猫が死んだ

 猫が死んだ。ぼくのかわいい猫が死んでしまった。心臓の鼓動が弱くなり、ゆっくりと間遠になっていき、ひとつ大きく息をすると止まってしまった。自分で最期の場所と定めた寝室のソファの下から、猫は真っ黒い大きな目でぼくを見つめたまま、どこかへ行ってしまった。ひょっとしてぼくのなかに入り込んだのかも、というのは虫のいい想像だね。
 最後に何か言おうとしたみたいだったけれど、声は出なかった。もし声が出ても、ぼくには「ニャー」としか聞こえなかっただろう。それでももう一度、声を聞きたかったな。
 猫はぼくのなかの何かを持っていってしまった。そして何かをもたらした。失われたものによっても、もたらされたものによっても、ぼくは豊かにされた。公園に捨てられていた一匹の猫が、贈り物をしてくれたのだ。

 猫を看取りながら、「シュレディンガーの猫」の話を思い出していた。量子レベルでは、猫は生と死という重ね合わせの状態で存在している。「私」という観測者が登場した途端、生か死かいずれかの状態を決定される。生あるいは死という決定論的な現実にとらわれる。
 一人の観測者の存在が、猫に死という現実をもたらす。猫を死という同一性に回収させたのは、ぼくという同一者の存在なのだ。だからぼくには猫の死を生きる義務がある。こうして一匹の猫の死においてさえ、ぼくたちは豊かにされる。いわんや人間においてをや。
 いつかぼくたちが複数の観測者(=不死の観測者)の眼差しをもつことができれば、猫も人間も死なない日が来るだろう。(2016年5月7日 午後10時)