往復書簡『歩く浄土』(3)

第三信・森崎茂様(2017年8月30日)

 さっそく返信をいただき、ありがとうございます。第二信の最後で言及されていた、俗と非俗のあいだのわずかな隙間ということ、とても微妙で難解ですが、大切なところですね。このわずかな隙間から、アーレントの言う「凡庸な悪」は生まれつづけるのでしょう。俗にあらずという意識は、かすかに自分を観察する視線を残しています。そこに自己意識や自己同一性の輪郭が残りつづける、ということではないかと思います。
 相模原殺傷事件で娘さんを失ったお父さんの、「元気か?」「元気ってことはねえか」という仏壇の前でのつぶやきを、ぼくたちは表現とみなすわけですが、この表現の場所を「俗にあらず」と言えるかというと、どうも違う気がします。非俗という場所からは、このお父さんの言葉は出てこないのではないでしょうか。俗と俗にあらずがぴったり重なる、このとき森崎さんの言われる「言葉が言葉を生きる」ということが起こる。そこには「凡庸な悪」が生まれる余地がない。ぼくたちが「総表現者」ということで言ってみたいのは、そういうことですね。
 いただいた書簡のなかで、テニアン島の悲劇を生き残った人たちの証言に触れられていました。辱めにあわないように、18歳の青年が母と妹を撃つ。自らも手榴弾で自決しようとしたが不発に終わり、アメリカ軍の捕虜となって戦後を生き延びる。NHKの証言フィルムでは、83歳のおじいさんになった「二瓶寅吉さん」がインタビューに答える。二瓶寅吉さんに届く言葉を真剣に考えた、と森崎さんは述べられています。
 それで思い出したのが、イスラム国の人質となって殺害された後藤健二さんのことです。殺害の動画が配信されたのは2015年2月1日の早朝でした。第一信でも書いたように、ぼくたちの対話は2014年の新年からはじまります。その記録は電子書籍版『ことばの始まる場所』(第一回~第六回)として残されています。2015年に入ると早々にシャルリー・エブド事件、さらにISによる日本人人質殺害事件と立てつづけに起こります。
 世界が激変しつつある、何かが急速に壊れつつあるという強い実感がありました。この状況の変化についていくために、ぼくたちも毎週会って話をしようということになりました。熊本と福岡を週に一回行ったり来たりするのは、正直なところかなり大変で、とくにお母さんの介護をされながらの森崎さんにとってはご負担だったと思うのですが、そのくらい詰めて話さないと状況から振り切られてしまうという危機感がありました。
 こうしてはじまった連続討議『歩く浄土』は、第五回『緊迫する世界のなかで』の編集を終え、いまは第六回に向けてこの往復書簡をはじめたところです。第一回『人倫のゆくえ』(2015年6月刊行)のなかで、森崎さんはISに殺害された後藤健二さんに触れ、「後藤さんに届く言葉」という言い方をされています。それが自分のつくろうとする「ことば」だと明言されている。どういう言葉なのか? テニアン島の悲劇を生き延びた二瓶寅吉さんに届く言葉と同じだと思います。
 討議のなかで森崎さんは、「世界のすべてから遺棄された後藤さんに言葉が届かないかぎり、何を言っても虚妄であり虚言です」と発言しておられます。たしかにそのとおりです。あのとき「I am Kenji.」というプラカードを掲げた人たちは、いまはどこにもいません。高橋源一郎が新聞で「無視されていてかわいそうだ」と書いていた湯川遥菜さんのことなど、誰もおぼえていません。高橋源一郎自身もおぼえていないかもしれない。ひどいものだと思います。こんなふうにして過ぎていく、消費されていく。まったくつながっていないのです。共感や同情で人はつながらない。命をかけた善意でもつながらない。そういうことではまるでないんだ。まさにシモーヌ・ヴェイユがいう「間違った一般化」だと思います。間違った一般化によって人はつながらない。
 どうすれば人はつながるのか? 自分に届く言葉をつくることだ、と森崎さんは言われます。後藤健二さんは自分だから、後藤さんに言葉を届けるということは、すなわち自分に言葉を届けることなんだ。そういう言葉をつくる。二瓶寅吉さんの場合もまったく同じです。そのようにして森崎さんは言葉をつくってこられました。自分に言葉を届ける。自分に届く言葉によって、はじめて人と人はつながる。一人ひとりが自分に言葉を届けようではないか。そのために森崎さんは「総表現者」や「内包自然」という概念を創出されてきた。実効性のある理念として現実味を帯びつつあると思います。
 どういうことか、少し言ってみます。ぼくは現在のグローバルな超国籍企業みたいなところが、人格を媒介とした民主主義を使って、70億の人類にたいするベーシックインカムみたいなことを現実的にやってしまうのではないかと思っています。惑星規模で考えたときに、そのほうがコストを抑えることができるというシンプルな理由によって。実利的だから現実味があると思うのです。たとえば地球上のすべての人に一律年間100万円を無条件に支給する。そのことでテロや犯罪や心身の疾患を減らすことができる。99パーセントのコストパフォーマンスを向上させられる。1パーセントの人たちからすると採算が合うわけです。
 四人家族なら年収400万円と同じです。なんとかやっていけるのではないか。もう少しいい暮らしがしたい人は働けばいいわけで、いずれにしても生きることに余裕ができる。その余裕を内包自然と総表現者で生きる。これを来るべき人類の夢として語ろうではないか、というのがぼくたちの討議の趣旨だと思います。

 自分に言葉を届けるということについて、もう少し言ってみます。誰にとっても切実な状況を想定してみましょう。ある日突然、医者から末期の癌を宣告される。余命一年とか半年とか。ぼくらの歳になれば充分にありえることです。そのとき自分に言葉を届けるということが、喫緊の問題として一人ひとりの前に立ち現れてきます。医学はまったく無力です。死を先延ばしにすることはできても、死を超えることはできない。死という観念を消すこともできない。先端的な医学も、死そのものの恐怖をどうすることもできない。
 近代思想も同様です。ヒューマニズムや人権思想や市民主義や民主主義のなかに、死の当事者となった人を資するものは何もない。だから宗教のようなものが必要とされるのでしょう。あるいは高度な医療によって飽くなきリスク回避や延命が図られるのでしょう。いまでも多くの人が癌の早期発見・早期治療に駆り立てられています。それは意識の型として、テロリストの早期発見・早期殲滅とまったく同じである、ということを森崎さんは早くから言ってこられました。犯罪は悪である、だから隔離する。病気は悪だから、治療によって除去する。隔離し、除去する。こうした考え方は、フーコーが明らかにしたように近代由来のもので、観念のかたちとしてはまったく同じなのです。
 前のメールで、ぼくたち一人ひとりの生が隅から隅まで可視化され、計測されるということに触れました。そこでどういうことが起こるのか。たとえば「私」が遺伝子のレベルでプロファイリングされて、あなたが将来各種の癌になる確率はそれぞれ何パーセントです、しかじかの治療をすれば発症のリスクを何パーセントにまで減らすことができます、といった介入がなされる。そのことを拒むことができなくなる。アンジェリーナ・ジョリーみたいにリスキーな臓器を予防的に切除する人たちも出てくる。
 生命科学や遺伝子工学にコンピュータ・サイエンスが結びつくことによって、人体そのものが商品になりつつあります。そこに巨大な市場がつくられようとしている。まさにフーコーが生権力と呼んだものによって、ぼくたちの心と身体は最後の一片に至るまで収奪されようとしている。コンピュータを駆動させているアルゴリズムは0か1かの二進法で、それはA=Aという同一性を原理としていますから、ぼくたちが自己というものをA=A、私は私であると考えるかぎり、あるいはゲスの極み乙女。ふうに言うと「私以外私じゃないの」であるかぎり、一人ひとりの生が森崎さんの言われるビットマシン社会によって収奪され尽くしてしまうことは避けようがない。
 総表現者という生の位相を可能にするための第一歩として、病気を「悪」とみなす視線を変える必要があると思います。死を恐ろしいもの、忌まわしいもの、回避し順延すべきもの、とは別様に見るまなざしをつくり出す。医学や生物学とは別の仕方で死を粗視化する。先ごろ亡くなった安保徹さんが言われたように、善悪の観念を取り払えば、癌は「低体温・低酸素・高血糖」という劣悪な条件の下で生き延びようとする生体の知恵であり、身体の表現とみなすことができます。おそらく安保さんは免疫学というフィールドにおいて、「総表現者」を立ち上げられようとしていたのではないかと思います。
 すでに何度も触れてきた相模原殺傷事件のお父さんに、ここでもう一度言葉を向けてみます。新聞の記事によると、62歳の彼は今年の春、癌と診断されたらしいのですが、延命治療はせずに毎朝仏壇の前で「もうすぐいくよ」と亡くなった娘さんに語りかけておられるそうです。つまりこのお父さんは自分の癌を「悪」とは見ていないわけです。死を恐ろしいもの、忌まわしいもの、回避し順延すべきものとも思っておられないかもしれない。「もうすぐいくよ」という言葉の場所では、死はそれほど悪いものではないと感じられる。もちろん娘さんを失った悲しみは果てしなく深い。でも、その悲しみは生きられるものになっている。
 このお父さんのなかで、死はおのずと超えられていると思います。「死」という観念は消えている。死という信の共同性は、無意識に解体されている。いったい何が起こったのでしょう。ぼくたちから見えるところでいうと、彼は毎朝仏壇の前で「もうすぐいくよ」と亡くなった娘さんに語りかけている。それから娘さんが好きだったコーヒーを供えて、「元気か?」と声をかけ、「元気ってことはねえか」とつぶやく日課を繰り返している。それだけです。でも目に見えないところで何かが起こっている。可視化できない大切なことが起こっている。この可視化できないものを、森崎さんは「内包自然」と「総表現者」という言葉で掬い取ろうとされているのだと思います。
 彼は内包自然を生きた、そこで総表現者としての生をなした、ということではないかと思います。別の言い方をすれば、彼は自分に言葉を届けたのだと思います。毎朝、亡くなった娘さんに語りかける言葉によって自分に言葉を届けた。自分に言葉を届けるというのは、そういうことではないでしょうか。
 何度か森崎さんに取り上げていただいた『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説でも同じことが起こります。あの小説のなかでアキと朔太郎という高校生のカップルは、死を前にして「いつも一緒にいるから」とか「またわたしを見つけてね」「すぐに見つけるさ」といった言葉を交わします。そこで死は超えられている。「死」という観念は消えている。相模原殺傷事件の被害者の父親と同じことが起こっているわけです。
 非常に重要なところであり、また内包論の核心だと思いますが、自分に届く言葉は、自分に向けられた言葉ではないのですね。自分に言葉を届けるということは、自分に向けて言葉を発するということではない。自分に向けられた言葉は、自己や自我という内面をつくることはできても、あるいは社会化して広く世間に配布することはできても、自分には届かない。自分に向けられた言葉は、けっして自分に届かないのです。自分に届かない言葉は誰にも届かない。誰にも届かない言葉によって、人と人がつながることはない。いつまでも「I am Kenji.」が繰り返されるだけです。どんなに酷いことも、どんなに悲しい出来事も、消費され、忘れられ、遺棄されつづける。
 ここが言葉のいちばん不思議なところだと思います。相模原殺傷事件で亡くなった娘さんとお父さんの場合も、小説のアキと朔太郎の場合も、自分に届く言葉というのは、いつも「二人」という場所で発せされたものです。しかもたんなる「二人」ではなくて、亡くなった娘さんとお父さん、アキと朔太郎というように特定の二人である。一般的な「二人」ではなくて「この二人」、お互いにとって相手が特別な「あなた」である、という場所で何かが起こる。何かが可能になる。なぜ、なぜ、なぜ……という自問の果てに、自分に向かう言葉が潰えたかに見える場所で、自分に言葉に届きはじめる。届くはずのない言葉が届きはじめる。言葉が届くことによって、死は超えられる。「死」という観念は消え、死という信の共同性から自由になることができる。二例だけでは少な過ぎてエヴィデンスにはならないかと言われるかもしれませんが、たぶん間違いありません。
 こうした不思議が可能になる場所を、森崎さんは「内包自然」と名づけておられると思います。誰もが内包自然を生きている。とりあえず無限小の可能性として、と控えめに言っておきましょうか。別の言い方をすると、特定の人に向けて「私はあなたであり、あなたは私である」と嘘偽りなく言える場所が誰のなかにもある。「私より近いあなた」を私として生きることのできる場所がある。
 映画『タイタニック』のなかで、恋人のローズを助けようとして自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックが、力尽きる間際に「きみが生きろ」と言い残す場面があります。誰に強制されたわけでもないのに、そういうことが起こる。もうずいぶん前に、山手線の駅でホームから落ちた酔っ払いを助けようとして、日本人のカメラマンと韓国人留学生が進入してきた列車にはねられ、三人とも死亡した事故がありました。三人はたまたまそのときホームに居合わせたというだけで、まったく面識がなかったそうです。ここでも同じことが起こっていると思います。
 まさに恐ろしいほどの自由のなかでなされる絶対的な善です。この「おのずからなる絶対的な善」を起点に人間を考えようじゃないか、世界をひらこうじゃないか、というのがぼくたちの試みだと思います。たしかに1パーセントと99パーセントという自然もある。奪い合う自然、適者生存という自然、それが世界を覆い尽くそうとしているように見える。しかし人間のなかには、『タイタニック』のジャックみたいに「きみが生きろ」という自然もある。思わず身が動いて、見ず知らずの他人を助けるために命を落とすという自然もある。あとから美談になるほど稀な事例ですけれど、たしかにある。誰の身にも起こりうることとしてある。
 この自然、森崎さんが「内包自然」と呼んでおられる自然は、AIやアルゴリズムの自然よりも間違いなく善いものです。誰のなかにもあって、誰もが瞬間的に、あるいは無限小の可能性としてそこを生きている。そのことを自覚しようじゃないか。自覚して積極的に取り出そうではないか。そうすれば世界は変わる。人間はもっといいものになる。
 想定される反論に答えておきましょう。「この二人」とか、特別な「あなた」とか言うけれど、そういう誰かに出会えなかったらどうするんだ。なるほど。でも、実体としての他者は、それほど重要ではないとぼくたちは考えています。実体として最愛の人とか、最愛の娘を想定しなくても、誰のなかにも例外なく「内包自然」がある、というのが内包論の出発点です。この内包自然という場所では、誰もが「私よりも近いあなた」を私として生きています。だから一人でいても二人だし、一人ひとりに訪れる死は、二人という場所においてひらかれるし、超えられるのです。そして内包自然を一人ひとりが各自のやり方でひらく、またひらきうるというのが「総表現者」という考え方です。
 カザルスはチェロで、ゴッホは絵筆で、宮沢賢治は鉛筆で、それぞれに内包自然という場所をひらいて見せてくれました。彼らにとって音楽や絵画や言葉は、「私よりも近いあなた」であったようにと思います。その特別な「あなた」を私として生きたことに、カザルスのゴッホの賢治の表現はあったと思うのです。ちょっと例として高級過ぎるかもしれませんが、彼らがやったようなことを一人ひとりが自分のやり方でやればいいと思います。
 すでに誰もが利用できるものとして、スマホやインターネットがあります。いずれベーシックインカムのようなものも、ビットマシン社会が実利的な理由から施行してしまうでしょう。インフラは着々と整いつつあります。あとは森崎さんの言われる構想力です。いまある世界の先にどういった物語を紡いでいくか。いかに人間の未来を思い描くかによって、来るべき世界はユートピアにもなればディストピアにもなる。そういう大きな曲がり角に、ぼくたちは立っているのだと思います。