往復書簡『歩く浄土』(12)

第十二信・片山恭一様(2017年11月4日)

 この往復書簡も第十二信となります。これまで4年近く片山さんと集中した討論をやってきて、言葉が噛み合うようになったという感じをもっています。ぼくたちが討論していることは、これまでだれも考えたことがないし、どの本を読んでも書いてはありません。ぼくは、ある生の知覚を内包と呼び、そこにあるリアルをながいあいだ言葉にしようとしてきました。闇夜の手探りのようにして、いくつかの概念をつくり、人類史を巻き直そうとしています。
 前回の片山さんからのメールでは総表現者と内包自然のことがおおく触れられていました。ぼくのイメージのなかでは、内包自然の大地を、総表現者としての固有の生をいきるあたらしい鳥たちが気持ちよく滑空しています。今回はふたつのことを片山さんに発信したいと思います。ひとつはコンピューターサイエンスを核として経済や科学が相互に組み込み、天然自然を革命して適者生存に沿った世界のシステムとつくろうとしているということがあります。国家も国民も内面化することを余儀なくされているという現状がある。世界システムがつぎつぎと繰り出してくる生成変化を受容するしかない猛烈な圧力を国家や人々に及ぼしています。内面と外界というモダンな人類史は、ちいさな自然とおおきな自然と言い換えることもできますが、この自然がべつの自然に取って変わられようとしている。天然自然由来の国家や宗教という共同の理念も、外界に抗する内面という自然も、同一性の権化である電脳に乗っ取られつつある。意識はさらにつるんと外延化されます。外延表現としてこの変化の過程は必然であり不可避だという共通の認識があります。電脳によって世界が組み替えられつつあるのです。片山さんとの討論でも、この変化を基軸にして状況を論じてきたと思います。このグローバルな変化に対抗して国家や内面が内向します。ナショナリズムは枯渇しているので、オカルト的に退行するしかなく、それはこの島嶼の国に根づいた自然生成の粋である天皇制を引き寄せることになります。
 ビットマシンと、金融工学、生命科学、分子生物学はきわめて相性がよく、それぞれの領域はビットマシンと入り組んだ結合をしています。利便性や快適性の快感原則が貨幣を軸に人間の心性を大きく組み替えようとしています。ビットマシンと結合した生命科学や分子生物学がやろうとしているのは心の改良だと思います。そこには心をテクノロジーによってコストパフォーマンスのいいものに改良できるという信が思考の慣性としてあるのではないか。現代の現在性として大きな特徴だと思います。グローバルな心性は心を改良できるという信をぼくたちの生に強制し、個々の生はこの信を自然として受容することになるとぼくは判断しています。もしもぼくたちがこの自然とはべつのまなざしをつくることができなければ、生はこの過程に不断に浸食されます。グローバルな変化の淘汰圧はそれほど強大だとぼくは感じています。この心性は開明的でしょうか。ぼくはオカルト的な心性だと思います。そしてテクノロジーによって改変される観念の自然とこの国固有の自然宗教である天皇制は矛盾なく融合されるのではないか。電脳由来の心が改良できるという宗教と自然生成の宗教とがなめらかに接合する。ふたつのオカルト的な理念が順接する。おそらくそういう変化のただなかを生きているような気がしています。どこまでも意識は外延されます。天然由来であろうと人工由来であろうと、内面はさまざまに変異し、心が改変されても、それぞれをつなぐ信の共同性のかたちはまったく不変です。
 戦後理念の総敗北について考えつづけています。護憲と改憲が政党間でしのぎを削っていることになっていますが、安保法制で集団的自衛権が成立したので、実質的に改憲はなっているわけで、どう緊急事態条項を憲法に入れ込んでいくかが会見の焦点です。衆議院総選挙で与党の議席数を現状維持できたことが自民大勝と報じられ、すでに新聞・テレビメディアはほぼ大政翼賛化しています。トランプ家族による国家の同族経営は目に余り、娘の来日を祝い事のように取りあげています。アベシンゾウのやりたい放題はこれからもつづくかと思うとうんざりします。国難の真犯人であるアベシンゾウが北朝鮮の脅威を煽り、国を守るというとき、国民はアベの眼中にない。この国を取り戻すというとき、アベは朕になっている。いずれにしても改憲についての態度表明は避けられません。国連の理念を基にして発言をする卓越した実務家の伊勢崎賢治が孤軍奮闘していますが、なかなかかれの主張はひろがりません。護憲派からは改憲派と呼ばれ、ヘタレの右翼からは左翼と呼ばれます。
 ぼくは伊勢崎さんとはことなる理念の場所から、生の現場から声をあげるという、ぼくの考えに原則に従って、日本国憲法第九条の戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認について意見を表明します。第九条の非戦条項と交戦権の否認は美しい物語ですが、日本の平和とアメリカの戦争は表裏一体であったという伊勢崎さんの指摘はあたっているとぼくは思います。無条件降伏をした日本に戦力を持たせないというのはアメリカの国家意志でした。その代理人をマッカーサーがやったわけですが、戦後憲法には少なくとも三重のねじれがあります。マッカーサーの臣民になりはてた戦犯の最高責任者の昭和天皇の処遇をめぐって戦勝国の思惑があり、君臨する天皇の大権を剥奪し、象徴性だけは統治のために残すという取り引きが米国と敗戦国の統治者のあいだでなされました。もちろん戦後のこの国のかたちに人々はまったく関知していません。敗戦国の統治者は国体護持ができたことに満足し、面従腹背とは言いながら、米国の国家意志にそって属国の経営をやってきました。むしろ永続的な占領は独立国家というよりは植民地というほうが実情に即しています。鬼畜米英は希望の国に変異しました。アベシンゾウが国を預かるようになって国家はまるまるアベシンゾウの私物になったようなありさまです。サイトに戦後理念の総敗北という記事を何度か書きました。まだまだ書き足りないのですが、ぼくは戦後憲法の全体が天皇制的な心性によってなり立っているような気がしてなりません。
 この問題の核心にあるものに迫りたいので少し回り道をします。
 観念の対象は制約がないなら遠隔対象性をもち、対象を粗視化しようとします。これは観念の自動性です。またその対象を認識が包括するとその対象は観念にとっての自然となります。そしてその認識にとっての自然を土台として観念はさらに未知の対象を観念の自同性によって粗視化することになります。こうやって認識にとっての観念の自然は思考の慣性という共同幻想に転化します。自然科学はこの認識の型の埒外にあるか。自然科学の思考の慣性は真でしょうか。ぼくはかなりあいまいなことが科学知という思考の慣性のなかに含まれていると思います。たとえば、バランスのとれたカロリー制限食や創傷治療や尖端のがん治療について考えてみます。高血糖を改善するには糖質を摂らなければいいのです。内服薬やインスリン注射で血糖値を抑えても、糖質を摂るかぎり食後の高血糖を防ぐことはできません。また薬物によって低血糖を起こすこともあります。血糖値の乱高下は酸化ストレスとなり、種々の生活習慣病を引き起こします。高血糖だから糖質制限をするというのは効能を一面化しています。アルツハイマー、認知症、パーキンソン、心筋梗塞、脳梗塞という血管イベントも、発がんという生活習慣病も高糖質食に関係しているように思います。炭水化物は必須栄養素ではない。しかしバランスのとれたカロリー制限食が糖尿病の治療となってきました。高血糖を薬剤で下げることが治療だとされています。
 もともと医学は数学を基礎とした理論物理学とは違い、心身相関領域にかかわっています。理論物理学は対象となる素子に心的過程はない。相対性理論をもちださなくても、ニュートン力学でも打ち上げたハヤブサは数億キロの小惑星まで到達し、地球に帰還できます。ぼくが若い頃は4つの力の統一は間近だとされていました。物理学は完成するかのようにみえていた時期があります。いまは、宇宙のことについてはなにもわかっていないということがわかっています。宇宙論の研究者は大まじめに多元宇宙や多次元宇宙を論じています。素粒子物理学は闇の中です。それは数学の論理式の行き詰まりに起因しています。宇宙の謎を解明しうる斬新な数学がないからです。ペンローズなどはいつもそのことを指摘していますね。
 数学をベースにした尖端の素粒子論があり、数学の抽象性を徐々に下界に下ろしてくると、そこにさまざまな自然諸科学が扇状地のように拡がっています。心身が相関する医学になると、検査機器の観測精度に臨床は引きずられます。病気を悪とみなし、その悪を除去することが善であるとされているからです。科学知を装う虚偽の体系です。巨大な思考の慣性が行使されています。ここでふたたび高血糖の治療を考えてみます。糖尿病の治療はバランスのとれたカロリー制限食と薬物でコントロールできるとされています。しかし徐々に悪化するだけです。ある真理命題が公理として機能しているからです。典型的な思考の慣性です。まちがった信の体系を前提にし、それを真とすることで治療の概念がつくられる。論理的に考えるとこの信の体系が虚偽であることはすぐわかります。なぜそうならないのか。それこそが思考の慣性です。
 ある認識の対象を粗視化して、観念にとっての自然とするとき、認識にとっての自然が思考の慣性によってゆがんでしまっています。たとえば、傷は消毒するという観念があります。傷の消毒をすることに左も右もリベラルも関係ない。傷は消毒するから痛くて治りが悪いのですが、傷を消毒するなという考えが、傷を消毒する治療から出てくることはありません。創傷や熱傷は湿潤な環境をつくれば痛みもなく短期間にひとりでに治癒します。鮮やかな観念の転換がここにあります。がんの三大治療もおなじです。ストレスにながいあいださらされた生体が低体温・低酸素下で生き延びようとした生命の適応現象が発がんの本態だと思います。生命の起源まで生命が先祖返りするのです。はたして病気は悪であるか。病気を悪とみなし、悪を除去することが医療行為だとされ、それは善とされます。
 ぼくはこの観念の自然そのものを相対化することが必要だと考えています。自然科学にはさまざまな階層があり、その階層ごとに観念の刻み方がありますが、論理式は数学的な思考に根拠をおいています。観念の対象を粗視化し、充分に粗視化しえたとき、その観念は人間にとっての自然となります。水一分子は水素原子二個と酸素原子一個が化学結合したものです。この認識を自然とするときこの観念のどこにも不自然はありません。ところが心身の相関する医学的な領域になるとそうはいきません。バランスのとれたカロリー制限食から糖質制限という考えが出てくることはなく、創傷治療が、さらば消毒とガーゼとなることもありません。医学知には多くの迷妄があります。精神疾患の治療もがん治療も対症療法しかなくその多くは迷妄です。身体の病も心の病も正常からの逸脱とされ、逸脱を矯正することが善だとされます。人間にとっての観念の自然とはとても厄介なものです。ある観念はおうおうにして思考の慣性の上に盛りつけられます。そして一度盛られてしまうとその観念の自然を疑うことはとても困難です。
 ここであらためて憲法第九条の戦争の永久放棄を考えます。非戦条項はある意味、日本人の無意識のようなものになっています。憲法の究極の理念として戦争放棄を詠うことは美しい物語です。自衛隊は専守防衛とは言え、通常戦力で世界第5位の武力を持つ軍隊です。警察予備隊から自衛隊への変化は冷戦構造の劇化に伴いアメリカの要請でできたものです。持続的に占領されてきた国の悲哀ですが、面従腹背しながらアメリカの国家意志に唯々諾々として従い、やがて面従腹背すら忘却し、アメリカの国家意志が日本の国体であるかのような錯覚が起こっています。希望の国アメリカとアベシンゾウは米国会で演説しました。その男がこの国を守る、日本を取り戻そうというのです。国家崩壊の瀬戸際に追い込んでいるのは安倍晋三のオカルトな理念であり、国難を招いているのが安倍晋三その人であることは自明です。
 戦争の永久放棄と世界第5位の通常戦力をもつ軍隊はまったく矛盾します。さまざまに憲法を解釈することでこの矛盾は回避されてきましたが、安倍晋三は閣議で憲法を解釈によって集団的自衛権を決定し、安保法制をつくりました。アメリカに付き従う集団的自衛権という戦争法があるわけだから、第九条に自衛隊を銘記する三項を加えようとどうしようと実質的に改憲はなっており、米軍の指揮下で戦争は可能です。
 自衛隊は違憲だが合憲であるとかうんざりする長い憲法解釈の歴史がありますが、この矛盾の本態はどこにあると片山さんは考えられますか。すべての武力を解体し、中立を謳うことが現実的だと思われますか。ぼくは解けない主題を解けない方法で語っているだけのように思います。究極の理念である戦争のない世界を実現するためのプロセスがまったくありません。戦後ながいあいだ、自衛隊は違憲か合憲かと問われてきました。違憲からやがて違憲だが合憲となり、いまはだれもそのことを疑いません。どう解釈しようと自衛隊は軍隊です。連綿と積みあげられてきた人類の叡智は、いつか起こるのが戦争だという自然を超えることができない。戦争を超える理念をつくりえていないのだから。少なくとも戦争を超える理念を人類は構想したことがありません。それほど日本の戦争を永久に放棄する理念は美しいのです。ではどうすればその世界に行くことができるのか。市民主義や民主主義ではできない。国連主導の理念を掲げても第二次大戦の戦勝国の王様クラブが常任理事国を構成していて、日本は依然として敵性国家です。存在を社会化し世界を語るとき適者生存の生の様式が変わることはない。強いものが勝ちなのです。人間が作りえた政治の理念はただひとつ。奴は敵だ、奴を殺せ。これいがいにありません。意識の外延表現の途に就くかぎり例外はないのです。
 ここで戦後憲法は天皇制ではなかったのかということとリンクさせます。天皇をなぜ崇拝するかと問われると、聖なるものは尊いからだと言葉が返ってきます。どういう聞き方をしてもおなじです。オウム返しです。戦争放棄についても憲法でそうなっているからとの返答しかない。当事者性がまったくないのです。戦争に反対しても戦争は起こります。戦争放棄の心性と天皇崇拝の心性はまったくおなじで、むしろ無条件降伏で漂白された天皇信仰が象徴性として継承され、その心性のありように戦争放棄が乗っかってきたのではないかということです。総力戦によってだれもが戦争の当事者であることから解放された戦後のある時期までは戦争放棄にはあるリアリティがあったと思います。いつの間にかその平時が日常となり、平和が恒常的である日々が実現しました。成るべくして、成るようになるこの国の自然生成の極みです。あまりにあたりまえだからだれもそのことを問うこともなくなりました。かつての大戦は軍部の統帥権の干犯によって暴走したなれの果ての無条件降伏だったとされたわけです。ここに神仏習合という日本的心性の不思議があります。
 『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」や「生者必滅、会者定離は世の習い」や、鴨長明の『方丈記』にある「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」という感性はスマホに没入する現世にあっても心音の深いところに知識ではないなにかとしてありありとありつづけています。おなじような言葉の響きを憲法第九条の非戦条項に感じるのです。日中―太平洋戦争で共同幻想が燃えさかるとき、死を天皇の赤子として受容することの感性の根っこにこの情感があったように思います。片山さんはどうですか。
 そして日本人の心性の深いところで流れているこの感性は一瞬で精神の古代形象の脊髄反射を復元します。歴史はこの繰りかえしにすぎないような気がします。もちろんこの意識のありようは外延表現そのものですから、外延表現を表現のすべてとするかぎり、この生の外に出ることはできないのです。
 どうすれば戦争や政治のない世界をつくることができるか。ぼくは意識の往還のなかにその可能性があると思います。存在を社会化するのではなく、存在を内包化するときに国家と戦争や政治のない世界が可能となります。人びとの生を衆ととらえるとき、この視線は「知識人-大衆」という権力の視線に絡め取られる。内省と遡行という虚偽の意識が相対的な善と悪をかぎりなく相克します。アベ的な心性と反アベ的な心性は同型でしかないのです。戦争のない世界を遠望するには当事者性という生の知覚が要請されます。総表現者という考えがそのことを可能とするのです。もし内包自然と総表現者という理念がないとすれば、この国の行方は絶望しかないと思います。
 戦争放棄と交戦権の否定は意識の外延性の範囲で言っても次元が違います。違うというより違いすぎるのです。一項は究極の理念であり、二項には幾重ものねじれがあります。そのいくつものねじれをないことにして美しい戦争放棄の物語があるのです。だれもが免責され、問われることがない。この心性が天皇制だと言いたいのです。非戦条項と言われる理念は当事者性を捨象して成り立っています。国民を一括りにして免罪するのです。もう二度と戦争という過ちを繰りかえしませんという誓いはいつでも戦争を可能とします。戦争を永遠に放棄するという誓いによって、あることをないことにできるし、知らないふりができるのです。そうやって凡庸な悪がいつまでも生き延びます。
 「歩く浄土188」で凡庸な悪について次のように書きました。再掲します。

 スマホでみた編集されたフィルムのなかでテニアン島の生き残りの証言がいちばん堪えた。バンザイクリフ(スーサイドクリフ)として知られるテニアン島の悲劇だ。「楽園の島は地獄になった/テニアン島・NHK・証言記録2016年9月7日」。日本から南へ2500キロ。日本の支配下にあったこの島に、昭和19年米軍が上陸。軍人と民間人併せて一万人以上が犠牲となる。米軍の砲火にさらされ、敗走する日本軍と共に住民達もカロリナス大地に追い詰められていく。生きて虜囚の辱めをうけずという戦陣訓によって、赤ちゃんを抱いた女性達がつぎつぎと絶壁からはるかな海面に身投げをする。居留民の死者は3500名余とある。島でサトウキビ栽培を営んでいた当時18歳の青年を襲った地獄を83歳になった男性が遠い目をしながら語る。ふかく印象に残った。迫り来る敵軍から逃れ、洞窟から洞窟へと絶望的な逃避をし、鬼畜米軍に殺されるよりいいと決断し多くの邦人が自決する。酷い目に遭う前に、日本兵がのこしていったこの銃で殺して欲しいと母親から懇願され、「おふくろ長い間ありがとう」といって母を撃つ。妹がこんどはわたしの番と言い、喉が渇いたという妹に溜まり水を飲ませ、撃つ。「もう撃って、お母ちゃんのところに行くから」と妹は言い遺す。その後、手榴弾で自決しようとしたが、不発。直後に捕虜となる。このテニアン島からB29が広島原爆投下にむけて出撃した。お爺さん。おれのいうことを聞け。あなたが母親と妹を手に掛けたのは事実だと思う。では、なぜ殺した母親と妹の浄土をつくらずにあなたは戦後を生きて来れたのか。非業の死を遂げたおっかさんと妹が生き返ることを考えずに生きたのか。そうではあるまい。あなたが仕方なかったとみなす自然は人為による不自然なのだ。なぜああいうことになったのか、あなたは考え尽くしたか。あなたが大衆であるか知的な人であるか、そんなことはなんの関係もない。わたしは、わたしの生存感覚を貫く体験から、知識人と大衆という権力の視線ではなく、総表現者としてのひとりを生きる場所から、あなたに根源的な問いを発している。あなたが軍に生殺与奪をにぎられ翻弄されたことは事実だとしても、そしてそのことを万遍悔いても事態はなにも変わらない。なにもかもが自然であるとみなすほかに戦後はなかったはずだ。深く深く諒解する。しかしあなたの戦争の被害者という主観はじつは統帥権を干犯した軍の指導者とおなじく自身にたいして権力としてふるまっている。この逆説に、この問いに、あなたは、それがどんなに困難であるとしても答えなくてはならない。そこにだけまぎれもなくあなたの固有の生があり、その固有の生をあなたが生きるとき、天意を覆すようにあなたの母親と妹の浄土が現成する。だれのどんな生にあっても歩く浄土を生きることができる。二瓶寅𠮷さん。生を撃断されても浄土は向こう側から来ます。根源の二人称からのうながしだとわたしは思います。

 ここでプリーモ・レーヴィの『アウシュビッツは終わらない』を内包自然の天空を滑空する総表現者のひとりとして根源的に問うてみます。少し長くなりますが、引用を貼りつけます。

「ドイツ人は強制収容所について何を知っていただろうか? 実在するという事実以外はほとんど何も知らなかった。いまでさえ何も知らないと言える。恐怖体制の実態を固く秘密にしておき、不安を広め、際限なく募らせるというやり方は、大きな効果をあげた。前にも述べたように、ゲシュタポの職員でさえ、多くは、囚人を送りこんでいる当人なのに、ラーゲルで起きていることを知らなかった。囚人の大多数も、収容所がどのように機能しているか、どんな方法がとられているのか、不確かな知識しかなかった。ましてドイツ国民がどうして知りえただろうか? 収容所に入ったものはまったく予想もつかなかった深淵の世界を見いだした。この事実は、秘密がいかによく保たれていたかを雄弁に物語っている。
 だが……それでも、収容所の存在を知らなかったり、治療所だと思ったりしていたドイツ人は一人もいなかった。親類や知人が収容所に送られていないドイツ人はわずかだった。少なくともだれそれが送られたと知らないものは、少なかった。またドイツ人はすべて、さまざまな形の反ユダヤ的蛮行を目にしていた。何百万ものドイツ人が、無関心や、好奇心や、侮蔑や、底意地の悪い喜びを抱きながら、シナゴーグの焼き打ちや、泥道にひざまずかされて辱めを受けているユダヤ人の男女を見たはずだ。多くのドイツ人は外国の放送で事実を知ったはずだし、ラーゲルの外で作業中の囚人と接したものも少しはいたはずだ。少なからぬドイツ人が、道や駅で、みじめな囚人の群れに出くわしているはずだ。全警察署とラーゲルの指揮官にあてられた、一九四一年十一月九日付の、警察庁及び公安委員会長官発の通達には、こう書かれている。『特に徒歩による移動中に、たとえば駅から収容所への移動時に、多数の囚人が衰弱から死に至る、もしくは昏倒する、という事実を承知おかれたい 。〔……〕一般市民にこうした事実を知らしめぬ措置は不可能である』それに監獄が満杯状態だったこと、国内のいたるところで極刑が次々に執行されていたことを知らないドイツ人はいなかった。全般的に見て事態はかなり深刻だ、と理解していた警察官や警察職員、弁護士、聖職者、社会事業家らは何千人といた。多数の実業家がラーゲルのSSに物資を供給していたし、SSの経済管理事務所に労働奴隷のあっせん願いを出した産業家もたくさんいた。またあっせん事務所の職員の多くは〔……〕多数の大企業が労働奴隷を収奪していた事実を知っていた。強制収容所の近辺や内部で働いていた労働者も少なくはなかった。色々な専門分野の大学教授がヒムラーの設立した医学研究センターに協力していたし、いくつもの公立、私立病院の医師が職業的殺人者と協働していた。またかなりの数の空軍兵士がSSの管理下に移され、そこで起きたことを知ったはずだった。ラーゲルのロシア軍捕虜の大量虐殺を知っていた士官は大勢いたし、東部の占領地域の収容所、ゲットー、町、田野で、いかにおぞましい蛮行が行われたか、はっきりと知っていた兵士や憲兵も数多くいた。それとも、こうして列挙した断定の一つでも、嘘だと言えるだろうか?」(オイゲン・コーゲン『SS国家』) 

 プリーモ・レーヴィ(1919-1987)は次のように簡潔に答えます。

 私の意見では、これらの指摘は一つたりとも嘘と言えない。だがもう一つ事実を加えなければ、全体像は完成しない。つまり、情報を得る可能性がいくつもあったのに、それでも大多数のドイツ人は知らなかった、それは知りたくなかったから、無知のままでいたいと望んだからだ。国家が行使してくるテロリズムは、確かに、抵抗不可能なほど強力な武器だ。だが全体的に見て、ドイツ国民がまったく抵抗を試みなかった、というのは事実だ。ヒットラーのドイツには特殊なたしなみが広まっていた。知っているものは語らず、知らないものは質問をせず、質問をされても答えない、というたしなみだ。こうして一般のドイツ市民は無知に安住し、その上に殻をかぶせた。ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ。目、耳、口を閉じて、目の前で何が起ころうと知ったことではない、だから自分は共犯ではない、という幻想をつくりあげたのだ。 知り、知らせることは、ナチズムから距離をとる一つの方法だった(そして結局、さほど危険でもなかった)。ドイツ国民は全体的に見て、そうしようとしなかった、この考え抜かれた意図的な怠慢こそ犯罪行為だ、と私は考える。

 片山さん。どうか生を撃断する重いことを書いていると思わないでください。ぼくはじぶんの体験を重ねながら引用しました。この世界を超えることができる表現のイメージをもっているから取りあげたのです。プリーモ・レーヴィは世界の無言の条理に曝されたまま、『溺れるものと救われるもの』を書いた翌年、自殺しました。読者の反応にうんざりしたのだと思います。読者から次のような感想文が届きます。「私は1922年に生まれ、アウシュビッツからさほど離れていない地方で育ちました。しかし実際その時には、自分からわずかな距離のところで行われていた、恐ろしい物事について、何も知りませんでした(お願いですからこの私の言葉を、都合のいい言い訳ととらないで、実際の事実として受け取っていただきたいのです)」。こういう手紙が若い世代からも寄せられていました。無理解と誤解です。疲れ果てて生を放下したのではないかと推測しています。内面と外界という堅い自然しかつくりえていないからホロコーストが起こったのであり、レーヴィもまたこの自然を超えることができませんでした。もちろん読者たちが一様に知らなかったと言う言い訳は虚偽です。知らなかったと言わなければ立つ瀬がないので生を欺瞞しているだけです。知らなかったはずはないからです。内面を社会化するとこれからも皇軍の蛮行は起こります。そして内省と遡行という意識の形式で戦争を反省しても、舌の根が乾かないうちにまた愚劣をくりかえします。内包自然のずっしりかるい生を総表現者のひとりとして生きようではないかというのが内包論です。洋の東西を問わず精神の古代形象は一瞬で脊髄反射を復元します。ほんとうに一瞬で、むきだしの世界が現前します。わたしたちの知る人倫は歯が立ちません。
 片山さん。日本国憲法第九条の戦争放棄のなにが問題なのでしょうか。憲法の前文につづいて、第一条で、前文の精神を実現するために戦争のない世界をめざすと綱領に謳えばいいのです。憲法は共同幻想であり、憲法が戦争を放棄するということは共同幻想のない世界をつくることにほかなりません。国家をひらく過渡として過程的に自衛権を認める。それだけでいいのです。もう一度、書きます。戦争は共同幻想の発露としてなされますが、憲法もまた共同の規範ですから、その共同幻想で戦争を放棄すると宣言しても非戦を実現することはできません。共同幻想のない世界だけが戦争を不能とします。ぼくの知るかぎり、内包論がその世界の可能性に王手をかけつつあります。護憲も改憲もまったく思想として同型であるとはそういうことです。護憲をいじるとこれまでの平和が乱れるからこのままのほうがいいと言うとき、この思考の慣性に、当事者性のかけらもありません。あることをないことにしてやり過ごし、事がおきたら、被害者になるという卑怯な手口です。こうやっていつまでも悪の凡庸さは生き延びます。内包論には、「知識人と大衆」という生を分割統治する権力の視線はどこにもありません。だれもが総表現者のひとりとして固有の生を生きることからしかなにも始まらないのです。そしてそれはずっしりかるい生をもたらします。
 夏井さんの新刊を読んでいてふと気づいたことがあります。穀物食が1万年あるとしたら炭水化物中心の食事に人間は適応しているのでないかと反論する人がいる。一見説得力のある意見にみえる。夏井さんはそんな人たちをアホという。それは高糖質食の思考の慣性だ。「『ヒトは1万年間、穀物を食べて生活してきたので、人体は穀物を消化するために進化してきたはずだ』と主張する科学者や栄養学者は少なくないが、科学的根拠のない浅はかな戯言である。ヒトは消化管だけで生きている生物ではないからだ。・・・たとえ消化管が穀物向けに適応・進化したとしても、脳が穀物に適応することは未来永劫ありえないのだ」(『炭水化物が人類を滅ぼす-最終回答編』)食後高血糖の急激な上昇は、全身の血管で炎症を起こす極めて危険な状態で、血糖を下げるものは今も昔もインスリンしかない。「この食後血糖上昇に、100パーセント例外なく反応するのが中脳のA10神経だ。穀物を1万年食べようが、1億年食べ続けようが、A10神経は食後の血糖上昇に反応し続けるのだ。そして、A10神経は大量のドーパミンを分泌し、報酬系を刺激する」(同前)つまりドーパミンによって幸福感を生みだし、糖質中毒になる。これが糖質依存症です。このくだりを読んでいたとき、ふいにディランの歌を思い出した。Beyond Here Lies Nothin’です。正しい食事がバランスのとれたカロリー制限食という迷妄であるように、人類史を画した思考の慣性が同一性という暗黙の公理だ。対象とする領域はちがうけど気づきは似ていると思いました。夏井さんは食と人体生理の盲点を突き、ぼくは自己を起点とする根深い思考の習慣の制約を暴き出すことで、共に理念のパラダイムシフトをやっているのです。糖質依存症も同一性も、ディランの歌にあるように、ここから先は何もない、のです。いまの時代をよく象徴していますね。