第1回 小説とはどのようなものか

【はじめに】
 後期は主に小説というジャンルをとおして文学の話をします。小説とはどのようなものか? どんなことが、どのように書かれているのか? 過去の作品を例にとりながら具体的に考えていこうと思います。これが一回の授業の前半です。
 休憩を挟んで授業の後半では、実際に小説を書くという作業を進めます。テーマ、構成などをみんなでアイデアを出しながら考えていきます。一種の共同作業ですが、最終的には一人ひとりに実際に創作をしてもらおうと思います。
 以上が授業の二つの柱です。これだけではやや漠然としているので、並行してカフカの『変身』という作品を、少し丁寧に読んでいきます。いろいろな要素が複合し、重層している作品なので、きっとヒントになると思います。では、授業に入っていきましょう。

0 近代的な小説が登場する以前
 セルバンテスやシェークスピアは作家や小説家だったのだろうか? この時代には芸術家や表現者という概念はありませんでした。そういう特権的な地位はなかったのです。せいぜい職人さんといったところですね。パン屋さんとかお菓子屋さんといったところでしょうか。小説も文学も、近代のヒューマニズムや個人主義の誕生とともに成立します。時代的にはフランス革命(1789年)や産業革命(18世紀半ば~)のころと考えてください。

1 人間という謎が立ち現れる
 近代以前のヨーロッパでは、考えることも書くことも神様が中心でした。神のことを考え、神の考えを伝えるために書く。人間を含めて万物は神によって創造された、と考えられていた世界とは、そのようなものだったのです。なぜ、このような一神教によって支配された世界が生まれたかというと、人間が残虐な生き物だったからです。殺す、奪う、犯す、これが地上を跋扈する人間でした。手の付けられないような連中を、とりあえずキリスト教という強烈な縛りのなかでおとなしくさせようとした。それが近代までのヨーロッパの社会だったと思います。
 ところが神の権威が失墜して、人間が歴史の表舞台に現れてきた。しかも王侯貴族ではなく庶民、市民ですね。自分自身も含めて、この人間というものが謎として立ち現れてくるわけです。もともとモーセのころには「殺す、奪う、犯す」を常習としていたわけですから、うわべは庶民や市民でも、中身はいろんな邪悪なものも入り込んでいる。近代の小説を読んでご覧なさい。殺人、詐欺略奪、不倫といったことばかりが書かれています。つまりモーセの前に現れた神が「やってはいかん!」と言ったことばかりです。
 西洋の小説だけではありませんよ。みなさんは歌舞伎とかご覧になる機会はありませんか? テレビでもときどきやっていますので、一度覗いてみてください。井原西鶴も近松門左衛門も、みんなモーセの十戒を破る話を書いています。町人みたいに普通の人たちがやりたい放題。それが歌舞伎の演目になっているのですね。忠臣蔵だって非合法な殺人ですから。しかも一人の老人を四十七人の男が寄ってたかって。いやはや。

2 普通の人を描く
 要するに「殺す、奪う、犯す」を、普通の人たちが普通の生活のなかでやっちゃう。これが近代の小説と言ってもいいかもしれません。ドストエフスキーの小説はほとんどこれです。トルストイもフローベールもそうです。世界文学として名を残す小説のなかで、殺す、奪う、犯すが出てこないもののほうが少ないくらい。殺す、奪う、犯すがミックスされて「姦通」という新しいジャンルも登場します。漱石のメインテーマはこれですね。島崎藤村の『新生』もかなりドロドロです。それほどまでに普通の人たちは普通ではない。異常ではないから普通なんだけど、普通のなかにはいろいろと邪なものが入っている。これを手を返し名を変え描くことが、近代文学の大きなテーマになっていきます。
 なぜかというと、普通というのは、言葉を変えて言うと私利私欲ってことだからです。私利私欲を「自由・平等」というかたちで「普通」のことにしちゃったのが近代という時代でもあるわけです。すると各自の私利私欲が衝突することになって、人間はモーセの時代に逆戻りしちゃう。つまり「殺す、奪う、犯す」を市民社会のなかではじめちゃう。でも市民社会ですから、モードは変わります。ゲーテのウェルテルみたいに自ら命を絶ったり、漱石の先生みたいに間接的に友達を死なせてしまったり。でも根本にあるのは「殺す、奪う、犯す」というモーセの時代から変わらない人間の人間性で、神のない世界で、この始末の悪い人間性といかに付き合っていくか、というのが近代文学の最大のテーマと言えます。

3 小説には答えがない
 簡単に答えの出る問題ではありませんよね。とりあえず答えはないと言ったほうがいい。もちろん小説ですから結末はあります。でも、答えはないのです。ドストエフスキーも漱石も、結末はたいてい曖昧です。答えは読者が一人ひとりで見つけなさいってことかもしれませんね。神という絶対的な基準がないのですから、一人ひとりが好き勝手に生きるしかない。一応、法律はありますが、いい作品と言われているものは、たいてい法を超えたところで繰り広げられる人間のドラマを描こうとしています。人倫そのものというか、人間性そのものを問うようなところがあるのです。
 それは「かくあらねばならない」「かくあるべきである」という倫理が無効になった世界です。ぼくたちは心ならずも、そういう場所を生きてしまうことがあります。他人の奥さんを好きになったり、夫と子どものある身で若い男性を好きになったり。それがために人を殺めたり、情死に走ったり。困ったものです。
 こうした逸脱や侵犯が、なぜ起こるのかというと、人間とは多面的であり、その人が置かれた状況によって多様に変化するからだと思います。このように様々な状況に置かれた多面的な人間を描こうとするので、小説には一つの答えがないのです。

4 読者に問いかける
 倫理の世界には答えがあるけれど、倫理を超えた世界を描こうとする小説には答えがありません。なぜ、そんな生き方をしてしまうのか? その生き方は幸福なのか不幸なのか? 一人ひとりが考えなければなりません。小説かならずこうした問いかけを含んでいます。小説的思考とは本質的に問いかけるものです。自分ならどうするか。小説とは、想像上の人物を通して眺められた読者自身でもあります。小説上の体験を分け持つこと。主人公の体験をともに生きること。ここに仲間がいる、困難な生をともに歩む者がいる。困難さや不如意さから、夢や希望へと歩み抜けていこうとするものがいる。そう思わせる小説が書けるといいですね。

5 自由である
 これが小説のいちばんの特徴かもしれません。形式として自由である。テーマも自由である。何をどう書いてもかまわない。長さも自由である。数行でもいいし、数十冊でもいい。
 リアリズムの手法からどんどん逸脱していく、という意味でも自由です。真面目である必要はない。誇張、非常識、非現実の自由。本当らしさという壁に穴を開けるってことでしょうかね。誰もが当たり前と思っていることが、本当は当たり前でも自然でもないことを示す。
 一つの価値や権威に奉仕しないという意味でも自由です。体制に奉仕するようなものを書くべきではない。たとえば日本が戦争をはじめても、戦争を賛美するような小説を書くべきではない。これはわかりやすいですね。弱者のことを気にかける、老人や障害者にやさしくする、いたわるというのも、この社会では一つの価値です。様々な善行は一種の権威にまでなっています。こういう価値や権威にも、やっぱり小説は奉仕すべきではないと思います。そんなことは生活の現場で各自が具体的にやればいいわけです。
 小説は表現です。この世界で実現していないこと、未出現の事柄をイメージやメタファーとして描こうとするものです。あるいはフィクションという結構のなかで描こうとするものです。現に行われていることは、どんなに「善い」ことでも、すでにシステムの一部であり、現にある世界を保持するために有形無形の寄与をしています。小説は、現にある世界や人間の、さらに先へ行こうとするものです。なぜなら、その意志だけが、いまある世界を変えうるからです。
2016.9.21 九州産業大学