新作『なにもないことが多すぎる』を語る(Part7)

k:一応、最終回ということにしよう。このままつづけていると、本体の小説よりも長くなってしまいそうだ。これから先のことを聞かせてください。新しい小説のプランとか。
K:その前に、前回の最後で「小説そのものに力がない。本当の希望になっていない」って書いたら、本を読んでくれた人から「果敢な作品だと思います」というコメントをもらって、すごくうれしかった。そんなふうに読んでくれる人もいるんだ。
k:果敢な作品ねえ。
K:生の理不尽さみたいなものを正面から書こうとしているってことだと思うんだ。出来栄えはともかく、そこを評価してもらったことがうれしかった。それで思った。いくら自分の作品だからって、あまり否定的なことばかり言うのは良くないなって。
k:いまさらって気もするぞ。
K:まあね。でも本にしてくれた編集者にも悪い気がして、ちょっと反省したんだ。どうしても本が出たあとって、取り返しのつかないことをしてしまったという気持ちになる。
k:そうなの?
K:大袈裟に言うとね。本が出る前は自信過剰で天下を取ったような気分なんだけど、本になって世に出てしまうと、ああ、どうしようって。ああすればよかった、こうすればよかったと、うまく書けなかったところばかりが気になる。しばらく自信喪失で、でもやるだけのことはやったと開き直って、つぎの作品に取り掛かるわけだけど。だから肯定的なコメントはうれしいです。これをお読みのみなさん、よろしくお願いします。
k:なんだよ、そりゃ。
K:やっぱりねえ、こんなのは小説じゃないと言われると傷つくよ。
k:そんなこと言われるのかい?
K:いや、直接言う人はいないけど、小説らしくないとか、読みにくいとか、読者にいたずらな負担を強いるとか、まあ、そういう声は毎回のように聞こえてくる。そのあたりは編集者が、かなり修正してくれてはいるんだけどね。ぼくが書いたのをそのまま本にしていたら、もっととんでもないものになっていただろうね。
k:読んでみたい気もするけど。
K:読まないほうがいいかも。何度も読まされた編集者は、あやうくノイローゼになりかけたくらいだから。
k:本当に?
K:まあ、ノイローゼっていうのは大袈裟だけど、二人とも煮詰まって先へ進めなくなった。夫婦でいえば離婚寸前ってとこまでいったよ。
k:大変だねえ。
K:もっとうまくやれないだろうかと思うけど、やれないんだな。小説だから小説っぽく書こうという割り切り方ができない。自分が生きていることを書くのが小説だと思っているから。それ以外の書き方がわからない。ぼくはこの世界で生きているわけだし、世界では毎日いろんなことが起こっている。ほとんどはろくでもないことだ。世界から流れ込んでくるものを遮断して小説を書くことはできない。それならテレビのグルメ番組やお笑い番組と同じだ。
k:言いたいことはわかるけど、もう少し巧妙にできないの?
K:自分なりにやっているつもりなんだ。
k:巧妙に?
K:これまでに書いてきたものは、すべてぼくがいる「この場所」から出発している。「この場所」で起こったり感じたり考えたりしたことを、できるだけ誠実に書こうとしているつもりなんだ。それを本にして、一応は商業出版というかたちで世に出すにあたっては、それなりの巧妙さは必要だと思うよ。
k:そろそろ執筆プランのほうへ行こうか。このブログに連載している『なお、この星の上に』がつぎの作品ってことになるのかい。
K:すでに何度も言及しているけど、この二年ほど熊本在住の森崎茂さんと『歩く浄土』という連続討議をつづけている。いま熊本は地震で大変なことになっていて、討議のほうもちょっとストップしているんだけど、近いうちに再開する予定だ。その討議のなかで、ぼくたちが扱っていることを少し話そう。これからの作品のモチーフとも重なってくると思うから。
k:お手柔らかにね。リンクが貼ってあった電子書籍をアマゾンで買って読んでみたけど、とても難しかったぞ。はっきり言って、わからないところもある。
K:それは当然だ。これまで考えられてこなかったことを、一つ一つ概念を創出しながら言葉にしていこうとしているわけだから。「内包」とか「根源の性」とか「還相の性」とか、みんな森崎さんの用語だけど、ぼくは普遍性があると思うし、とても大きな可能性を感じる。だから熊本と福岡のあいだを行ったり来たりして、もう二年以上つづけているわけなんだ。ようやく入口のあたりまで来たという実感があるので、それをぼくなりに少し言ってみるね。
k:しつこいようだけど、わかりやすく噛み砕いてね。
K:岡潔という数学者が「二つの心」ということを言っている。人間には心が二つあるってことだ。
k:いまちょっとブームだよね。
K:ブームっていうほどじゃないと思うけど、森田真生さんの『数学する身体』はわりと読まれているみたいだね。ぼくもいい本だと思う。それはともかく「二つの心」だ。岡潔の意図からは外れるかもしれないけれど、「二つの心」を比喩として使うと、ぼくたちが考えようとしていることを少し説明できる気がする。人間には二つの心がある。そう仮定して話を進めよう。この二つの心は通常は重なっている。重なった状態では透明になっていて見えない。これが「自我」とか「自己」とか、あるいは「コギト」とか呼ばれているもので、それ自体は透明なんだ。透明だから哲学的思考や科学的認識の主体になりうる。数学を記述する主体みたいなものを考えてもらえばいい。誰にとっても三角形の内角の和は180度で、それを記述する主体は透明だ。それ自体として透明な主体、すなわち自己をニーチェは「空っぽだ」と看破して気が狂ってしまった。
k:かなり問題のある要約の仕方だと思うぞ。
K:あくまで個人の意見です。
k:テレビショッピングかよ。
K:本当は二つなんだ、人間の心というのは。二つが重なり合って透明になっている。透明だから各自が「自己」という意味を与えて、この同一性をぼくたちは生きている。でも自分というのは、それだけではニーチェが言うように空っぽなんだ。空っぽのだからなんでも入ってくる。キリスト教の神でもアッラー・アクバルでも天皇陛下万歳でもなんでも入る。善も悪もお構いなしに入る。ハイル・ヒトラーだって入る。
k:おい、真面目にやってくれよ。真面目に聞いているんだから。
K:ところが重なり合っている二つの心のうちの一つに、あるとき特別な誰かが、あるいは特別は何かがスポンと飛び込む。たとえば猫なんかが、ぴょんと飛び込んでくる。
k:真面目な話なんだろうな。
K:とても真面目だよ。一つの心には猫、その猫が入っている心とのつながりにおいて、もう一つの心が可視化される。色がついて不透明になる。これが「私」という主体なんだ。肝心な点は、向こうから一方的に飛び込んでくるってことだ。自分で飼いはじめた猫だけど、ぼくの心に猫が入り込んだのは飼い主の意思ではなかった。だから死んだ猫は、いまでもぼくの心の一つを占有しつづけている。
k:なんかオカルトっぽくなってきたな。
K:これほどリアルなことはないと思うけど。父が亡くなってから、ずっとそのことを考えているんだ。死んだ父はいまでもぼくの心のなかにいる。それだけなら誰でも言うことだけれど、向こうから入り込んだってところがミソだ。死者としての父は、息子である者の思惑や意思を超えて入り込んだ。出て行ってくれと言っても出て行かない。自分で入れたものじゃないから、自力で追い出すわけにはいかない。いつまでもいつづける。ぼくの心の一つを占有しつづける。だからぼくのもう一つの心は、しょっちゅう父のことを思い出して、懐かしかったり寂しかったりしている。つまり父という一人の死者とのつながりにおいて、ぼくの心には懐かしさや寂しさといった色がつき、感情によって不透明なものになり、可視化され主題化されるんだ。そういうぼくは空っぽではない。いろんな豊かなものに満たされている。だから邪悪なものは入ってこない。これを一人ひとりの主体「私」と考えれば、人間を別の眼差しで見ることができる。新しい世界を構想できる。それがいま、ぼくと森崎さんがやろうとしていることだ。
k:なんだか、わかったような、わからないような。
K:ちゃんと言おうとすれば、もっと言葉が必要だし、いまの段階ではうまく説明する自信がない。だから本当にサワリだけを話すんだけど、いちばん言いたいことはこうだ。これまでの歴史において、人間は一度も主体として登場したことがない。主体としての一人の「私」は、本来的に邪悪さとは無縁のものだ。善でしかありえないものだ。そういう人間は主体化されていない。歴史に登場したのは、まやかしの人間に過ぎない。
k:そこまで言うわけね。
K:もっと言うぞ。マルクスの「疎外」とハイデガーの「技術」の話をしたけれど、疎外において現れる人間も、技術において現れる人間も、主体ではまったくない。ハイデガーは「ゲシュテル」と言っているけれど、要するに徴用され動員されるものに過ぎない。徴用され、動員される現場へと人間を巻き込んでいく。それが「技術」ってことだ。これをネガティブな方向へ引っ張っていくとアウシュヴィッツになる。マルクスが「疎外」と言っているものも本質的には同じだ。ハイデガーにくらべると、マルクスは心根がいいというか、時代が牧歌的でもあったんだろうけど、疎外の現場を意識化すれば、つまり労働者に主体としての自覚をもたせれば世界は変わると考えた。その結果、スターリニズムという人類規模の災厄がもたらされた。
k:個人的な意見として聞いておこう。
K:レヴィ=ストロースやアルチュセールだって同じことを言っているよ。言い方は違うけど、人間を歴史の主体にするとアウシュヴィッツやスターリニズムに行き着くと言っている。だから反ヒューマニズムを唱えたわけだ。そこのところは、ぼくはちょっと違う。人間は本当の主体になりえていないから、アウシュヴィッツやスターリニズムに行き着いたんだ。それはともかくレヴィ=ストロースもアルチュセールも、人間は歴史的な主体などではありえないということを、それぞれのやり方で言おうとしている。アルチュセールは、ロシア革命を重層的決定のおいて起こった物質的次元の出来事であり、革命的主体などというのは虚構だと言っている。つまり弁証法を否定して唯物論だけを救済しようとしたわけだね。フーコーが『言葉と物』で言っているのも同じことだ。人間というのは言語と労働と生物学という知による構成物であり有限なものだ。主体というのは偶然でかりそめのものに過ぎない。彼らはそのことを肯定的に語っている。人間は本来歴史の主体になることはできないし、なるべきではないってことだよね。それを無理に主体にしようとするとろくなことにならない。反サルトルっていうのはそういうことだと思う。あの時代に反サルトルっていうのは、反ヒューマニズムってことだ。
k:話が難しくなってきているぞ。
K:もう少しだから。繰り返して言えば、邪悪なものとは無縁な、善でしかありえない「私」が、人間の本来の主体なんだ。そのような主体は、これまで一度も歴史に登場したことがない。人間は本来の意味で主体化されていない。人間は主体化された人間を一度も生きたことがない。まだ人間ははじまってさえいない。はじまってもいない人間の終焉や滅亡を語るってどういうことだ?
k:どういうことだって、わたしに言われても困るよ。そろそろまとめてくれよ。読んでくれている人たちも限界だと思うよ。
K:これまでの人間の歴史、マルクスの「疎外」でもハイデガーの「技術」でもいいけど、それはどういうものかというと、人間を一度も主体として登場させないまま、天然の自然を人工的な自然に置き換える、作り変えるということを延々と繰り返すものだった。その過程で核エネルギーのような、人間にとっての脅威になるものがたくさん生み出されてきた。この過程が厄介なのは、新しく生まれた人工自然が、つぎの天然自然になるってことだ。自動車だってプルーストのころは一部のブルジョアのたしなみに過ぎなかったのが、いまでは生活必需品になっている。パソコンや携帯電話もそうだ。ぼくたちが学生のころは、コンピュータなんて大学の電算機センタにしかなかったよ。それがいまでは小型化し、簡便化して日常の一部になっている。「ネイティブ」という言い方があるくらいで、すでに自然的な環境になっている。その自然を、さらに新しい技術で置き換えていく、というふうにして天然自然の人工自然による置き換えはどんどん高度化していく。ついには人間という天然自然そのものが、遺伝子記号や人工知能といった人工自然で置き換えられるところまで来た。そのことの脅威が指摘されている。たとえば人工知能の2045年問題、いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)の問題だ。
k:ホーキングやビル・ゲイツなども声明を出しているね。
K:人間が人工知能に打ち負かされるってことだと思うけど、そこで打ち負かされ、人工知能に取って代わられようとしているのは、主体化されてこなかった人間、「私」という豊穣な主体を生きたことのない人間だ。まだはじまってさえいない人間が負けると言って大騒ぎしている。いいじゃないか、そんなものは負けたって。これまで生きられたことのない新しい人間を立ち上げればいいんだ。その人間は邪悪さとは無縁の、善でしかない「私」を主体として生きる。そういう「私」を70億集めた世界を構想すればいいんだよ。