往復書簡『歩く浄土』(1)

第一信・森崎茂様(2017年8月24日)

 往復書簡をはじめるにあたり、これまでの流れを少し整理してみたいと思います。ぼくたちの対話も四年目に入り、当初にくらべると、ずいぶん見通しがよくなったことを実感しています。すでに何度か触れたように、連続討議をはじめた直接のきっかけは、2013年12月の特定秘密保護法の可決成立です。これを日本の戦後民主主義の瓦解、日本社会の劣化ととらえ、翌年の1月から、ぼくたちは定期的に会って話をするようになりました。
 状況的な流れとして、安倍政権の批判に多くの言葉を費やしてきましたが、安倍信三を悪者にして済むことではない、というのは当初からの共通認識でした。なぜ安倍の幼稚な狂気に追従してしまうのか、主権在米、アメリカ隷属でしかない安倍の政治を、なぜ多くの国民が支持するのか。その背景にある大きな時代の流れをつかみたいというのが、最初のころのメインテーマだったように思います。
 状況の本質が、グローバル企業による世界の統治、フラット化にあることは明白でした。世界の富を吸い上げる仕組みが、70億の人類すべてを対象として出来上がりつつあること、すでに出来上がってしまっていること。これにかわる世界をいかに構想するか。そうした構想力を誰ももっていないことが、安倍の政治に象徴される社会の流れに対抗できない最大の要因ではないか。

 森崎さんが好んで使われるたとえ話があります。お腹をすかした大勢の人がいて、そこに一個のパンが投げ入れられる。すると人は奪い合う。それが唯一、ぼくたちの知っている人間という自然である。マルクスは富の配分を変えようとしたけれど、人間が本来性としてもっている存在の自然性にはまったく歯が立たなかった。だったら新しい自然をつくろうではないか。もっといい自然を構想しようではないか、というのが森崎さんの内包論です。そこから「内包自然」という概念が出てきます。
 少しあればもっと欲しくなる。限られたものを独り占めしたくなる。これが人間の欲望に根ざした自然なら、一個のパンを「一緒に食べよう」「みんなで分けよう」という自然をつくろうではないか。森崎さんが最近のブログで引用しておられる詩があります。

たくさんあるから はんぶんあげるね
はんぶんになっても まだたくさん
まだあるから はんぶんあげるね
すこしへったけど まだあるから
そのまたはんぶんあげるね
とうとうあとひとつになってしまったけど
それでもはんぶんにわってあげるね
つぎにきたこには もうわけてあげられないから
のこったはんぶんの ビスケットをあげるね
ぜんぶあげちゃったけれど
ビスケットとおなじかずの
やさしさがのこっているよ
                       (堀江菜穂子「たくさんのビスケット」)

 なぜ、これが自然にならないのだろう。できないはずはない。なぜなら人間はもともと「内包存在」だから、「根源の性」を分有するものとしてはじまったのだから。「こうあるべきだ」という規範の問題ではありません。倫理として言おうとしているのでもない。おのずとそうなる。そうでしかありえない。そのことをうまく言おうとして、森崎さんご自身が苦労してこられたと思います。親鸞の他力、自然法爾、正定聚といった言葉を手がかりに、模索の状態がしばらくつづきます。やがて親鸞の往相廻向と還相廻向から、「往相の性」と「還相の性」という概念が出てくる。
 これもぼくには難しかったのですが、いまは「こういうことではないか」と思っているところを少し祖述してみます。まず「性」という言葉、これはかならずしも男女の性ということではありません。狭義にはそうですが、もっと広く「二人という関係のなかで起こる出来事」くらいの意味にとっておきたいと思います。「往相の性」は目に見える二人の関係、実体としての関係ということになります。ところで、ぼくたちが生きているなかでは、しばしば「実体化できない二人の関係」とでも言うべきものがあらわれます。
 やはり最近のブログのなかで森崎さんは、去年(2016年)7月に相模原市の障害者施設で起こった殺傷事件のことを取材した新聞記事を取り上げておられます。事件から一年が経って、被害者の父親の一人がインタビューに応じたものです。亡くなった娘さんは35歳で、残されたお父さんは62歳。ご本人は今年の春、癌と診断されたらしいのですが、延命治療はせずに、毎朝仏壇の前で「もうすぐいくよ」と亡くなった娘さんに語りかけておられるそうです。娘さんはコーヒーが好きだったので、仏壇にコーヒーを供えて「元気か?」と声をかけ、「元気ってことはねえか」とつぶやくのが日課になった、と記事は結ばれています。
 この記事から、森崎さんはとても多くのことを汲み取られているのですが、ここでは「往相の性」と「還相の性」の観点から見てみます。生前の娘さんとお父さんの関係は、父・娘という実体のもとにある関係であり、知的障害のある娘さんを可愛がって世話をしていたということで、どこにも不合理な点はありません。その娘さんが突然いなくなった、犯罪の被害者として亡くなられた。すると父・娘の関係は実体としてはもう存在していない。被害者の父親が生きているのは、実体化されない父・娘の関係ということになります。
 こうした関係は目に見えないし、合理的な思考の範疇ではうまく取り出すことができません。たとえば医学や生物学が定義する死のなかに、「もうすぐいくよ」という場所はありません。医学的に定義される死とは心停止や呼吸停止、生命活動の停止であり、また生物学的には、個体を形作っている細胞がみんな死んでしまえば、その個体は死んだとされる。最終的には水と炭素に分解されて終わりということになります。物質のレベルで死を記述すれば、おおよそそんなふうになるでしょう。そのことに異論はありません。
 しかし何か満たされないものが残ってしまう。未解決のものが残りつづけるように感じられます。それはなぜかというと、医学や生物学が記述する死が、ぼくたちの実感とはかけ離れたものであるからだと思います。こうした乖離にたいして異議を申し立てる場所を、ぼくたちはもっていません。医学や生物学の定義する死が唯一のグローバルスタンダードになって、世界市民として誰もがそれを受け入れるしかないという状況になりつつある。
 これにたいして内包論は「否」を突きつける。ぼくたち一人ひとりの生のなかには、そのいちばん奥まったところに「還相の性」があって、そこで人は実体化できない二人の関係、根源の二人称を生きることができる。相模原事件の被害者のお父さんが生きているのは、そういう場所だと思います。「もうすぐいくよ」という場所は実体ではないし、目に見えるものではない。しかしある。誰にとっても思い当たるものとしてリアルにある。「元気か?」「元気ってことはねえか」という言葉のやりとりは、けっして一般化はできないけれど、このお父さんと娘さんの関係としては、ごく自然なものだと思います。この自然を「内包自然」と呼ぼう。

 現在の状況として、死は医学・生物学的なものになろうとしています。死ねば死にっきりで、その先には何もない、という死だけが唯一のグローバルスタンダードになろうとしている。そのなかに人間の存在が閉ざされようとしている。いまの世界が向かっているのは、間違いなくこの方向です。
 医学・生物学的に粗視化された死と、その死から逆算される自己への配慮が生そのものになりつつあります。そこで病気の治療や延命、健康診断や予防医学や健康法のようなことがもくろまれる。もちろん巨大なビジネスが生まれる。いまインターネットで「遺伝子診断」を検索すると、2万円くらいでいろいろな商品が売り出されています。申し込むと、まず検査キッドが送られてくる。唾液を採取して郵送し、解析後のデータをスマートフォンなどで見ることができる。これにより生活習慣病、各種の癌、心筋梗塞、2型糖尿病、高血圧など数百種類の疾患リスクがわかるのだそうです。
 かつてフーコーが「生権力」や「生政治」と呼んだものが、コンピュータやインターネットの発達によって、圧倒的な規模とスピードで展開し、浸透しつつあることを実感します。生命科学と再生医療とグローバル経済のようなものが渾然一体となり、70億の人類の心と身体を商品化しつつある。すでに血液や血液製剤、臓器、卵子、精子、胚などが商品化され、誰でも購入できるようになっています。遺伝子を分子レベルで分解し、解剖し、操作し、増幅し、再生産する技術のおかげで、人体の個々のパーツが分子操作によって特定の個体や型や種との結びつきを解除され、安心して利用できる商品になっている。生命の諸要素が新たな可動性を獲得して移送可能なものになり、人から人へ、病気から病気へ動かすことができるようになりつつある。その結果、生きることがまるごと消費と選択の対処になろうとしている。自分の心身の健康そのものが多様な商品としてディスプレイされ、そこに非常に大きな市場が形成されようとしている。
 人間の生がまるごと可視化され、計測・計量されるものになりつつあるということだと思います。そこで生が再定義されようとしている。「人間」という概念も根本から変わることになるでしょう。たとえば美容整形からはじまり、各種のエクササイズにダイエット、性転換に臓器移植……というように、自分に働きかけることによって自己を再形成することが、消費行動として日常的なものになる。オンデマンドで自分をデザインすること、コンピュータをカスタマイズするように自分をカスタマイズして生きることが、ごく普通の生のスタイルになる。自分の心と身体を思い通りにカスタマイズすることが21世紀の「自由」になり、こうした「自由」に市民権をもたせることが、新しい「民主主義」の理念になるかもしれません。
 一連の討議のなかで、ぼくたちは常に民主主義にたいして厳しい言葉を向けてきましたが、それは民主主義がグローバリゼーションによる世界のフラット化という、いま進行しつつある事態に随伴するものでしかないからです。コンピュータやインターネットなどのIT(情報技術)と、生医療や分子生物学などのハイテクノロジーが結合することにより、極限にまで増幅され増強された適者生存の世界が立ち現れようとしています。この来るべき世界のなかで民主主義は再定義され、有効活用されていくことになるでしょう。ただ、それだけのことだと思います。
 いかにしてグローバリゼーションと民主主義の先へ行くか、そのための構想力をどこで培うか、ということにぼくたちは言葉の重心をかけてきました。別の観点から言うと、国家と貨幣を超えるというヴィジョンと構想力をもつということです。グローバリゼーションの進展によって、国民国家やドルやユーロや円といった通貨は消えるかもしれませんが、国家的なものや貨幣的なものは、より強固に一元化されて残りつづけます。こうした一元性や一括化の下で、民主主義は効果的に機能することになる。そのことは明白であり、よってグローバリゼーションと民主主義の先へ行くことと、国家と貨幣を超えるヴィジョンや構想力をもつことは同じなのです。

 ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』のなかで、貨幣はもっとも普遍的で効率的な共同幻想であると言っています。彼の言葉では「共同主観的現実」ですね。森崎さんは早くから、現在の世界で最強の共同幻想は「死」であると言ってこられました。生きていることの果てが死であるというのは、人類史の妄想であり、全人類がとらわれている迷妄である、という言い方もされています。「死」という妄想や迷妄をつくってしまった人間の観念作用を問題にすべきだということでしょう。
 人間がとらわれてきた、現在もとらわれつづけている、もっとも普遍的な共同幻想が国家と貨幣であることは間違いありません。その根っこには、「死」というより強固な共同幻想がある。言い換えれば、国家と貨幣は、死と同じところに起源をもつのです。その起源は、ひとことで言うなら「私性」ということになると思います。「私は私である」という自己同一性と言ってもいいでしょう。
 私が私でしかないなら、私とは絶海の孤島みたいなものですから、いずれ死という虚無に呑み込まれてしまうことになります。孤独な死を慰安するために、たとえば想像の共同体として国家が要請される。貨幣も同様です。私は私であるという同一性の外延態が貨幣である、と森崎さんは言っておられます。原因と結果が取り違えられているわけです。自己同一性という空虚を、その空虚の外延態である貨幣によって埋めようとすることが、土台無理な話なのですが、現在のグローバリゼーションの本態はそこにあります。私が私であることには夢も希望もない。自分が自分であるという同一性の根っこには暗い穴があいている。この穴を埋めるために、果てしない欲望が喚起される。
 人類がとらわれている、もっとも普遍的な共同幻想を解除する鍵として、死の問題があると思います。おそらく最後まで残る信の共同性でしょう。この信のなかに人間の観念は閉ざされている。よって死という信の共同性をひらくこと、死という観念のとらわれを解くことが、国家と貨幣を超えるというヴィジョンの下に現実性をもつことになります。

ぼくがじっと手を握っていると、祖父の顔に笑が広がった。「今生も悪くはなかったよ、リトル・トリー。次に生まれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな」そして、祖父は吸い込まれるように急速に遠くへ去っていった。(フォレスト・カーター『リトル・トリー』)

 このような「生きられる死」をいかにつくるか。それは医学や生物学の視線とは別のまなざしで、一人ひとりの固有な死を取り出すことだと思います。そこで新たな「自由」と「平等」が定義されます。すなわち生きることの果の死という、人類が長くとらわれつづけている妄想から解き放たれることが「自由」であり、死という共同幻想を突き抜け、その強固な信の共同性を各自がひらきうることにおいて、万人は「平等」であるというふうに。
 現に相模原事件の被害者の父親はやれているわけですよね。おそらく彼は普通の人だと思います。ごく普通の人が、娘さんを殺害されるという過酷な体験に遭遇した。医学や生物学のなかに、あるいはグローバリゼーションが供与する商品や富のなかに、当事者としての彼の場所に届くものはありません。しかし彼は言葉として、表現として、何かを自分に届けたと思います。仏壇にコーヒーを供えて「元気か?」と声をかけ、「元気ってことはねえか」とつぶやくことで。このとき彼は生の果ての死という、人類規模の迷妄から自由になっている。死という共同幻想を突き抜け、死という信の共同性を見事にひらいている。森崎さんの言葉で言えば、「還相の性」の場所を生きている。しかも万人に、このことは可能なのだ。可能だということを、ぼくたちに示してくれた。
 言ってみたいことが幾つかあります。いずれも森崎さんが創出された概念ですが、一つは「総表現者」ということです。一人ひとりが総表現者の生を生きることによって、おのずと世界のあり方は変わる。非常に重要な、大きな可能性をもつ概念だと思います。だからこそ慎重に、大切に扱いたい。ここ何回かの討議で、森崎さんが親鸞の「非僧・非俗」にこだわっておられるのは、総表現者ということをきっちり言うためには「俗にあらず」の先まで行く必要がある、ということだろうと思います。「僧にあらず」で知識人や文化人を斬り捨て、返す刀で「俗にあらず」と言った途端、微妙な付加価値がついてしまう。そこに新たな信の共同性をつくってしまうおそれがある。
 俗のままで、俗にまみれた一人ひとりの生の場所で、充分に総表現者を生きることができる。なぜなら総表現者を可能にする「根源の性」や「根源の二人称」が万人のなかに内挿入されているから。人間は根源において「内包自然」を生きる「内包存在」として発出したのだから。そこを自覚的に取り出すことにおいて、おのずと立ち現れてくる「内包贈与」のことにも、もっと言葉を入れていきたいと思いますが、以下はつづきということにして、とりあえず第一信をお送りします。