第6回 フィクション(2)

 前回にひきつづきフィクションについてお話します。フィクション(虚構)の反対はファクト(事実)です。ノンフィクションでは、あくまでファクト(事実)が重視される。事実によって書き換えられ、更新されていきます。新しい事実によって、かつての「事実」が覆されるといったことは常に起こってきます。しかし小説ではそんなことは起こりません。新しく発見された事実によって、その小説が覆るということは起こりえない。なぜなら、小説は最初から事実に依拠しないフィクションだからです。
 もちろん小説も経年劣化を起こします。つまり古くなる。そうして多くの作品が過去のものになり、忘れられていきます。しかし小説が古びるのは、そこに書かれている事実が古くなるのではなく、スタイルが古くなるのだと思います。前回の授業で、小説的なフィクションとは視点を固定(fix)することである、という仮説を立てました。この仮説に基づいて言えば、小説が古びるのは、その小説を支えている視点が古びるからです。
 ぼくたちが物事を見る視線や視点は多分に歴史的なものです。たとえばセザンヌやモネのような、印象派と呼ばれる人たちが現れるまで、なんの変哲もない山や積み藁、自分の奥さんや友だちを、絵のモチーフとして見る視点は存在しませんでした。彼らがそうした眼差しを発明したと言ってもいいでしょう。同じように、国木田独歩が『武蔵野』という作品を書くまでは、雑木林のような「ただの自然」を文学的なモチーフとして見る視点は存在しませんでした。それ以前の日本の文芸で取り上げられてきた自然といえば、歌枕的な名所などがほとんどで、歌に詠まれる樹木しても、梅、松、桜といった特権的なものにかぎられていました。過去の日本にはなかった落葉した雑木林を「美」として見る感覚(視点)を、おそらくツルゲーネフなどの影響によって、独歩は日本の自然に導入し、作品の視点として固定(fix)しました。この革新的な視線が、『武蔵野』という作品の文学的な価値と言っていいと思います。
 小説においては、最初に設定する視点がとても重要な意味をもちます。この視点は固定(fix)しておかなければなりません。これを動かしてしまうと、小説的現実が矛盾をきたし、作品世界が破綻しかねません。作者が設定した視点の堅固さが、その小説の世界を支えるのです。フィクション(fiction)とは、言葉を変えて言うと「嘘」です。虚構の「虚」に「口」偏を付けると「嘘」という字になりますよね。書き手は、この嘘に最後まで責任をもたなければなりません。
 本当らしく嘘をつく。最初から、「これは嘘ですよ」と言って話をはじめる。そんなところが小説にはあります。なぜかというと、小説家は人が狭い意味で「現実」と呼んでいるものに重きを置いていないからです。ぼくたちはいわゆる「現実」だけで生きているわけではありません。人間の生の奇妙さは現実に還元できないところがある。現実だけがすべてでは窮屈じゃないか、と考えるのが小説家です。現実ではないものに人生の妙味というか、人間の生の汲み尽くせない深さがある。そういうものを描き、作品世界のなかに実在させる、そんなことを小説家は企てる。これが小説的な意味でのフィクションということだと思います。
 そのために様々な視点を設定するのです。この視点によって、一つの小説的現実を描き出す。だから大事な点は、いかなる目的のためにフィクションが使われているかということです。さらに言えば、そのための視点の設定の仕方は適切かどうか。その視点は、作者が狙っているものを描き出すために効果的に機能しているかどうか。具体的に作品を見ていきましょう。

①純化
 最初は自分の作品から入っていくのがいいでしょう。前にも冒頭をご紹介した、『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説です。この小説の主人公はアキと朔太郎です。正確には廣瀬亜紀さんと松本朔太郎くんです。他の登場人物にも大木龍之介くんとか、佐々木さんとか、堀田さんとか、ちゃんと日本人の名前が付いています。つまり作品は「日本」という国、地理的な場所に帰属している。そうした了解のうえに、読者は作品を読んでいきます。自分がよく知っている場所なので、ちょっと安心です。あまり余計なことを考えなくていい。
 これが「銀河の果ての惑星X」とかだと、どういう星なんだろうとか、いろんなことを考えてしまいますよね。『世界の中心で、愛をさけぶ』という作品の場合、読者にそういうことを考えさせるのは賢明ではありません。興味や関心が拡散してしまいますからね。この小説では、若い二人の恋愛というか、気持ちのやりとりへ場面に読者を最短距離で連れて行き、最後までそこに引きつけておきたいわけです。だから読者がよく知っている現実の上に物語を紡いでいく。そのことで物語の背景が透明になります。ストーリーのなかに余計なノイズが入り込まない。
 一人の人物を描こうとしている画家が、背景をあまり細かに描くと、肝心の人物が前景として立ち上がってきません。背景を単純化し、主題となる対象を豊かな色彩やボリューム感をもって描くほうが、絵は生き生きとしたものになります。このあたりのことは、小説を書くときの重要なポイントになります。さらに言えば、この作品では「○○市」とか「○○町」といった細かい地名は出していません。実在の地名として出てくるのは、オーストラリアのケアンズとエアーズロックくらいです。この二つの地名は、作品のなかでは象徴的な意味をもっているので、あえて実名を使っています。その他の地名は削除です。つまりぼくたちが生きている現実に、ある一定の基準でフィルターをかけて、かなりの部分を捨象しているのです。したがって作品の抽象度は、実際の現実のレベルよりもいくらか高いことになります。そこに視点が固定されています。

 「お別れね」と彼女は言った。「でも、悲しまないでね」
  ぼくは力なく首を横に振った。
 「わたしの身体がここにないことを除けば、悲しむことなんて何もないんだから」しばらく間を置いて彼女はつづけた。「天国はやっぱりあるような気がするの。なんだが、ここがもう天国だという気がしていた」
 「ぼくもすぐに行くから」ようやくそれだけを口にすると、
 「待ってる」アキはいかにも儚げに微笑んだ。「でも、あまり早く来なくていいよ。ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」
 「わかってる」
 「またわたしを見つけてね」
 「すぐに見つけるさ」
(片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』)

 アキの病気が悪くなって、彼女が運び込まれた病室で二人が最後の別れの言葉を交わす場面です。作品全体の一つのクライマックスと言ってもいいでしょう。つまり作者がいちばん書きたかった場面ということになります。二人の見ず知らずの男女が出会って、こういった言葉を交わし、気持ちを通い合わせられるところまで行けたら、人と人との関係としては理想なんじゃないか。そういう作者の思いというか、願いみたいなものが、この場面を書かせています。
 ありえないことではありません。ある状況に置かれれば、充分にありえることだと思います。いろんな現実的障害や周囲の人間関係を取り除き、一人と一人の心や魂や気持ちを純粋に取り出したら、こうしたやりとりは充分に可能だと思います。この小説の文庫本の帯に、「一瞬のような一生。一生のような一瞬。」という秀逸なコピーが付いていたことがあります。編集者が考えてくれたものだと思いますが、たしかに「一瞬」にして過ぎ去ってしまう場面かもしれない。実際、小説のなかでも、このあとアキは亡くなってしまうわけですし、引用した場面のような緊迫した隙間のない関係が長くつづくことは、現実的には困難なことでしょう。
 するとキャッチコピーにある「一瞬」というのは、通常「現実」と呼ばれているものを捨象した、ある種の純粋性ということになるかもしれません。一瞬だけれど、それはありえる。「現実」を純化したところに現れる、もう一つの現実。この小説的現実を描き出すために、いらないものはできるだけ捨象するというのが、『世界の中心で、愛をさけぶ』という作品において設定されている視点であり、この作品におけるフィクションの性格です。
 先に人が狭い意味で「現実」と呼んでいるものに、小説家はあまり重きを置いていないと言いました。「現実」の下には、さらに善い現実が隠れている。ただ日常の生活においては、なかなか出会うことが難しい。たまたま遭遇しても、一瞬にして過ぎてしまう。でも、これ以上いいものはないというくらい、儚くも大切なものを取り出し、たしかな実在感を与えるために、ぼくたちは小説を書くのです。そのためにフィクションの力を活用するのです。(この項つづく。)