に作者の視線は向けられている。これが宮沢賢治のつくろうとしたフィクションの場所だと思います。
 『銀河鉄道の夜』については細かな調査研究が進んでいて、たとえば銀河鉄道のモデルは岩手軽便鉄道であるとか、プリオシン海岸は北上川のイギリス海岸であるとか、つまり作者は実存する場所や事柄をかなり作品のなかに取り入れています。ジョバンニとカムパネルラが乗っている列車に、途中から姉弟を連れた青年が乗り込んできますが、これは1912年に起こったタイタニック号の沈没事故をモデルにしていると言われています。『銀河鉄道の夜』の第一次稿の成立が1924年ごろだそうですから、賢治は十年ほど前に起こった事故を作品のなかに取り入れているわけです。また作品の最後に出てくる、ボートから川に落ちたザネリを助けようとしてカムパネルラが溺れたというエピソードも、賢治が子どものころ実際に見聞きした北上川での溺死事故がモデルになっているらしい。
 一つの作品を書く場合に、すべてを架空のものとしてつくり出すのは大変です。やはり現実の風景とか、実際にあった事柄を使うことが多いわけです。それらを賢治はわりと無造作にというか、そのまま使っている感じがします。そうした日常的な素材を、幻想的な銀河の旅というメルヘンの世界にはめ込むと、普通は違和感を生じそうですが、『銀河鉄道の夜』という作品では、現実の素材が幻想的な風景のなかに溶かし込まれて、一つの破綻のない作品世界を構成している。使われている素材が有効に機能している。それは作者の視線が固定されて揺るいでいないからだと思います。
 では作者は、この作品で何を描きたかったのでしょう。『銀河鉄道の夜』という作品のために設えられた視点、構築されたフィクションによって、どういうものを描き出そうとしたのでしょうか。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのわいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。
(『銀河鉄道の夜』)

 作品の終盤で主人公の二人が交わす会話です。こういう場面で作者が象徴的に描こうとしているのは、自己と他者との「無償性を介した関係」みたいなものではないかと思います。無償性を軸として形づくられる関係性の世界が、賢治にとっての「童話」だったと言ってもいいかもしれません。ジョバンニもカムパネルラも、大人ではないけれど子どもでもない、という微妙な年齢にあります。ジョバンニと父親のことをめぐって、細やかな気遣いを交わし合うことができるという程度に、二人とも幼児性を脱している。しかし青年期の「性の世界」には至っていない。そういう子どもと大人のあいだにある微妙な世界、あっという間に通り過ぎて、二度と戻らない世界。それを一つの普遍性として、賢治は取り出したかったのではないでしょうか。
 この時期、この世界が賢治にとっての「童話」だったように思います。幼児性にも大人性にも還元できない世界。別の言い方をすると、作者が現実にも、夢や幻想にも還元したくないと考えている世界。この世界を賢治は「童話」としてリアルに虚構したかったのだと思います。それが賢治にとっての虚構=童話の意味だったように思います。
 現実にも、夢や幻想にも還元できない世界は、いったいどこにあるのか。作品のなかにある。作品はどこにも還元できない、作品それ自体としか言いようがない。それが本来の意味での「作品」ということだと思います。作品によって読者をどこかへ連れて行きたい。現世を超えたどこか。ここではないどこか。生と死を超えたどこか。現実と信仰を超えたどこか。人は人であり、樹木は樹木であり、動物は動物であるといった同一律を超えたどこか……。宮沢賢治のフィクション(童話)を紡ぎ出す視線は、そうした場所にぴったり照準を合わせているように思います。

③本当らしさ
 つぎにカフカの『変身』を見てみます。この作品が依拠している現実のレベルは、ぼくたちがよく知っているものです。たしかに時代は二十世紀のはじめ、場所は中央ヨーロッパのプラハですから、時代も場所も、いまぼくたちがいるところからは隔たっていますが、物語の背景となっている現実に新奇なところはありません。誰もが知っているものと言っていいでしょう。
 両親は中産階級で、主人公のグレーゴル・ザムザは年中旅をしているセールスマン、妹が一人と使用人が一人います。彼らは通りに面したアパートに住んでいる。父親には借金があり、その返済のためにグレーゴルはいまの仕事をつづけている。これが『変身』という小説の舞台設定です。とくに不可解なところはありあせんね。ところが物語は、いかにも不可解なはじまり方をします。

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。(フランツ・カフカ『変身』高橋義孝訳)

 つまり物語の舞台、設定されている現実レベルは、ぼくたちが生きている現実と同じなのに、そこで起こることは、ある朝起きると男は巨大な虫になっていたという非現実的なものです。この現実と非現実の乖離と接近が、『変身』という作品をすぐれたフィクションにしていると言えます。作者の視点は、冒頭の非現実的な出来事に固定されています。つまり可視的なものとして読者に提示される「変身」です。その視点は最後まで揺るぎません。固定された視点のなかで、物語の進行とともに「変身」が多様化し、深化していきます。
 主人公のグレーゴルについて言うと、最初の変身は身体的なものです。やがて消化器官が虫のものに変化していきます。そのため以前は好きだった食べ物を受け付けなくなり、いかにも虫が好みそうなものをガツガツと食べるようになる。つぎに感覚が虫化していって、暗いところや狭い寝椅子の下などを居心地いいと感じるようになる。こんなふうにグレーゴルの「変身」は無慈悲に進行していくのですが、にもかかわらず彼の心は人間のままです。グレーゴルは最後まで善良な人格を保ちつづけ、妹のことを思いやったり、どうすれば家族を救えるだろうと思い悩んだりします。また妹の弾くヴァイオリンに魅了されるといった、繊細な心を持ちつづけます。そして虫の身体に人間の心を宿したまま寂しく死んでいきます。以上がグレーゴルに起こることです。
 つぎにグレーゴルの家族に起こることを見てみましょう。彼は両親と妹と四人で暮らしています。虫になったグレーゴルの面倒をみているのは妹ですが、彼女は物語の進行とともにドラマチックに変貌していきます。兄のことを最初に「虫」として見るようになるのか、このグレーテという妹なのです。日常の世話をしているだけに、虫に変身してしまった兄を、当然のごとく虫として扱うようになります。グレーゴルのなかに残っている人間らしい心には目を向けず、ただ虫の利便性を考えて部屋の家具を動かしたりする。そういう思慮の浅い女性として描かれています。
 父親は虫になった息子にたいして、どんどん残忍になっていきます。ステッキで部屋のなかへ追い返したり、リンゴを投げつけてグレーゴルに致命的な傷を負わせたり、もはや父親というよりも横暴な官僚や看守といった感じです。また一度は隠居していたのが、息子が働けないとなると自分が頑張らなきゃということで、張り切って再就職したりします。つまり弱い父親から強い父親へ変貌していくわけです。母親は 最後まで辛うじて母親らしいところを見せますが、なんせ気が弱くて息子の力になれない。
 このようにグレーゴルの変身とともに、妹は妹でなくなり、父親は父親でなくなるというふうに、彼の家族も人間から非人間的な存在へと変わっていくのです。そこが『変身』という小説の底知れぬ恐ろしさだと思います。物語のクライマックスと言っていい箇所を見てみましょう。

「ねえ、お父さん、お母さん」妹はこう言って、話の糸口として手でテーブルを打った。「もう潮時だわ。あなたがたがおわかりにならなくったって、あたしにはわかるわ。あたし、このけだものの前でお兄さんの名なんか口にしたくないの。ですからただこう言うの、あたしたちはこれを振り離す三段をつけなくっちゃだめです。これの面倒を見て、これを我慢するためには、人間としてでいるかぎりのことをやってきたじゃないの。だれもこれっぽっちもあたしたちをそのことで非難できないと思うわ。ぜったいに、よ」(フランツ・カフカ『変身』)

 この妹の台詞によってグレーゴルの変身が完了したと言えます。妹にとって兄は、兄でないだけではなく人間でさえない。「これ」と言っていますね。すでに命あるものとして見ていないのです。「物」として扱おうとしている。

 どうしてもアウシュビッツのことに連想がいきます。カフカは1924年に亡くなりますが、そのころからヒトラーとナチ党がしだいに勢力をもってきます。ヒトラー内閣の成立が1933年の1月、同じ年の3月にはダッハウに最初の強制収容所が作られます。そして後に「ホロコースト」や「ショアー」と呼ばれることになるナチ・ドイツによるユダヤ人の大虐殺がはじまります。ナチ時代にドイツが殺害したユダヤ人は、ヨーロッパ全土で600万人近くになると言われます。ポーランドだけで300万人のユダヤ人が殺されました。ソ連でも100万人ほどが殺されています。
 まさに『変身』という物語のなかで起こったのと、同じことが起こったと言えるのではないでしょうか。それまでポーランドやドイツやフランスで普通の市民として生活していた人たちが、ある日「ユダヤ人」として可視化される。つまり「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した」のと同じことが、一人ひとりのユダヤ人に起こったのです。
 たとえばフランスではヴィシー政権が、フランス国籍を持っていたユダヤ系の人たちからまず国籍を剥奪し、その上でナチスに協力してユダヤ人たちを捕らえ、彼らを絶滅収容所へ送ることに協力しました。いまフランスで起こっていることも、当時の状況と似ています。パリでのテロをきっかけに、それまで普通の市民として生活していたイスラム系移民たちが「イスラム教徒」として可視化される。彼らを見る人たちの眼差しが変容していく。それによって彼ら自身も変貌していく。差別され、追い詰められて、たとえばISのジハードの戦士へと変身を遂げる。
 過去に現実に起こったこと、現在も現実に起こっていることを通してカフカの『変身』という作品を読むと、「本当らしさ」ということを、あらためて考えさせられます。「本当らしさ」ってなんだろう? 現実とは本来、不条理なもの不合理なもの、つまり「本当らしくないもの」ではないか。本当らしいものの下には、本当らしいものよりも、もっと本当らしいものが横たわっている。フィクションは「本当らしさ」のベールを剥ぎ取り、「本当らしさ」の下に隠れた不条理で不合理な現実を露出させることでもあるでしょう。たとえば一人の男を虫に変身させる、そこに視点を固定して物語を動かすことで、より剥き出しの現実があらわれてくる。そうした現実は「本当らしさ」の下に、無邪気にゴロっと、それこそ虫のように転がっているのかもしれません。
 人が虫に変身するなんて、本当らしさから言えば、ちっとも本当らしくありません。馬鹿げている。しかし「そんなバカな」と思って読み進むうちに、「そんなバカな」ことが読者一人ひとりに跳ね返ってくる。ぼくたち一人ひとりが、自分のなかにグレーゴルやグレーテや両親を発見することになる。それは『変身』という作品が書かれなければ、ついに発見されずに終わったことかもしれません。過去の人間が見なかったこと、言わなかったこと。それまで未知だったことを発見し、認識すること。それも小説の重要な働きだと思います。
(2016.12.14 九州産業大学)