新作『なにもないことが多すぎる』を語る(Part3)

K:福島の原発事故はショックだった。この事故をどう考えればいいのか。とにかく勉強しなくてはと思った。それでマルクスの『資本論』を読み返しはじめた。
k:どうしてマルクスだったの。
K:別に誰でもよかったんだけど、すべてを根本的に考え直さなければと思った。自分の思考を鍛え直すっていうかね。マルクスとは卒論を書いたころからのご縁があって。
k:ああ、そうだったね。
K:初心に返ろうとしたわけなんだ。
k:『経済学・哲学草稿』だっけ。
K:うん、マルクスの自然哲学だ。当時は自然哲学という言い方ではなくて、疎外論と言っていたんだけどね。おかげで卒論発表会のときは、教授たちからめちゃくちゃに言われたよ。農学部だったからさ。農政経済学科ってところで、みんな農業経営とか農業政策とか、そういう論文を書いているのに、一人だけ『経哲草稿』だから。
k:はみ出し過ぎだと。
K:マルクスでも『資本論』ならOKなんだ。経済学に関係があるってことで。地代論とか入ってるしね。当時はまだマルクス経済学が幅を利かせていた。講座派、労農派という言葉も生き残っていた。ところがぼくが扱っているのは哲学的な青年マルクスで、ヘーゲルの『精神現象学』なども主要文献として入ってくる。おまえなにやってんだって話だよ。バッシングというか顰蹙というか、とにかく浮きまくってしまってね。こっちも生意気だったから、売り言葉に買い言葉で、もう喧嘩だよ、教授たちと。おまえたち何を言っているんだ。農業っていうのは、人間が自然から自己を疎外していく過程で生まれたもんじゃないか。いちばん本質的なところを考えているのに、理解できないとはどういうことだ。そんな視界の悪いことばかり考えているから経済学は停滞しているんだ、とかね。本当に頭に来ていたんだ。こいつらなんだと思ったよ。こっちは卒論を書くために、岩波から出ていた金子武蔵訳の『精神現象学』を買って、上下巻なんだけど、下巻なんて9000円だぜ、1980年くらいに。朝飯抜いて泣きたい思いで買ったんだ。それなのに……。
k:泣くなよ。
K:泣いてないよ。
k:食べ物の恨みってことか。
K:それもあるけど、勉強したいと思ってやってるわけじゃないか。学びたいこと、考えたいことに、枠組みなんてあるわけないよ。たまたま農学部の農政経済学科に籍を置いているからといって、なんで帰属に合わせてものを考えなきゃならないんだ。ほんと理解に苦しむよ。そんなことやるんなら哲学科へ行けとかさ、みんなの面前でそういうこと言うんだからね。心底彼らを軽蔑した。こいつらのやってる学問ってなんだ、ただのサラリーマンじゃないか。偉そうなこと言うんじゃないよ、とかね。こっちも負けず劣らず偉そうなんだけど。だからSEALDsの学生たちが憲法学者なんかと一緒に何かやっているのを見ると不思議な気がするんだよ。ぼくにとって大学の先生は軽蔑の対象でしかなかったから。打ち倒すべき敵と言いたいところだけれど、その価値もないと思った。
k:若気の至りってやつだね。
K:他に何がある? 若いってそういうことじゃないか。若いうちから思慮分別があるほうが気色悪いよ。
k:まあとにかく、受理されたんだろう、論文は。
K:うちの教授はいい人でね、ヘンなやつだけど好きにやらせておこうと。理解してくれたわけじゃないよ。面倒くさいから放っておこうって感じだったんじゃないかな。それでこっちは文句ない。おかげで大学院に行って、オーバードクターまでやって、その間、学会発表は一回もせず、論文を書くかわりに小説を書いて、ときどき嫌味は言われたけど追い出されることはなかった。いまから思うといいところだったなあ。なんの話だっけ?
k:原発事故のあとでマルクスを読み直した。
K:ああ、そうだった。初心に立ち返る話だ。これまで自分が考えてきたことを、もう一度根本から考え直そうっていうかね。それでマルクスの『資本論』や『経済学・哲学草稿』を読み返したんだ。線がいっぱい引いてあってね、どのページも書き込みだらけで、読む気が失せるんだけど、まあ、よく勉強していたんだなと、ちょっと二十歳のころの自分に親近感をもった。ヘーゲルも読み返した。アレクサンドル・コジェーブの『ヘーゲル読解入門』も読んだ。バタイユ、ラカン、メルロ=ポンティ、あのころのフランス人のヘーゲル理解は、みんなコジェーブ経由だよね。ものすごくよくわかった。もうわかり過ぎるくらいよくわかった。ハイデガーも読み直した。主に『存在と時間』と『技術への問い』だ。こちらも非常によくわかった。原発事故とからめて読むと、みんなわかっちゃうんだ、この人たちが考えたことは。それはヨーロッパ的思考と言ってもいいと思う。
k:たぶん読んでくれている人には、なんのことかわかんないと思うよ。
K:つまりね、ヘーゲルからマルクスを挟んでハイデガーというふうにとらえると、それは一つの巨大な思考の体系をなしていて、出口がないんだ。彼らの思考の仕方で考えるかぎり、体系の外へは出られない。そのなかでアウシュヴィッツも原発事故も起こるべくして起こる。必然というか不可避なんだ。そのことがよくわかった。
k:だからわからないって、普通の人は。
K:じゃあ、ちょっと説明しよう。マルクスの「疎外」という概念は、ハイデガーでは「技術」になるんだけど、これらの考え方には行き道だけで帰り道がない。人間が自己を疎外するあり方を変える方法も、人間が技術の外に出る方法も、マルクスやハイデガーの思考のなかにはないんだ。ただひたすら先へ進むだけ、要するに延長と延命だ。マルクスの自然哲学では、人間は永遠に自己疎外という生存のあり方と手を切れない。ハイデガーの技術論では、技術はより高度な技術によって乗り越えられるしかない。これがヘーゲルの弁証法だ。なぜヘーゲルが一つの体系として完璧かというと、彼の論理のなかには誤謬ってことが入っているからだ。むしろ誤謬によって、弁証法という理屈は駆動していくようにできている。だからアウシュヴィッツがあろうと原発事故が起ころうと、ヘーゲルは無傷のまま残りつづけるんだ。別の言い方をすると、ヘーゲルの思考のなかには、アウシュヴィッツや原発事故を乗り越える方法がない。乗り越えなくてもいいってことで論理が作られているから。アウシュヴィッツのあとにはヒューマニズムみたいなものをもってくればいいわけだし、原発事故のあとは自然再生エネルギーかな? でもポスト・アウシュヴィッツであったはずのヒューマニズムが、いまはグローバル・テロリズムを生んでいるわけだ。原子力のあとに出てくるエネルギーも、技術であるかぎり深刻な事故を生み出すことは間違いない。無謬性ってことはないんだ。誤謬を犯さなくなるのは、人間が人間であることをやめるときだ。少なくともヘーゲルの考え方ではそうなる。さらに言えば、プラトンから現在に至るヨーロッパ的な思考でもそうなる。それ以外の人間の定義はない。そしてヨーロッパ的思考の枠内で人間を考えるかぎり、テロリズムやテクノロジーの問題は解けない。もちろんマルクスの自然哲学も、ハイデガーの技術論も歯が立たない。行き詰まっちゃったわけだ。
k:なるほど。
K:ヘーゲルやマルクスではダメだってことはわかった。そのことはもう覆らない。ところがぼく自身、考えることをマルクスやヘーゲルから学んだわけでね。「疎外」とか「弁証法」とか、彼らの用語や概念を使って二十歳のころからものを考えてきた。ヘーゲルの『小論理学』なんか、もう自分の体質みたいになっている。何かを本質的に考えるってことは、ヘーゲルのように考えるってことなんだ。そしてヘーゲルのように考えるかぎり、原発事故は不可避だ。ぼくのなかではそうなる。ハイデガーの技術論は、そのことだけを非常にクリアに書いている。ヨーロッパ的な思考の枠組みで考えるかぎり、人間は技術から逃れられない。そして人間の技術のなかには、ジェノサイドや原発事故も含まれている。そこで行き詰まってしまったんだ。その先へ、どうやって行けばいいかわからなかった。