第4回 空間

 ここ何回か、小説の構造ということで授業を進めています。最初に語り手についてお話ししました。幾つかの作品の冒頭を引用しながら、それぞれ語り手のタイプが異なることを見てきました。カフカの『変身』のように、現実には起こりえないようなことを語りだす語り手、プルーストの『失われた時を求めて』のように、作者が自分のことを語っているのではないか思わせるような語り手。トーマス・マンの『魔の山』のように、作者が語り手として作品のなかに顔を出しているもの、反対にフローベールの『感情教育』のように、語り手が完全に透明になっているもの。いろいろなタイプの語り手がいましたね。
 前回の授業では、小説における時間の扱われ方に注目してみました。現在にいる語り手が、過去の出来事を語っている場合、語り手が現在進行形で話を進めていく場合。大まかに二つの場合があります。さらに物語の時間と叙述の時間についてもお話しました。この二つの時間を操作することによって、物語を加速させたり減速させたり、躍動させたり静止させたり、凝集させたり薄めたり、いろんな印象を作り出すことができるということですね。

 今日はひきつづき空間について考えてみましょう。小説では語り手が物語の空間を作り出します。その場合に、「ぼく」や「私」という一人称で書くか、「彼」や「彼女」や「誰其」という三人称で書くかによって、物語の空間はかなり違ったものになります。それは語り手と作品の距離関係が変わるからです。
 一人称で書く場合、「ぼく」や「私」は主人公であると同時に語り手でもあります。一人称の小説では、語り手は登場人物の一人として物語のなかにいます。そして他の登場人物と会話をしたり交わったりする。したがって物語の空間は、語り手である「ぼく」や「私」が見たり聞いたりしているもの、知っているものに限定されます。原則として、語り手がいる場所で起こることだけが記述されます。一人称の語り手は、自分の手の届く範囲のことしか語ることができません。

 朝、目が覚めると泣いていた。いつものことだ。悲しいのかどうかさえ、もうわからない。涙と一緒に、感情はどこかへ流れていった。しばらく布団のなかでぼんやりしていると、母がやって来て、「そろそろ起きなさい」と言った。
 雪は降っていなかったが、道路は凍結して白っぽくなっていた。半分くらいの車はチェーンを付けて走っている。父が運転する車の助手席に、アキの父親が坐った。アキの母親とぼくは後部座席に乗り込んだ。車が動きだした。運転席と助手席の男たちは、雪の話ばかりしている。搭乗時間までに空港に着けるだろうか。飛行機は予定通りに飛ぶだろうか。後部座席の二人はほとんど喋らない。ぼくは車の窓から、通りすぎていく景色をぼんやり眺めていた。
(片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』)

 自分の小説を引用するのはちょっと照れくさいですが、説明しやすいので使わせてもらいます。引用した箇所は冒頭の部分ですが、語り手の「ぼく」はすでに物語のなかにいます。そして泣いたり、車から外の景色を眺めたりしている。こんなふうに一人称で小説を書く場合、語り手はいつも物語のなかに露出しています。読者が読むのは、物語のなかにいる「ぼく」や「私」の行動、喋ったり考えたり感じたりしていることです。
 語り手を一人称にすることで、物語の空間は狭くなります。描ける範囲が制約されます。それは一人称を使うことのデメリットでもあります。しかし『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説を、もし三人称で書いていたら、作品の印象はずっと弱いものになったと思います。この小説で扱われるのは、誰かを好きになることであり、その大切な人を失うという、いわば悲痛な体験です。この体験を「ぼく」という一人称の話者が語っていく。読者は「ぼく」に寄り添って、彼の心のなかを覗き込むようにして、辛く悲しい体験を分かち合うことになります。

 アキは口のなかで何か言いかけたけれど、ぼくにはもう聞き取れなかった。行ってしまうのだ、と思った。切り立ったガラスのような思い出だけを残して、彼女は行ってしまうのだ。
 頭のなかいっぱいに、真っ青な海が広がった。あそこにはすべてがあった。何も欠けていなかった。すべてを持っていた。ところがいま、その思い出に触れようとすると、ぼくの手は血だらけになってしまう。あのまま永遠に漂っていたかった。そしてアキと二人で、海のきらめきになってしまいたかった。
(同前)

 最愛の人との別れの場面です。これをたとえば「彼は心が張り裂けるような悲しみを感じた」というふうに書くと、説得力がなくなると思います。だから題材や内容によっては、一人称で書いたほうがいい場合もあるのです。反対に三人称を採用すべき場合もあります。一概には言えないし、これは小説というジャンルの本質にかかわる難しい問題だと思います。

 三人称で物語を進める場合、語り手は作品の外側にいます。外側から、その物語を語るという構造になっています。この場合、物語は一人の登場人物の存在に制約されません。複数の登場人物について、その行動や会話や思考や感情を叙述できるので、物語の空間はずっと広くなります。
 みなさんは『源氏物語』をご存知ですね。この作品は、大まかな筋だけを見れば、光源氏を中心とした約七十年の物語と言うことができます。しかし主人公である光源氏の他に、主要な登場人物だけで50人くらいいます。そして六条の御息所とか葵の上とか、源氏を取り巻く人々、とくに彼の妻や愛人たちの心情も細やかに描写されます。したがって『源氏物語』という作品の空間は、光源氏を中心とした貴族たちの世界であり、物理的に言えば、平安京のなかの内裏を中心とした、天皇や官位の高い貴族たち、その妻や側室、側近の女性たちの暮らす世界と言うことができます。
 もう一つ、この作品の大きな構成要素は物の怪や生霊です。現代のぼくたちの感覚からすると超常的なものたちが、幽界から貴人たちの世界へ介入し、物語を統御しているのです。とくに六条の御息所の生霊は、光源氏に匹敵するほどの存在感をもって作品全体を覆っています。こうした異界のものたちに登場人物たちが遭遇する場面で、作者の筆はとくに冴えているように思えます。
 ここで取り上げるのは「葵」という章(帖)で、六条の御息所の生霊を駆り出す場面です。源氏の正妻である葵の上が、物の怪に取り憑かれて苦しんでいます。いろいろ修法や祈祷をやってみると、物の怪や生霊のようなものがたくさん出てきました。ところが一つだけ、しつこく取り憑いて離れない物の怪がある。出産を控えた葵の上の容体は悪くなる一方です。源氏が見舞うと、葵の上に取り憑いている物の怪が、「苦しくてしょうがないから調伏を緩めてくれ」と訴えます。嘆願しているのは葵の上ですが、その声も顔も六条の御息所にそっくりになっていきます。やがて子どもは無事に生まれますが、葵の上は産褥で苦しみつづけます。一方、六条の御息所は自分が生霊として葵の上に取り憑いているという噂を気に病んでいます。その御息所が、ぼんやりとしていてふと気がつくと、祈祷の護摩に焚く芥子の匂いが着物に染み込んでいる。いくら髪を洗っても着物を替えても、身体に染み付いた匂いは消えない……という生々しく印象的な場面です。
 ここでの語り手は、まず葵の上が産気づいて苦しんでいるところ、祈祷で物の怪を調伏する場面について語ります。葵の上が、とりあえず男の子を無事に出産したところで場面が変わって、六条の御息所の着物に芥子の匂いが染み込んでいたというエピソードが語られます。ここで物語を語っているのは誰でしょう? 何者と考えればいいでしょう?
 たぶん作者の紫式部は、源氏の近くにいる女房が宮中内の出来事を語る、という書き方をしていると思います。紫式部自身が、夫を亡くしたあと藤原道長の娘(中宮彰子)に使えていますから、自分に近い語り手を設定したのだと思います。でも、そういう解釈では説明のつかないところがあります。一つ例を見てみましょう。

 左大臣家では、葵の上に物の怪がさかんに現れて、その度、御病人はたいそうお苦しみになります。
 六条の御息所は、それを御自身の生霊とか、亡き父大臣の死霊などと、噂している者があるとお聞きになるにつけて、あれこれと考えつづけてごらんになります。いつでも自分ひとりの不幸を嘆くばかりで、それよりほかに他人の身の上を悪くなれなど、呪う心はさらさらなかった。けれども人はあまり悩みつづけると自分で知らない間に、魂が体から抜け出してさ迷い離れていくといわれているから、もしかしたら自分にもそういうこともあて、あの方にとり憑いていたのかもしれないと、思い当たる節もあるのでした。
(紫式部『源氏物語』「葵」瀬戸内寂聴訳)

 引用した箇所でブロック体になっているところは、六条の御息所の心のなかをそのまま描写する書き方になっています。あたかも語り手が、登場人物の心のなかを覗き込んでいるかのようです。参考のために原文を引いておきます。

 大殿には、御物の怪いたう起こりていみじうわづらひたまふ。この御生霊、故父大臣の御霊など言ふものありと聞きたまふにつけて、思しつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに人をあしかれなどと思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむと思し知らるることもあり。(小学館『日本古典文学全集』)

 原文はたったこれだけです。素っ気ないくらいですね。瀬戸内さんの現代語訳は、ずいぶん解釈や説明を補っていることがわかります。瀬戸内訳よりも古い与謝野晶子の訳ではつぎのようになっています。

 葵の君の容体はますます悪い。六条の御息所の生霊であるとも、その父である故人の大臣の亡霊が憑いている言われる噂の聞こえて来た時、御息所は自分自身の薄命を歎くほかに人を詛う心などはないが、物思いがつのればからだから離れることのあるという魂はあるいはそんな恨みを告に源氏の夫人の病床へ出没するのかもしれないと、こんなふうに悟られることもあるのであった。(『角川文庫』)

 原文をそのまま訳しているという感じですね。ずいぶんあっさりした印象です。オリジナルの雰囲気を伝えるのは与謝野訳のほうかもしれませんが、あまりにも簡略すぎて、いまのぼくたちからすると心もとない。ちょっとわかりにくくなっているところもあります。どの現代語訳で読むかは難しいところですが、やっぱり何種類かの訳を参考にするのがいいと思います。
 こうした書き方は、実は近代的な小説の特徴なのです。フローベールの『感情教育』で見たように、近代以降の小説では語り手は物語のなかに姿を見せない、というのが一つの理想とされます。この透明な語り手は、透明であるがゆえに、登場人物の心のなかにすっと入り込んで、その思考や感情を記述することができます。

 七月のはじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろと、K橋のほうへ歩きだした。
 彼は運よく階段のところでおかみに会わずにすんだ。彼の小部屋は高い五階建ての建物の屋根裏にあって、部屋というよりは、納戸に近かった。賄いと女中つきでこの小部屋を彼に貸していたおかみの部屋は、一階下にあって、彼の小部屋とははなれていたが、外に出ようと思えば、たいていは階段に向い開けはなしになっているおかみの台所のまえを、どうしても通らなければならなかった。そして青年はその台所のまえを通るたびに、なんとなく重苦しい気おくれを感じて、そんな自分の気持が恥ずかしくなり、顔をしかめるのだった。借りがたまっていて、おかみに会うのがこわかったのである。
(ドストエフスキー『罪と罰』工藤精一郎訳)

 前にも取り上げたドストエフスキーの作品です。ここでは三人称の客観的な描写が、いつのまにか主人公の内面描写になっています。語り手が登場人物について叙述しているところと、その人物の心のなかに入り込んで直接的に彼の心理を叙述しているところが、スムースにつながっているわけです。これが近代以降の小説の大きな特徴です。19世紀になって、はじめて現れるような書き方なのですが、それを千年も前の女性がやっていたというのは驚きですね。
 『源氏物語』は書かれた当初より話題となり、宮中で非常にもてはやされたそうです。いまで言うベストセラーです。この作品が人々の興味を惹いたのは、宮中内のゴシップみたいなものが、題材として豊富に盛り込まれていたからではないでしょうか。
 よく言われるように、『源氏物語』には主語が書かれていないことが多く、原文では誰の行為か判別が難しいのです。登場人物も、ほとんどの場合「上」とか「君」とか「宮」というふうに代名詞で呼ばれます。葵の上や紫の上、夕霧、柏木といった登場人物の呼称の多くは、後世の読者によってつけられたものです。「上」は正妻、「宮」は皇族を意味しますから、対象人物は限定されますが、「君」になると貴人や目上の人にたいする敬称で、さまざまな立場の人物にたいして広く使われます。男女も問いませんから、研究者でも判断がつかない箇所があるそうです。つまり人物Aと解しても、人物Bと読んでも意味が通ってしまうわけですね。
 そういうものを宮中の女性たちが先を争うようにして読んだのは、誰もが知っているゴシップだったからではないでしょうか。だから代名詞だけで誰のことかわかった。ほのめかしだけで、なんのことかわかったんじゃないかと思います。
 最後は話が横道に逸れてしまいましたが、今日はこれで終わりです。

2016.11.2 九州産業大学