第2回 『万葉集』(前半)

1 どういう書物か

 日本に現存する文学的な作品として、最古のものの一つで、主に「短歌」と呼ばれる三十一音の短い詩が集められている。短歌のほかに長歌と呼ばれる、もう少し長い詩も収録されているが、この形式はほとんど『万葉集』のなかにだけ見られるもので、後代に継承されて発展することはなかった。短歌のほうは、現代もプロもアマチュアも含めて大勢の実作者がいる。われわれの社会でいちばん親しまれている文学ジャンルと言っていいだろう。
 収録されている作品数は、短歌と長歌をあわせて4500余りにのぼる。成立は700年代(8世紀)後半と考えられている。千年以上も昔の作品なのに、現代のわれわれが読んでもある程度は理解できる、それなりに味わい、楽しむことができる、というのは考えてみると不思議である。キリスト教文化圏における『聖書』に近いものがあるのかもしれない。日本人によって千年以上にわたり読み継がれてきた書物、しかも庶民のレベルで親しまれてきた書物は、『万葉集』の他には考えられないだろう。
 五七五七七という短歌の形式が大きく寄与しているのだと思われる。この韻律、言葉のリズムが、われわれには心地よく感じられる。また日本語というのは、五音、七音という音節に馴染むようになっている。日本語自体が、こうした音のリズムとともに発達してきたという側面をもっているのかもしれない。とくに感情表現に赴くとき、このリズムを採用すると不思議にうまくいく、ということを多くの日本人は体験的に知っているようだ。そうした事情もあって、現代でも短歌の愛好者が生まれているのだろう。
 『万葉集』に収録されている歌の意味は、素人にはよくわからないものが多い。専門の研究者でないと、正確な意味はたどれないと言っていい。専門家でも持て余す歌は多くあり、彼らの解釈がすべて正しいとも限らない。しかし正確な意味はわからなくても、雰囲気やイメージ、歌が湛えている抒情のようものは、日本人であるわれわれには容易に感受できるようになっている。それは短歌が明快な韻律をもった定型詩であるからだろう。言葉のリズムによって読めてしまう、わかった気になるのである。

2 成立の事情と問題点

 朝鮮半島(百済)から日本に仏教が伝来したのが、一応、538年ということになっている。このとき仏教だけでなく、儒教や暦法、医術、易をはじめとする種々の卜占法なども入ってくる。仏教経典や漢籍とともに、本格的な文字文化が日本に移入される。漢字そのものは、もっと早く入ってきていたのだろうが、書記というかたちで文字が使われるようになったのは、この時代からと考えられている。
 最初はもっぱら渡来系氏族の手で文字は記されていた。もちろん彼らは漢文をそのまま記した。文法も、漢字の読み方や書き方も中国式である。やがて漢字の音だけを利用して、古代の大和ことばを表記するということがはじまる。これが万葉仮名と呼ばれるものである。たとえば「こひ(恋)」は「古比」「古非」「古飛」「故非」「孤悲」などと表記された。「こころ(心)」は「己己呂」「己許呂」「許己呂」「許許呂」。
 『万葉集』の冒頭に出てくる、額田王の有名な熟田津の歌がある。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな(1・8)

 これは後代の人たちが、漢字仮名交じりの表記に直してくれたものである。オリジナルの『万葉集』では、「熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜」となっている。まさに暗号である。送信したメールが文字化けしたようなものだ。こんな調子で、すべての歌が表記されている。長歌も含めて4500首! しかも「題詞」と呼ばれる、いつ誰がどんな状況でつくった歌か、という但し書きまでついている。これらの内容が、ほとんど意味不明の漢字の羅列によって表記される、といった恐ろしい世界が展開している。とても普通の人が読める代物ではない。現代のわれわれも読めないが、昔の人もやはり読めなかったらしい。
 しかし『万葉集』が大切な書物であるという認識は共有されていた。歴代天皇の歌がおさめられており、いわば神聖な書物であった。そこで村上天皇の勅令で『万葉集』の解読作業がはじまる。10世紀中ごろ、平安時代末期のことである。成立が8世紀中ごろとして、2世紀後には、すでに当時の人にもわからないものになっていたということだ。
 無理もない。漢字が使ってあるからといって、正当な漢語文であるわけではない。漢字本来の読み方は、ほとんど無視されている。漢字を無理やり日本語化してしまったというか、もとからあった日本語(大和ことば)を、主に漢字の音だけを借用して表記していったわけだから、かなり強引なやり方と言っていい。先ほどの熟田津の歌にしても、「熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜」を、どう読めば五七五七七になるのか。さらにこの歌のなかには、「世武登」や「可奈比沼」といった万葉仮名による表記に混じって、「船」「乗」「月」「潮」のように、本来の漢字の意味を大和ことばにあてはめたもの、つまり現在の訓にあたるようなものが見られる。ここには発想としてすでに漢字を音訓両用で使い、文字表記は漢字とかな文字を用いるという、その後の日本語の方向性があらわれている。こうした複雑な表記法が、解読を一層困難にしていたと言えるだろう。
 漢字で表記されたものを日本の大和ことばに戻してやる、という気の遠くなるような作業がはじまる。この作業は平安時代だけでは終わらずに、江戸時代の国学者たち、契沖、賀茂真淵、本居宣長などによっても引き継がれる。また明治以降も、斎藤茂吉、折口信夫、佐佐木信綱といった人たちが新たな解釈や解説を施している。それでも未解決な部分は残っていて、現代もなお解読作業はつづいている。まさに民族をあげての一大事業である。それほど『万葉集』は謎に満ちた、いわば難解な書物なのだ。

3 『万葉集』の中身

 『万葉集』は一巻から二十巻まであり、様々なタイプの歌が収められている。天皇や宮中の貴族が作った歌もあれば、宮廷詩人のようなプロの作者によるものもあり、一般の庶民や農民の歌が多く収められていることも大きな特徴である。ジャンル的には、儀礼的なもの、叙事詩的なもの、個人の感情をうたった抒情的なもの、自然描写に重きを置いた叙景的なものと多岐にわたる。
 7世紀中ごろから8世紀中ごろにかけての、およそ百年間につくられた歌が収められている、というのが定説だ。この前後の日本は、激動の時代といってもいいくらい、変化の激しい時期だった。それは先述のように中国から様々な文化が流入してきたからだ。このため日本の社会は、無文字の状態から漢字とかな文字による独自の表記法の確立まで、また氏族共同体や部族国家の段階から律令制のもとでの中央集権的な朝廷王権の誕生まで、きわめて短い時間にめまぐるしい展開をとげることになった。こうした事情が、『万葉集』に一種独特の活気、ダイナミズムを与えていると考えられる。
 同じ事情が『万葉集』を複雑なものにもしている。百年ほどのあいだにつくられた歌のなかでも、初期のものには古い氏族共同体の伝統的な習俗などがうたい込まれており、時代が下って新しいものには、平安期の貴族階級の生活感情、中国文化の影響を受けた美意識、価値観などが色濃く反映しているからだ。こうした重層的な構造も『万葉集』の解釈を難しくする一因となっている。

4 呪歌

 ここでは主に、折口信夫(1887~1953)と白川静(1910~2006)という二人の研究者が遺した仕事に依拠して話を進める。彼らに共通していることは、ともに『万葉集』がとどめている古代、すなわち仏教を中心とした中国の文化が伝来する以前の、古来の日本的な伝統や習俗、おそらく縄文期にまで遡る古い歴史の層に着目した点だ。そこにはアニミズムと呼ばれる、霊的な存在への信仰を中心に営まれる古代の人々の生活があった。彼らの心の動きを探るなかで、『万葉集』の歌は解釈されなければならない、と折口や白川は考えた。逆に言えば、近代的な感覚でこれらの歌を理解することはできない。現代の常識で解釈しようとすれば、かならず間違うということだ。
 こうした立場からすると、『万葉集』に収められた歌のなかで、もっとも古い時代に作られたのは、呪歌の系統に属するものということになる。歌を詠むことが神々や土地の精霊、死者の魂など、目に見えないものに働きかけるという儀式的・儀礼的な意味をもつ時代があった。そうした伝統を踏まえてつくられた歌が呪歌である。歌を詠むことは個人的な表現行為というよりは、一つの共同体において執り行われる神事に近いものだった。
 白川静が取り上げている例で見てみる。

 阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 寝も宿らめやも いにしへおもふに(1・46)
 真草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し(1・47)
 東の 野のかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡きぬ(1・48)
 日並の 皇子の尊の 馬並めて 御猟立たしし 時は来向ふ(1・49)

 軽皇子が安騎野に冬猟に出かけたとき、柿本人麻呂がつくったとされる歌である。これら四首の短歌の前に、「軽皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」と題された長歌一首がおかれているが、ここでは省略する。引用した短歌を読むだけでも、狩猟の様子はわかるだろう。まず狩猟が催される場所に到着した場面。昔ここで狩りをした人たちのことが思い出されて寝つかれないという歌にはじまり、翌朝の情景へとつづき、いよいよ狩りがはじまるときの高揚した気分までが、時系列的に歌われている。意味だけをたどっていけば、たんに冬の猟遊びを詠んだ歌である。
 白川による解釈は、以下のようなものだ。この安騎野の冬猟がおこなわれたのは693年で、軽皇子(のちの文武天皇)は11歳だった。当時の天皇は持統で、持統は天武の妃、日並皇子(草壁皇子)の母、軽皇子の祖母にあたる。天武の崩御が686年、当然、持統は息子の日並皇子を即位させようと考え、それまで地位を保全するため自らが女帝の地位につく。ところが日並皇子は皇太子にまでなりながら、天武が崩じた翌年に、即位をまたずして亡くなってしまう。そこで持統は孫である軽皇子に皇統を継承させようとする。
 こうした意図のもと、持統の手によって周到に画策されたのが安騎野の冬猟だった。猟がおこなわれた安騎野は、父である日並皇子の、かつての猟地である。その父は、天皇霊の保持者たる資格をもちながら急逝してしまった。そこで父が狩猟を楽しんだ地へ赴き、日並皇子が保持していた天皇霊を呼び起こし、それと合一することで、天皇霊を継承しようとした、というのが白川の説である。
 先の人麻呂の歌に詠まれている「旅宿り」や「旅寝」は、その地霊に接することであり、かつてそこで行われたことを復活させるための儀礼的・呪的行為だった。「うち靡き(うちなびき)」も「古念ふ(いにしへおもふ)」も、その霊を呼び起こし、接近しようとする心的営みであり、祈願を成就するための儀式だった。こうした解釈に立つなら、人麻呂がつくったとされる冬猟歌は完全に公的・儀礼的なものであり、作者の個人的な感情など入り込む余地もないと考えなければならない。
 呪歌ないし呪的な歌は、他にも様々な目的のためにつくられた。たとえばある土地を通り過ぎるときには、その地霊に挨拶をするのがならわしとされていた。これには旅の安全を祈願する意味もあっただろう。やはり白川がとりあげている例で見てみる。

 稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 可古の島見ゆ(3・253)
 天ざかる 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ(3・255)
 武庫の海の にはよくあらし 漁する 海人の釣船 波の上ゆ見ゆ(15・3609)
 古の 賢しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(9・1725)

 いずれも人麻呂の作による旅の歌である。旅といっても、後代の芭蕉たちのような個人的動機によるものではなく、国巡りと呼ばれる公的な視察、ないしは都と任地とのあいだの行き来といったものだったと考えられる。その際には、通過する土地の景観にたいして歌を献ずるというのが古代のならわしだった。これは地霊への挨拶であり、表敬の意味合いが込められていた。三首目の歌のように、海人が釣をする穏やかな海をほめることで、実際に海が静まるという呪的効果が期待されたのかもしれない。四首目の「見れど飽かぬ」になると、より積極的な賞賛ということになるだろう。いずれにせよ、たんに風景を描写している叙景の歌ではなかったと考えられる。
 古代の日本には、「国見」という農耕儀式があった。天皇や地方の長が高いところに登って、国の地勢や景色、人々の生活の様子などを望み見ることをいう。それによって一年の農事をはじめるにあたり、秋の豊穣を予祝した。この場合の「見」にも、明らかに呪的な機能が期待されている。白川によると、「みる」は視覚的な意味だけではなく、自然の景観のなかにたゆたう豊かな生命力を自己のうちに取り込むというような、対象との霊的な交通や交渉関係を含みもつ言葉として使われていた。とくに人麻呂の歌に見られるように、「みゆ」という受け身の形でうたいおさめるときには、呪語としての意味合いが強かった。
 このような「見ゆ」や「見れど飽かぬ」の用語法は、『万葉集』でも初期の歌に限られたもので、時代が下るにつれて、歌に込められた呪的意識は希薄化していく。それは律令制的な秩序の安定とともに、見知らぬ土地を通過することの不安や緊張が和らいできたせいかもしれない。国内が平定されてくれば、実際の旅の危険性も小さくなっただろう。こうした事情にともない、自然の景観は神秘性を失い、「みる」という行為からは宗教的性格が消えていく。人々のなかから、古代的な自然観や自然感情が失われていく。かわって自然の景観を美的対象として認識し、受容する観照的な態度とともに、叙景的な抒情性をもった歌が生まれてきたと考えられる。

5 鎮魂の歌・挽歌

 『万葉集』に収められた歌を、鎮魂法との関係で読み解いていくことの重要性を唱えたのは折口信夫である。『万葉集』の分類(部立て)のなかに「鎮魂」という言葉は見られない。そのかわりに「挽歌」という言葉が使われている。これは皇族や貴族たちの死に献ぜられた歌のことである。『万葉集』の編者たちにとって、「挽歌」に分類されるものだけが、鎮魂の意味をもつものと理解されていた。それ以外の歌、「雑歌」や「相聞」に分類されているものからは、すでに鎮魂歌としての機能が見失われていた。たんなる叙景や恋愛の歌として受け取られていたということだ。
 これにたいして折口は、叙景歌や恋歌と見えるものの多くは、本来は鎮魂歌であると考えた。古代の鎮魂法の中心的な観念は、「魂振り」と呼ばれるものだ。これは先の安騎野の冬猟歌にも見られるように、死者の魂を呼び起こし、自らに固着させることをいう。元来は私的な追憶や思慕といった個人的動機からではなく、天皇霊の継承というような、共同体の秩序を維持するための公的儀式として行われていたと考えられる。その点で、人麻呂の冬猟歌などは、神話と似た機能を果たしていたと言ってもいいだろう。
 氏族共同体的な集団意識のなかでは、魂というものが非常に強い威力を発揮すると考えられていた。そのため鎮魂法が重要な意味をもっていたのである。何かにつけて滅びた者への鎮魂の挨拶が欠かせなかった。これを怠ると、死者の魂は大きな禍をもたらしかねないと信じられていた。また天皇霊に見られるように、自分のなかに取り込むことができれば、権力の継承者としての威力が生じる。とくに人麻呂たちが活躍した初期万葉の時代は、絶え間ない宮廷内での勢力争いを経ながら、しだいに律令制を骨格とした天皇権力が強固に統一されていく過程にあたっている。そうした不安定な時期において、魂振りによる鎮魂法は、公的権力の確立の上でも大きな意味をもっていたはずだ。人麻呂のような宮廷作家が重用されたのも、詩歌をつくって貴人たちを楽しませるというよりは、もっと政略的な理由によるものだっただろう。
 古代の天皇の葬送儀礼に「殯(もがり)」の習俗があったことは広く知られている。これは死者の遺体を、かなり長い期間にわたり、喪屋と呼ばれる小屋に収めて葬送を行うことをいう。7世紀に書かれた『隋書倭国伝』には、「貴人は三年外に殯し」という記述が見られる。また『日本書紀』が記すところによると、天武天皇の殯は二年に及ぶ長いものだった。皇族たちの死に際しては、殯宮(もがりのみや)という遺体を安置するための建物まで設えられた。『万葉集』では「あらきのみや」と呼ばれている。殯宮に奉仕して歌舞や供膳の役を務める人たちが、「遊部(あそびべ)」という職能集団として一つの氏族を形成していたことも知られている。
 こうした風習が有力な首長層だけでなく、広く一般的に行われていたことは、大化の改新の後に出された「薄葬令」(646年)によって、庶民の殯が禁止されたことからもうかがわれる。葬送に数年という長い期間を要したことは、ちょっと異様な感じもするが、古代の人たちは、死んでも一年くらいは生死が決しないと考えていた。そのあいだは死者の復活を願いつつも、死者の霊魂を畏れ、これを慰める必要を感じたのだろう。長い時間の経過のなかで、遺体の腐敗や白骨化といった物理的変化を見届けることで、ようやく死者の最終的な死を確信できたのかもしれない。現在も行われている通夜は、殯の名残とも言われている。
 天皇のように身分の高い人が亡くなった場合は、長い葬送の期間中に、「誄詞(しのびごと)」という死者を追悼する言葉が奏上された。これは現在の弔辞に名残をとどめている。つまり死者を偲び、功績を讃えるための言葉である。ここから挽歌が生まれてきたと考えられる。『万葉集』におさめられた挽歌には、夫人などがつくったとされる後宮挽歌や、専門の詞人たちの手になる舎人挽歌などがある。
 第二巻には、とりわけ数多くの挽歌が収録されている。そのなかに「皇子尊の宮の舎人等、慟傷みて作れる歌二十三首」と題された一連の挽歌がある。ここで「皇子尊」と呼ばれているのは、安騎野の冬猟歌の主人公であった日並皇子(草壁皇子)のことである。「舎人」というのは皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者たち。皇子が亡くなったとき、彼らが献じた歌ということだろう。(折口は人麻呂の代作と考えていたようだ。)
 これらの歌のなかで注目したいのは、鳥についてうたった以下の三首である。

 島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君まさずとも(2・172)
 御立せし 島をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年かはるまで(2・180)
 鳥くら立て 飼ひしかりの兒 巣立ちなば 真弓の岡に 飛び帰り来ね(2・182)

 「島の宮」というのは、皇子がいた離宮のようなところだろう。皇子は生前、鳥を飼って愛玩していたのかもしれない。その鳥たちが、主のいくなった宮の池の上を飛んでいる様子をうたったものである。折口も述べているように、古来より鳥は魂の運搬者と信じられていた。人の霊魂は鳥によってもたらされ、また鳥になって去るという考え方があった。とくに水辺に飛来する渡り鳥は、遠く霊界へ去った死者たちの魂が、時を定めて帰ってくるものと考えられていた。
 上の歌で、最初の二首はともに「荒びな行きそ」という表現が出てくる。「どうか離れ離れになって飛んでいってくれるな」という意味だろう。三首目の歌も、皇子が飼っていた鳥の雛がかえって巣立ちをしようとしている。その鳥たちに、「また帰って来ておくれ」と呼びかけている。これらの歌は、皇子の魂を呼び戻そうとする「招魂」の歌と解すことができる。
 すると人麻呂の作とされる、つぎの歌はどうだろう。

 淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(3・266)

 夕暮れの波間を鳴きながら群れ飛ぶ千鳥をうたった叙景の歌と解釈しても、充分に歌の美しさと情感は伝わってくる。水鳥たちの鳴き騒ぐ声を聞いているうちに、ぼんやりとした気分になって、過去のことがあれやこれやと思い出される、といった体験は誰にもありがちなものだ。しかし、そうした月並みな解釈では済まないのかもしれない。この歌が詠まれたのは、人麻呂が大津の近江朝廷跡を訪れたときとされている。壬申の乱(672年)で朝廷軍が敗れ、大友皇子が自害して果ててから、いくらも年を経ていないころである。かつての大津宮は荒れ果てた廃墟になっていたことだろう。この歌について白川は、「夕波千鳥」が鳥形霊の面影をとどめているとした上で、滅びた者たちへの鎮魂歌であると断じている。(2018年10月24日)