往復書簡『歩く浄土』(5)

第五信・森崎茂様(2017年9月7日)

 メキシコに行ってまいりました。いや~、楽しかったなあ。三日間、シティの中心部をうろうろしていただけなので麻薬カルテルの影はなし、危険な目に遭うこともなく、ひたすらリベラ、シケイロス、オロスコなどの絵を見てまわり、合間にビールを飲み、メキシコ料理を食べてきました。ぼくは日本ではほとんどビールを飲まないのですが、メキシコで飲むビールはとても美味しかったです。ビールそのものが美味しいし、標高2000メートルを超える高所に街があるという地理的な要因もあるのかな。
 メキシコ料理の基本はトルティージャというトウモロコシの粉をクレープ状に焼いたものの上に、肉や魚や野菜をのっけて、いろんなチリソースをかけて食べるというスタイルです。具にもバナナやサトイモや豆、チョコレートなどが入っているので油断がなりません。彼の地には、いまだ糖質制限という観念は伝来していないようです。出されたものをなんでも「Taste is good!」と言って食べるので、案内してくれた人が「あなたはいいstomachをお持ちですね」と褒めて(?)くれました。「おかげさまで」と言おうとして、「おかげさま」って英語でなんだっけ? と考え込んだりして。
 肝心の講演では「内包」の風味くらいは伝えたいとがんばりましたが、ちょっと難しかったかもしれませんね。会場が国立工科大学というから、理系のインテリを想定してペンローズのことなども入れていたのに、蓋を開けてみると聴衆のほとんどは普通のおっさん、おばさんで、なかには子ども連れのお父さんもいたりしてあせりました。でも、そういう人たちが読者というのはちょっとうれしかったな。求められて本にサインをすると、「ついでにここにチュウしてよ」と豊満なおばさんの頬が迫ってきたりして、なにかとメキシカンには圧倒されます。
 後半の質疑応答では率直な質問が飛び出して、なかなか面白かったです。「あんた、なんで死のことばっかり考えてんのよ」とたずねられたので、死というのは人類最大の共同幻想……という言葉はスペイン語に翻訳が難しいだろうから、最大の妄想なんです。この妄想をコントロールしてマネイジングしようとしているのがグローバリゼーションなんです。だから死を超えることはグローバリゼーションを超えることと同じなんです、みたいなことを言うと、「なるほど」とも「?」ともつかない微妙な顔をしていました。最後にメキシカンを混乱させて一矢報いることができたかな?

 人類最大の共同幻想である「死」が医学や生化学によってコントロールされ、70億の人類が一つの粗視化領域としてマネイジングされるとき、ユートピアとディストピアは同じものになってしまいます。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界ですね。伊藤さんの小説でも強調されているように、けっして誰かが意図的に、悪意をもってデザインしているわけではないのですね。いわば人間の自然、欲望や私性が不可避的に、そのような世界を生み出している。現在はそこへ向かう過渡期にあり、過渡期ゆえの混乱が生じているということだと思います。
 いただいた第四信の冒頭に、二千年ほど前に東洋と西欧でそれぞれ仏と神という超越が発明されたとあります。この言い方をお借りすれば、ビットマシンとグローバリゼーションが時間を巻き戻して、仏や神という超越が発明される前の状態に人々を戻してしまったということでしょう。神という画期的な発明から二千年をかけて人類が築き上げてきた人倫、自由や法の下での平等といった観念が、ビットマシンとグローバリゼーションによってひとたまりもなく打ち砕かれてしまった。この二千年を仮に「モダン」と呼ぶなら、ぼくたちが生きている世界は、すでにモダン以前にまで巻き戻されており、森崎さんが「精神の古代形象」と呼ばれるものが露出してきている。弱肉強食、適者生存、剥き出しの生存競争、強者による独り占め……いろいろな言い方ができるけれど、それが現在ということだと思います。
 ところで、いまあげたようなものはすべて人間の自然に根差したものであり、善悪や倫理は入っていません。つまり善悪では片付かない、どんな倫理的な言葉も届かない。もちろん近代由来の考え方は無効です。そういった世界をぼくたちは生きている。森崎さんがいつも言われているように、既存の考え方では現在の問題は解けない。新しい言葉、これまでの思考の慣性をひらく言葉をもってこないと現在起こっていることには太刀打ちできない。そのような言葉として、ぼくたちは「内包」を彫琢しようとしているのだと思います。
 これも前に森崎さんが言われていたことですが、レヴィナスが好んで引用するパスカルの「ここはおれの日向だ」という自然、これ以上に強い自然を人類はつくることができませんでした。そのことが前景化しているのだと思います。たしかに神という超越も、自由や法の下での平等という観念も偉大な革命ではありましたが、「ここはおれの日向だ」という人間の自然を包摂するものではありえませんでした。むしろ相互の「ここはおれの日向だ」を調停し、衝突を回避するための知恵(方便)として生まれた面が大きかったように思います。その現実的なツールが民主主義であり、いまもまさにそうしたものとして機能しています。
 人間が余儀なさとして身にまとった自然が、「ここはおれの日向だ」であり、この自然に根差したおのずからなる世界として剥き出しの生存競争がある。だったら「ここはおれの日向だ」という自然よりも、もっといい自然をつくろうではないか。この新しい自然を、森崎さんは「内包自然」と呼んでおられます。奪い合う自然があれば分かち合う自然もある。「ここはおれの日向だ」という自然はたしかに強力だけれど、一方で『タイタニック』のジャックのように「きみが生きろ」という自然もある。
 いま起こっていることに目を向けると、奪い合う自然や「ここはおれの日向だ」という自然に世界は覆い尽くされているように見えます。分かち合う自然や「きみが生きろ」という自然は、美談になったりハリウッド映画になったりするくらい稀で貴重で、どこかちょっと嘘っぽい。にもかかわらず、分かち合う自然や「きみが生きろ」という自然を人間の根源にして根幹と考えるのが内包論であり、人間が人間であることの公理として、この世界に内包自然を貫徹させるというもくろみのもとに、ただいま内包贈与論が進行中である、とぼくは理解しています。
 そんなことが可能なのか。可能である。不可能に見えるけれど、可能なのである。ただし不可能を可能にするためには、自己のあり方を変える必要がある。これまで人間は「同一性」という思考の慣性のもとに、「ここはおれの日向だ」という自然、奪い合う自然や強い者による独り占めという自然をつくり上げてきました。そのような自然しかつくることができずに、ここまで来てしまった。この自然のなかで、自己はおのずと一個の「私」でしかありえませんでした。けっして「私たち」でも「あなた」でもなかった。
 「あなた」のことを「私」と呼んでもいいのではないか。なぜなら、あなたは私よりも近くにいるから。この気づきとともに内包論はあります。誰もが思い当たり、現に誰もが瞬間的に、無限小の可能性として生きているにもかかわらず、これまで歴史の前面に出てくることはなかった。その場所を内包自然として自覚的に取り出そうではないか。すると自己は領域化して、この領域化した自己のもとに別の歴史を、新しい世界を構想することができる。おおよそ以上のようなところが、内包論の道筋であると思います。

 〔ことば〕は〔性〕である、と森崎さんが言われるのはよくわかります。まさに言葉は性です。そのような場所でしか発語という出来事は起こりえなかったし、また意識なるものは発生しえなかった。人間の最初の言葉は「ふたり」という場所において発語され、そのことはおのずと意識の発生をともなったはずです。これについて森崎さんは、吉本隆明の言語論を批判的に検討することを通して繰り返し考察されてきました(『歩く浄土』137、138など)。内包論が考える「おのずから」とは、「ふたり」という場所で生起する「おのずから」であり、こうした「おのずから」によって自己は直に〔性〕へひらかれています。
 親鸞にも「おのずからしからしめる」という意味で「自然(じねん)」という考え方がありますね。この自然は「他力」と呼ばれますが、親鸞の他力は仏を媒介しなければ出てきません。ここが森崎さんの引っかかっておられるところではないかと思います。つまり親鸞の他力という「おのずから」は、どうしても仏という指示性をもってしまう。仏を媒介とした「おのずから」である。仏という指示性を媒介とすることによって、衆生の「おのずから」は信の共同性をつくってしまう。
 現に親鸞の死後、仏という超越性が可視化されることで、彼の後継者たちは浄土真宗という巨大な教団をつくり上げました。これは現在、科学知が可視化されることで、たとえば傷は消毒すべしとか、バランスのとれたカロリー制限食は健康を促すとか、癌の早期発見・早期治療は延命につながるといった、巨大で強固な信の共同性がつくられているのと同じです。この信の共同性が多くの人にとっての「おのずかから」になっている。こうして「はかられないこと」が、内面を外界に同期させることと同じになってしまう。まさにビットマシンによる革命、森崎さんが「意識の外延革命」と呼ばれる現在進行中の事態ですね。
 一人ひとりの内面を科学知という共同幻想に同期させれば、そのかぎりにおいて「救い」はもたらされる。同じように、一人ひとりの内面を仏や浄土という共同幻想に同期させれば、そのかぎりにおいて「救い」がもたらされる。いずれも「宗教」としてぼくたちがよく知っている信のかたちであり、部外者から見れば頑迷固陋な思い込みのなかに閉ざされています。親鸞の他力を現在の文脈で考えると、どうしてもそのようなものにしかならないと思います。
 マルクスについて言えることが、おそらく親鸞についても言えるでしょう。マルクスの思想のなかに、その後のマルクス主義を生み出す要因があるように、親鸞の思想のなかに信の共同性をつくってしまう根がある。この根を抜こうとして、いま森崎さんは「他力のなかの他力」や「他力の手前にある他力」ということを言おうとされています。なお思索の途上ということもあって、とても難しいのですが、少しだけパラフレーズしてみます。
 繰り返して言えば、親鸞の他力という「おのずから」は仏を媒介にしています。ここに信の共同性が生まれる根を残している。これにたいして内包論では、ぼくたちは〔性〕として直に「おのずから」を生きることになる。たとえば『タイタニック』のジャックが「きみが生きろ」というのは、何かを媒介にしているのではなく〔ことば〕そのものです。あるいは相模原殺傷事件のおとうさんが亡くなった娘さんの仏壇に向かって「もうすぐいくから」と声をかけるのも、なんらかの信によって媒介されたものではなく、やはり〔ことば〕そのものであり、森崎さんの言われる「言葉が言葉を生きる」場所を浮かび上がらせています。
 こうした〔ことば〕とともにある自己とはなんなのか。おそらく「私」ではない。「きみが生きろ」という言葉のなかにも、「もうすぐいくから」という言葉のなかにも、「私」という場所はありません。これらの〔ことば〕とともに自己は「私」ではなく、「ふたり」として領域化されている。これが内包論の考える「おのずから」ということであり、この「おのずから」は親鸞の言う「他力」によるものではなく、他力よりも速やかに〔性〕として贈与されるものである。
 贈与も一つの他力ではないのか。いや、そうではない。贈与は他力の手前にある。他力よりも隙間なく自己とともにある。このような自己は「私」よりも遥か手前にあり、「根源の二人称」として内包自然のなかに息づいている。自己は「私」として所有されるものではなく、その手前で〔性〕として贈与され「ふたり」としてひらかれるものであり、ここにはどんな信の共同性の根もない。いかなる信も入り込む余地がない。
 最後はひとりごとのようになってしまいました。